関西の、とある商店街。
「……誰や」
朝八時。
まだ半分ほどしかシャッターが開いていないアーケードに、低い声が響いた。
「誰や、こんなことしたんは!」
声の主は、商店街の中ほどにある文房具店の店主だった。
店の名前は『中村文具店』。
ノートに鉛筆、消しゴム、色鉛筆。
奥には画用紙や習字道具、学校指定の連絡帳まで置いてある。
店主の中村は、六十歳を少し過ぎた男だった。
眉間に皺が寄っている。
口数も少ない。
おまけに、愛想笑いが苦手だった。
もっとも、商店街の人間は知っている。
この男が、見た目ほど怖くないことを。
「朝から何騒いどんねん!」
向かいの惣菜屋から、女将が顔を出した。
「見てみい!」
中村が指差す。
店のシャッター。
その端に、緑色の線が一本引かれていた。
ぐにゃりと曲がり、途中で丸くなっている。
「……何これ」
「こっちが聞きたいわ!」
「落書き?」
「見たら分かるやろ!」
女将は腕を組んだ。
それから、少し首を傾げる。
「……何描いたんやろな」
「知らんわ!」
「ヘビ?」
「何でやねん!」
「ほな、キュウリ?」
「キュウリがこんな曲がり方するか!」
「山田のおっちゃんとこなら売ってるかもしれんで」
「売っとるか!」
そこへ。
「誰がキュウリ売っとるって?」
ちょうど八百屋の山田が通りかかった。
手には、仕入れた野菜の入った箱を抱えている。
「おう、山田。見てみい」
「何や?」
中村がシャッターを指差す。
山田は、しばらく眺めた。
「……ナス?」
「お前ら野菜から離れろや!」
朝の商店街に、笑い声が響いた。
ただし。
中村だけは、笑っていなかった。
「……ほんま、誰やねん」
シャッターに残された緑色の線。
それが、この商店街の小さな騒動の始まりだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
「……増えとる」
中村は、シャッターの前で立ち尽くしていた。
昨日は一本だった緑色の線が、今日は三本になっている。
しかも、場所が違う。
昨日は店の右端。
今日は左下。
さらに、隣の空き店舗のシャッターにも、似たような線が描かれていた。
「……何やねん、これ」
中村はため息をついた。
悪質ないたずらだろうか。
それとも、最近話題になっているポケモンの仕業か。
五月にジョウト地方のポケモンが関西を中心に現れてから、もうすぐ三か月。
商店街でも、見慣れない生き物が増えていた。
時計屋には、午後五時になるとホーホーがやって来る。
八百屋の前では、毎朝オタチが背筋を伸ばしている。
どちらも野生のポケモンだ。
商店街の人たちは、近づきすぎないようにしながら、少しずつその存在に慣れ始めていた。
もっとも。
「……落書きはあかんやろ」
中村は、もう一度シャッターを見る。
緑色の線。
少しだけ、光沢がある。
触ろうとして、手を止めた。
何の液体か分からない。
下手に触って、かぶれたりしては困る。
「……とりあえず写真撮っとこ」
中村はスマートフォンを取り出した。
それから、商店街の会長へ連絡を入れた。
◇ ◇ ◇
「……ドーブル?」
その日の昼。
中村文具店には、何人かの商店街の店主が集まっていた。
八百屋の山田。
惣菜屋の女将。
そして、時計屋の老人。
「そう。ドーブルいうポケモンらしいわ」
山田がスマートフォンの画面を見せる。
そこには、茶色と白の身体をしたポケモンが映っていた。
頭にはベレー帽のような模様。
長い尻尾。
その先端は、まるで絵筆のようになっている。
「尻尾の先から出る液体で、印を描くらしいで」
「……ほんまかいな」
中村は画面を覗き込んだ。
ドーブル。
えかきポケモン。
ジョウト地方のポケモンの一種だという。
資料には、尻尾を筆のように使い、縄張りに印を描く習性があると書かれていた。
「ほな、落書き犯はこいつか?」
「まだ分からんけどな」
山田が答える。
「でも、緑色の線いうのが、それっぽいやろ」
「……なるほどな」
中村は腕を組んだ。
その横で、惣菜屋の女将が画面を覗き込む。
「……あら、可愛いやん」
「可愛いで済むか!」
「いや、可愛いもんは可愛いやろ」
「人の店に落書きしとるんやぞ!」
