第60話 待つということ
翌朝。
「父さん、ちょっと聞いていい?」
朝食を食べ終えたところで、俺は父さんに声をかけた。
「何だ?」
「昨日のバンギラスのことなんだけど」
「ああ、あの大きい奴か」
「うん」
父さんは湯呑みを置いた。
「何かあったのか?」
「いや、昨日は特に何もなかったよ。むしろ、今までより落ち着いてたと思う」
「ならよかったじゃないか」
「そうなんだけどさ」
俺は少し考えた。
昨日、バンギラスは俺が近づこうとした時に威嚇した。
俺はそれ以上近づかなかった。
すると、バンギラスはまた岩塩を食べ始めた。
それだけのことだ。
「今日も同じことをしてればいいのかなって」
「同じこと?」
「離れたところに座って、好きにさせておく。こっちからはあまり構わない」
「それで昨日はうまくいったんだろ?」
「うん」
「なら、今日もそうしてみればいいんじゃないか」
「……まあ、そうだよね」
分かってはいる。
ただ、何となく気になっていた。
昨日はうまくいった。
だから今日も同じようにすればいい。
それは間違っていないと思う。
けれど。
「……ずっとそのままでいいのかな」
思わず口に出していた。
父さんは少し考えた後、口を開いた。
「お前、仲良くなりたいんだろ?」
「そりゃ、まあ」
「だったら、相手が近づいてくるのを待つのもいいんじゃないか」
「向こうから?」
「ああ」
「……バンギラスが?」
「そう」
俺は思わず黙った。
想像できない。
いや、あいつが自分から近づいてくる姿を想像できないわけではない。
問題は、その理由だ。
バンギラスが俺に近づいてくる。
威嚇するため。
追い払うため。
あるいは、何か気に入らないことがあった時。
……駄目だ。
ろくな想像ができない。
「何だ、その顔」
「いや、ちょっと」
父さんが笑った。
「別に今日近づいてこなくてもいいだろ」
「……うん」
「明日でも、来週でも。向こうがその気になるまで待てばいい」
「でも、いつまで経っても来なかったら?」
「その時はその時だ」
随分あっさりした答えだった。
「……父さん、適当じゃない?」
「そうか?」
「そうだよ」
「でも、嫌がってるのに無理やり近づくよりはいいだろ」
「それは、そうだけど」
父さんは立ち上がり、食器を流しへ運んだ。
「あと、お前が近づかないって決めたんなら、向こうが近づいてきた時に大騒ぎするなよ」
「……え?」
「せっかく向こうから来ても、お前が急に騒いだら驚くだろ」
「……ああ」
なるほど。
確かにそうかもしれない。
「何かしてやろうとしなくてもいいんじゃないか。まずは普通にしてろよ」
「普通に、か」
「そう」
父さんは頷いた。
「お前、あれこれ考えすぎるところあるからな」
「……否定できない」
「だろ?」
父さんが笑う。
俺も少し笑った。
◆
午前中。
俺はいつもの岩場へ来ていた。
人の生活圏から離れた場所。
周囲には大きな建物もなく、道路も近くない。
バンギラスを外へ出す時は、今のところここを使っている。
「リングマ、今日も頼むな」
「グル」
リングマが頷く。
バンギラスと俺の間に入れる位置を確認してから、少し離れた場所へ移動した。
こいつには、いつも助けられている。
正直、リングマがいなければ、こんなに落ち着いてバンギラスと向き合えていなかったと思う。
「……さて」
俺はボールを取り出した。
「出てこい、バンギラス」
赤い光が広がる。
巨体が岩場へ現れた。
「ギル……」
バンギラスは周囲を見回した。
俺を見る。
リングマを見る。
それから、岩場の奥へ視線を向けた。
「……」
俺は何も言わなかった。
バンギラスは少しの間その場に立っていたが、やがて岩場の方へ歩いていった。
ドスン。
ドスン。
重い足音が響く。
俺はその背中を見送った。
「……よし」
特に問題はない。
今日もいつも通りだ。
俺は持ってきた荷物を下ろした。
水筒。
資料を入れたタブレット。
それから、バンギラス用の岩塩。
昨日、残していった分もまだある。
俺は少し考えた。
……今日は、追加しなくてもいいか。
必要になったら考えよう。
俺は岩場の端へ腰を下ろした。
◆
三十分ほど経った。
バンギラスは岩場を歩き回っていた。
時々、地面へ鼻先を近づける。
岩を拾う。
噛み砕く。
そして、また歩く。
……本当に岩を食べるんだよな。
知識としては当然知っていた。
バンギラスの食性。
生息環境。
強靭な顎。
