七月下旬。
日本では、北海道にシンオウ地方のポケモンが出現してから、三週間以上が経過していた。
四月のカントー。
五月のジョウト。
六月のホウエン。
そして七月のシンオウ。
毎月一日。
決まった地域に、新しいポケモンが現れる。
日本政府が公表した資料は、これまで高い精度で的中していた。
最初は疑っていた国々も、今ではその資料を無視できなくなっている。
そして、八月一日。
次に大きな変化が起こるとされている場所は、日本ではなかった。
アメリカ合衆国。
ニューヨーク都市圏。
イッシュ地方のポケモンが現れると予告されている。
世界は、その日を待っていた。
もっとも、待ち方は国によって随分違っていた。
◆
アメリカ合衆国 ニューヨーク
「……本当に、あと一週間なのか?」
市の緊急対策会議室。
大型モニターには、ニューヨークの地図が表示されていた。
地下鉄。
道路。
橋。
トンネル。
公園。
空港。
そして、人口密集地域。
担当者は地図を見ながら頭を抱えていた。
「日本側の資料では、八月一日となっています」
「それは分かっている。問題は、何がどこに出てくるかだ」
「出現が予想される種類については、すでに一覧を作成しています」
職員が資料を配った。
そこには、見慣れない生き物の写真やイラストが並んでいた。
ミネズミ。
ヨーテリー。
マメパト。
チョロネコ。
シママ。
その他、多数。
「……鳩が増えるだけなら、まだいいんだが」
交通局の担当者が呟いた。
「その鳩、普通の鳩と同じとは限りませんよ」
「分かってる」
日本で起きたことは、すでに何度も報道されている。
ポケモンが道路に飛び出して事故が起きた。
電気を発するポケモンが設備に影響を与えた。
野生のポケモンが建物へ入り込んだ。
そして、巨大なポケモンによる山林の被害。
最初は遠い国の出来事だった。
しかし、あと一週間で事情が変わる。
「地下鉄については?」
「線路内への侵入を想定して、巡回と監視を強化します。ただし、何が侵入するか分からない以上、完全な対策は不可能です」
「地下に生息する種類は?」
「複数います」
「……そうか」
会議室が静かになった。
地下鉄網は、ニューヨークの生活を支えている。
それが止まれば、影響は計り知れない。
「公園の封鎖は?」
「すべてを封鎖するのは現実的ではありません。まずは出現直後の状況確認を優先します」
「動物園はどうする?」
「既存の動物への影響も調査中です」
問題は、いくらでも出てくる。
だが、時間は増えない。
「……日本は、どうやって対応したんだ?」
一人が呟いた。
別の職員が答える。
「日本も、最初から対応できていたわけではありません」
「……だろうな」
「むしろ、今も問題が続いています」
職員は資料をめくった。
「ただ、三か月分の経験があります」
その言葉に、全員が黙った。
三か月。
たった三か月。
それでも、今の彼らにとっては非常に大きな差だった。
◆
同じ頃。
ニューヨーク市内の小さなペットショップ。
「……これ、本当に売れると思う?」
店員が、棚に並んだ商品を見ていた。
小型犬用のハーネス。
鳥用のケージ。
大型動物用の給水器。
そして、手書きの張り紙。
『ポケモン用としての適合性は確認されていません』
「分からない」
店長は答えた。
「でも、問い合わせが増えてるんだよ」
「まだ一匹も出てないのに?」
「だからこそだろ」
店長はスマートフォンを見せた。
日本で撮影された動画が再生されている。
小さなポケモンが、飼い主らしき人間の後をついて歩いていた。
「こういうの見たら、飼いたくなる人もいるさ」
「……まあ、可愛いですけど」
「問題は、可愛いだけじゃ済まないってことだな」
店長は棚の商品を見た。
「犬用の餌が食えるのかも分からん」
「確かに」
「進化したら大きさが変わるらしいし」
「それ、困りますね」
「困るよ」
店長はため息をついた。
「でも、八月になったら絶対に聞かれるぞ」
『このポケモンには何を食べさせればいいですか?』
