七月下旬。
世間では、八月一日にアメリカで起こるとされている次のポケモン出現が話題になっていた。
ニュースをつければニューヨークの映像が流れ、SNSを開けば海外のポケモン対策について議論している人たちがいる。
そんな中。
「……よし、できた」
小さなキッチンで、一人の女性がスマートフォンの録画を停止した。
画面には、焼き上がったばかりのマフィンが映っている。
特別なものではない。
薄力粉、バター、卵、砂糖。
近所のスーパーで買える材料を使った、いつものお菓子だ。
「今回は、ちょっと膨らみすぎたかな」
マフィンの一つを手に取り、横から眺める。
味は悪くない。
ただ、見た目が少し不格好だった。
「まあ、手作りってことで」
そう呟いて、動画の編集を始める。
彼女は、お菓子作りの動画を投稿している。
もっとも、インフルエンサーと呼べるほど有名ではない。
動画投稿を始めて二年。
登録者数は三千人に届くかどうか。
再生数は普段なら数百回。調子がよくて千回を超える程度だ。
コメントをくれる人も、だいたい決まっている。
それでも、作ったお菓子を誰かが見てくれるのは嬉しかった。
『これ作ってみました!』
『子供が喜んでくれました』
そんなコメントが一つあるだけで、次も作ろうと思える。
「さて、次は何作ろうかな」
動画の書き出しを待ちながら、SNSを眺める。
新しいレシピを探すのは、半分趣味のようなものだった。
チーズケーキ。
プリン。
桃のコンポート。
季節柄、冷たいお菓子が人気らしい。
その中で、一枚の写真が目に留まった。
「……ん?」
淡い桃色のクリームが乗ったケーキ。
見た目は普通のフルーツケーキだった。
ただ、説明文に見慣れない言葉があった。
『モモンのみでケーキ作った』
「モモンのみ?」
聞いたことがある。
というより、最近はニュースでもよく耳にする。
ポケモンが現れるようになってから、日本各地で発見されている不思議な植物。
オレンのみ。
オボンのみ。
モモンのみ。
名前くらいは知っていた。
「これって、食べられるんだ」
投稿を開いてみる。
スポンジに刻んだモモンのみを混ぜ、クリームにも潰した実を使っているらしい。
味は桃に似ているが、少し酸味があるという。
「へえ……」
さらに調べてみると、オボンのみでジャムを作った人もいた。
パンに塗った写真。
ヨーグルトに混ぜた写真。
クラボのみを料理に使ったという投稿まである。
「いや、最後のはちょっと怖いな」
クラボのみは辛いらしい。
お菓子には向かなそうだ。
少なくとも、今の自分が手を出すものではない。
「でも、モモンのみは気になるなあ」
見た目も可愛い。
桃色というのも、お菓子向きだ。
問題は一つ。
「……どこに売ってるの?」
スーパーでは見たことがない。
近所の青果店にも置いていなかった。
ネットで検索しても、ポケモンの生息情報や、きのみを見つけたという投稿ばかりが出てくる。
時折、個人店で使われているという話は見つかる。
しかし、普通の果物のように、いつでも買えるものではないらしい。
「そりゃそうか」
まだポケモンが現れてから四か月も経っていない。
そんな短期間で、新しい果物が当たり前のように店頭へ並ぶわけもなかった。
「……残念」
スマートフォンを置く。
その日は、それで終わるはずだった。
◇ ◇ ◇
翌日。
「モモンのみ?」
電話の向こうで、知人が聞き返した。
「そう。ポケモンのきのみ。知ってる?」
『知ってるけど、どうしたの?』
「お菓子に使ってみたくて。でも、どこにも売ってないんだよね」
『ああ、そういうこと』
少し間が空いた。
『うちにあるよ』
「……え?」
『モモンのみ』
「ええっ!?」
思わず声が大きくなった。
『そんな驚く?』
「いや、だって、あるの!?」
『あるよ。親戚が山の方で見つけたやつを分けてもらったの。結構たくさん採れたらしくて』
「本当に?」
『うん。ただ、うちでも全部は食べきれなくて』
「欲しい!」
即答だった。
『早い早い』
「いや、でも、本当にいいの?」
『何個かなら。こっちもどう使うか困ってたし』
