この作品に登場するアイドル、また、それに関連する芸能事務所や企業、業務内容、イベントは本作オリジナルのものであり、現実のものとは異なります。
この冬に、アイドルを堕とします。 第一章 第三話
入社の手続きは首尾よく済んだ。病院からの診断書の提出が面倒なくらいだった。
「おお、いいじゃない。見違えたよ」
「ふうむ」
全身鏡を前にしてスーツを身に包む。まさか俺がこんな格好をする事になるとは思いもしなかった。
美容室で髪型を変えて、髭を剃って、眉を整えて、ネクタイを締めるだけでも、結構印象が変わるものだ。
「で、なんでいるんだ」
「え?」
早朝。今日は
これからかの事務所へ出勤をする手筈なのだが、どう言う訳か俺の家には美空玲奈がいた。
「え?じゃねえよ。なんでウチに来たんだよ。どうせ向こうで会うだろ」
「細かいことを気にするなぁ。着慣れないスーツを一人で着られるのか心配でわざわざ足を運んであげたのに感謝のひと言もない訳?」
「誰が頼んだ!誰が!」
悪びれる様子もなく美空玲奈は悪戯にニヤつくばかりだった。
「こいつ……」
「怒らないでよ。本当のこと言うと、車で迎えに来てあげたんだから」
「なんだ?送迎付きか?」
「歩きたいってならそれでもどうぞ?」
「……」
なんだか恩を作るようで癪に触るが、ニュースキャスターが告げる今日の気温を耳にして、寒空の下を着慣れない服で歩きたいとは思えなかった。
*
軽い朝食を済ませて家を出る。
アパートの前には水色の軽自動車が停まっていた。さもありなんとその車に乗り込もうとする美空玲奈を見て、俺はつい声を掛ける。
「黒塗りの高級車は?」
「はァ?」
何言ってるんだコイツと言いたげな視線が俺を貫く。
「だ、だって、前ここに停まってただろ。あれお前のじゃねえの?」
「あれは社用車であって、私の車じゃないよ」
「なんだ……、大物アイドルの癖に、随分とちゃっちい車に乗ってんだな」
少し気分が下がる。
「ほんと、君は正直だね」
「聖人君子だからな」
「……まあ、まさか美空玲奈がこんな車に乗っているなんて、ファンはおろか、君みたいなストーカーくんも夢にも思わないでしょ?」
「ぶっ飛ばすぞ」
「キャーコワーイ」
迫真の棒読みだった。
実際、カモフラージュにはなるのだろう。特徴的な車はそれだけで周囲から浮いてしまう。プライベートを大事にしたい著名人にとって、案外こういう車の方が実用性はあるのかもしれない。
「ほらほら、とっとと乗る」
「はあ……」
白い息が空に昇って霧散する。
本格的な冬の到来を乾いた風が告げていた。
*
芸能事務所、と言うよりはアイドル事務所が正確だ。
俺は微塵もアイドルに興味がない。ガチ恋オタクは頭がどうかしていると思うほどに冷めた目でこの手の道楽を捉えている。
「君、無知過ぎない?少しはテレビとかでアイドル見ないの?」
「なんか歌ってんなぁぐらいだろ、んなもん。食いつくようには見ねえよ」
美空玲奈は俺が少しは自身の本業について理解があると勘違いしていたようで、いざこうして俺の無知さを知ると唖然と深い溜め息を吐いていた。
「しかしまぁ、仕事にする以上、多少興味を持たなきゃダメか」
「最低限、私たちアイドルが何を目的としているのかぐらいは知ってもらわないと」
「目的?金稼ぎだろ」
「それは大前提」
「はあ」
お世辞にも応援してくれているファンへのお返し〜的な綺麗事は言わないらしい。俺を前にして言う必要が無いだけか。
「年度末にある
「知ってるけど……いちいち言い方が腹立つな」
音楽祭とは、芸能人やら歌手やらアイドルやらが集う音楽番組だ。複数の審査員が出場者の歌を評価して点数を付ける。点数が一番高い奴が一番凄い。
要はその年最も歌が上手い奴を決める番組だ。
「音楽祭で優勝すると、知名度もお金もがっぽり手に入るのさ。例えどんなに無名な歌手でも、優勝すれば一躍超有名人。時の人になれる訳だね」
それは芸能事務所的には貴重な儲け話だろう。
「つまり、音楽祭で優勝することが目的だと」
ズバリそうだと指を差される。
「音楽祭は各事務所ごとに一人だけが出場出来る。それはここ波留プロでも同じこと。皆、音楽祭出場のたった一枚のチケットを巡って、日夜競争をしているわけ」
「お前もその一員か」
