ポケモン現代入り(非公式二次創作)   作:生獣(なまけもの)

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とある商店街シリーズ 午後五時のホーホー

 

 

 関西の、とある商店街。

 

 駅前の大通りから一本入ったところに、古いアーケードがある。

 

 八百屋に魚屋、惣菜屋。

 

 昔ながらの喫茶店や、今では珍しくなった個人経営の文房具店も残っていた。

 

 もっとも、全部の店が営業しているわけではない。

 

 シャッターが下りたままの店も、ちらほらある。

 

 そんな商店街の中ほどに、小さな時計屋があった。

 

 店の名前は『森時計店』。

 

 色褪せた看板。

 

 ガラス越しに見える、いくつもの掛け時計。

 

 店先には、電池交換や時計修理の案内が手書きで貼られている。

 

 店主は七十を過ぎた老人だった。

 

「……よし」

 

 作業台の上で、小さな腕時計が動き始めた。

 

 老人はルーペを外し、秒針の動きを確かめる。

 

 カチ、カチ、カチ。

 

 規則正しい音。

 

「まだまだ使えるわ」

 

 独り言を呟き、時計を柔らかい布の上へ置く。

 

 最近は、修理の仕事も随分減った。

 

 壊れたら買い替える。

 

 電池が切れたら、新しい時計を買う。

 

 そういう時代だ。

 

 それでも、古い時計を持ってくる客はいる。

 

 親から譲られたもの。

 

 結婚祝いにもらったもの。

 

 長年使ってきた、思い出の品。

 

 そんな時計を直すのが、老人の仕事だった。

 

「こんにちはー」

 

 入口から声がした。

 

「はいはい」

 

 顔を上げると、向かいの惣菜屋の女将が立っていた。

 

「おっちゃん、今日も暑いなあ」

 

「夏やからな」

 

「そらそうやけど」

 

 女将は笑いながら、紙袋を作業台へ置いた。

 

「コロッケ、余ったから持ってきたで」

 

「またかいな」

 

「またや」

 

「ちゃんと売りもんやろ」

 

「夕方の分を揚げすぎたんよ。捨てるよりええやろ」

 

「……ほな、ありがたく」

 

「最初からそう言うたらええねん」

 

 女将は満足そうに頷いた。

 

 それから、店の奥を見回す。

 

「相変わらず時計だらけやなあ」

 

「時計屋やからな」

 

「知ってるわ」

 

 そんなやり取りを、もう何年も続けていた。

 

「ほな、またな」

 

「おう」

 

 女将が帰っていく。

 

 老人は紙袋を開けた。

 

 まだ少し温かい。

 

「……二個もあるやんけ」

 

 一人で食べるには、少し多かった。

 

 それでも、文句は言わない。

 

 昔から、そういう商店街だった。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 午後五時。

 

 店の奥で、古い柱時計が鳴った。

 

 ボーン。

 

 ボーン。

 

 少し遅れて、別の掛け時計が鳴る。

 

 さらに、その隣の時計も。

 

 店内が一瞬だけ賑やかになった。

 

「……またずれとるな」

 

 老人は作業の手を止める。

 

 店に飾ってある時計は、全部が正確なわけではない。

 

 売り物もあれば、修理待ちのものもある。

 

 長年使っているうちに、少しずつ時刻がずれてしまったものもあった。

 

 老人は椅子から立ち上がり、一番古い柱時計へ向かった。

 

 その時。

 

「ホー、ホー」

 

「……ん?」

 

 店の外から声がした。

 

 聞き慣れない鳴き声。

 

 老人は入口へ向かい、ガラス戸を開けた。

 

「……なんや?」

 

 軒先の看板の上に、丸い鳥が止まっていた。

 

 茶色い身体。

 

 大きな赤い目。

 

 片足で器用に立っている。

 

「ホー」

 

「……ああ」

 

 老人は思い出した。

 

「ホーホー、いうやつか」

 

 五月になってから、関西でも見かけるようになったポケモン。

 

 ニュースで何度か見たことがある。

 

 夜に活動する鳥のようなポケモンだという。

 

「こんなとこにも来るんやな」

 

「ホー」

 

「……なんや、返事してくれるんか」

 

