関西の、とある商店街。
「おっちゃん! トマト三つちょうだい!」
「はいよ! 今日はよう熟れとるで!」
「ほな、それにするわ!」
朝九時。
アーケードの中ほどにある八百屋では、今日も威勢のいい声が響いていた。
店の名前は『青果の山田』。
店先には段ボール箱がいくつも並び、トマトやキュウリ、ナスにピーマンと、夏野菜が所狭しと積まれている。
店主は五十代半ばの男だった。
声が大きい。
身体も大きい。
おまけに笑い声まで大きい。
商店街では昔から、山田のおっちゃんで通っていた。
「おっちゃん、キュウリもうちょい安ならん?」
「これ以上安うしたら、わしがキュウリ食って暮らさなあかんわ!」
「ええやん、健康になれるで!」
「わしを何やと思っとんねん!」
客が笑う。
店主も笑う。
そんな、いつも通りの朝だった。
ただし。
「……ん?」
店主は、ふと店の外へ目を向けた。
向かいの柱の陰。
そこに、小さな影があった。
茶色い身体。
白い腹。
長い尻尾。
そして、妙に背筋の伸びた立ち姿。
「……またおる」
店主は呟いた。
オタチだった。
五月一日。
関西を中心に、ジョウト地方と呼ばれる地域のポケモンが現れてから、もうすぐ三か月。
最初の頃は、見慣れない生き物がいるだけで大騒ぎになっていた。
今では、商店街でも何種類かのポケモンを見かける。
電線に止まるホーホー。
植え込みから顔を出すオタチ。
時折、アーケードの屋根を伝っていくエイパム。
もっとも、慣れたからといって、歓迎しているとは限らない。
野菜をかじられたり、商品をひっくり返されたりすれば、店としては困るのだ。
「……おい」
店主が声をかける。
オタチは、ぴんと背筋を伸ばした。
「タチ!」
「今日は何もやらんぞ」
「タチ?」
「野菜や。食べたらあかんで」
オタチは首を傾げた。
そして、店主の方をじっと見つめた。
「……分かっとるんか、分かってへんのか」
店主は腕を組んだ。
オタチは、そのまま立っている。
「……まあ、邪魔せんのやったらええけどな」
店主は店へ戻った。
オタチは、しばらくその背中を見ていた。
それから。
くるりと身体を回し、商店街の入口へ顔を向けた。
「タチ!」
まるで、何かを見張っているようだった。
◇ ◇ ◇
そもそもの始まりは、一週間ほど前だった。
その日の朝。
店主が開店準備をしていると、店先で妙な音がした。
ガサッ。
「……ん?」
振り返る。
段ボール箱の陰から、小さな尻尾が見えていた。
「……おいおい」
店主は箒を持った。
最近、商店街では野生のポケモンが店先へ入り込むことがある。
以前も、別の店で商品をかじられたという話を聞いたばかりだった。
「こら! 何しとんねん!」
「タチッ!?」
段ボール箱の陰から、オタチが飛び出した。
驚いたように目を見開き、尻尾を立てる。
「野菜食うたらあかんぞ!」
「タチ!」
オタチは、ぴょんと後ろへ跳んだ。
それから、少し離れた柱の陰へ走っていく。
「……まったく」
店主はため息をついた。
箱の中を確認する。
トマト。
キュウリ。
ナス。
どれも無事だった。
「……なんや、食うてへんのか」
少し拍子抜けした。
ふと、足元を見る。
段ボール箱の横に、丸められたレシートが落ちていた。
「……これか?」
オタチは、それを触っていたらしい。
「なんや、ゴミ漁りかいな」
店主はレシートを拾い、ゴミ箱へ捨てた。
柱の陰を見る。
オタチは、まだこちらを見ていた。
「……お前、ほんまに何しに来たんや」
「タチ?」
「聞いても分からんわな」
店主は苦笑した。
それが、最初だった。
翌日。
オタチは、また現れた。
今度は、店先の少し離れた場所に立っていた。
尻尾を地面へつけ、身体をまっすぐ伸ばしている。
「……また来たんか」
「タチ!」
「何や、元気やな」
店主はそれ以上気にせず、開店準備を続けた。
オタチは、しばらく立っていた。
それから、商店街の入口へ顔を向ける。
右。
左。
