七月も、残りわずかとなった。
北海道にシンオウ地方のポケモンが現れてから、もうすぐ一ヶ月。
最初の頃は毎日のように大きなニュースになっていたが、最近では少しずつ落ち着いてきている。
もちろん、問題がなくなったわけではない。
野生のポケモンによる農作物の被害。
道路への飛び出し。
住宅地への侵入。
人間との接触による事故。
そういった話は今でも聞く。
ただ、それらへの対応方法も少しずつ整ってきた。
ポケモンがいることを前提とした生活。
日本は、そんな社会へ変わりつつある。
そして俺はというと。
「……今日もよろしくな」
「グル」
いつもの岩場で、リングマに声をかけていた。
◆
バンギラスをボールから出す。
「ギル……」
現れたバンギラスは、周囲を見回した。
それから俺を見る。
「……」
俺は何も言わなかった。
バンギラスも何も言わない。
やがて、岩場の奥へ歩いていった。
ドスン。
ドスン。
重い足音が遠ざかる。
……今日もいつも通りだな。
俺は少し離れた岩へ腰を下ろした。
昨日、バンギラスは自分から少しだけ俺に近づいた。
とはいっても、数歩分の距離だ。
触れるようになったわけでもない。
呼べば来るようになったわけでもない。
それどころか、今でも俺が不用意に近づけば威嚇される可能性がある。
だから、今日も何かを変えるつもりはなかった。
岩塩は昨日の残りがある。
俺は持ってきた資料を開いた。
バンギラスは岩場を歩き回っている。
時々、岩を拾って噛み砕く。
リングマは木陰で休んでいた。
……平和だな。
いや、目の前にバンギラスがいる時点で、一般的な意味での平和とは少し違うかもしれない。
それでも、少なくとも今は問題が起きていない。
それで十分だった。
◆
一時間ほど経った頃。
バンギラスが岩塩のある場所へ戻ってきた。
ガリッ。
ガリッ。
岩塩を噛む音が聞こえる。
俺は資料から顔を上げた。
バンギラスはしばらく食べていたが、やがて動きを止めた。
こちらを見る。
「……」
目が合った。
俺は少しだけ視線を外した。
バンギラスは、そのまま岩場を歩き始めた。
そして。
ドスン。
昨日と同じ辺りに座った。
「……」
俺は何も言わなかった。
昨日より近づいたわけではない。
かといって、遠ざかったわけでもない。
同じくらいの距離。
同じような場所。
ただ、それだけだった。
……まあ、いいか。
父さんも言っていた。
焦らなくていい、と。
昨日より近くに来なかったからといって、何か失敗したわけではない。
バンギラスは好きな場所に座っている。
俺は少し離れたところで資料を読んでいる。
お互い、特に干渉しない。
今は、これくらいでいいのだろう。
しばらくして、帰る時間になった。
「バンギラス、そろそろ帰るぞ」
声をかける。
バンギラスが顔を上げた。
俺はボールを取り出し、少し待った。
「……ギル」
低く鳴く。
その場で動かなくなったのを確認してから、ボールを向けた。
赤い光が広がる。
バンギラスの巨体が収容された。
カチリ。
「……よし」
今日も無事に終わった。
「リングマ、ありがとな」
「グル」
近づいてきたリングマの頭を撫でる。
……進展はなし。
いや。
昨日と同じように過ごせたのだから、それはそれで悪くない。
俺はボールを腰へ戻した。
◆
家に帰ると、玄関の方から声が聞こえた。
「ちょっと、待ちなさい!」
「ロトッ!」
「待ってってば!」
……何だ?
母さんの声だ。
それから、ロトムの声。
嫌な予感がする。
「ただいまー」
玄関を開ける。
すると。
「ロトーッ!」
目の前をオレンジ色の何かが飛んでいった。
「うわっ!」
反射的に身を引く。
ロトムだった。
その後ろから、母さんが出てくる。
「あ、おかえり」
「ただいま。……何してるの?」
「それがねぇ」
母さんが困った顔をした。
「扇風機が動かなくなっちゃって」
「扇風機?」
「そう」
居間を見る。
そこには、見慣れた扇風機が置いてあった。
ただし。
羽根が、とんでもない勢いで回転している。
「……動いてるじゃん」
「それが、止まらないのよ」
「……え?」
「スイッチ押しても止まらないし、風量も変わらないの」
俺は扇風機を見た。
確かに、風量は最大になっているようだった。
カーテンが大きく揺れている。
「……ロトム?」
「ロトッ!」
ロトムが元気よく返事をした。
……なるほど。
そういうことか。
「お前、扇風機に入っただろ」
「ロト?」
「とぼけるな」
「ロトロト!」
ロトムが笑うように鳴いた。
俺はため息をついた。
ロトムは電化製品に入り込むことができる。
扇風機に入れば、スピンロトムになる。
もっとも、今はもう外へ出ている。
問題は、扇風機の方だ。
「……母さん、コンセント抜いた?」
「抜いたわよ」
「……え?」
俺は扇風機を見た。
確かに、コンセントは抜けていた。
それなのに。
羽根は回っている。
「……おい」
「ロトッ!」
「お前、何した?」