『このケージで飼えますか?』
『首輪は必要ですか?』
その質問に、今の店員たちは答えられない。
「……日本のペットショップって、どうしてるんでしょうね」
「聞いてみたいな」
店長は苦笑した。
その頃、日本のペットショップでも、同じようなことで頭を抱えているとは知らずに。
◆
アメリカ合衆国 アリゾナ州
「……またですか」
州の野生動物管理部門。
担当官は、机に置かれた報告書を見ていた。
違法なポケモンの輸送。
無許可の捕獲。
州外への販売。
すでに何度も取り締まりが行われている。
今回の報告には、グライガーが二匹、ナックラーが一匹と記載されていた。
「押収したボールは?」
「三個です。いずれも個人製作と思われます」
「……また自作か」
担当官はため息をついた。
日本で公開されたモンスターボールの情報は、海を越えて広まっていた。
当然、作ろうとする人間も現れる。
問題は、その用途だった。
研究。
保護。
飼育。
そうした目的であれば、まだ議論の余地がある。
しかし。
「買い手は?」
「州外です。仲介業者を通じて交渉していたようです」
「……やっぱり」
担当官は椅子にもたれた。
ポケモンが高値で取引される。
珍しい種類ほど値段が上がる。
それ自体は、ある意味で予想できたことだった。
ただし、ポケモンは普通の動物ではない。
炎を吐くもの。
電気を発するもの。
毒を持つもの。
岩を砕くもの。
そして、進化によって能力が大きく変わるもの。
「……こんなの、好き勝手に運ばれたら困るんですよ」
「ええ」
「州をまたいで移動した先で逃げたら、誰が責任を取るんです?」
返事はなかった。
まだ、その答えを出せる制度が十分に整っていないからだ。
「……八月からは、もっと増えるんでしょうね」
部下が言った。
担当官は頷いた。
「ニューヨークに出ると予告されていますからね」
「東海岸まで広がるわけですか」
「ええ」
担当官は報告書を閉じた。
「……今のうちに、州同士で対応を揃えておかないと」
アメリカは広い。
州ごとに法律も、行政の仕組みも異なる。
だが、ポケモンは州境を理解してくれない。
それが、彼らの新しい悩みだった。
◆
中華人民共和国 北京
「……日本側から、新しい回答は?」
「現時点ではありません」
会議室に、静かな声が響いた。
机の上には、日本政府が公開したポケモン資料が置かれている。
その隣には、各国の研究機関が独自にまとめた分析資料。
そして、日本で撮影された映像の静止画。
巨大な緑色のポケモン。
バンギラス。
別の資料には、グラードンとカイオーガの名前もあった。
「……日本が保有している情報は、これだけではないはずだ」
「その可能性は高いと考えられます」
「情報提供者については?」
「依然として不明です」
担当者は淡々と答えた。
「日本政府も、情報提供者の詳細を公表していません」
「……そうか」
出席者の一人が資料をめくる。
「問題は、この情報がどこまで正確なのかだ」
「少なくとも、出現地域と時期については高い精度で一致しています」
「生態情報も?」
「確認された範囲では、相当数が一致しています」
会議室が静かになった。
数百種類。
いや、千種類を超えるポケモン。
その生態や能力を、出現前から把握している。
常識では考えられない。
しかし、現実に資料が存在している。
「……情報提供者は、何者なんだ?」
誰も答えなかった。
それよりも、目の前の問題がある。
「日本からの技術提供は?」
「モンスターボール関連については、詳細な製造技術の共有に至っていません」
「共同研究の申し入れは?」
「協議中です」
担当者は続けた。
「ただし、安全対策に必要な生態情報については、公開資料を利用できます」
「……それだけでは足りない」
別の出席者が言った。
「仮に、あのバンギラスのような個体が国内に現れた場合、どう対処する?」
「……」
「通常の野生動物と同じ対応では済まないだろう」
誰も否定しなかった。