また右。
そして、尻尾を支えにして背筋を伸ばした。
「……何しとんねん、あいつ」
店主は首を傾げた。
その翌日も。
さらに、その翌日も。
オタチは、朝になると店の前へ現れた。
最初は、何か食べ物を狙っているのかと思った。
けれど、野菜へ近づくことはなかった。
ただ、立っている。
そして、時折鳴く。
「タチ!」
それだけだった。
◇ ◇ ◇
「おっちゃん、あの子、飼い始めたん?」
ある日の午前中。
常連の女性が、オタチを見ながら尋ねた。
「飼うてへんわ!」
「ええ? 毎日おるやん」
「勝手に来よるだけや」
「でも、よう懐いてるみたいやで」
「どこがやねん。近づいたら逃げるぞ」
店主はそう言って、オタチを見る。
オタチは、柱の陰からこちらを見ていた。
「……ほらな」
「ほんまや」
女性は笑った。
「でも、可愛いやん」
「可愛いだけで商売できたら苦労せんわ」
「そう言いながら、追い払わへんのやな」
「野菜食うてへんからな」
「ふうん」
女性は、にやにやしながらトマトを選び始めた。
「……何や、その顔」
「別に?」
「絶対何か思っとるやろ」
「何も思ってへんよ」
店主はため息をついた。
その時。
「タチ!」
オタチが鳴いた。
店主が顔を上げる。
「……ん?」
オタチは、商店街の入口を見ていた。
何かが来るのかと思ったが、特に変わった様子はない。
買い物客が歩いているだけだった。
「……何やねん」
店主は首を傾げた。
オタチは、もう一度鳴いた。
「タチ!」
「はいはい。分かった分かった」
「何が分かったん?」
常連客が聞く。
「分からん」
「分からんのかい!」
二人は笑った。
オタチは、何事もなかったように立っていた。
◇ ◇ ◇
数日後。
商店街の人たちの間で、ちょっとした話題になっていた。
「あの八百屋の前におるオタチ、知ってる?」
「知ってる知ってる。毎朝立っとるやつやろ」
「何してるんやろな」
「見張りちゃう?」
「何を?」
「さあ?」
そんな会話が、あちこちで交わされる。
向かいの惣菜屋の女将も、当然知っていた。
「山田のおっちゃん!」
「何や!」
「今日も見張り番おるで!」
「誰が見張り番やねん!」
「ほら、あそこ!」
女将が指差す。
オタチは、いつもの柱の陰で立っていた。
「タチ!」
「返事してるやん!」
「してへんわ!」
「いや、今したで!」
「偶然や!」
女将は大笑いした。
「ええやん、見張り番。店の看板になるで」
「野生やぞ。勝手に看板にしたらあかんやろ」
「それもそうやな」
女将は頷いた。
最近、商店街でも野生ポケモンとの距離感について、何度か話し合いがあった。
可愛いからといって、勝手に餌を与えない。
触ろうとしない。
店の中へ入ってきた場合は、無理に追い詰めず、必要なら関係機関へ相談する。
そういうことを、少しずつ決めている。
「まあ、今んとこ悪さしてへんしな」
「そうやな」
店主はオタチを見る。
オタチは、相変わらず立っていた。
「……見張り番、か」
小さく呟く。
何を見張っているのかは分からない。
けれど、確かに。
あの立ち姿は、見張り番に見えなくもなかった。
◇ ◇ ◇
変化があったのは、ある日の昼前だった。
商店街が、いつもより少し賑わっていた。
夏休みに入った子供たちが、親と一緒に買い物へ来ている。
惣菜屋からは揚げ物の匂い。
八百屋では、店主が大きな声を張り上げていた。
「はい! トマト安いでー!」
「おっちゃん、これいくら?」
「一袋二百円!」
「もうちょい安ならん?」
「これ以上安うしたら、トマトに怒られるわ!」
「誰にやねん!」
客が笑う。
店主も笑う。
その時だった。
「タチッ!」
オタチが、いつもより大きな声で鳴いた。
「……ん?」
店主が顔を上げる。
オタチは、商店街の奥を見ていた。
尻尾を立て、身体をまっすぐ伸ばしている。
「タチッ! タチッ!」
「何や、今日は騒がしいな」
店主は首を傾げた。
次の瞬間。
ガラガラガラッ!