 ホーホーは首を傾げた。

 

 老人も、つられて首を傾げる。

 

「……何見とんねん」

 

 ホーホーは答えない。

 

 ただ、店の奥へ顔を向けていた。

 

 カチ、カチ、カチ。

 

 いくつもの時計が時を刻んでいる。

 

「時計が気になるんか?」

 

「ホー」

 

「変わった鳥やなあ」

 

 老人は小さく笑った。

 

 しばらくすると、ホーホーは翼を広げた。

 

 アーケードの梁へ飛び移り、そのまま姿を消した。

 

「……なんやったんや」

 

 老人は店へ戻った。

 

 それが、最初だった。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 翌日。

 

 午後五時。

 

 ボーン。

 

 ボーン。

 

 柱時計が鳴る。

 

「ホー、ホー」

 

「……ん?」

 

 老人が顔を上げる。

 

 入口の向こう。

 

 昨日と同じ場所に、ホーホーがいた。

 

「また来たんか」

 

「ホー」

 

「暇なんか、お前」

 

「ホー」

 

「……まあ、わしも人のこと言えんけどな」

 

 老人は笑った。

 

 ホーホーは店の中を覗いている。

 

 ただし、入ってこようとはしなかった。

 

 それは老人にとって、ありがたいことだった。

 

 野生のポケモンが店に入り、商品を壊してしまう。

 

 そんな話は、最近よく耳にする。

 

 可愛いからといって、好きにさせていいわけではない。

 

「そこにおる分には、まあええわ」

 

 老人はそう言って、作業台へ戻った。

 

 ホーホーはしばらく軒先にいたが、やがて飛び去った。

 

 その翌日も。

 

 また、その翌日も。

 

 ホーホーは午後五時になると、時計屋の前へ現れた。

 

「……ほんまに毎日来るなあ」

 

 老人は、いつしか驚かなくなっていた。

 

 柱時計が鳴る。

 

 少しして、ホーホーが鳴く。

 

 そして、夕方の商店街を眺めて帰っていく。

 

 それが、新しい日課になった。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

「おっちゃん、知ってる?」

 

 ある日の夕方。

 

 惣菜屋の女将が、店の前で足を止めた。

 

「何をや」

 

「あんたんとこの鳥」

 

「鳥?」

 

「ほら、そこ」

 

 女将が指差す。

 

 看板の上には、いつものホーホーがいた。

 

「ホー」

 

「ああ、こいつか」

 

「最近、毎日おるやろ」

 

「そうやな」

 

「時計屋の鳥やって、みんな言うてるで」

 

「誰の鳥でもないわ。野生や」

 

「分かってるって」

 

 女将が笑う。

 

「でも、ほんまに五時になると来るんやなあ」

 

「そうやねん」

 

「時計読めるんかな」

 

「さあな」

 

 老人はホーホーを見る。

 

 ホーホーも老人を見ていた。

 

「……お前、時計読めるんか?」

 

「ホー」

 

「読める言うてるで」

 

「適当なこと言いなや」

 

 女将が笑った。

 

「でも、なんで五時なんやろなあ」

 

「柱時計が鳴るからちゃうか」

 

「ああ、なるほど」

 

 女将は店の奥を覗き込んだ。

 

 壁には、大小さまざまな時計が並んでいる。

 

「そら、こんだけ鳴ったら気になるわな」

 

「うるさい言うなよ」

 

「言うてへんやん」

 

 そう言って、女将は自分の店へ戻っていった。

 

 老人は、もう一度ホーホーを見る。

 

「……時計が好きなんかねえ」

 

「ホー」

 

「変わっとるなあ」

 

 ホーホーは首を傾げた。

 

 その仕草が妙に人間くさくて、老人はまた笑った。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 七月も終わりに近づいた頃。

 

 商店街では、夏の売り出しが始まっていた。

 

 アーケードには手作りの飾りが吊るされ、店先には特売の札が並ぶ。

 

 最近は、ポケモンを連れて買い物に来る客もいる。

 

 もっとも、どの店でも歓迎されるわけではない。

 

 店内に入れていいかどうかは、それぞれの店で違う。

 

 時計屋でも、入口に小さな張り紙をしていた。

 