山を崩すほどの力。
ゲームや図鑑で見ていた時は、そこまで深く考えなかった。
けれど、実際に目の前で見ると印象が違う。
ガリッ。
また岩を噛み砕く音がした。
……あれ、歯は大丈夫なんだろうか。
いや、大丈夫なんだろうけど。
俺はタブレットへ目を戻した。
今日も政府へ送る資料の整理をしている。
シンオウ地方のポケモンが出現してから、もう随分経った。
新しい目撃情報も増えている。
公開されている情報と、自分が知っている内容を照らし合わせる。
必要があれば補足する。
今の俺にできる仕事の一つだ。
「……」
画面をスクロールする。
その時。
ドスン。
少し近くで音がした。
俺は顔を上げた。
バンギラスがいた。
……いや。
近い、というほどではない。
昨日座っていた岩よりも、少しこちら側。
その辺りに立っている。
「……」
目が合った。
バンギラスは俺を見ている。
俺も見ている。
数秒。
俺はゆっくり視線を外した。
別に、睨み合いをしたいわけじゃない。
バンギラスはしばらくその場にいた。
やがて、別の岩の方へ歩いていく。
……何だったんだろう。
少し気になった。
けれど、追いかけることはしなかった。
父さんの言葉を思い出したからだ。
向こうがその気になるまで待つ。
……そうだったな。
俺は資料へ目を戻した。
◆
昼前。
俺は水筒を開けた。
「……暑い」
七月も終わりに近い。
日陰にいても、それなりに暑い。
岩場は特に日差しが強い。
水を飲み、蓋を閉める。
リングマは木陰で休んでいた。
バンギラスはというと。
「……ん?」
岩塩の置いてある場所へ戻ってきていた。
ガリッ。
岩塩を噛む。
また噛む。
いつもの光景だ。
俺は何となく、その様子を眺めていた。
しばらくすると、バンギラスが食べるのをやめた。
顔を上げる。
こちらを見る。
「……」
俺は動かなかった。
バンギラスも動かない。
それから。
ドスン。
一歩。
バンギラスがこちらへ歩いた。
……え?
俺は思わず身構えそうになった。
けれど、何とかこらえた。
バンギラスはもう一歩進む。
ドスン。
そして、止まった。
……。
……何だ?
何か気に入らないことでもあったのか?
俺が見ていたのが嫌だった?
いや、さっきから何度か目は合っている。
それとも、岩塩が足りない?
……分からん。
バンギラスは俺を見ていた。
牙を見せてはいない。
唸ってもいない。
ただ、立っている。
リングマが顔を上げた。
こちらを見ている。
俺は小さく首を横に振った。
まだ大丈夫。
少なくとも、今のところは。
「……」
バンギラスはしばらく俺を見ていた。
それから、ゆっくりと身体を動かした。
俺の方ではない。
少し横。
岩場の端にある、大きな岩の方だ。
そこまで歩いていく。
そして。
ドスン。
腰を下ろした。
「……」
俺は目を瞬いた。
……座った?
いや、座るだろ。
バンギラスだって座る。
昨日も座っていた。
問題は、場所だ。
昨日よりも、少し近い。
いや。
昨日も同じようなことを考えたな。
日当たりがいいだけかもしれない。
風が通るのかもしれない。
あの岩が気に入ったのかもしれない。
理由なんて分からない。
けれど。
少なくとも、俺がいることを理由に離れていく様子はなかった。
「……」
俺は何も言わなかった。
嬉しくないわけじゃない。
むしろ、かなり嬉しい。
ただ、ここで声をかけるのは違う気がした。
父さんも言っていた。
普通にしていろ、と。
……普通に、か。
俺は水筒をもう一度開けた。
一口飲む。
蓋を閉める。
タブレットへ目を戻す。
バンギラスは動かなかった。
リングマも、少し様子を見てから木陰へ戻った。
風が吹いた。
遠くでポッポの鳴き声が聞こえる。
……。
……なるほど。
こういうことなのかもしれない。
◆
それから、さらに二十分ほど。
俺は資料の整理を続けていた。
バンギラスは岩の近くに座っている。
時々、地面の石を拾って噛んでいた。
俺の方を見ることもあった。
けれど、特に何もしてこない。
……何だろう。
妙に落ち着く。
もちろん、完全に安心できるわけではない。
相手はバンギラスだ。
レベルも高い。
もし暴れ出せば、俺一人ではどうにもならない。
だから、注意はしている。
リングマもいる。
周囲の確認も怠っていない。
ただ。
必要以上に構えなくてもいい時間が、少しずつ増えている。
それは、悪いことではないと思う。
「……そろそろ帰るか」