「そら、あかんな」
女将はあっさり頷いた。
「でも、ほんまにこの子なん?」
「せやから、まだ分からん言うとるやろ」
山田が言う。
時計屋の老人は、しばらく黙って画面を眺めていた。
「……絵ぇ描くポケモンか」
「そうらしいわ」
「変わったもんやなあ」
老人は小さく笑った。
「うちのホーホーは時計の音聞きに来よるし、山田んとこのオタチは毎朝立っとるし」
「わしんとこのちゃうわ!」
「ほな、中村んとこは落書きするやつか」
「いらんわ、そんな客!」
女将が吹き出した。
山田も笑った。
中村は、深いため息をついた。
「……笑いごとちゃうねんけどなあ」
その時。
店の入口から、小さな声がした。
「あのー」
見ると、小学生くらいの女の子が立っていた。
手には、夏休みの宿題らしい画用紙を持っている。
「色鉛筆、ありますか?」
「ああ、あるで」
中村はすぐに表情を戻した。
「何色がいるんや?」
「緑色です」
その場にいた大人たちが、一斉に中村を見た。
「……何や」
女将が口元を押さえる。
「いや、何でも」
山田は顔を背けた。
肩が震えている。
「……お前らなあ」
中村は、こめかみを押さえた。
女の子だけが、不思議そうに首を傾げていた。
◇ ◇ ◇
犯人が分かったのは、その翌朝だった。
午前六時半。
商店街は、まだ静かだった。
中村は、いつもより早く店へ来ていた。
別に、張り込んでいたわけではない。
そう自分に言い聞かせていた。
ただ、これ以上シャッターに落書きされては困る。
だから、少し早く来ただけだ。
「……まったく」
中村は、店の角からシャッターを覗いた。
昨日と同じ緑色の線。
その前に。
「……おった」
一匹のポケモンがいた。
茶色と白の身体。
長い尻尾。
その先端には、緑色の液体が付いている。
ドーブルだった。
「……ほんまにおったんか」
中村は小さく呟いた。
ドーブルは、シャッターの前に立っていた。
そして。
すっ。
尻尾を動かす。
シャッターに、緑色の線が引かれた。
すっ。
もう一本。
さらに、丸を一つ。
「……おい」
中村が声をかけた。
ドーブルの動きが止まる。
「ド?」
「何しとんねん」
「ドーブル?」
「人んとこのシャッターに、勝手に描いたらあかんやろ」
ドーブルは首を傾げた。
中村は、ゆっくりと距離を取ったまま話しかける。
「ここ、店やねん。分かるか?」
「ド?」
「……分からんわな」
中村はため息をついた。
ドーブルは、しばらく中村を見つめていた。
それから。
くるりと身体を回し、もう一度シャッターへ向かった。
「……おいおい!」
中村が慌てて声を上げる。
「まだ描くんか!」
「ドーブル!」
ドーブルは、尻尾を上げた。
「待て待て待て!」
中村は思わず前へ出かけたが、すぐに足を止めた。
野生のポケモンだ。
刺激して、何をされるか分からない。
それに、尻尾の液体が安全かどうかも分からない。
「……あかん。落ち着け、わし」
中村は深呼吸した。
ドーブルは、そんな中村を見ていた。
そして、何を思ったのか。
シャッターへ一本、長い線を引いた。
「……ああああ!」
中村の声が、朝の商店街に響いた。
◇ ◇ ◇
「朝から元気やなあ!」
八百屋の山田が、大笑いしながらやって来た。
「笑いごとちゃうわ!」
「いや、聞こえたで。ああああ! って」
「真似すな!」
中村は、シャッターを指差した。
「見てみい!」
山田は、描かれた線を見る。
昨日より、さらに増えている。
「……おお」
「おお、ちゃうわ!」
「立派になったなあ」
「何がや!」
「作品が」
「作品言うな!」
そこへ、惣菜屋の女将も現れた。
「何や何や、朝から漫才か?」
「漫才ちゃう!」
「ほな、落語?」
「どっちでもないわ!」
女将はシャッターを見た。
それから、少し真面目な顔になる。
「……あら、ほんまに増えとる」
「せやろ!」
「犯人見たん?」
「見たわ。ドーブルや」
「へえ」
女将は、商店街の奥を見た。
ドーブルは、もういなかった。
「……逃げたんか」
「そら、あんだけ叫んだら逃げるやろ」
山田が言う。
「誰のせいやと思っとんねん!」
「ドーブルやろ」
「正論で返すな!」
女将が吹き出した。
中村は、もう一度シャッターを見る。