『ポケモン同伴のお客様は、入店前にお声がけください』

 

 商品を壊されては困る。

 

 それだけの理由だった。

 

「おっちゃん、この時計見てもらえる?」

 

 昼過ぎ。

 

 若い女性が、古い腕時計を持ってきた。

 

「はいはい」

 

 老人は受け取る。

 

 小さな、金色の腕時計だった。

 

「おばあちゃんのなんですけど、動かなくなっちゃって」

 

「いつから?」

 

「去年くらいからです」

 

「ほな、ちょっと見てみよか」

 

 老人はルーペをかける。

 

 裏蓋を開け、中を確認する。

 

「……電池だけやないな」

 

「直りませんか?」

 

「いや、まだ分からん。預かってもええか?」

 

「はい」

 

 女性は少し安心したように頷いた。

 

「これ、おばあちゃんがずっと使ってた時計なんです」

 

「そうか」

 

「新しいのを買おうって言ったんですけど、これがいいって」

 

「……そら、そういうもんや」

 

 老人は静かに頷いた。

 

「直せるか、ちゃんと見てみるわ」

 

「お願いします」

 

 女性が帰った後。

 

 老人は腕時計を作業台へ置いた。

 

 古い時計だった。

 

 けれど、丁寧に使われていたことが分かる。

 

 傷はある。

 

 それでも、乱暴に扱われた跡はない。

 

「……大事にしとるんやなあ」

 

 老人は呟いた。

 

 そして、引き出しから工具を取り出した。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 午後五時。

 

 柱時計が鳴った。

 

 ボーン。

 

 ボーン。

 

「ホー、ホー」

 

「……おう、来たか」

 

 老人は顔を上げずに言った。

 

 目の前には、預かった腕時計がある。

 

 古い部品。

 

 細かな汚れ。

 

 長い間、動いていなかった機械。

 

「今日は忙しいねん」

 

「ホー」

 

「また今度な」

 

 ホーホーは、いつもの看板の上で首を傾げた。

 

 老人は作業を続ける。

 

 時間が過ぎる。

 

 商店街の人通りが減っていく。

 

 やがて、外が薄暗くなった。

 

「……あかんな」

 

 老人は工具を置いた。

 

 思っていたより、状態が悪い。

 

 部品を交換すれば済む話ではなさそうだった。

 

「これは、ちょっと時間かかるわ」

 

 椅子の背もたれへ身体を預ける。

 

 そこで、ふと気づいた。

 

 店の外が静かだった。

 

「……あれ?」

 

 入口へ目を向ける。

 

 ホーホーは、もういなかった。

 

「……帰ったんか」

 

 時計を見る。

 

 午後六時を過ぎている。

 

 いつもなら、とっくに帰っている時間だった。

 

「そらそうやな」

 

 老人は苦笑した。

 

 野生のポケモンだ。

 

 毎日来るだけでも、不思議なくらいだった。

 

 それなのに。

 

「……待たせたみたいやな」

 

 自分で言ってから、少しおかしくなった。

 

 誰が待っていたというのか。

 

 向こうは、ただ時計の音が気になって来ているだけかもしれない。

 

 それでも。

 

 老人は、もう一度入口を見た。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 翌日。

 

 老人は、いつもより早く店を開けた。

 

 昨日の腕時計が気になっていた。

 

 朝から作業台へ向かい、部品を一つずつ確認する。

 

 昼になっても。

 

 午後になっても。

 

 作業は続いた。

 

 ようやく原因が分かったのは、午後四時を過ぎた頃だった。

 

「……ここか」

 

 老人は小さく息を吐いた。

 

 直せないわけではない。

 

 ただ、少し手間がかかる。

 

「まあ、急がんでもええか」

 

 そう呟きながら、作業を続ける。

 

 ふと、壁の時計へ目を向けた。

 

 午後四時五十五分。

 

「……もうすぐか」

 

 老人は手を止めた。

 

 作業台の上を片づける。

 

 それから、入口の方を見る。

 

 誰もいない。

 

「……何しとんねん、わし」

 

 苦笑いする。

 

 別に、待っているわけではない。

 

 ただ、少し休憩するだけだ。

 