ポケモンが持つ能力は、既存の動物の範囲を大きく超えている。
そして、中国には広大な国土がある。
山岳地帯。
都市部。
農村。
砂漠。
森林。
もしポケモンが各地へ広がれば、対応しなければならない地域は膨大だ。
「……研究機関との連携を強化してください」
議長役の男性が言った。
「日本から得られる情報は引き続き収集する。ただし、それだけに頼るわけにはいきません」
「承知しました」
「我々自身でも、準備を進める必要があります」
会議は続いた。
その日の議題には、ポケモンの保護や生態研究だけでなく、危険個体への対処、技術開発、情報収集が並んでいた。
新しい生物の出現。
それは、研究対象であると同時に、国家の安全保障にも関わる問題になっていた。
◆
ロシア連邦 極東地域
「……日本側の動きは?」
「北海道でのポケモン出現に伴い、警戒と調査活動が続いています」
極東地域の行政機関。
担当者たちは、北海道周辺の地図を見ていた。
日本海。
オホーツク海。
北海道。
サハリン。
距離は近い。
だが、国境がある。
「……ポケモンは国境を越えるのか?」
一人が尋ねた。
「まだ十分なデータがありません」
「飛行できる個体もいるんだろう?」
「はい」
「なら、海を越える可能性は?」
「否定できません」
担当者は資料をめくった。
そこには、飛行能力を持つポケモンの一覧が載っている。
ムックル。
ムクバード。
ムクホーク。
そして、すでに日本で確認されている別の地方の飛行ポケモンたち。
「……これが普通の渡り鳥なら、まだいい」
担当者は呟いた。
「しかし、火を吐く鳥や、強風を起こす鳥までいる」
「……」
「国境を越えた場合、誰が管理するんだ?」
答えは簡単ではなかった。
日本で発生したポケモンが、ロシア領内へ飛来する。
その個体を保護した場合。
捕獲した場合。
危険な行動を取った場合。
どの法律を適用するのか。
そもそも、通常の野生動物と同じ扱いでよいのか。
「……日本側との情報交換は?」
「継続しています」
「危険個体の情報を優先してください」
「分かりました」
会議室の外では、いつも通り車が走っていた。
まだ、この地域で大規模なポケモンの出現が確認されているわけではない。
それでも、準備は必要だった。
隣国で起きた出来事が、いつまでも隣国だけの問題で済むとは限らない。
◆
大韓民国 ソウル
「……日本の資料、また更新されましたね」
大学の研究室。
若い研究者がパソコンの画面を見ていた。
政府が公開しているポケモン図鑑。
その翻訳作業が、ここ数週間の大きな仕事になっていた。
「今度は何が増えた?」
「シンオウ地方のポケモンです」
「……またか」
教授は苦笑した。
四月から毎月、新しい種類が追加されている。
しかも、その数が尋常ではない。
「……これ、全部調べるんですか?」
「調べられるものから、だな」
「現物がいないのに?」
「だからこそ、資料を整理するんだよ」
教授は椅子へ座った。
「日本では、すでに医療や警察でポケモンを使い始めているらしい」
「ええ。ラッキーの医療適性についても資料が出ています」
「面白いな」
「ただ、実際のデータはまだ少ないみたいです」
「当然だろう。出現してから三か月しか経っていない」
教授は画面を見た。
ラッキー。
ワンリキー。
ガーディ。
ポッポ。
人間の社会で、様々な役割を担い始めているポケモンたち。
「……すごいですね」
研究者が呟いた。
「何が?」
「日本、もう一緒に働いてるんですよ」
「……ああ」
「こっちは、まだ資料を読んでるだけなのに」
教授は少し考えた。
「……羨ましいか?」
「少し」
「私は、そうでもないな」
「え?」
教授は苦笑した。
「日本の研究者は、毎日大変だと思うぞ」
「……」
「昨日まで存在しなかった生物が、今日から病院に運ばれてくるんだ」
「……確かに」
「しかも、火を吐く。電気を出す。進化する。種類によっては人間より大きい」
「……」
「私なら、胃が痛くなる」
研究者は笑った。