「ありがとう!」
『ただ、ちゃんと確認してから使ってね。似たような実もあるみたいだから』
「うん。それはもちろん」
電話を切った後、しばらくスマートフォンを見つめる。
「……手に入っちゃった」
思っていたより、ずっと簡単だった。
いや。
簡単だったのは、たまたま知人に心当たりがあったからだ。
自分で探そうと思えば、きっと苦労していただろう。
それでも。
「これは、作るしかないよね」
次の動画の内容が決まった。
◇ ◇ ◇
二日後。
テーブルの上に、桃色の実が三つ並んでいた。
「……これが、モモンのみ」
思わず声に出す。
写真で見るより、ずっと存在感があった。
普通の桃とは形が違う。
手に取ると、想像していたよりもしっかりしている。
「へえ……」
一つを持ち上げ、角度を変えて眺める。
見たことのない果物。
それが今、自分の家のキッチンにある。
少し前なら、考えられないことだった。
「なんか、すごい時代になったなあ」
窓の外では、いつもと変わらない日常が続いている。
車が走り、近所の人が歩いている。
けれど、ほんの数か月前には存在しなかったものが、こうして目の前にある。
「……よし」
スマートフォンを三脚に固定する。
画角を確認。
照明をつける。
「今日は、ちょっと珍しい材料を使います」
録画開始。
「こちら。モモンのみです」
実を一つ、カメラの前へ持ち上げる。
「ポケモンが現れるようになってから見つかったきのみですね。今回は知り合いから分けてもらいました」
一度、録画を止める。
「……説明、これでいいかな」
いつもなら、材料はスーパーで買えるものばかりだ。
今回は違う。
誰でも簡単に用意できる材料ではない。
「入手方法も、ちゃんと言っておこう」
もう一度録画する。
「まだ普通のお店で買えるものではないので、今回は材料の紹介が中心になります。食べられるものとして確認できた実を使っていますが、見つけたものを何でも食べていいわけではないので、そこは気をつけてください」
言い終えて、小さく頷いた。
「……よし」
さて。
肝心のお菓子だ。
今回は、タルトにすることにした。
桃に似た味なら、カスタードとの相性も悪くないはずだ。
まずはタルト生地。
これはいつも通り。
バターを混ぜ、粉を加え、冷蔵庫で休ませる。
その間に、モモンのみを切ってみる。
「おお……」
包丁を入れると、独特の香りが広がった。
桃に似ている。
けれど、少し違う。
「いい匂い」
切った実を一切れ、小皿に乗せる。
「じゃあ、味見してみます」
口へ運ぶ。
「……ん」
噛む。
少し甘い。
その後から、爽やかな酸味が来る。
「美味しい」
思わず笑ってしまった。
「これ、普通に美味しいです」
もう一切れ食べたくなったが、我慢する。
数が限られている。
「桃っぽいけど、桃とは違うなあ。酸味があるから、甘いクリームと合わせたら良さそう」
それからは、いつものお菓子作りだった。
タルト生地を焼き、カスタードクリームを作る。
冷ました生地へクリームを詰め、切ったモモンのみを並べていく。
ただ、一つだけ違うことがある。
「……失敗できないな」
普段なら、焼き直せばいい。
材料が足りなくなれば、スーパーへ買いに行けばいい。
けれど、今回は違う。
モモンのみは三つしかない。
次に手に入る保証もなかった。
そのせいか、いつもより少しだけ手つきが慎重になる。
「ここ、もうちょっと……」
桃色の実を、円を描くように並べる。
最後に艶出しを塗って。
「……できた!」
小さなタルトが完成した。
白っぽいカスタードの上に、淡い桃色の果実。
見た目は思った以上に華やかだった。
「これ、いいんじゃない?」
カメラを近づける。
角度を変える。
もう一枚。
さらにもう一枚。
「……写真撮りすぎかな」
でも、せっかくだ。
材料が珍しいのもある。
何より、自分でも満足できる出来だった。
「じゃあ、いただきます」
フォークを入れる。
サクッとした音。
クリームと果実を一緒に口へ運ぶ。
「……あ」
思わず動きが止まった。
「美味しい」
カスタードの甘さ。