緑色の線。
丸。
曲がった線。
何を描いているのか、さっぱり分からない。
「……ほんま、困ったやっちゃ」
中村は呟いた。
その声には、怒りだけではない、少しばかりの呆れが混じっていた。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
商店街の会長と、自治体の担当窓口へ相談した結果、まずは様子を見ることになった。
ドーブルが人を襲ったという報告はない。
ただし、店の設備へ勝手に印を描くのは困る。
今後も続くようなら、対応を考える必要がある。
中村は、シャッターの前で腕を組んでいた。
「……消えるんか、これ」
緑色の線。
水を含ませた布で軽く拭いてみたが、簡単には落ちなかった。
無理に擦って塗装を傷めても困る。
「……専門の人に聞くか」
中村はため息をついた。
その時。
「おっちゃん」
声がした。
昨日、緑色の色鉛筆を買いに来た女の子だった。
「何や?」
「これ、ドーブルが描いたん?」
「……そうや」
「すごいなあ」
「すごないわ。困っとるんや」
女の子は、しばらくシャッターを見ていた。
「……でも、何描いたんやろ」
「知らん」
「絵、好きなんかな」
「そら、好きなんちゃうか」
「おっちゃんも絵、好き?」
中村は、少しだけ言葉に詰まった。
「……何や、急に」
「文房具屋さんやから」
「文房具屋が全員、絵好きなわけちゃうで」
「そうなん?」
「そうや」
中村は腕を組んだ。
それから、少し考える。
「……まあ、嫌いやないけどな」
「ふうん」
女の子は頷いた。
そして、持っていた画用紙を見せる。
「夏休みの宿題、商店街の絵にしようと思ってんねん」
「ほう」
「でも、何描いたらええか分からへん」
「……商店街やろ?」
「うん」
「ほな、好きなとこ描いたらええやん」
「好きなとこ?」
「八百屋でも、時計屋でも、惣菜屋でも」
中村は、商店街を指差した。
「毎日見とる景色でええねん」
女の子は、しばらく考えた。
「……そっか」
「そうや」
「ほな、おっちゃんの店描いてもええ?」
「……わしんとこ?」
「うん」
中村は、少し驚いた。
それから、苦笑した。
「……まあ、好きにしたらええ」
「やった!」
女の子は嬉しそうに笑った。
そして、シャッターを見上げる。
「ドーブルの絵も描こ」
「……それは、まあ」
中村は、緑色の線を見る。
「……描くんは自由やからな」
女の子は、にっこり笑った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
中村は、店の前に一枚の大きな紙を置いた。
厚手の模造紙だった。
四隅を板で押さえ、風で飛ばないようにしてある。
「……これでどうや」
中村は呟いた。
もちろん、ドーブルが紙へ描くとは限らない。
そもそも、また来るかどうかも分からない。
ただ、シャッターに描かれるよりはマシだった。
それに。
「……紙に描くんやったら、まあ」
中村は腕を組んだ。
「……文房具屋としては、悪ないわな」
その時。
「何してんねん?」
八百屋の山田がやって来た。
「……見たら分かるやろ」
「分からんから聞いとんねん」
「紙や」
「それは分かるわ!」
山田は、地面の模造紙を見る。
「……ドーブル用か?」
「まあな」
「へえ」
山田は、にやにやした。
「何や、その顔」
「いや、優しいなあ思て」
「優しないわ!」
「ほな、何やねん」
「シャッターに描かれたら困るからや!」
「はいはい」
山田は笑った。
「……ほんま、お前らは」
中村はため息をついた。
その時だった。
「ドーブル?」
聞き覚えのある声。
二人が振り返る。
商店街の柱の陰から、ドーブルが顔を出していた。
「……来た」
中村は小さく呟いた。
ドーブルは、模造紙を見ている。
それから、シャッターを見る。
もう一度、模造紙を見る。
「……おい」
中村が声をかけた。
「描くんやったら、こっちにしとき」
模造紙を指差す。
ドーブルは首を傾げた。
「ド?」
「こっちや。紙」
中村は、少し離れた場所から指差した。
ドーブルは、ゆっくりと近づいてきた。
そして。
模造紙の前で止まる。
「……おお」
山田が声を漏らした。
