七月。
関東地方のとある山間部。
四月に発生した大規模な斜面崩落事故から、三か月あまりが経過していた。
かつて土砂に埋もれていた道路には、今、工事車両が並んでいる。
仮設のガードレール。
土嚢。
斜面を覆うブルーシート。
そして、山肌に設置された落石防護柵。
事故当時の光景と比べれば、随分と様子が変わっていた。
ただし、復旧が終わったわけではない。
「……よし。今日も始めるぞ」
現場代理人の男が、ヘルメットの顎紐を締めた。
朝の七時半。
今日も一日が始まる。
◆
「昨日の雨、どうだった?」
「計測値は基準以下です。ただ、上の方に水が残ってるみたいですね」
「なら午前中は斜面の確認を優先しよう」
「了解です」
現場事務所の中では、朝の打ち合わせが行われていた。
机の上には、現場の平面図と工程表が広げられている。
赤い線で囲まれた範囲が、現在の施工区域だ。
事故が起きたのは四月。
当初は、山から崩れ落ちた大量の土砂によって道路が完全に塞がれていた。
救助活動が終わった後も、すぐに復旧工事へ移れたわけではない。
崩れ残った岩。
不安定な斜面。
地下水の流れ。
そして、事故の原因となったポケモンたち。
確認しなければならないことが多すぎた。
「そういや、上のイワークは?」
「最近は目撃されてません」
「サイホーンの方は?」
「少し離れた山で目撃情報があります。ただ、こっちには来てません」
「……そうか」
現場代理人は頷いた。
以前なら、工事現場で警戒するものといえば、落石や土砂、重機との接触事故が中心だった。
今は違う。
山の中に、どんなポケモンがいるのか。
それも確認しなければならない。
もっとも、現場の人間が全員ポケモンに詳しいわけではない。
政府が公開した資料を確認し、必要に応じて関係機関へ相談しているだけだ。
「今日も上の監視員は二人で頼む」
「了解」
「あと、何か見つけても近づくなよ」
「分かってます」
現場代理人が工程表を閉じた。
「じゃあ、今日もご安全に」
「ご安全に!」
◆
午前九時。
道路脇では、重機による土砂の積み込みが行われていた。
油圧ショベルが土砂をすくい、ダンプカーの荷台へ落とす。
少し離れた場所では、作業員たちが排水路の整備を進めている。
「こっち、もう少し掘れるか?」
「確認します!」
現場は順調だった。
少なくとも、今のところは。
「……ん?」
一人の作業員が顔を上げた。
山の方から、何か音が聞こえた。
ガラッ。
ガラガラッ。
「おい、上!」
周囲の作業員が一斉に振り向く。
斜面の上から、小石が転がってきた。
「作業止めろ!」
すぐに重機が停止する。
作業員たちは斜面から離れ、安全な場所へ移動した。
幸い、大きな崩落にはならなかった。
転がってきたのは、拳ほどの石が数個だけだ。
「……びっくりした」
「まだ落ちてくるかもしれんぞ」
「上、確認してもらいます」
現場代理人は無線を手に取った。
こういう時、無理に作業を続けてはいけない。
たとえ小さな落石でも、頭に当たれば大怪我になる。
ましてや、この現場は一度大きく崩れている。
慎重すぎるくらいでちょうどいい。
そして。
「……あれ?」
作業員の一人が、山の方を指差した。
「何だ?」
「あそこ」
斜面の少し上。
岩の陰から、小さな人影のようなものが顔を出していた。
灰色の身体。
筋肉質な腕。
そして、頭に三本の突起。
「……ワンリキー?」
作業員が呟いた。
すると、その影が動いた。
「リキッ!」
間違いない。
ワンリキーだった。
◆
「あいつら、まだいるんだな」
現場代理人が双眼鏡を覗いた。
斜面の上には、数匹のワンリキーがいた。
その少し後ろに、ゴーリキー。
さらに奥の岩場には、四本腕の大きな個体が座っている。
「カイリキーもいますね」
「ああ」
四月の事故。
あの時、救助活動へ加わったポケモンたちだ。
もちろん、同じ個体なのかどうかを確実に見分けられる人間はいない。
ただ、あの頃からこの一帯で暮らしている群れであることは、ほぼ間違いなかった。
「懐かしいですね」
若い作業員が言った。
「俺、あのニュース見ましたよ」
「そうか」
「カイリキーが岩持ち上げてたやつ」
「ああ」
「すごかったですよね」
「……そうだな」
現場代理人は短く答えた。
彼は事故当日、まだこの現場にはいなかった。
復旧工事の担当になったのは、救助活動が終わってからだ。
それでも、当時の映像は何度も見ている。
瓦礫を運ぶワンリキー。