「うわっ!?」
店の横から、大きな音がした。
積んでいた空の段ボール箱が崩れたのだ。
風が吹いた拍子に、上の箱がずれたらしい。
近くにいた客が驚いて後ずさる。
「危なっ!」
店主が慌てて駆け寄る。
幸い、誰にも当たっていなかった。
ただ、箱が通路へ散らばってしまった。
「すんません! 大丈夫ですか!?」
「大丈夫大丈夫!」
「びっくりしたわ!」
店主は頭を下げながら、箱を片づけ始めた。
その時。
「タチ!」
オタチが、また鳴いた。
「……ん?」
店主は振り返る。
オタチは、崩れた箱の方を見ていた。
そして、何度も鳴いている。
「タチ! タチ!」
「……お前、もしかして」
店主は、さっきのことを思い出した。
箱が崩れる少し前。
オタチは、いつもより大きな声で鳴いていた。
「……気づいとったんか?」
「タチ?」
オタチは首を傾げた。
もちろん、確かなことは分からない。
ただ、何かに反応していたのは間違いなかった。
「……そうか」
店主は小さく頷いた。
「ありがとな」
「タチ!」
オタチは、また背筋を伸ばした。
その姿を見て、店主は思わず笑った。
「……ほんまに見張り番みたいやな」
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
八百屋の店先では、店主が段ボール箱を片づけていた。
「……よし」
空箱を重ね、紐で縛る。
風で倒れないように、置き場所も変えた。
「これでええやろ」
店主は額の汗を拭った。
ふと、柱の陰を見る。
オタチは、まだいた。
「……お前、ほんまにようおるな」
「タチ!」
「暇なんか?」
「タチ?」
「……わしも人のこと言えんけどな」
店主は笑った。
その時。
「おーい、山田さん」
声がした。
時計屋の老人だった。
手には、小さな紙袋を持っている。
「おっちゃん、どうしたん?」
「惣菜屋の女将が、またコロッケ余らせた言うてな」
「またかいな」
「一個やるわ」
「ええんか?」
「二個も食えんからな」
老人は紙袋を差し出した。
店主は受け取る。
「ありがとな」
「おう」
時計屋の老人は、ふとオタチを見た。
「……あれか。噂の見張り番」
「誰が噂しとんねん」
「みんな言うとるで」
「ほんま、商店街は話が早いな」
老人は笑った。
オタチは、柱の陰から二人を見ている。
「ホーホーもそうやけど、最近変わった客が増えたなあ」
「そっちも毎日来るんやろ?」
「そうやねん。五時になると、きっちり来よる」
「時計屋らしい客やな」
「ほんまやで」
二人は笑った。
「……でもな」
店主が、オタチを見る。
「こいつ、今日ちょっと役に立ったんや」
「ほう?」
「段ボールが崩れる前に、何か気づいたみたいでな」
「へえ」
「まあ、偶然かもしれんけど」
老人は、しばらくオタチを眺めた。
それから、ゆっくり頷いた。
「……ええやないか」
「何が?」
「そういうのも」
老人は笑った。
「こっちが知らんだけで、あいつらも色々見とるんかもしれんな」
「……そうやな」
店主は頷いた。
オタチは、相変わらず柱の陰で立っている。
「タチ!」
「……ほら、また何か言うとる」
「はは。忙しい見張り番やな」
二人は笑った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
店主は、いつもより少し早く店へ来た。
シャッターを開ける。
店先を掃除する。
野菜を並べる。
いつもの開店準備だった。
「……ん?」
ふと、柱の陰を見る。
オタチがいない。
「……あれ?」
いつもなら、そろそろ来ている時間だった。
「今日は休みかいな」
店主は呟いた。
まあ、野生のポケモンだ。
毎日来るとは限らない。
そう思いながら、作業を続けた。
十分。
二十分。
三十分。
オタチは来なかった。
「……何や、静かやな」