 そう思っているうちに。

 

 ボーン。

 

 柱時計が鳴った。

 

 五時。

 

 店の奥で、別の時計も鳴り始める。

 

 老人は入口を見る。

 

 いつもの看板。

 

 その上には。

 

「……あれ?」

 

 何もいなかった。

 

 老人は首を傾げる。

 

「今日は来んのか」

 

 まあ、そういう日もある。

 

 そう思い、作業台へ戻ろうとした。

 

 その時。

 

「ホー」

 

「……ん?」

 

 店の反対側から声がした。

 

 見ると、ホーホーが電線の上に止まっていた。

 

「……なんや、そっちかいな」

 

「ホー」

 

「いつもと違うとこおるから、分からんかったわ」

 

 老人は笑った。

 

 ホーホーは電線から飛び立ち、いつもの看板へ移る。

 

「ホー、ホー」

 

「はいはい。五時やな」

 

 老人は頷いた。

 

「分かっとるよ」

 

 それから、ふと気づいた。

 

 今日は、柱時計の音が少し違う。

 

 いつもより、わずかに遅れて鳴っていた。

 

「……ああ、そうか」

 

 老人は店の奥へ目を向ける。

 

「お前、こっちの音が聞こえんかったんか」

 

 もちろん、確かなことは分からない。

 

 ただ、ホーホーは時計が鳴った後に、いつもの場所へ移ってきた。

 

「……まさかなあ」

 

 老人は笑った。

 

「時計の音、覚えとるんかねえ」

 

「ホー」

 

 ホーホーは、また首を傾げた。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 その日の夜。

 

 老人は、店の奥にある古い柱時計の前に立っていた。

 

 木製の大きな時計。

 

 今では、同じものを見かけることも少ない。

 

 店を開いた頃から、ずっとここにある。

 

 老人は、ガラス扉を開けた。

 

 振り子が揺れている。

 

 カチ。

 

 カチ。

 

 カチ。

 

「……お前も、だいぶ古うなったな」

 

 時計へ向かって呟く。

 

 この時計は、売り物ではなかった。

 

 昔、妻が気に入って買ってきたものだ。

 

『時計屋のくせに、うちにはまともな柱時計がないやん』

 

 そんなことを言って、半ば強引に置いていった。

 

 当時は、店を開いたばかりだった。

 

 仕事も少なく、毎日が慌ただしかった。

 

 そんな中で、妻はいつも店を手伝ってくれていた。

 

 掃除をして。

 

 帳簿をつけて。

 

 客が来れば、お茶を出して。

 

 そして、午後五時になると。

 

『もう五時やで』

 

 そう言って、作業台の老人へ声をかけた。

 

『そろそろ休憩したら?』

 

『まだ仕事あるねん』

 

『仕事は逃げへんよ』

 

『客は逃げるかもしれんやろ』

 

『そんなん言うてたら、いつまでも休まれへんわ』

 

 そんなやり取りを、何度しただろう。

 

 妻が亡くなってから、もう何年も経っていた。

 

 店の奥に置いてあった湯飲みも、今では一つだけになった。

 

 それでも。

 

 柱時計だけは、変わらず鳴り続けている。

 

「……五時か」

 

 老人は小さく呟いた。

 

 最近は、五時になっても休憩しなくなっていた。

 

 仕事が少ない日でも、何となく作業台に座っている。

 

 別に、忙しいわけではない。

 

 ただ。

 

 休憩する理由が、なくなってしまったのだ。

 

「……あいつが聞いたら、怒るやろなあ」

 

 老人は苦笑した。

 

 そして、柱時計の振り子を見つめた。

 

 カチ。

 

 カチ。

 

 カチ。

 

 変わらない音だった。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 翌日の午後。

 

「おっちゃん、まだやってる?」

 

 惣菜屋の女将が顔を出した。

 

「おう」

 

「またコロッケ持ってきたで」

 

「……お前、ほんまに毎日余らせとるんか」

 

「今日はちゃんと売りもんから取ってきた」

 

「なお悪いやろ」

 

「ええから食べ」

 

 女将は紙袋を置いた。

 

 そして、作業台の上にある腕時計を見る。

 

「修理?」

 

「そうや」

 