ドーブルは、尻尾を上げた。
すっ。
紙の上に、緑色の線が引かれる。
「……描いた」
中村が呟いた。
もう一本。
さらに、丸を一つ。
ドーブルは、夢中になって描き始めた。
「……おお」
山田が感心したように頷く。
「ちゃんと紙に描いとるやん」
「……せやな」
中村も頷いた。
しばらく、二人は黙って見ていた。
やがて。
「……なあ」
山田が言った。
「何描いとるんやろな」
「……知らん」
「芸術やなあ」
「……分からんわ」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
◇ ◇ ◇
その日の昼。
中村文具店の前には、何人かの子供たちが集まっていた。
「うわー!」
「ドーブルや!」
「ほんまに絵描いてる!」
子供たちは、少し離れた場所から模造紙を眺めている。
ドーブルは、もういなかった。
紙の上には、緑色の線が何本も残されている。
「……何これ」
「分からん」
「でも、すごい!」
「どこがやねん」
中村が思わず突っ込む。
子供たちは笑った。
「おっちゃん、これ飾るん?」
「……どうしよかな」
「飾ろうや!」
「何でや」
「せっかく描いたんやし!」
中村は、模造紙を見る。
緑色の線。
丸。
曲がった線。
やっぱり、何を描いているのか分からない。
それでも。
「……まあ、捨てるんもなあ」
中村は呟いた。
その時。
「おっちゃん!」
昨日の女の子が、画用紙を持ってやって来た。
「見て!」
「何や?」
女の子は、画用紙を広げた。
そこには、商店街の絵が描かれていた。
八百屋。
惣菜屋。
時計屋。
文房具店。
そして。
文房具店の前には、緑色の線を描くドーブル。
八百屋の前には、背筋を伸ばしたオタチ。
時計屋の看板には、丸いホーホーが止まっていた。
「……おお」
中村は、思わず声を漏らした。
「よう描けとるやん」
「ほんま?」
「ほんまや」
女の子は嬉しそうに笑った。
「おっちゃんの店、ちゃんと描いたで!」
「……せやな」
中村は、画用紙を眺めた。
そこには、いつもの商店街があった。
見慣れた店。
見慣れた人。
そして、最近増えた、小さな住人たち。
「……ええ絵やな」
中村は、素直にそう言った。
女の子は、少し照れたように笑った。
◇ ◇ ◇
数日後。
商店街の掲示板に、新しい案内が貼られた。
『夏休み 商店街お絵描き会』
参加費無料。
小学生以下。
画用紙と色鉛筆は、中村文具店が用意する。
テーマは『わたしの好きな商店街』。
「……何でこうなったんや」
中村は、掲示板の前で腕を組んでいた。
隣では、惣菜屋の女将が笑っている。
「ええやん、楽しそうで」
「誰が言い出したんや」
「子供らやろ」
「誰が紙用意するんや」
「おっちゃんやろ」
「誰が色鉛筆用意するんや」
「おっちゃんやろ」
「誰が片づけするんや!」
「みんなでやるに決まってるやん」
女将は、あっさり答えた。
「……ほんまか?」
「ほんまほんま」
その横から、八百屋の山田が顔を出す。
「わしも手伝うで」
「……お前が?」
「何や、その顔」
「いや、意外やな思て」
「失礼なやっちゃな!」
山田は笑った。
「子供らに野菜の絵でも描いてもらおかな」
「……お前、商売する気やろ」
「当たり前や!」
「隠せや!」
女将が大笑いした。
そこへ、時計屋の老人もやって来た。
「何や、賑やかやな」
「おっちゃんも手伝う?」
女将が聞く。
「わし?」
「そう。子供らの絵、見てあげて」
「絵のことは分からんで」
「ええねん。褒めたったら」
「……それなら、まあ」
老人は笑った。
「午後五時までならな」
「何で五時までなん?」
山田が聞く。
老人は、少しだけ笑った。
「休憩の時間やからな」
女将が、にやりとした。
「……ああ、あの子が来る時間やな」
「……まあな」
老人は、少し照れたように笑った。
中村は、その様子を見ていた。
そして、ふと呟いた。
「……ほんま、変わったなあ」
「何が?」
女将が聞く。
「この商店街や」
中村は、アーケードを見渡した。
昔からある店。
変わらない看板。
少しずつ増えた空き店舗。
そして、最近見かけるようになったポケモンたち。
「……賑やかになったな」