「でも、研究したくないわけじゃないでしょう?」
「もちろん」
教授は即答した。
「こんな機会、二度とないかもしれないからな」
それから、少し真面目な顔になる。
「ただ、急ぐ必要はない。日本の研究結果を学びながら、こちらでも受け入れ体制を考えればいい」
「はい」
「研究は競争でもあるが、安全に関わる情報まで競争にしてはいけない」
教授は資料を開いた。
「……さて、次の翻訳を始めようか」
「まだあるんですか?」
「山ほどな」
研究者は天井を見上げた。
「……日本の匿名有識者って、何人いるんでしょうね」
「さあな」
教授は笑った。
「一人だったら、もっと恐ろしい話だ」
◆
フランス共和国 パリ
「……九月一日、ですか」
研究機関の会議室。
生態学者たちが、資料を見つめていた。
日本政府が公開した出現予測。
そこには、フランスの名前があった。
カロス地方。
九月一日。
「あと一か月少々ですね」
「ええ」
「……本当に来るんでしょうか」
若い研究者が尋ねた。
年配の研究者は肩をすくめた。
「日本では、四回続けて予測が的中しています」
「そうですね」
「少なくとも、何も起きない前提で準備するのは危険でしょう」
資料には、様々なポケモンが並んでいる。
ホルビー。
ヤヤコマ。
コフキムシ。
シシコ。
そして、さらに多くの種類。
「……これが全部、フランスに現れると?」
「正確な分布は分かりません」
「都市部にも?」
「可能性はあります」
研究者は窓の外を見た。
パリの街並み。
歴史的な建物。
公園。
観光客。
車。
人々の日常。
そこへ、ポケモンが現れる。
「……観光業への影響も大きそうですね」
「そうでしょうね」
「珍しい生物を見に来る人も増えるでしょうけど」
「同時に、安全対策も必要になります」
年配の研究者は資料をめくった。
「特に、野生動物との関係を調べる必要があります」
「……生態系ですか」
「ええ」
ポケモンは、既存の生態系に存在しなかった生物だ。
それが突然現れる。
餌を食べる。
縄張りを作る。
繁殖する。
他の動物と競合する。
場合によっては、捕食する。
「……日本の研究結果が欲しいですね」
「共同研究の打診は進めています」
「うまくいくといいんですが」
「ええ」
研究者は頷いた。
「ただ、こちらも準備しないと」
会議室の時計が、静かに時を刻んでいた。
九月一日。
その日まで、もうあまり時間はなかった。
◆
イギリス ロンドン
「……十一月か」
行政機関の会議室。
担当者が資料を見ながら呟いた。
ガラル地方。
十一月一日。
日本の予測によれば、イギリスにポケモンが現れるのは、その日だった。
「フランスより二か月遅いですね」
「そうだな」
「準備期間はあります」
「……あるようで、ない」
担当者は資料をめくった。
ウールー。
ココガラ。
クスネ。
ワンパチ。
その他、多数。
「……羊みたいなのがいるな」
「ウールーですね」
「牧場に出たら、どうなるんだ?」
「……まだ分かりません」
「だろうな」
担当者はため息をついた。
イギリスには牧場が多い。
羊。
牛。
馬。
既存の家畜とポケモンがどう関わるかは、重要な問題だった。
「……このウールー、羊と同じように飼えるんですかね」
「分かりません」
「毛は刈れるのか?」
「資料では、毛に関する特徴が記載されています」
「……商業利用できるか?」
「そこまでは」
担当者は笑った。
「……みんな考えることは同じだな」
ポケモンが現れる。
危険な生物もいる。
しかし、同時に役立つ生物もいる。
新しい産業になるかもしれない。
農業。
牧畜。
輸送。
医療。
警備。
ただし、可能性があることと、実際に使えることは別だった。
「……日本に問い合わせましょうか」
「いや、まずは公開資料を確認してくれ」
「はい」
「それから、フランスの対応も見ておこう」
担当者は頷いた。
日本で四月から始まった変化。
それが、今度は欧州へ向かっている。
十一月には、自分たちの番が来る。
まだ先の話。