「難しいん?」

 

「ちょっとな」

 

「ふうん」

 

 女将は、しばらく老人の手元を眺めていた。

 

「……そういや、おっちゃん」

 

「何や」

 

「最近、五時になると外見るようになったな」

 

 老人の手が止まった。

 

「……そうか?」

 

「そうやで」

 

「気のせいやろ」

 

「ほな、そういうことにしといたるわ」

 

 女将は笑った。

 

「ホーホー、今日も来るかな」

 

「さあな」

 

「来たら教えたってな」

 

「何をや」

 

「おっちゃん、ちゃんと休憩しなさいって」

 

「……なんで鳥に言われなあかんねん」

 

 女将は声を上げて笑った。

 

「奥さんと同じこと言うてくれるかもしれんやん」

 

 老人は、何も言わなかった。

 

 女将も、それ以上は何も言わなかった。

 

 ただ、紙袋を作業台の端へ寄せた。

 

「ほな、仕事の邪魔したら悪いし、戻るわ」

 

「……おう」

 

 女将が帰っていく。

 

 老人は、しばらく紙袋を見ていた。

 

 それから、壁の時計へ目を向ける。

 

 午後四時五十分。

 

「……あと十分か」

 

 小さく呟いた。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 午後五時。

 

 ボーン。

 

 ボーン。

 

 柱時計が鳴る。

 

「ホー、ホー」

 

 少し遅れて、外から声がした。

 

「……おう」

 

 老人は椅子から立ち上がった。

 

 今日は、作業台の上に工具を置いたままにしなかった。

 

 片づけてから、入口へ向かう。

 

 看板の上には、いつものホーホーがいた。

 

「今日も来たんか」

 

「ホー」

 

「毎日、律儀なやっちゃな」

 

「ホー」

 

 老人は笑った。

 

 それから、店の中へ戻る。

 

 奥の小さな流し台で、お湯を沸かした。

 

 棚から湯飲みを取り出す。

 

 一つ。

 

 少し迷ってから、もう一つ。

 

「……あ」

 

 老人は手を止めた。

 

 自分でも、なぜ二つ出したのか分からなかった。

 

 もう一つの湯飲みは、長いこと使っていないものだった。

 

 白地に、小さな花の模様。

 

 妻が使っていた湯飲みだ。

 

「……何しとんねん」

 

 老人は苦笑した。

 

 それでも、棚へ戻さなかった。

 

 二つの湯飲みを、店の奥の小さなテーブルへ置く。

 

 片方に、お茶を注ぐ。

 

 もう片方は、空のまま。

 

 それから、惣菜屋の女将が持ってきたコロッケを皿へ移した。

 

「……いただきます」

 

 一口食べる。

 

 冷めていたが、美味しかった。

 

 外から、ホーホーの鳴き声が聞こえる。

 

「ホー、ホー」

 

「……分かっとるって」

 

 老人は、誰にともなく答えた。

 

「ちゃんと休んどるよ」

 

 柱時計が、静かに時を刻んでいた。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 数日後。

 

 古い腕時計の修理が終わった。

 

「……よし」

 

 秒針が動いている。

 

 老人はルーペを外し、何度か動作を確認した。

 

 問題はなさそうだった。

 

 預かっていた女性へ連絡を入れる。

 

 翌日。

 

「本当に直ったんですか?」

 

「うん。しばらく様子見てもらう必要はあるけど、今のところ大丈夫や」

 

 女性は腕時計を受け取った。

 

 耳元へ近づける。

 

 小さな音がする。

 

 カチ、カチ、カチ。

 

「……動いてる」

 

「そら、時計やからな」

 

 老人が笑う。

 

 女性も笑った。

 

「おばあちゃん、喜びます」

 

「そうやとええな」

 

「ありがとうございました」

 

 女性は何度も頭を下げて帰っていった。

 

 老人は、その背中を見送った。

 

 そして、ふと店の奥を見る。

 

 古い柱時計。

 

 今日も変わらず動いている。

 

「……まだまだ、仕事あるな」

 

 老人は小さく呟いた。

 

 誰に聞かせるでもない言葉だった。

 

 それでも、少しだけ気持ちが軽くなった。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 その日の午後五時。