店主は、何となく落ち着かなかった。
別に、待っているわけではない。
ただ、いつもそこにいるものがいないと、少し気になる。
それだけだ。
「……まあ、ええか」
店主は野菜を並べ直した。
その時。
「タチ!」
「……ん?」
聞き覚えのある声。
店主が振り返る。
柱の陰から、オタチが顔を出していた。
「……おお」
思わず声が出た。
「来たんか」
「タチ!」
「今日は遅かったな」
「タチ?」
「何してたんや」
「タチ!」
「……分からんわ」
店主は笑った。
オタチは、いつもの場所へ移動する。
そして、尻尾を地面へつけ、背筋を伸ばした。
右を見る。
左を見る。
また右。
「……はいはい」
店主は、野菜を並べながら呟いた。
「今日も頼むわ」
「タチ!」
オタチが元気よく鳴いた。
もちろん、本当に頼んだわけではない。
野生のポケモンだ。
勝手に店の見張り番へ任命するわけにもいかない。
それでも。
店主は、少しだけ笑っていた。
◇ ◇ ◇
数日後。
商店街の掲示板に、一枚の写真が貼られた。
八百屋の店先。
野菜が並ぶ、その少し離れた柱の陰。
そこに、背筋を伸ばして立つオタチが写っていた。
写真の下には、手書きの文字。
『青果の山田 今日も見張り番、出勤中』
貼ったのは、向かいの惣菜屋の女将だった。
「……おい!」
それを見た店主が、声を上げる。
「何やこれ!」
「ええやろ?」
「勝手に貼るなや!」
「可愛いやん」
「そういう問題ちゃうわ!」
女将は笑った。
「ほら、みんな見てるで」
確かに、掲示板の前では何人かが足を止めていた。
「ほんまや、あのオタチや」
「毎朝おるもんな」
「見張り番やって」
「可愛いなあ」
店主は、頭をかいた。
「……まったく」
それから、写真を見る。
オタチは、いつもの場所で背筋を伸ばしていた。
まるで、本当に店を見張っているようだった。
「……まあ」
店主は小さく呟いた。
「悪うはないか」
「何て?」
女将が聞き返す。
「何でもないわ!」
「照れんでもええやん!」
「照れてへん!」
女将は大笑いした。
店主は、ため息をついた。
けれど。
写真を剥がそうとはしなかった。
◇ ◇ ◇
午後五時。
商店街の中ほどで、古い柱時計が鳴った。
ボーン。
ボーン。
少し遅れて、鳥の声。
「ホー、ホー」
時計屋の看板には、今日もホーホーが止まっている。
向かいの惣菜屋では、女将が売れ残ったコロッケを数えていた。
文房具店の店主は、店先の掃除をしている。
そして、八百屋の前では。
「……ほな、そろそろ片づけるで」
店主が、野菜の箱を店内へ運び始めた。
「タチ!」
「おう」
オタチは、いつもの場所に立っている。
右を見る。
左を見る。
そして、商店街の入口へ顔を向ける。
「……ほんま、何見とるんやろな」
店主は呟いた。
答えはない。
ただ、オタチは立っている。
それが、最近のいつもの光景だった。
「……まあ、ええか」
店主は笑った。
「今日もご苦労さん」
「タチ!」
オタチが元気よく鳴いた。
それから、尻尾を地面へつけたまま、もう一度背筋を伸ばす。
店主は、その姿をしばらく眺めていた。
そして、シャッターを下ろす前に、もう一度だけ声をかけた。
「……また明日な」
「タチ!」
オタチは、まるで返事をするように鳴いた。
商店街の夕方は、今日もゆっくりと過ぎていく。
時計屋のホーホー。
八百屋のオタチ。
どちらも、誰かに飼われているわけではない。
ただ、気に入った場所へ毎日やって来る、野生のポケモンたちだ。
それでも。
商店街の人たちは、少しずつその存在を覚え始めていた。
新しい客が来る。
新しい顔が増える。
そして、いつの間にか、それが当たり前になる。
五月にジョウト地方のポケモンが現れてから、もうすぐ三か月。
この商店街にも、少しずつ新しい日常が生まれていた。