そう思っていた時間は、少しずつ短くなっていた。
◆
オーストラリア キャンベラ
「……日本からの回答は?」
「情報共有の拡大について、協議を継続するとのことです」
会議室で、担当者が報告した。
「具体的な技術提供は?」
「現時点では、進展していません」
「……そうか」
出席者の一人が資料を見た。
そこには、日本で確認されたポケモンの一覧が載っている。
「……この国に出現する予定は?」
「現在公表されている予測には、オーストラリアでの大規模出現予定はありません」
「……それでも、無関係ではいられないな」
担当者は頷いた。
オーストラリアは、外来生物の問題を長年抱えてきた国だ。
ウサギ。
キツネ。
野良猫。
それらが生態系へ与えた影響は大きい。
そして今。
世界には、ポケモンという新しい生物が現れている。
「……輸入規制は?」
「検討が進んでいます」
「生きたポケモンだけじゃない。タマゴもだ」
「はい」
「モンスターボールに入った状態なら、検疫をすり抜けられる可能性は?」
「……確認が必要です」
担当者は眉を寄せた。
モンスターボール。
生物を小さな球体へ収容できる技術。
それは便利であると同時に、既存の検疫制度にとって大きな問題だった。
「……日本では、すでに一般人が自作しているんだろう?」
「はい」
「なら、海外へ持ち出そうとする人間もいるはずだ」
「……そうですね」
会議室が静かになった。
ポケモンが自然に出現しなくても、人間が運んでくる可能性はある。
そして、一度野外へ逃げ出せばどうなるか分からない。
「……日本との情報共有を急いでください」
「承知しました」
「こちらの検疫制度も、早急に見直しましょう」
会議は続いた。
ポケモンが現れる国。
まだ現れない国。
その違いはあっても、問題は世界全体へ広がり始めていた。
◆
日本 東京都
同日。
午後三時。
ポケモン対策本部。
「……それでは、海外情勢について報告します」
会議室の大型モニターに、世界地図が表示された。
アメリカ。
中国。
ロシア。
韓国。
フランス。
イギリス。
オーストラリア。
それぞれの国名の横に、報告事項が並んでいる。
「まず、アメリカです」
担当職員が説明を始めた。
「八月一日のイッシュ地方ポケモン出現予測を受け、ニューヨーク都市圏では交通、警察、消防、医療などの各機関が準備を進めています」
「……あと一週間か」
「はい」
「準備は間に合いそうですか?」
「完全な対応は難しいと思われます。ただ、日本の初期対応事例を参考に、優先順位をつけているようです」
出席者の一人が頷いた。
「……まあ、そうでしょうね」
日本も、最初からすべて対応できたわけではない。
今でも問題は山積みだ。
「アリゾナ州では、ポケモンの違法取引に関する取り締まりが継続しています」
「……まだやってるのか」
「はい。自作モンスターボールを利用した捕獲、州外への輸送などが問題になっています」
「日本でも似た問題は起きていますね」
「ええ」
担当職員は資料を切り替えた。
「次に、中国です」
画面に、問い合わせの一覧が表示される。
「危険性の高いポケモンに関する情報、モンスターボールの製造技術、捕獲装置の運用について、引き続き照会があります」
「……相変わらずですね」
「はい」
「原資料の提供は?」
「行っていません」
「それで構いません」
責任者が頷いた。
「安全対策に必要な情報は共有する。ただし、情報提供者から受け取った原資料まで渡す必要はありません」
「承知しました」
担当職員は続けた。
「ロシアについては、北海道周辺のポケモン出現に関心を示しています」
「……まあ、近いですからね」
「はい。特に、飛行可能なポケモンが国境を越える可能性について、問い合わせがあります」
「実際に越えた例は?」
「現時点では、確認できていません」
「……なら、断定はできませんね」
「はい」
次の資料へ移る。
「韓国からは、医療分野や飼育管理に関する共同研究の打診があります」
「医療ですか」
