九州の、とある住宅街。
小学校へ続く道の途中に、小さな交差点がある。
信号機はない。
片側には古い商店が並び、反対側には住宅が続いている。車通りはそれほど多くないが、朝の通勤時間帯だけは少し事情が違った。
抜け道として使う車が増えるのだ。
その交差点には、毎朝決まった時間になると、黄色い旗を持った老人が立っていた。
「おはよう」
「おはようございまーす!」
「はい、今日も元気だねえ」
黄色い旗を掲げ、左右を確認する。
車が止まったのを見てから、子供たちへ声をかけた。
「はい、渡っていいよ。走らんでね」
「はーい!」
ランドセルを揺らしながら、子供たちが横断歩道を渡っていく。
老人はその背中を見送り、最後の一人が渡り終えると旗を下ろした。
これが、いつもの朝だった。
少し離れた場所には、もう一人、見守り活動をしている女性がいる。
こちらは通学路の曲がり角を担当していた。
「おはよう。車、気をつけてね」
「おばちゃん、おはよう!」
「はい、おはよう」
二人とも、特別な仕事としてやっているわけではない。
地域の見守り活動だ。
何年も続けているうちに、すっかり日課になっていた。
ただし、今年は少し事情が違う。
「……あら、また来てる」
女性が、道路脇の植え込みへ目を向けた。
茶色と白の、小さな生き物。
四本の足で立ち、鼻先を地面へ近づけている。
そのまま右へ左へ、落ち着きなく歩き回っていた。
「ジグザグマ、だったかね」
老人もそちらを見る。
六月一日。
九州に新しいポケモンが現れてから、もうすぐ二か月。
最初の頃は、町中が大騒ぎだった。
見たことのない鳥が電線に止まっていたり、犬に似た生き物がゴミ置き場をうろついていたり。
今では、名前くらいなら覚えたものもいる。
ジグザグマ。
ポチエナ。
スバメ。
キャモメ。
もっとも、老人は今でも全部を見分けられるわけではなかった。
「また何か拾いよるね」
「そうみたいだなあ」
ジグザグマは道路脇に落ちていた小枝を鼻先で転がしている。
拾っては落とし、また拾う。
何が面白いのか、本人は随分楽しそうだった。
「子供らが近づかんといいけど」
「そうだねえ」
最近、学校からも注意が出ていた。
見慣れないポケモンに近づかないこと。
勝手に餌を与えないこと。
危険だと思ったら、大人へ知らせること。
可愛いからといって、安全とは限らない。
それは、この二か月で大人たちも学んだことだった。
「おーい、そっちは車が来るよ」
老人が声をかける。
ジグザグマは顔を上げた。
「ジグ?」
「危ないから、こっちへ出てこんでね」
言葉が通じたのかどうか。
ジグザグマはしばらく老人を見つめてから、植え込みの奥へ戻っていった。
「……分かるもんかねえ」
「さあねえ」
二人は顔を見合わせた。
その時は、それで終わりだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
老人が交差点へやって来ると、先客がいた。
「……ん?」
いつもの植え込みの前。
ジグザグマが座っている。
「おや。今日は早いねえ」
「ジグ」
「おはよう」
「ジグ!」
返事をした。
ように聞こえた。
「はは。元気だねえ」
老人はいつもの位置に立ち、黄色い旗を取り出した。
ジグザグマは、その様子をじっと見ている。
やがて、最初の子供たちがやって来た。
「おじちゃーん!」
「はい、おはよう」
老人が旗を上げる。
右を見る。
左を見る。
車が止まったことを確認する。
「はい、どうぞ」
子供たちが渡っていく。
すると。
「ジグ!」
ジグザグマが立ち上がった。
右を見る。
左を見る。
それから、老人の方を見る。
「……ん?」
老人が首を傾げる。
ジグザグマは、もう一度右を見た。
次に左。
そして、ぴょこんと前足を上げた。
「……何しよるんだ?」
老人はしばらく考えた。
もう一組、子供たちが来る。
「おはようございまーす!」
「はい、おはよう」
老人が旗を上げる。
ジグザグマも前足を上げた。
「ジグ!」
「……ああ」
そこで、ようやく気がついた。