大きな岩を持ち上げるゴーリキー。
そして、人間では動かせなかった岩塊を取り除くカイリキー。
あの映像が全国で話題になったことも知っていた。
「……あいつらがいなかったら、もっと大変だったんでしょうね」
「そうだろうな」
現場代理人は双眼鏡を下ろした。
「ただ、今はこっちへ来ないでくれると助かる」
「ですよね」
作業員が苦笑する。
救助活動と復旧工事は違う。
救助では、一刻も早く人を助けることが重要だった。
しかし、復旧工事では安全な手順を守らなければならない。
重機の動く場所に、野生のポケモンが入ってきては困る。
ましてや、相手は人間より遥かに力が強い。
善意で岩を動かされたとしても、思わぬ事故につながる可能性がある。
「……あ」
若い作業員が声を上げた。
「どうした?」
「一匹、降りてきます」
「……何?」
見ると、ワンリキーの一匹が斜面を下り始めていた。
「リキッ!」
「おいおい」
現場代理人は思わず額を押さえた。
「……まさか、また手伝うつもりか?」
◆
ワンリキーは斜面を下りてきた。
そして、道路脇に積まれた石の前で立ち止まった。
「リキ?」
首を傾げる。
少し離れた場所には、作業員たちがいた。
ワンリキーは彼らを見る。
それから、石を見る。
もう一度、作業員たちを見る。
「……」
「……」
作業員たちも見ていた。
ワンリキーはしゃがみ込んだ。
石へ手を伸ばす。
「待った!」
現場代理人が声を上げた。
「リキッ!?」
ワンリキーが驚いて振り向いた。
「それは動かさなくていい!」
「リキ?」
「そこに置いといてくれ!」
伝わっているのかは分からない。
ワンリキーは石と現場代理人を交互に見た。
「……リキ」
そして、手を引っ込めた。
「……ふう」
現場代理人が息を吐く。
作業員が小声で言った。
「言うこと聞きましたね」
「そうだな」
「結構賢いんですね」
「……まあな」
ワンリキーは、まだその場にいる。
どうやら、何かを手伝いたいらしい。
現場代理人は少し考えた。
それから、近くにいた作業員へ声をかける。
「悪い。あの辺の作業、いったん止めといて」
「了解です」
「関係機関にも連絡しよう。野生のポケモンが施工区域に入ってきたって」
「分かりました」
ワンリキーは、そんなやり取りを不思議そうに眺めていた。
「リキ?」
「……お前なぁ」
現場代理人は苦笑した。
「手伝ってくれるのはありがたいけど、今日は駄目なんだよ」
「リキ」
「危ないからな」
「……リキ?」
理解したのかどうか。
ワンリキーはしばらく現場を眺めていたが、やがて斜面の方へ戻っていった。
上では、ゴーリキーが待っていた。
ワンリキーが近づくと、ゴーリキーが何か鳴いた。
「ゴリキ」
「リキッ」
そして二匹は、岩場の奥へ消えていった。
「……帰りましたね」
「ああ」
若い作業員が少し残念そうに言った。
「せっかく手伝いに来てくれたのに」
「気持ちはありがたいけどな」
現場代理人はヘルメットを直した。
「事故を起こしたら元も子もない」
「……そうですね」
作業員が頷いた。
それから、少し笑った。
「でも、あいつら覚えてるんですかね」
「何を?」
「ここで人間が岩を運んでたこと」
「……さあな」
現場代理人は山を見上げた。
「覚えてるのかもしれんな」
◆
昼休み。
現場事務所のテレビでは、全国のポケモン関連ニュースが流れていた。
『北海道では、今月に入ってから新たなポケモンの目撃情報が相次いでいます』
「今度は北海道か」
「毎月どっかで増えてますね」
「そうだな」
作業員たちは弁当を食べながらテレビを見ていた。
画面には、道路を横切るビッパの映像が流れている。
「かわいいですね」
「そうか?」
「いや、普通にかわいくないですか?」
「……まあ、かわいいけど」
そんな会話をしていると、年配の作業員が口を開いた。
「そういや、ここのカイリキーってどうなったんだ?」
「さっき山にいましたよ」
「まだいるのか」
「いますね」
「……そうか」
年配の作業員は少し嬉しそうに頷いた。
「俺、あの時ここにいたんだよ」
「え?」
若い作業員が顔を上げる。
「救助の時ですか?」
「そう」
「マジですか」
「ああ。まだ道路も何も見えなくてな」
男は箸を置いた。
「とにかく土砂だらけだった」
当時のことを思い出しているらしい。
「重機を入れるにも、まず人が安全に入れる場所を作らなきゃならん。岩が邪魔で先へ進めないところもあった」
「……はい」