時計を確認する。
いつもより少し遅い時間だった。
俺はタブレットをしまった。
水筒も片付ける。
それから立ち上がった。
バンギラスが顔を上げる。
「……帰るぞ」
短く声をかけた。
バンギラスは俺を見ていた。
俺はボールを取り出す。
けれど、すぐには向けなかった。
昨日と同じだ。
まずは待つ。
バンギラスは動かない。
俺も動かない。
……。
……。
少しして。
「ギル」
バンギラスが低く鳴いた。
それから、ゆっくり立ち上がる。
俺の方へ身体を向けた。
「……いいか?」
そう尋ねる。
バンギラスは何も答えなかった。
ただ、その場で立っている。
俺は少し待った。
威嚇はない。
離れようとする様子もない。
そこで、ボールを向けた。
赤い光が広がる。
バンギラスの巨体が収容されていく。
カチリ。
ボールが閉じた。
「……ふぅ」
俺は息を吐いた。
今日も無事に終わった。
リングマが近づいてくる。
「グル」
「ありがとな」
頭を撫でる。
「今日はちょっと近かったな」
「グルル」
「……いや、分かってる。まだ信用できるわけじゃないよな」
リングマが鼻を鳴らした。
その通りだ。
昨日より近い場所に座った。
今日はそれだけ。
それだけで、急に関係が変わったわけではない。
明日はまた離れた場所へ行くかもしれない。
近づこうとしたら怒るかもしれない。
だから、今日の出来事を理由に何かを変えるつもりはない。
「……まあ、少しずつだな」
俺はボールを腰へ戻した。
◆
夕方。
「おかえり」
「ただいま」
家へ戻ると、父さんが居間にいた。
窓の外では、ポッポが庭先を歩いている。
「どうだった?」
「何が?」
「バンギラス」
「ああ」
俺は荷物を置いた。
「今日も特に何もなかったよ」
「そうか」
「うん」
父さんは頷いた。
それから、少しだけこちらを見る。
「……何か嬉しそうだな」
「え?」
「顔」
「……そんなに?」
「まあな」
俺は頬を触った。
そんなに分かりやすいだろうか。
「……実はさ」
「おう」
「今日、あいつが少し近くに来たんだよ」
「バンギラスが?」
「うん。俺が近づいたわけじゃなくて、向こうから」
「へえ」
「まあ、たまたまかもしれないけど」
父さんは笑った。
「いいじゃないか」
「……そうかな」
「少なくとも、近くにいても嫌じゃなかったんだろ?」
「いや、そこまでは分からないよ」
「そうか?」
「うん。単にあの場所に座りたかっただけかもしれないし」
「なるほどな」
父さんは頷いた。
「じゃあ、そういうことにしとけばいい」
「……え?」
「理由なんて、今すぐ分からなくてもいいだろ」
「……」
「今日は近くに来た。それで十分じゃないか」
俺は少し考えた。
確かに、そうだ。
バンギラスが何を考えていたのか。
どうしてあの場所に座ったのか。
俺をどう思っているのか。
そんなことは、まだ分からない。
けれど、分からないからといって、無理に確かめる必要もない。
「……そうだね」
俺は頷いた。
「明日も、同じようにしてみる」
「おう」
「近づいてきても、何もしない」
「何もしないっていうか、いつも通りでいいんじゃないか」
「……ああ、そっか」
父さんが笑った。
「お前、また難しく考えてるだろ」
「……ちょっと」
「だろうな」
俺も笑った。
窓の外では、ポッポが何かをついばんでいる。
父さんが窓を開けた。
「おーい、そろそろ飯だぞ」
「ポッポ!」
ポッポが顔を上げる。
けれど、すぐには戻ってこなかった。
庭の端へ歩いていく。
「……おい、聞いてるのか?」
「ポッポ!」
返事だけはいい。
父さんが苦笑する。
「まったく、しょうがない奴だな」
そう言いながら、窓を閉めずに待っている。
俺はその様子を見て、少し笑った。
……なるほど。
父さんは、いつもこうなのか。
無理に呼び戻すこともない。
追いかけることもない。
ただ、戻ってくるのを待っている。
しばらくして。
ポッポが窓の方へ飛んできた。
「おう、やっと来たか」
「ポッポ!」
父さんは笑っていた。
俺も笑った。
明日、バンギラスがどうするかは分からない。
今日より近づいてくるかもしれない。
また遠くへ行くかもしれない。
それでも。
俺は、今日と同じように待ってみようと思う。
あいつが、自分で選べるように。
そして、俺も。
その選択を、急いで決めつけないように。
――今日は、昨日より少しだけ近かった。
今は、それで十分だった。