ロトムが楽しそうに飛び回る。
……いや、待て。
ロトムが電気を扱えるのは知っている。
けれど、普通の扇風機がコンセントを抜いたまま回り続けるのはおかしい。
もしかして。
「……まだ電気流してる?」
「ロト?」
「やめなさい」
「ロトッ!」
その瞬間。
ブン。
扇風機の回転がゆっくりになった。
やがて、完全に止まる。
「……止まった」
母さんが呟いた。
俺も頷いた。
「……止まったね」
ロトムは得意げに浮かんでいる。
「……お前なぁ」
「ロトッ!」
「褒めてないぞ」
「ロト?」
首を傾げるように身体を傾ける。
……絶対分かってないな、こいつ。
◆
「でも、助かったのよ」
母さんがお茶を持ってきた。
「何が?」
「扇風機。朝から調子が悪くてね。ロトムが中に入ったら動くようになったの」
「……ああ」
なるほど。
最初から遊んでいたわけではないらしい。
「それで、動くようになったから出てきてもらったんだけど」
「止まらなくなった、と」
「そうなの」
母さんが頷いた。
俺は扇風機を見た。
見た目は普通だ。
ただ、ロトムが中に入ったことで、何かが変わってしまった可能性はある。
「……これ、しばらく使わない方がいいかも」
「やっぱり?」
「うん。電気関係はちょっと怖いし」
ロトムが近づいてくる。
「ロト?」
「いや、お前が悪いっていうか……」
少し考える。
そもそも、ロトムに電化製品を直してもらうという発想が間違っていたのかもしれない。
入って動かすことと、修理することは別だ。
「……母さん、今度から壊れた家電は普通に修理に出そう」
「そうねぇ」
「ロトムにも、勝手に入らないように言っとくから」
「ロトッ!」
「お前も返事だけはいいな」
ロトムが俺の周りを飛び回った。
母さんが笑う。
「でも、この子なりに手伝おうとしてくれたのよね」
「……まあ、そうかもね」
俺はロトムを見た。
「ありがとな。でも、次からは先に言ってくれよ」
「ロトロト!」
元気よく返事をする。
……本当に分かってるんだろうか。
少し不安だった。
◆
夕方。
父さんが帰ってきた。
「ただいまー」
「おかえり」
「おう」
父さんは居間へ入ると、扇風機を見た。
「……何だ、これ」
「ああ、それね」
母さんが事情を説明する。
父さんは話を聞き終えると、扇風機を見つめた。
「……ロトムが直したのか?」
「いや、直ったかどうかは分からない」
「そうなのか」
「むしろ、ちょっと怪しい」
「なるほどな」
父さんは頷いた。
そして。
「……で、扇風機はどうするんだ?」
「修理か買い替えかな」
「そうか」
父さんがロトムを見る。
「お前、頑張ったんだな」
「ロトッ!」
「でも、次からは勝手にやるなよ」
「ロト!」
ロトムが嬉しそうに飛び回った。
……何だろう。
俺が言った時より、ずっと素直に聞いている気がする。
「……父さん、ポケモンの扱い上手くない?」
「そうか?」
「うん」
「別に普通に話してるだけだぞ」
父さんが笑う。
……またそれか。
バンギラスの時もそうだった。
父さんは、ポケモンについて詳しいわけではない。
種族の特徴も、技も、進化も、ほとんど知らない。
けれど。
相手が何をしたかったのか。
何を嫌がっているのか。
そういうことを考えるのは、俺より上手いのかもしれない。
「……」
「何だ?」
「いや、何でもない」
俺は笑った。
その時。
「ポッポ!」
窓の外から声がした。
父さんのポッポだった。
「おう、帰ってきたか」
父さんが窓を開ける。
ポッポが飛び込んできた。
そして。
バサッ。
扇風機の上へ止まった。
「……あ」
俺は思わず声を出した。
ロトムが扇風機を見る。
「ロト?」
ポッポもロトムを見る。
「ポッポ?」
数秒。
妙な沈黙が流れた。
「……お前ら」
俺は嫌な予感がした。
ロトムが扇風機へ近づく。
「ロトッ!」
「待て待て待て!」
慌てて止める。
ロトムが空中で止まった。
「今日はもう駄目!」
「ロト?」
「駄目!」
ポッポが首を傾げる。
「ポッポ?」
父さんが笑った。
「何だ、また動かそうとしてたのか」
「多分ね」
「そりゃ困るな」
「本当にね」
母さんも笑っていた。
……まったく。
ポケモンがいる生活というのは、どうしてこう、予想外のことばかり起きるんだろう。
まあ。
こういう予想外なら、まだいいけど。
◆
夜。
夕食を終えた俺は、居間でニュースを見ていた。
テレビには、アメリカの街並みが映っている。
ニューヨーク。
高層ビルが立ち並ぶ大都市。
道路には車が走り、歩道には多くの人が行き交っている。
その映像に、ニュースキャスターの声が重なった。
『八月一日まで、残り数日となりました』
俺は箸を置いた。
……来たか。
『アメリカ合衆国では、日本政府から提供された資料をもとに、ポケモンの出現に備えた準備が進められています』
画面が切り替わる。
警察車両。
消防隊員。
道路の規制訓練。
大型の防護柵を設置する作業員たち。