「そしたら、あいつらが来たんだよ」
男は少し笑った。
「最初はびっくりしたぞ。何が来たのかと思った」
「そりゃそうですよね」
「ワンリキーが石を拾ってな」
「はい」
「こっちが運んでるのを見て、同じように運び始めたんだ」
若い作業員は黙って聞いていた。
「で、ゴーリキーも来て」
「……」
「最後に、あのでっかいのが来た」
「カイリキーですね」
「そうそう」
年配の作業員は頷いた。
「四本腕のやつ」
そして、少し声を落とした。
「あいつが岩をどけた時は、本当に助かった」
テレビでは別のニュースが始まっていた。
しかし、作業員たちは誰もチャンネルを変えなかった。
「……人がいたんだよ」
男が続ける。
「岩の向こうに」
「……」
「それまで入れなかった場所に、救助隊が入れるようになった」
若い作業員が頷く。
「ニュースで見ました」
「ああ」
男は弁当へ視線を戻した。
「……あれは忘れられんな」
それ以上、詳しい話はしなかった。
若い作業員も、無理に聞こうとはしなかった。
しばらくして、誰かが言った。
「そういや、あいつらって何食うんですかね」
「知らん」
「肉とか?」
「木の実じゃないのか?」
「筋肉すごいから肉じゃないですか?」
「筋肉と肉食は関係ないだろ」
「……確かに」
いつもの昼休みに戻った。
◆
午後三時。
現場には再び重機の音が響いていた。
午前中の落石については、監視員が上部を確認し、作業範囲の安全が改めて確認された。
ワンリキーたちも、今は離れた岩場にいる。
工事は再開していた。
「……あとどれくらいですかね」
若い作業員が、現場代理人へ尋ねた。
「何が?」
「ここ、全部直るまで」
「ああ」
現場代理人は工程表を見た。
「まだしばらくかかるな」
「やっぱり?」
「今やってるのは、あくまで応急対策と本復旧の準備が中心だからな」
「……そうですよね」
「道路の土砂をどけるだけなら、もうかなり進んでる」
現場代理人は斜面を指差した。
「でも、問題はあっちだ」
崩れた山肌。
むき出しになった岩盤。
その上には、まだ不安定な部分が残っている。
「道路だけ直しても、また崩れたら意味がない」
「はい」
「水の流れも変わってるからな。排水をどうするかも考えないといけない」
「……大変ですね」
「まあな」
現場代理人は苦笑した。
「それに、ここは普通の土砂崩れじゃない」
「ポケモンですか」
「ああ」
イワーク。
サイホーン。
あの二種類が再び同じ場所で争えば、せっかく復旧した斜面がまた崩れるかもしれない。
かといって、山にいるポケモンを片っ端から捕まえるわけにもいかない。
そもそも、簡単に捕まえられる相手でもない。
「今後は、そういうことも考えなきゃならんだろうな」
「……なるほど」
「まあ、俺たちが全部決めることじゃないけど」
現場代理人は工程表を閉じた。
「とりあえず、目の前の仕事を終わらせる」
「はい」
「安全第一でな」
「了解です」
◆
午後五時。
作業終了。
重機のエンジンが止まり、現場が静かになった。
作業員たちは道具を片付け、最後の安全確認を行っている。
「今日も終わったな」
「お疲れさまでした」
「明日もよろしく」
「はい」
現場代理人は一人、少し離れた場所から山を見上げた。
四月の事故から三か月。
あの時、何も見えなかった道路は、今では形を取り戻しつつある。
もちろん、まだ通行できない場所も多い。
斜面の工事も残っている。
完全に元通りになるには、まだ時間が必要だ。
だが、確実に進んではいる。
「……ん?」
ふと、岩場の方で何かが動いた。
ワンリキーだった。
昼間に降りてきた個体だろうか。
少し離れた場所から、こちらを見ている。
「リキ」
その後ろにはゴーリキー。
さらに奥にはカイリキーもいた。
「……まだ見てたのか」
現場代理人は苦笑した。
ワンリキーは、作業が終わった道路を眺めていた。
そして。
「リキッ!」
片手を上げた。
「……」
現場代理人は少し迷った。
それから、同じように手を上げた。
「……お疲れさん」
ワンリキーが嬉しそうに鳴く。
「リキーッ!」
ゴーリキーがその肩へ手を置いた。
ワンリキーは振り返る。
「ゴリキ」
「リキ」
何かやり取りをした後、二匹は山の奥へ歩いていった。
カイリキーも立ち上がる。
四本の腕を軽く伸ばし、群れの後を追う。
やがて、その姿は木々の向こうへ消えていった。
「……」
現場代理人はしばらく、その方向を見ていた。