「まぁ……。正直、私は別に出れなくても良いんだけど」
「最近流行りの冷笑か。痛いぞ」
「はあ……
「なんの話だ?」
時々、奴の表情が氷のように冷たく感じるのは杞憂だろうか。
「もう私は知名度が十分にあるからね。そんな私が出るくらいなら、実力はあるけれど未だ日の目を浴びれてない他の子が出た方が事務所としては美味しいわけよ。分かる?」
「人気者は多ければ多いほど良いって事か」
「そ」
「まあ、何となくは理解した。ここしばらくは音楽祭に向けて事務所総出で張り切ってる訳だ」
しかし、そうだとしたら音楽祭に出ないコイツは何をするのだろう。
「もしかしてお前って暇人?」
「そういうわけじゃないけど、比較的忙しくない部類かもね。だから、こんな時期でも、君のような盗撮魔をマネージャーにしてあげてるんじゃない。……ま、実際、偶然が積み重なった不慮の事故的な側面が大きいけど」
襟足を指先で弄りながら、奴は口先を尖らせていた。
コイツにとっても俺の存在、ひいては恋人だか何だか知らないが、あの男との密談を写真に収められたのは非常事態だったのだろう。
「で?差し当たって、俺は何をすればいいんだ」
「お、やる気あるねぇ」
「初日だしな」
「本来は私の暇つぶし相手……じゃなかった。会話相手をしてもらうつもりだっんだけど、想像以上に君がこの業界に無知だったからなぁ……ブツブツ」
一頻り考えて、奴の人差し指が襟足を離れて天井を指す。
「よし。飯島くんに初めての仕事を与えよう」
*
「さて」
てっきり一日中奴の顔を拝まなきゃいけないかと思っていたが、出勤して早々に一人になれた。
『波留プロは結構大手なんだよ。君も入る時に見たと思うけど、この建物は収録スタジオや練習ステージも内包してるから、結構広いんだ。ってな訳で、君の初仕事は、この広い建物内を見て回ること。出会った人への挨拶も忘れずにね』
脳裏で奴に言われた言葉が木霊する。
「見て回るって言ったって、はあ」
それだけでいいのか。何だか拍子抜けだ。
因みに奴はプロデューサーに呼ばれているとか言って何処かに行ってしまった。
「……行くか」
うだうだしても何も始まらない。
せっかくの機会だ。観光気分で巡り歩くとしよう。
*
第一ステージ、第二ステージ、第三ステージ……。第三会議室、第四会議室……。01控室、02控室、03控室……。
「バカだろ」
つい、そんな小言が漏れ出るぐらいこの建物は広かった。歩けど歩けど続く廊下に大量のドア。
このマップを働いている奴らは皆頭に入れているのだろうか。案内板が無ければ一つの部屋を探すだけでも苦労しそうだ。
それだけあって従業員の数も多く、こうして歩くだけでそれなりの人数とすれ違う。挨拶と言ってもすれ違い際に軽い会釈を交わすだけだ。
誰も彼も今日から働き始めた俺の存在を気に留めている様子は無かった。
ガチャリと、ちょうど目の前のドアが開き、中から人が出てくる。女だ。格好を見る限りスタッフの類では無い。
目が合った。軽く頭を下げて、側を通り抜けようとする俺の耳に待ったの声が届いた。
「おーい、無視すんなぁー」
振り向く。周囲に他に人はいなかった。恐らく彼女は俺に声を掛けたのだろう。
「なんでしょう」
再度視線が交差する。
艶のある桃色の髪が揺れた。
女は、アイドルなだけあってお世辞にも優れた容姿をしている。
「……君、私に見覚えはある?」
いきなり何なのだろうか。
ナルシズムってタチでは無さそうだが。
「無いですけど」
「……ふーん?」
俺の表情の変化を見逃すまいと、まるでメンタリストのように彼女は俺の顔を注視してくる。
あるいは、施設内に見覚えのない顔がいたから気になったのだろうか。
「ああ、今日からここで働き始めました。飯島と言います」
「ん、知ってるわ。玲奈から聞いた。あなたが飯島悠斗か」
「はい」
「何か思ってた印象と違ったなぁ」
何だコイツ。きめえ。
「ああ、ごめんごめん。私は
「よろしくっす」
俺の反応に満足そうな面を浮かべて未栄優奈は廊下の奥へと消えていった。
美空玲奈にしても未栄優奈にしても、表情や言動から性格が掴み難い。その特殊な一般人離れした経歴がそうさせるのだろうか。
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