七月。
東京都内、某所。
会議室の壁には、日本地図が映し出されていた。
北海道が赤く塗られている。
その横には、ある日付。
『7月1日』
そして、その下には。
『シンオウ地方由来のポケモン出現』
「……一致しましたね」
若い職員が呟いた。
誰も返事をしなかった。
既に分かっていたことだからだ。
正確には、分かっていたつもりだった。
「北海道内で確認された新種の数は?」
「現時点で百種類を超えています。全てではありませんが、提供された資料に記載された種類との照合が進んでいます」
「未記載の種類は?」
「今のところ、明確に該当しないものは確認されていません。ただし個体差や進化形態の問題もありますので、引き続き調査中です」
「……そうですか」
会議室の中央。
一人の男性が資料を閉じた。
その表紙には、簡潔な文字が記されている。
『匿名情報提供者に関する報告書』
最初は、ただの怪文書だと思われていた。
突然現れた未知の生物。
それをポケモンと呼び、種類や特徴、危険性まで説明する正体不明の人物。
当初は半信半疑だった。
しかし、提供された情報は実際の観測結果と一致した。
ポケモンの名前。
進化前後の関係。
毒や麻痺などの状態異常。
捕獲方法。
そして、モンスターボールの技術。
そのどれもが、現実に応用できるものだった。
やがて、政府が受け取る資料は増え続けた。
そして六月。
ついに、全国図鑑に相当する膨大な資料が送られてきた。
「……改めて聞きます」
男性が口を開く。
「この情報提供者は、一体何者なんですか?」
沈黙。
誰も答えられなかった。
「少なくとも、普通の研究者ではありません」
別の職員が発言した。
「ポケモンについて、我々より遥かに多くの情報を持っています。それも、未確認の種類まで含めてです」
「未来から来た人間だとでも?」
「そういう意見もあります」
「本気で言っているんですか?」
「本気かどうかはともかく、現時点で完全に否定できる材料もありません」
会議室が静かになる。
馬鹿げた話だ。
未来人。
異世界人。
あるいは、ポケモンを生み出した存在。
そんな仮説が、真面目な会議の資料に並んでいる。
数か月前なら笑い話で終わっていただろう。
だが、今は違う。
そもそも、ポケモンという生物自体が、数か月前まで地球上に存在していなかったのだ。
「重要なのは、正体よりも目的でしょう」
年配の職員が口を開いた。
「少なくとも、これまで提供された情報には、人命を守るためのものが多く含まれています」
「それは事実です」
「一方で、伝説や幻と分類されたポケモンについては、情報の扱いに制限を求めている」
「危険性が高いからでしょうか」
「そう考えるのが自然ですが、本人に確認したわけではありません」
男性は腕を組んだ。
「……つまり、我々は相手の善意を信じているわけですね」
「今のところは」
短い返答。
だが、会議室にいる全員が理解していた。
日本政府は、正体不明の人物から送られてきた資料を利用して、ポケモンへの対策を進めている。
その資料がなければ、これまでにどれほどの被害が出ていたか分からない。
しかし、相手が誰なのかも分からない。
何を目的にしているのかも、完全には分からない。
そして何より。
「……この人物は、我々のことをどこまで知っているのでしょうか」
誰かが呟いた。
情報提供者の追跡は、何度も試みられていた。
日本国内だけではない。
海外でも、その正体を探る動きがある。
だが、成果は乏しい。
「通信経路の解析は?」
「進展なしです」
「本当に?」
「はい。追跡を試みると、途中で経路が遮断されます」
「遮断?」
「通常のセキュリティシステムとは挙動が異なります」
担当者が画面を操作する。
そこには、複雑な通信経路が表示されていた。
「こちらが追跡を開始すると、相手側が即座に反応します」
「自動防御システムですか?」
「その可能性はあります。ただ……」
「ただ?」
「こちらの解析手法に応じて、防御方法を変えているように見えるんです」
男性が眉をひそめる。
「……人間が操作している?」
「分かりません。ただ、対応が非常に速い」
担当者は少し言いにくそうに続けた。
「こちらの試行を、向こうが観察しているようにも見えます」
会議室が静まり返った。
「……つまり」
男性がゆっくりと言う。
「我々が相手を調べているつもりで、逆にこちらの手の内を見られている可能性があると?」
「否定はできません」
「……厄介ですね」
実際には、北海道のとある家でポリゴン2が追跡を遮断しているだけなのだが。
当然、政府側がそんな事情を知るはずもなかった。
会議は次の議題へ移った。
『北海道におけるシンオウ地方由来ポケモンへの対応状況』
「まず、道内の状況を説明してください」
「はい」
担当者が立ち上がる。
画面に複数の写真が表示された。
コリンク。
ビッパ。
ムックル。
スボミー。
そして、フカマル。
「住宅地周辺では比較的小型のポケモンが確認されています。一方、山間部では大型種の目撃も増えています」
「危険度の高い種類は?」
「ガブリアス、カバルドン、ドサイドンなどについて、特に注意が必要とされています」
画面が切り替わる。
そこには、政府へ提供された資料を基にした危険度の評価が並んでいた。
「ガブリアスは高速移動能力と高い攻撃力を持つとされています。資料上では、空中を高速で移動する可能性にも言及されています」
「……飛ぶんですか? あの体格で?」
「提供資料では、そうなっています」