「真似しよるのか」
老人が笑った。
「そうかそうか。お前さんも見守りかね」
「ジグ!」
ジグザグマは、なぜか嬉しそうに鳴いた。
もっとも。
「でも、道路には出ちゃいかんよ」
老人が注意すると、ジグザグマは前足を下ろした。
それから、植え込みの前へ戻る。
「そうそう。そこならいいよ」
言い聞かせるように話しかける。
ジグザグマは、また老人を見上げた。
それ以来。
交差点には、毎朝一人と一匹が並ぶようになった。
◇ ◇ ◇
「おじちゃん、あの子、何してるの?」
最初に気づいたのは、三年生くらいの男の子だった。
「見守りの真似しよるみたいだよ」
「えっ、ポケモンが?」
「そうみたいだねえ」
男の子が目を丸くする。
「すげえ!」
「でも、近づいたらいかんよ。まだ野生の子だからね」
「分かってる!」
そう答えながらも、男の子は興味津々だった。
「おはよう!」
ジグザグマへ声をかける。
「ジグ!」
「返事した!」
「はは。そう聞こえるねえ」
次の日には、別の子供も気づいた。
その次の日には、何人かが足を止めるようになった。
「おはよう、ジグザグマ!」
「ジグ!」
「今日もいる!」
「おじちゃん、ジグザグマって毎日来るの?」
「今のところはねえ」
「なんで?」
「さあ。気に入ったのかもしれんね」
子供たちが笑う。
ジグザグマも鳴く。
そんな朝が、何日か続いた。
ただし。
問題がなかったわけではない。
「……ちょっと、いいですか」
ある朝、見守りを終えた老人へ、一人の保護者が声をかけてきた。
「はい?」
「あのポケモン、毎朝いるんですよね」
「ええ、そうですね」
「大丈夫なんでしょうか」
保護者は、植え込みの方へ目を向けた。
ジグザグマは落ち葉を鼻先でひっくり返している。
「子供が近づいたりしませんか? 噛まれたりしたら……」
「それは、そうですねえ」
老人は頷いた。
確かに、見守り活動をしている人間が野生のポケモンをそのままにしているのは、気になる人もいるだろう。
老人自身、絶対に安全だとは思っていなかった。
「こちらから触ったり、餌をやったりはしていません。子供らにも近づかんよう言ってます」
「でも、いつもいるんですよね」
「そうですね」
「学校には話してあるんですか?」
「……そこまでは、まだ」
保護者の表情が曇った。
老人は少し考えてから、頭を下げた。
「分かりました。学校にも相談してみます」
その日の午後。
老人は小学校へ電話をかけた。
事情を説明すると、学校側もすぐに対応を決めた。
教職員が現場を確認し、自治体の担当窓口にも相談することになった。
翌朝には、いつもより少しだけ大人が増えていた。
「……あらまあ」
曲がり角担当の女性が苦笑いする。
「大ごとになっちゃったねえ」
「まあ、子供のことだからな」
老人も苦笑した。
ジグザグマは、いつもと変わらず植え込みの前にいた。
「ジグ?」
「お前さんも、困ったもんだねえ」
そう言いながら、老人は少し寂しそうだった。
学校の先生が、離れた場所からジグザグマを確認する。
その後、自治体の担当者と話をしていた。
結論は、ひとまず様子を見るというものだった。
現時点で人を襲ったという報告はない。
ただし、野生のポケモンであることに変わりはない。
子供たちを近づけない。
餌付けをしない。
道路へ出てくるようなら、改めて対応を考える。
そして何より。
「ポケモンに見守りを任せる、という扱いにはできませんので」
担当者が、はっきりと言った。
「もちろんです」
老人は頷いた。
「私らが見とるんです。あの子は、勝手に真似しよるだけですから」
担当者も、少しだけ笑った。
「そうですね」
その日も、子供たちは無事に学校へ向かった。
◇ ◇ ◇
変化があったのは、それから数日後だった。
「……あれ?」
いつもの時間。
いつもの交差点。
けれど、ジグザグマがいなかった。
「今日は来てないねえ」
曲がり角担当の女性が言った。
「そうだねえ」
老人は植え込みを見る。
何もいない。
「どっか行ったんかね」