「はい。特に、ラッキーなどの医療適性が高いポケモンについて関心があるようです」
「……ああ」
一人が頷いた。
「うちでも試験的に配置してますからね」
「そうですね」
「ただ、まだ研究途中でしょう?」
「はい。現場からは有望な報告が上がっていますが、十分なデータが揃っているわけではありません」
「なら、その範囲で共有してください」
「承知しました」
責任者は続けた。
「成功例だけ渡すのは避けましょう。まだ分かっていないことも、きちんと伝える必要があります」
「はい」
担当職員が頷いた。
「フランスでは、九月一日の出現に向けた準備が進んでいます」
「……次はフランスか」
「はい」
「一か月少々ですね」
「そうなります」
会議室が少し静かになった。
日本では、すでに四回の出現を経験している。
だが、世界規模で考えれば、これからが本番だった。
「イギリスは?」
「十一月の出現に向けて、農業や牧畜への影響を検討しています」
「……なるほど」
「オーストラリアからは、ポケモンの国際移動と検疫について情報共有の拡大を求められています」
「……それは重要ですね」
責任者が言った。
「モンスターボールの存在を考えると、従来の検疫だけでは対応できない可能性があります」
「はい」
「国際的な取り決めも必要になるでしょう」
担当職員が頷いた。
そして、最後の資料を表示した。
『各国の主な関心事項』
アメリカ――出現直前の安全対策、捕獲・流通規制。
中国――危険個体、技術、情報収集。
ロシア――国境を越えるポケモンへの対応。
韓国――研究、医療、情報共有。
フランス――出現準備、生態系、共同研究。
イギリス――農業、牧畜、産業利用。
オーストラリア――検疫、外来生物対策。
「……見事に違いますね」
一人が呟いた。
「ええ」
責任者は頷いた。
「同じポケモンという存在を見ていても、国によって関心が違う」
「当然といえば当然ですが」
「そうですね」
しばらく沈黙が流れた。
そして。
「……しかし」
年配の職員が口を開いた。
「こうして見ると、日本は随分先に進んでしまいましたね」
「……先に進んだ、ですか」
「ええ」
職員は苦笑した。
「四月には、ポッポ一匹で大騒ぎしていたんですよ」
「……懐かしいですね」
「今じゃ、病院でラッキーが働いて、警察がガーディを使ってる」
「……そうですね」
「しかも、まだ七月です」
会議室に、小さな笑いが起きた。
「……そう考えると、ずいぶん濃い四か月ですね」
「本当に」
だが、責任者は笑わなかった。
画面の世界地図を見ていた。
「……問題は、これからですよ」
その言葉に、全員が顔を上げた。
「日本だけで対応していればよかった時期は、もう終わりつつあります」
「……」
「八月にはアメリカ。九月にはフランス。その後も各地で出現が予測されている」
責任者は資料をめくった。
「各国が独自に対応するのは当然です。しかし、ポケモンは国境を越える可能性がある」
「はい」
「そして、人間はもっと簡単に国境を越えます」
その言葉に、一人が頷いた。
モンスターボール。
ポケモンの売買。
密輸。
観光。
研究。
国際輸送。
考えるべきことは多い。
「……日本がすべて面倒を見るわけにはいきませんね」
「もちろんです」
責任者は即答した。
「ただ、我々には、他国より先に経験したことがあります」
「……」
「それを、どこまで共有するか」
責任者は続けた。
「何を公開し、何を慎重に扱うべきか」
会議室が静かになった。
「……匿名の情報提供者についても、ですね」
一人が言った。
「ええ」
責任者は頷いた。
千種類を超えるポケモンの情報。
出現地域。
出現時期。
生態。
能力。
危険性。
その大部分は、一人の匿名の情報提供者から始まっている。
今では、その情報をもとに各国が動いている。
「……改めて考えると、とんでもないことですね」
「何がです?」
「この資料です」
職員が画面を指した。
「我々は、これを使って国内の対策を進めている」
「はい」