「確認は?」
「現時点では、そこまでの飛行能力を持つ個体の確認はできていません」
別の職員が資料をめくった。
「カバルドンは?」
「砂を大量に放出する能力があります。住宅地付近に定着した場合、交通や設備への影響が懸念されます」
「ドサイドンは?」
「こちらは……」
担当者が一瞬、言葉に詰まった。
「岩石を弾丸のように発射する能力があると記載されています」
「……岩石を?」
「はい」
「どの程度の威力ですか?」
「資料には、人体への直撃を想定すべきではない旨が記されています」
「でしょうね」
誰かが小さくため息をついた。
ポケモン。
かわいらしい生物も多い。
人間と共存できる種類もいる。
しかし、その一方で。
現代の社会基盤では、到底想定されていなかった能力を持つ生物が存在する。
「……これが北海道に現れたわけですか」
「はい」
「しかも、今後は海外でも同じことが起きる」
「提供された予定表が正しければ」
男性は目を閉じた。
四月、カントー。
五月、ジョウト。
六月、ホウエン。
七月、シンオウ。
ここまでは一致している。
そして、次は八月。
イッシュ地方。
ニューヨーク都市圏。
「……アメリカ側との情報共有は?」
「進めています。ただし、提供者が公開を制限した情報については取り扱いを分けています」
「先方は納得していますか?」
「必ずしも」
「でしょうね」
アメリカだけではない。
中国。
ロシア。
欧州各国。
今や世界中が、ポケモンと正体不明の情報提供者に関心を向けている。
日本政府が抱えているのは、単なる未知の生物の問題ではなかった。
外交問題でもあり、科学技術の問題でもあり、国家安全保障の問題でもある。
「……それで」
男性が尋ねた。
「例の情報提供者から、最近何か連絡は?」
「ありません」
「追加資料も?」
「現時点では」
「……そうですか」
少し考える。
そして、男性は言った。
「こちらから接触を試みる方法は?」
「確実な方法はありません」
「仮に連絡できたとして、何を伝えますか?」
その質問に、男性は答えられなかった。
情報をもっと送ってほしい。
正体を明かしてほしい。
政府に協力してほしい。
どれも、言いたいことではある。
だが、相手は既に膨大な情報を無償で提供している。
しかも、自分の正体を隠すために相当な労力をかけているらしい。
そこへ、さらに要求を重ねる。
果たして、それが適切なのか。
「……現状維持としましょう」
男性は結論を出した。
「こちらから無理に追いかけるのは、少なくとも今は得策ではありません」
「追跡調査は?」
「必要な調査は続けます。ただし、相手との関係を壊すような強引な手段は避けてください」
職員たちが頷いた。
そして、男性は最後にこう付け加えた。
「何より、提供された資料を活用することです」
画面に映し出された北海道の地図。
その上には、数多くのポケモンの目撃情報が重なっている。
「相手が何者であれ、我々には仕事があります」
会議終了後。
二人の職員が廊下を歩いていた。
「……しかし、本当に何者なんでしょうね」
「例の情報提供者か?」
「はい」
「さあな」
「未来人説、どう思います?」
「信じてない」
「ですよね」
「ただ、ポケモンが現れる前なら、ポケモン自体を信じてなかっただろうな」
「……それもそうですね」
二人はしばらく黙って歩いた。
やがて、若い職員が口を開く。
「もし会えたら、何を聞きます?」
「俺なら?」
「はい」
「……そうだな」
少し考える。
「まず、礼を言うかな」
「……礼?」
「資料がなかったら、もっと死人が出てただろうからな」
「……確かに」
「その後で聞くよ」
「何をです?」
年配の職員は苦笑した。
「あんた、一体どこでそんなこと全部調べたんだってな」
同じ頃。
北海道。
「……あー、くそっ」
俺はパソコンの前で頭を抱えていた。
『ポリ?』
「いや、バンギラスの食料なんだけどさ」
画面には、大型ポケモン用の飼料についての資料が表示されている。
その横には、岩石や鉱物の成分についてのページ。
「……こいつ、何食うんだろうな」
『ポリ』
「いや、木の実は踏み潰されたし」
先日の訓練。
バンギラスは相変わらずこちらを威嚇していた。
近づけば攻撃される。
指示は聞かない。
傷の確認も満足にできない。
それでも、岩塩を少しかじった。
ただ、それだけだ。
「……先は長そうだなあ」
俺はため息をついた。
そして、ふとニュースサイトを開く。
『政府、北海道の野生ポケモン対策を強化』
「……お」
記事を読む。
新たなポケモンの生息調査。
自治体との情報共有。
危険種への対応。
どれも、俺が渡した資料を参考にしているらしい。
「……ちゃんと使ってくれてるんだな」
『ポリ!』
「よかったよかった」
俺は画面を閉じた。
政府が今、俺の正体についてどんな議論をしているのか。
どれほどの人間が資料を分析しているのか。
そんなことは知らない。
というか、できれば知らないままでいたい。
「……まあ、あとは任せよう」
『ポリ』
「俺には俺の問題があるし」
机の上に置かれたモンスターボールを見る。
バンギラス。
レベル58。
山を崩す怪獣。
そして、俺の言うことを全く聞かないポケモン。
「……政府も大変だろうけどさ」
俺はボールを持ち上げた。
「こっちも結構大変なんだよなあ」
『ポリポリ』
「……笑うなって」
日本政府が世界の未来について議論している頃。
その未来を知っているらしい男は。
今日も、バンギラスの餌について真剣に悩んでいた。