「野生の子だからねえ」
「まあ、そうだな」
少しだけ寂しかった。
それでも、仕事は変わらない。
黄色い旗を上げる。
「おはよう」
「おはようございまーす!」
子供たちが渡っていく。
「おじちゃん、ジグザグマは?」
「今日はお休みみたいだねえ」
「えー」
「野生の子だからね。毎日来るとは限らんよ」
「そっかあ」
男の子は残念そうに頷いた。
その時だった。
「ジグ!」
聞き覚えのある鳴き声。
「ん?」
植え込みの奥から、茶色と白の影が飛び出してきた。
「おお、来たか」
「ジグ!」
ジグザグマは老人の前で止まる。
それから、口にくわえていたものを地面へ置いた。
「……何だい?」
黄色い布切れだった。
細長い。
端が少しほつれている。
どこかで落ちていたものらしい。
ジグザグマはそれを鼻先で押した。
「ジグ!」
そして。
前足を上げた。
「……ああ」
老人は、自分の手にある黄色い旗を見る。
次に、地面の布を見る。
「お前さん、それ……」
ジグザグマは、もう一度前足を上げた。
「ジグ!」
老人は思わず笑ってしまった。
「自分の旗が欲しかったんかねえ」
その声を聞いて、子供たちが集まりかける。
「ジグザグマだ!」
「なんか持ってる!」
「旗だ!」
「はいはい、近づかんでね。学校遅れるよ」
老人が声をかける。
子供たちは少し名残惜しそうにしながらも、横断歩道へ向かった。
ジグザグマは、その背中を見送っている。
黄色い布切れを前足で押さえたまま。
「……困ったねえ」
老人は小さく呟いた。
可愛い。
それは間違いない。
けれど、拾ってきたものが何なのか分からない以上、勝手に使わせるわけにもいかなかった。
布はどこかの落とし物かもしれない。
そもそも、旗の真似をさせること自体、周囲に誤解を与えるかもしれない。
「それ、誰かのものかもしれんからね」
「ジグ?」
「持ってきたのは偉いけど、道路には出んでね」
「ジグ」
ジグザグマは、布切れを見下ろした。
それから、老人を見る。
しばらく考えるように首を傾げた後、布をくわえ直した。
そして、植え込みの奥へ戻っていった。
「……分かったんかねえ」
老人には分からなかった。
ただ、その日はもう道路へ出てこなかった。
◇ ◇ ◇
七月最後の週。
小学校では、夏休み前の最後の登校日を迎えていた。
朝から蝉がうるさい。
日差しも強い。
「いやあ、暑いねえ」
「本当だねえ」
老人と女性が、いつもの場所で挨拶を交わす。
女性は首にタオルを巻いていた。
「今日で一旦終わりだね」
「そうだなあ」
「夏休みになったら、朝は少し静かになるねえ」
「寂しくなるよ」
そんな話をしていると。
「ジグ!」
植え込みから、いつもの声がした。
「おお、おはよう」
「ジグ!」
ジグザグマは、いつもの位置へ座った。
黄色い布切れは持っていない。
代わりに、今日は何も拾わず、じっと道路を見ていた。
「……珍しいねえ」
老人が呟く。
普段なら、落ち葉や小石を見つけては鼻先で転がしている。
けれど今日は、何もしていない。
ただ、交差点を見ている。
最初の子供たちがやって来た。
「おはようございまーす!」
「はい、おはよう」
老人が旗を上げる。
右を見る。
左を見る。
車が止まったのを確認する。
「はい、渡っていいよ」
子供たちが歩き出す。
ジグザグマも前足を上げた。
「ジグ!」
「おはよう、ジグザグマ!」
「夏休みだよ!」
「明日から学校ないんだ!」
「ジグ?」
ジグザグマが首を傾げる。
子供たちは笑いながら渡っていった。
次の子供たちも。
その次の子供たちも。
みんな、ジグザグマへ声をかけていく。
「またねー!」
「ジグ!」
「夏休み終わったら会おうね!」
「ジグ!」
ジグザグマは、何度も返事をした。
やがて、最後の子供が横断歩道を渡り終えた。
老人が旗を下ろす。
「……はい。今日も終わりだねえ」
ジグザグマは、まだ道路を見ていた。
「ジグ?」
「もう来んよ」
「ジグ?」
「明日から、しばらく学校がお休みなんだ」
老人は、しゃがまずに少し距離を取ったまま話しかける。