タルト生地の香ばしさ。
そこへ、モモンのみの酸味が加わる。
「これ、かなり合う」
予想以上だった。
「桃で作るのも美味しいけど、こっちも好きかも」
もう一口。
「……うん」
カメラが回っているのを忘れそうになる。
「これ、また作りたいなあ」
そう呟いてから、思い出した。
材料がない。
「……次、いつ作れるんだろ」
少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
編集が終わったのは、その日の夜だった。
動画の長さは八分ほど。
普段より少し長い。
タイトルは悩んだ末に、こうした。
『【ポケモン】モモンのみでタルトを作ってみた!』
サムネイルには、完成したタルトの写真。
横に小さく、材料のモモンのみを並べた。
「……まあ、こんなものかな」
投稿ボタンを押す。
いつもなら、ここで終わりだ。
翌朝になって再生数を確認し、コメントがついていれば返事をする。
それが普段の流れだった。
今回も、そうなると思っていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
「……あれ?」
スマートフォンを開いて、首を傾げた。
通知が、いつもより多い。
「何かあった?」
動画の管理画面を開く。
再生数。
二千三百回。
「……え?」
目を擦る。
もう一度見る。
二千三百回。
普段なら数日かけても届かない数字だった。
「え、なんで?」
コメント欄を開く。
『モモンのみって本当に食べられるんだ』
『見た目が可愛い』
『普通にタルトとして美味しそう』
『ポケモンのきのみでお菓子作る時代になったのか』
『これ材料どこで手に入れたんですか?』
『スーパーで売ってないのが残念』
『ポケモンのお菓子って聞いて来たけど普通に料理動画として良かった』
「……わあ」
思わず声が漏れた。
嬉しい。
けれど、それ以上に驚いていた。
さらに通知を確認すると、動画の一部がSNSで紹介されていた。
『モモンのみでタルト作ってる人いた』
添えられていたのは、完成したタルトの写真。
投稿には、いくつかの反応がついている。
『これ食べたい』
『きのみってお菓子にも使えるのか』
『モモンケーキ作ってた人もいたよな』
『今度はタルトか』
『次はオボンのみでお願いします』
『材料が手に入らない問題』
「……オボンのみ」
名前は知っている。
ジャムを作った人もいるらしい。
「いや、そんな簡単に手に入らないんだけどなあ」
苦笑いする。
とはいえ。
「……また、作れたらいいな」
そう思った。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
再生数は五千回を超えていた。
大きな数字ではない。
何十万、何百万という再生数を集める動画が珍しくない今の時代では、ほんの小さな話題だ。
それでも、彼女にとっては初めての経験だった。
コメント欄には、普段から見てくれている人の書き込みもあった。
『いつも見てます! 今回すごいですね!』
「……ありがとう」
小さく呟く。
新しく見に来た人たちのコメントも嬉しい。
けれど、こういう言葉は、やっぱり特別だった。
「次も頑張ろう」
画面を閉じる。
そして、ふと思い出した。
「……そうだ」
知人へメッセージを送る。
『モモンのみ、ありがとう! おかげで美味しいタルトができたよ』
少し考えてから、もう一文。
『もしまた余ったら、教えてね』
すぐに返事が来た。
『動画見たよ! 美味しそうだった!』
『でも、次は自分で採りに行くとかしないでね』
「……分かってるって」
笑いながら返信する。
『もちろん。山は怖いから』
ポケモンが現れるようになってから、山へ入ることは以前よりずっと危険になった。
お菓子の材料のために、無理をするつもりはない。
それでも。
新しい材料で、新しいお菓子を作る。
その楽しさは、少しも変わらなかった。
◇ ◇ ◇
北海道、十勝。
夕食の片づけが終わった頃。
「ねえ、ちょっとこれ見て」
母さんが、居間から声をかけてきた。
「ん?」