中村は、そう言って笑った。
◇ ◇ ◇
お絵描き会の当日。
商店街の一角には、長机が並べられていた。
画用紙。
色鉛筆。
クレヨン。
水彩絵の具。
子供たちが、それぞれ好きなものを使って絵を描いている。
「おっちゃん、赤ない!」
「そこにあるやろ!」
「これピンクや!」
「……ほんまやな」
「おっちゃん、青ちょうだい!」
「はいはい」
「おっちゃん、消しゴム!」
「ちょっと待て!」
中村は、朝から大忙しだった。
普段は静かな文房具店が、今日は子供たちの声でいっぱいになっている。
「……何やねん、これ」
中村は、額の汗を拭った。
その時。
「おーい、中村!」
八百屋の山田が、大きな箱を抱えてやって来た。
「差し入れや!」
「何や?」
「冷やしたキュウリ!」
「……お前なあ」
「夏やからな!」
「子供ら、喜ぶか?」
「喜ぶやろ!」
山田は自信満々だった。
その横から、惣菜屋の女将が現れる。
「ほな、うちはコロッケ持ってきたで!」
「またかいな!」
中村が叫ぶ。
女将は笑った。
「今日はちゃんと人数分あるで!」
「……売りもんちゃうんか?」
「今日は差し入れや!」
「……まあ、ありがたいけどな」
中村は苦笑した。
時計屋の老人は、少し離れた椅子に座っていた。
子供たちが描いた絵を、一枚ずつ眺めている。
「……おお、よう描けとるなあ」
「ほんま?」
「ほんまや」
「これ、ホーホー!」
「おお、似とる似とる」
「こっちはオタチ!」
「ちゃんと立っとるなあ」
老人は、楽しそうに笑っていた。
その様子を見て、中村も少しだけ笑った。
「……まあ、悪ないか」
そう呟いた時だった。
「ドーブル?」
聞き覚えのある声。
中村が振り返る。
商店街の柱の陰から、ドーブルが顔を出していた。
「……来たか」
中村は、少しだけ目を細めた。
ドーブルは、長机の方を見ている。
子供たちが絵を描いている。
色鉛筆。
クレヨン。
絵の具。
そして、たくさんの画用紙。
「……気になるんか」
「ド?」
中村は、少し考えた。
野生のポケモンだ。
子供たちへ近づけるわけにはいかない。
それに、尻尾の液体がどんなものか、まだ分からない。
「……お前は、こっちな」
中村は、少し離れた場所に模造紙を広げた。
子供たちの席とは距離を取り、通路も塞がない場所。
四隅を板で押さえる。
「描くんやったら、ここにしとき」
ドーブルは、模造紙を見た。
それから、子供たちを見る。
もう一度、模造紙を見る。
「ドーブル」
ゆっくりと近づいてくる。
そして。
尻尾を上げた。
すっ。
緑色の線が引かれる。
「……おお」
中村が呟く。
ドーブルは、夢中になって描き始めた。
丸。
線。
曲がった線。
そして、また丸。
何を描いているのかは分からない。
けれど。
「……楽しそうやな」
中村は、そう呟いた。
その声は、少しだけ優しかった。
◇ ◇ ◇
午後四時半。
お絵描き会は、無事に終わった。
子供たちは、それぞれ描いた絵を持って帰っていく。
「おっちゃん、ありがとう!」
「おう、気ぃつけて帰りや」
「またやってな!」
「……考えとくわ」
「絶対やで!」
「分かった分かった」
中村は、笑いながら手を振った。
長机を片づける。
色鉛筆を箱へ戻す。
画用紙の切れ端を集める。
その時。
「……ん?」
中村は、足元の模造紙に目を向けた。
ドーブルが描いた絵。
緑色の線が、何本も重なっている。
丸。
曲がった線。
細長い線。
最初に見た時は、ただの落書きにしか見えなかった。
けれど。
「……あれ?」
中村は、少しだけ首を傾げた。
模造紙を、反対側から見る。
すると。
「……これ」
何となく、形が見えてきた。
丸いもの。
細長いもの。
大きな四角。
そして、小さな線がいくつも並んでいる。
「……まさか」
中村は、商店街を見渡した。
八百屋の野菜。
惣菜屋の看板。
時計屋の柱時計。
文房具店のシャッター。
そして。
子供たちが、絵を描いていた長机。
「……これ、商店街か?」
中村は、もう一度模造紙を見る。
もちろん、確かなことは分からない。
ドーブルが何を描こうとしていたのか。
人間のように風景を描いたつもりなのか。
それとも、ただ気の向くままに尻尾を動かしただけなのか。