「だから、朝はここに立たんのよ」
「……ジグ」
「また学校が始まったら来るからね」
ジグザグマは老人を見上げた。
それから、交差点を見る。
右。
左。
そして、前足を上げる。
「ジグ!」
「……はは」
老人が笑った。
「まだやるんかね」
「ジグ!」
「もう誰も渡らんよ」
ジグザグマは前足を下ろした。
少しだけ、不思議そうな顔をしている。
老人は旗を畳んだ。
「じゃあ、またね」
そう声をかけて、歩き出す。
数歩進んだところで、後ろから声がした。
「ジグ!」
振り返る。
ジグザグマが、いつもの場所に座っていた。
前足を上げている。
まるで、老人を見送るように。
「……ああ」
老人は小さく笑った。
「ありがとうねえ」
それから、手を振った。
ジグザグマも、前足を上げたままだった。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
地域の見守り活動を紹介する小さな投稿が、SNSに流れた。
写真には、黄色い旗を持つ老人の後ろ姿。
その少し離れた植え込みの前で、前足を上げるジグザグマが写っていた。
『近所の通学路で、見守りのおじいちゃんの真似をしてるジグザグマがいるらしい』
投稿したのは、通りかかった近所の住民だった。
反応は、最初こそ少なかった。
けれど、少しずつ広がっていく。
『かわいい』
『ちゃんと右左見てるの草』
『見守りジグザグマ』
『旗持ってないのに旗振ってるつもりなの可愛い』
『こういうニュースだけ見てたい』
『でも野生なら近づかない方がいいよね』
『投稿した人も離れたところから撮ってるらしい』
『おじいちゃんがちゃんと見守ってるのがいい』
『ジグザグマはおじいちゃんを見守ってる説』
『相互見守りで草』
写真は、ほんの少しだけ話題になった。
全国ニュースになるほどではない。
大きな騒ぎにもならなかった。
ただ、何人かが写真を保存し、何人かが家族へ見せた。
それだけだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
交差点には、誰もいなかった。
子供たちは夏休み。
黄色い旗を持つ老人も、今日は家で朝食を取っている。
車が一台、交差点を通り過ぎる。
蝉の声が響く。
そんな、いつもより静かな朝。
植え込みの奥から、小さな影が現れた。
「ジグ」
ジグザグマだった。
いつもの場所へ歩いていく。
そこで座る。
しばらく待つ。
誰も来ない。
「ジグ?」
右を見る。
左を見る。
もう一度、道路を見る。
それから。
前足を上げた。
「ジグ!」
返事はない。
子供たちもいない。
黄色い旗もない。
それでも、ジグザグマはしばらくそこに座っていた。
やがて、一台の自転車が通りかかった。
近所の女性だった。
「あら」
女性は少し離れたところで自転車を止めた。
「今日も来てたの」
「ジグ!」
「学校、お休みなのよ」
「ジグ?」
「夏休み。しばらく子供たちは来ないの」
ジグザグマは首を傾げた。
女性は小さく笑った。
「おじいちゃんも、今日はお休みよ」
「……ジグ」
「また学校が始まったら、会えるからね」
ジグザグマは、しばらく女性を見ていた。
それから、いつもの交差点へ視線を戻した。
右。
左。
そして、前足を上げる。
「ジグ!」
女性は思わず笑ってしまった。
「……そうねえ」
自転車を押しながら、ゆっくり歩き出す。
「じゃあ、私が渡るところを見ててくれる?」
「ジグ!」
もちろん、本当に交通整理ができるわけではない。
信号も、車の決まりも、きっとまだ分かっていない。
ただ、毎朝ここに立つ人間を見て、同じことをしているだけ。
それでも。
「ありがとうね」
女性が横断歩道を渡り終えると、ジグザグマは満足そうに前足を下ろした。
そして、いつもの植え込みへ戻っていく。
九州にポケモンが現れて、もうすぐ二か月。
人間たちは、ポケモンのいる暮らしを少しずつ覚え始めている。
そして、どうやら。
ポケモンたちも、人間の暮らしを少しずつ覚え始めているらしかった。