『これまで日本では、四月にカントー地方、五月にジョウト地方、六月にホウエン地方、七月にシンオウ地方のポケモンが出現しました』
日本地図が表示される。
それぞれの出現地域が色分けされていた。
『出現時期と地域については、事前に公表された資料と一致しており、アメリカ政府も八月一日の出現を想定して警戒態勢を強化しています』
「……いよいよだな」
父さんが呟いた。
「そうだね」
俺は頷いた。
八月一日。
アメリカ。
ニューヨーク都市圏。
そして、イッシュ地方のポケモン。
これまでとは、少し事情が違う。
日本では四ヶ月かけて、少しずつポケモンが増えてきた。
その間に、政府も自治体も、警察も消防も、対応を学んできた。
一般の人たちも、少しずつポケモンに慣れていった。
けれど、アメリカではそうはいかない。
もちろん、情報はある。
準備する時間もあった。
日本で起きた事例も参考にできる。
ただ。
実際にポケモンが現れるのと、資料で知っているのとでは、まったく違う。
『ニューヨーク市内では、一部の公園や施設について、八月一日から一時的な立ち入り制限が予定されています』
画面には、セントラルパークの映像が映っていた。
公園の入口に設置された案内板。
警備員。
周辺を歩く人々。
『また、地下鉄や道路などの交通機関についても、状況に応じて運行を制限する方針です』
「大変そうねぇ」
母さんが言った。
「そうだね」
俺は画面を見つめた。
ニューヨークは人口が多い。
建物も多い。
地下鉄も複雑に張り巡らされている。
そんな場所へ、突然ポケモンが現れる。
……考えるだけでも大変だ。
『アメリカ政府は、出現が予測されるポケモンの危険性や生態について、事前の情報公開を進めています』
画面に、いくつかのポケモンの画像が表示された。
ヨーテリー。
ミネズミ。
マメパト。
そして。
ダンゴロ。
『特に、都市部の地下空間や建築物への影響については、専門家による検討が続けられています』
……まあ、そうなるよな。
イッシュ地方のポケモンには、都市部で問題になりそうな種族が少なくない。
もちろん、全てが危険というわけではない。
人間と共存しやすいポケモンもいる。
ただ、最初からそれを正しく見分けられるとは限らない。
ニュースは続く。
『一方、アメリカ国内では、今回の予測情報の信頼性をめぐって議論も続いています』
画面に、街頭インタビューが映った。
『日本で四回続けて予測が当たっているのだから、備えるべきだと思います』
別の男性が答える。
『準備は必要でしょう。ただ、本当に何が起きるかは当日まで分かりません』
さらに別の女性。
『子供がいるので心配です。少なくとも、八月一日は外出を控えるつもりです』
俺は黙って見ていた。
……そうだよな。
当然の反応だ。
いくら資料があっても、実際に目の前でポケモンを見たことがない人にとっては、まだ現実感が薄いだろう。
四月の日本も、似たようなものだった。
いや。
あの頃は、今よりもっと情報が少なかった。
それを考えれば、準備できるだけでも随分違う。
『なお、日本政府は、これまでに蓄積した対応事例やポケモンに関する資料について、アメリカ側との情報共有を継続するとしています』
その言葉に、俺は少しだけ目を細めた。
……情報共有、か。
政府へ送った資料。
あれが、今度は海外でも使われることになる。
もちろん、俺が直接何かをするわけではない。
資料をどう扱うかは、政府の仕事だ。
ただ。
あの資料を見て、少しでも被害を減らせる人がいるなら。
それは、悪いことではないと思う。
「……お前、何か考え事か?」
父さんに声をかけられた。
「え?」
「さっきから難しい顔してるぞ」
「ああ、いや」
俺は少し笑った。
「大変だろうなって思って」
「アメリカが?」
「うん」
父さんはテレビを見た。
「まあ、大変だろうな」
「……だよね」
「でも、準備してるなら、何もしないよりはいいだろ」
「そうだね」
父さんが頷いた。
俺も画面へ目を戻す。
テレビでは、再びニューヨークの街並みが映っていた。
夜のマンハッタン。
無数の明かりが輝いている。
車が走る。
人が歩く。
いつも通りの、大都市の夜。
けれど。
あと数日で、その景色は変わる。
日本がそうだったように。
四月一日。
あの日、世界は変わった。
そして、八月一日。
今度はアメリカで、新しい変化が始まる。
俺はテレビを見つめた。
……さて。
どうなることやら。
ニュースキャスターが、次の話題へ移る。
『続いて、国内のニュースです』
画面が切り替わった。
俺は水を一口飲む。
明日も、いつも通りの一日が始まる。
バンギラスの様子を見て。
資料を整理して。
家でご飯を食べて。
そんな日常が続いていく。
少なくとも、今のところは。
けれど、海の向こうでは。
その日常が、もうすぐ大きく変わろうとしていた。
八月一日まで、あと数日。
世界は、その日を待っている。