分からない。
それでも。
「……よう見とるんやなあ」
中村は、小さく呟いた。
ドーブルは、もういなかった。
いつの間にか、どこかへ行ってしまったらしい。
中村は、模造紙をそっと持ち上げた。
そして、店の奥へ運んだ。
◇ ◇ ◇
午後五時。
ボーン。
ボーン。
商店街の中ほどで、古い柱時計が鳴った。
少し遅れて。
「ホー、ホー」
時計屋の看板に、いつものホーホーが止まっている。
八百屋の前では、オタチが背筋を伸ばしていた。
「タチ!」
「おう、今日もご苦労さん」
山田が笑う。
惣菜屋の女将は、店先で売れ残ったコロッケを数えていた。
「……あかん、今日も二個余った」
「またかいな!」
山田が叫ぶ。
「余らせすぎやろ!」
「今日はお絵描き会で忙しかったんや!」
「それとコロッケの数、関係あるんか!」
「あるに決まってるやん!」
いつものやり取り。
いつもの笑い声。
その少し離れたところで、中村は店の入口に立っていた。
手には、ドーブルが描いた模造紙。
「……何や、中村」
山田が声をかける。
「それ、どうするん?」
「……飾ろかな思て」
「へえ」
山田は、にやりとした。
「何や、その顔」
「いや、芸術が分かるようになったんやな思て」
「……分からんわ」
「分からんのかい!」
女将が大笑いした。
中村も、少しだけ笑った。
「……でもな」
中村は、模造紙を見る。
「何描いとるか分からんでも、ええもんはええんちゃうか」
山田は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「……せやな」
時計屋の老人も、店の入口から顔を出した。
「何や、ええ話しとるやないか」
「おっちゃん、休憩は?」
女将が聞く。
「今からや」
「ホーホー待っとるで!」
「分かっとるよ」
老人は笑った。
そして、看板の上を見上げた。
「……ほな、また明日な」
「ホー」
ホーホーが鳴いた。
八百屋の前では、オタチが背筋を伸ばす。
「タチ!」
文房具店の前では、中村が模造紙を眺めていた。
そして、ふと呟いた。
「……また来るんかな」
誰に聞かせるでもない言葉だった。
けれど。
その声には、少しだけ期待が混じっていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
中村文具店のシャッターが開いた。
店主は、いつも通り店先を掃除する。
それから、入口の横へ一枚の模造紙を飾った。
緑色の線。
丸。
曲がった線。
何を描いているのか、やっぱりよく分からない。
けれど。
その下には、小さな紙が貼られていた。
『作者 ドーブル(たぶん)』
それを見た八百屋の山田が、吹き出した。
「……たぶん、て!」
「何や!」
「作者くらい確定させたれや!」
「本人に聞けるか!」
「そらそうや!」
二人は笑った。
その時。
「ドーブル?」
商店街の柱の陰から、聞き覚えのある声がした。
中村が振り返る。
そこには、いつものドーブルがいた。
「……おう」
中村は、小さく笑った。
「今日も来たんか」
「ドーブル」
「……ほな」
中村は、店の奥から新しい模造紙を取り出した。
そして、いつもの場所へ広げる。
「……今日は何描くんや?」
ドーブルは、尻尾を上げた。
すっ。
緑色の線が、一本引かれる。
中村は、それを眺めた。
「……うん」
しばらくして、頷く。
「……分からん」
山田が吹き出した。
「分からんのかい!」
「分からんもんは分からんわ!」
朝の商店街に、笑い声が響いた。
五月にジョウト地方のポケモンが現れてから、もうすぐ三か月。
時計屋には、午後五時になるとホーホーがやって来る。
八百屋の前では、毎朝オタチが立っている。
そして、文房具店の前には。
絵を描くことが好きな、少し変わったお客さんが増えた。
誰かに飼われているわけではない。
店の看板ポケモンになったわけでもない。
ただ、気に入った場所へやって来る、野生のポケモンたちだ。
それでも。
商店街の人たちは、少しずつその存在を覚え始めていた。
新しい客が来る。
新しい顔が増える。
そして、いつの間にか、それが当たり前になる。
今日も、商店街は賑やかだった。