俺は手にしていたスマートフォンから顔を上げる。
母さんは食卓に座り、タブレットをこちらへ向けていた。
「何?」
「お菓子の動画なんだけどね」
「お菓子?」
「ほら、これ」
画面には、桃色の果実が並んだタルトが映っていた。
「……あれ?」
見覚えのある色。
というか。
「モモンのみじゃん」
「そうなのよ」
母さんが嬉しそうに頷く。
「ポケモンのきのみでお菓子を作ってる人がいるんですって」
「へえ」
画面を覗き込む。
『モモンのみでタルトを作ってみた!』
動画の再生数は六千回ほど。
コメントも百件近くついていた。
「結構見られてるんだね」
「そうみたい。お菓子の作り方を調べてたら出てきたの」
母さんが動画を再生する。
見慣れないキッチン。
顔は映っていない。
手元だけの、普通のお菓子作りの動画だ。
モモンのみを切り、タルト生地を焼き、クリームを詰めていく。
「……美味そう」
「でしょう?」
母さんが少し得意げに言った。
いや、母さんが作ったわけじゃないんだけど。
「うちにもあるわよね、これ」
「あるよ」
「まだ採れる?」
「採れると思うけど。父さんが今朝も畑見てたし」
「そう」
母さんが画面へ視線を戻す。
動画では、完成したタルトを切り分けていた。
「綺麗ねえ」
「そうだね」
「桃みたいな味なの?」
「似てるけど、ちょっと違うかな。酸味もあるし」
「ふうん」
母さんが考え込む。
その横で、ロトムがふわふわと浮かんでいた。
「ロト?」
「ん?」
ロトムがタブレットを覗き込む。
画面には、タルトの断面。
「ロト!」
「食べられないよ、お前は」
「ロト?」
「いや、画面に入っても食べられないから」
何を考えたのか、ロトムがタブレットの周りを一周する。
母さんが笑った。
「この子も気になるのかしら」
「たぶん画面の方だと思う」
「そうなの?」
「多分ね」
動画が終わる。
母さんはしばらく完成したタルトの写真を眺めていた。
それから、何でもないことのように言った。
「……うちでも作ってみようかしら」
「え?」
「モモンのみのタルト」
「作るの?」
「せっかくあるんだもの。普通に食べるだけじゃ勿体ないじゃない」
「まあ、そうだけど」
母さんはもう一度動画を再生した。
今度は材料の分量を確認している。
「バターはあったわね。卵もあるし、薄力粉も……」
「あのさ」
「何?」
「モモンのみ、全部使わないでね」
「どうして?」
「ポケモンに使う分も必要だから」
「ああ、そうだったわね」
母さんは頷いた。
「じゃあ、少しだけもらうわ」
「それならいいけど」
「明日、お父さんに聞いてみましょう」
「うん」
そこで話は終わった。
……と思ったのだが。
「そういえば」
母さんが、また画面を見ながら言った。
「オボンのみっていうのも、うちにあるんでしょう?」
「あるよ」
「それでジャムを作ってる人もいるみたいなのよ」
「……ああ」
嫌な予感がした。
「あと、クラボのみっていうのもあるの?」
「あるけど、あれは辛いよ」
「辛いの?」
「結構」
「へえ。面白いわねえ」
母さんが楽しそうに画面を操作する。
次々と表示される、きのみを使った料理の写真。
ケーキ。
ジャム。
焼き菓子。
中には、何を考えたのか分からない料理まであった。
「……母さん」
「何?」
「とりあえず、最初はモモンのみだけにしよう」
「そうねえ」
返事はした。
けれど、その目はもう別のレシピを探している。
「……まあ、いいか」
俺は小さく笑った。
ポケモンが現れてから、世の中はいろいろと変わった。
危険なことも増えた。
面倒なことも、考えなければいけないことも山ほどある。
それでも。
こういう変化なら、悪くない。
画面の中では、見知らぬ誰かが作った桃色のタルトが、相変わらず美味しそうに映っていた。
「明日、モモンのみ採っておいてくれる?」
「はいはい」
「熟してるのをお願いね」
「分かったよ」
「ロト!」
ロトムまで返事をした。
「お前は採らなくていいから」
「ロト?」
「いや、頼んでないって」
母さんが笑う。
俺も、つられて笑った。