 

 ボーン。

 

 ボーン。

 

 柱時計が鳴る。

 

「ホー、ホー」

 

「……おう、来たな」

 

 老人は作業の手を止めた。

 

 工具を片づける。

 

 湯飲みを用意する。

 

 お湯を沸かす。

 

 最近は、それが新しい日課になっていた。

 

 店の入口を開けると、いつもの看板の上にホーホーがいた。

 

「今日も五時やで」

 

「ホー」

 

「知っとるか」

 

「ホー」

 

「……そらそうか」

 

 老人は笑った。

 

 商店街では、夕方の買い物客が行き交っている。

 

 惣菜屋からは、揚げ物の匂いが漂ってきた。

 

 八百屋の店主が、売れ残った野菜を片づけている。

 

 文房具店の前では、子供たちが何かを話していた。

 

 いつもと変わらない夕方だった。

 

「おっちゃん!」

 

 向かいの惣菜屋から、女将が声をかけてきた。

 

「今日は休憩しとるかー?」

 

「今からや!」

 

「ほんまかー?」

 

「ほんまや!」

 

 女将が笑う。

 

 老人も笑った。

 

 ホーホーは、その様子をじっと見ている。

 

「ホー」

 

「……お前も、よう来るなあ」

 

 老人は看板を見上げた。

 

 最初は、時計の音に興味を持っただけなのかもしれない。

 

 あるいは、たまたま毎日同じ時間にここを通っているだけなのかもしれない。

 

 理由は分からない。

 

 言葉も通じない。

 

 それでも。

 

「……まあ、また明日な」

 

「ホー」

 

 ホーホーが鳴いた。

 

 老人は店へ戻る。

 

 ガラス戸を閉める前に、もう一度だけ振り返った。

 

 看板の上のホーホーは、片足で立ったまま、じっと店の中を見ていた。

 

 やがて翼を広げ、夕方の商店街へ飛び立っていく。

 

「……気ぃつけて帰りや」

 

 老人は小さく呟いた。

 

 それから、店の奥へ向かった。

 

 テーブルには、二つの湯飲み。

 

 片方には、温かいお茶。

 

 もう片方は、空のまま。

 

 老人は椅子へ腰を下ろした。

 

 柱時計が、静かに時を刻んでいる。

 

 カチ。

 

 カチ。

 

 カチ。

 

「……もう五時やで、か」

 

 昔、何度も聞いた言葉を思い出す。

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「分かっとるよ」

 

 誰もいない席へ、そう答えた。

 

 店の外では、商店街の夕方が続いている。

 

 八百屋の声。

 

 買い物客の足音。

 

 遠くから聞こえる、自転車のベル。

 

 そして、どこかから聞こえる鳥の声。

 

「ホー、ホー」

 

 老人は、湯飲みを持ち上げた。

 

「……また明日な」

 

 時計の針は、今日も変わらず進んでいた。

 

 ただ、午後五時という時間が。

 

 以前より、少しだけ楽しみになっていた。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 後日。

 

 商店街の掲示板に、一枚の写真が貼られた。

 

 古い時計屋の看板。

 

 その上に止まる、丸い鳥のポケモン。

 

 写真の下には、手書きの文字。

 

『午後五時になるとやってくる、商店街の小さなお客さん』

 

 誰が撮ったのかは分からない。

 

 けれど、写真を見た人たちは、みんな少しだけ笑った。

 

「ほんまに毎日来るんやな」

 

「時計屋さんのとこやろ?」

 

「あのおっちゃん、最近よう笑うようになったなあ」

 

「そうやねえ」

 

 そんな会話が、商店街のあちこちで交わされる。

 

 ポケモンが現れてから、もうすぐ三か月。

 

 世の中は、まだまだ落ち着かない。

 

 新しい生き物が現れれば、危険なこともある。

 

 困ることもある。

 

 今まで通りにはいかないことも、たくさんある。

 

 それでも。

 

 誰かの日常に、小さな楽しみが増えることもある。

 

 午後五時。

 

 古い柱時計が鳴る。

 

 少し遅れて。

 

「ホー、ホー」

 

 商店街に、今日も聞き慣れた声が響いた。

 

 

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