「アメリカも、フランスも、イギリスも、これを参考に準備している」
「……そうですね」
「世界中が、正体不明の人物から提供された情報をもとに動いているんですよ」
会議室が静かになった。
しばらくして。
「……まあ、そう言われると」
別の職員が苦笑した。
「ずいぶん奇妙な話ですね」
「奇妙どころじゃありませんよ」
「でも、今のところ当たってますからね」
「そこなんですよ」
職員は頭を掻いた。
「疑いたいんですけど、疑う材料がない」
「……正確には、情報を無条件に信じているわけではありませんけどね」
「ええ。検証は続けています」
責任者が言った。
「ただ、あの人物の情報がなければ、今の日本の対応はもっと遅れていたでしょう」
誰も否定しなかった。
最初のカントー出現。
ジョウト。
ホウエン。
シンオウ。
そして、これからの海外出現。
事前に知っていたことの意味は大きい。
「……それで」
若い職員が手を上げた。
「ひとつ、気になっていることがあるんですが」
「何です?」
「……この情報提供者、八月以降も資料を送ってくれるんでしょうか」
会議室が静かになった。
「……」
「……」
誰も、すぐには答えなかった。
情報提供者は、政府の職員ではない。
契約を結んでいるわけでもない。
そもそも、身元すら分かっていない。
こちらから自由に連絡できる相手でもない。
「……送ってくれると、ありがたいですね」
一人が呟いた。
「ええ」
「非常に」
別の職員も頷いた。
「ただ、今ある資料だけでも相当な量ですよ」
「……そうですね」
「まずは、我々がそれを活用しないと」
責任者は頷いた。
「情報提供者に頼りきりになるわけにはいきません」
そして、少し考える。
「……とはいえ」
「はい?」
「もし追加の資料が届いたら、最優先で確認してください」
「……もちろんです」
会議室に、小さな笑いが起きた。
◆
会議が終わり、職員たちが資料を片づけ始めた。
「……しかし、アメリカも大変でしょうね」
「ええ」
「ニューヨークですからね」
「人口も多いですし」
「地下鉄なんか、どうするんでしょう」
「……考えたくないですね」
職員は苦笑した。
「日本でも、地下に入るポケモンの対応には苦労していますから」
「……そうですね」
別の職員がスマートフォンを確認する。
ニュースの見出しが表示されていた。
『ニューヨーク市、ポケモン出現予測に備え警戒態勢を強化』
その下には、別の記事。
『フランス、九月の出現予測を受け研究体制を拡充』
さらに。
『ポケモンの国際取引、各国で規制の検討進む』
「……世界中、ポケモンですね」
「そうですね」
職員は頷いた。
「……四月までは、こんなニュースなかったのに」
「ええ」
「たった四か月ですよ」
「……本当に」
窓の外では、いつもの東京が広がっていた。
車が走る。
人が歩く。
電車が動く。
ビルの窓には、夕方の光が反射している。
そのどこかで、ポケモンたちも暮らしている。
人間の社会は、少しずつ変わっていた。
そして、その変化は日本だけのものではなくなりつつある。
「……八月一日か」
職員が呟いた。
「もうすぐですね」
「ええ」
あと数日。
世界は、またひとつ変わる。
今度は、ニューヨークで。
その次は、フランスで。
さらに、その先の国々で。
日本で始まった変化は、もう止まらない。
そして、各国が準備を進める中。
日本政府の担当者たちは、今日も山積みの資料と向き合っていた。
「……ところで」
「はい?」
「アメリカから、追加の問い合わせが来ています」
「……何です?」
「イッシュ地方のポケモンについて、都市部で特に注意すべき種類を詳しく教えてほしいそうです」
「……」
「……」
職員はしばらく黙った。
そして、ため息をついた。
「……とりあえず、資料を出してください」
「はい」
「あと、担当者をもう二人呼んでください」
「……二人で足ります?」
「……」
職員は天井を見上げた。
「……三人にしましょう」
その日も、ポケモン対策本部の残業は続いた。