あのポケモンたちは、人間に飼われているわけではない。
誰かから命令を受けているわけでもない。
ここで働いているわけでもない。
ただ、山で暮らしている。
そして、たまたま人間が困っているところを見かけた。
だから手伝った。
きっと、それだけなのだろう。
「……不思議なもんだな」
現場代理人は小さく呟いた。
事故の原因となったのもポケモン。
人間を助けたのもポケモン。
どちらも、同じ山に暮らしている。
人間にとって都合のいい存在ばかりではない。
だが、都合の悪い存在ばかりでもない。
そんな当たり前のことを、今さらながら考えた。
「所長ー!」
遠くから声がした。
「そろそろ閉めますよー!」
「おう、今行く!」
現場代理人は振り返った。
今日の仕事は終わりだ。
明日も、また工事が続く。
◆
翌朝。
現場へ到着した若い作業員は、少し驚いた。
「……あれ?」
道路脇に積まれた石。
その少し離れた場所に、小さな石がいくつか並んでいた。
昨日まではなかったものだ。
「……誰か片付けました?」
近くにいた先輩が顔を上げる。
「何を?」
「これ」
「……ん?」
二人で石を見る。
大きさは、人間が片手で持てる程度。
それが、妙にきれいに並べられていた。
「……」
「……」
若い作業員が山を見上げた。
岩場の向こうから、小さな灰色の頭が覗いている。
「リキ?」
「……」
作業員は思わず笑ってしまった。
「……お前か?」
「リキッ!」
ワンリキーが元気よく返事をした。
先輩が頭をかく。
「……やっぱり手伝いたいんだな」
「みたいですね」
「でも、勝手に動かされると困るぞ」
「ですよね」
若い作業員は頷いた。
そして、少し考える。
「……あの」
「何だ?」
「昨日の話じゃないですけど」
「うん?」
「こいつら、何か安全にできることってないんですかね」
先輩が首を傾げる。
「安全に?」
「はい。もちろん勝手に作業させるんじゃなくて」
若い作業員はワンリキーを見た。
「せっかく、こんなに手伝いたがってるんですし」
先輩はしばらく考えた。
「……まあ、気持ちは分かるけどな」
「はい」
「野生だからな。事故が起きた時の責任もあるし、簡単には決められんぞ」
「……そうですよね」
「ただ」
先輩は少し笑った。
「相談くらいはしてみてもいいんじゃないか?」
「……!」
「役所とか、ポケモンの専門家とかにな」
若い作業員が頷いた。
「はい!」
その時。
「リキーッ!」
ワンリキーが、もう一度元気よく鳴いた。
何を話しているのかは、きっと分かっていない。
それでも、何となく嬉しそうだった。
◆
それから数日後。
現場事務所に、一枚の資料が届いた。
表題は、
『野生ポケモンの災害復旧現場への接近に関する対応について』
現場代理人は、それを読んでいた。
「……なるほど」
資料には、いくつかの注意事項が記されている。
野生個体を無断で施工区域へ立ち入らせないこと。
作業員の安全を最優先すること。
ポケモンの意思や行動を無理に制限しないこと。
そして、今後の協力の可能性については、専門機関と連携して慎重に検討すること。
「……まあ、そうなるよな」
現場代理人は頷いた。
当然の話だ。
相手は野生のポケモン。
人間の都合で勝手に働かせるわけにはいかない。
ただ、資料の最後には、こんな一文もあった。
『今回の事例は、野生ポケモンと人間の協力関係を検討するうえで、重要な参考事例となる可能性がある』
「……参考事例、ねえ」
現場代理人は窓の外を見た。
山の方では、今日もワンリキーたちが暮らしている。
工事はまだ終わらない。
道路の完全復旧までは、まだ何か月もかかるだろう。
それでも。
「……まあ、急がなくてもいいか」
そう呟いて、資料を机へ置いた。
人間とポケモン。
まだ、お互いに分からないことばかりだ。
だからこそ、少しずつでいい。
まずは、同じ場所で安全に暮らせること。
そこから始めればいいのだろう。
窓の外から、重機のエンジン音が聞こえてきた。
今日も復旧工事が始まる。
山の上では、ワンリキーがその様子を眺めていた。
「リキッ!」
小さな声が、朝の山に響いた。
人間たちは今日も働いている。
ワンリキーたちも、今日も山で暮らしている。
四月に崩れた山は、まだ元通りにはなっていない。
けれど。
あの日、同じ場所で瓦礫を運んだことは、確かに残っていた。
それがいつか、また別の形で役に立つ日が来るのかもしれない。
今はまだ、誰にも分からなかった。