「一緒に出勤できたらいいのに」
七月。
月曜日。
朝六時十二分。
「……いち、に、さん」
「リキッ!」
「……し、ご、ろく」
「リキッ!」
目の前でワンリキーがスクワットをしている。
俺は布団の中から、その様子を眺めていた。
「……ねえ」
「リキ?」
「何で毎朝そんなに元気なの?」
「リキッ!」
「そうだよね。元気だよね」
聞いた俺が悪かった。
時計を見る。
六時十三分。
アラームまであと二分。
「……もうちょっと寝かせて」
ワンリキーは頷いた。
そして、静かにスクワットを再開した。
音は立てていない。
立ててはいないんだけど。
「……気になって寝られないんだよなぁ」
結局、今日もアラームより先に起きることになった。
◆
ワンリキーと暮らし始めて、もう二か月ほどになる。
最初は登山から帰ってきた俺に勝手についてきただけだった。
それが今では、すっかり同居人だ。
いや、同居ポケモンか。
朝は俺より早く起きる。
ご飯はよく食べる。
買い物へ行けば荷物を持ちたがる。
テレビを見る時は、俺の隣に座る。
そして、冷蔵庫を勝手に開けようとする。
「……最後のは直してほしいんだけどね」
「リキ?」
「いや、何でもない」
ワンリキーは朝食のパンを食べていた。
俺はコーヒーを飲みながらスマートフォンを確認する。
天気予報。
ニュース。
電車の運行情報。
今日も特に問題はなさそうだ。
ありがたい。
最近はポケモンが原因で電車が遅れることも珍しくなくなってきた。
少し前には線路に大型のポケモンが入り込んだとかで、朝から大変なことになった。
ああいうのは勘弁してほしい。
「……さて」
時計を見る。
七時二十分。
そろそろ出勤しなければならない。
「じゃあ、今日も留守番よろしくね」
「リキ」
ワンリキーが椅子から降りる。
そして、当然のように玄関へ向かった。
「……いや、だから」
「リキ?」
「今日は仕事だって」
「リキ」
「会社には連れていけないの」
もう何度も繰り返した会話だった。
ワンリキーは俺を見上げる。
それから、玄関のドアを見る。
もう一度、俺を見る。
「……」
「……」
何だろう。
最近、この時間がちょっとつらい。
ワンリキーは別に暴れたりしない。
留守番が嫌だと駄々をこねるわけでもない。
ただ、俺が出かける時には一緒に行きたがる。
それだけだ。
「……夕方には帰るから」
「リキ」
「ご飯も置いてあるし」
「リキ」
「テレビのリモコンはここね」
「リキ」
ちゃんと分かっているのかどうかは怪しい。
ただ、以前より留守番には慣れたようだった。
俺が靴を履くと、ワンリキーは玄関の脇へ座った。
「……」
何となく、しゃがみ込む。
「……ごめんね」
「リキ?」
「いや、何でもない」
頭を軽く撫でる。
「行ってきます」
「リキー」
ドアを閉めた。
鍵をかける。
そして、エレベーターへ向かう。
「……」
別に、犬や猫を飼っている人だって仕事へ行く。
一人暮らしでペットを飼っている人なんて珍しくない。
だから、これが特別おかしいわけではない。
ただ。
「……あいつ、ずっと何してるんだろうな」
朝七時半から、夜七時くらいまで。
俺が残業すれば、もっと長い。
その間、ワンリキーは一人だ。
テレビを見ているのか。
筋トレしているのか。
寝ているのか。
冷蔵庫を開けようとしているのか。
「……最後のはやめてほしいなぁ」
そんなことを考えながら、駅へ向かった。
◆
「おはようございます」
「おはよう」
午前八時四十分。
会社へ到着。
パソコンを立ち上げ、メールを確認する。
未読が二十三件。
「……月曜日だなぁ」
朝から現実を突きつけられた。
そのうち五件は、金曜日の夕方に届いたものだった。
どうして金曜日の定時直前に送ってくるんだろう。
月曜日の俺が困るじゃないか。
いや、送った人も月曜日の俺が読むことを想定しているんだろうけど。
「おはよー」
隣の席の同僚が出勤してきた。
「おはようございます」
「眠そうだね」
「いつも通りです」
「それはそれでどうなの」
同僚は笑いながら席へ座った。
しばらく仕事をしていると、ふと思い出したように話しかけてきた。
「そういえばさ」
「はい?」
「ワンリキー、まだいるの?」
「ああ、いますよ」
「へえ。もう結構長いよね」
「そうですね」
「すっかり飼い主じゃん」
「……飼い主なのかなぁ」
自分でもよく分からない。
行政への登録は済ませている。
食事も用意している。
病気や怪我をしたら、当然病院を探すつもりだ。
でも、あいつを捕まえたわけじゃない。
首輪もつけていない。
外へ行きたがれば、休日には一緒に出かける。
それだけだ。
「何? まだボールに入れてないの?」
「はい」
「そうなんだ」
「そもそも持ってないですし」
「モンスターボール?」
「そうです」
同僚が少し考えた。
「……買えないの?」
「どうなんでしょう」
「最近ニュースで見ない?」
「警察とか消防に配備されたって話なら」
「ああ、そうそう」
同僚は頷いた。
「でも、一般販売はどうなんだろうね」
「……調べてみますか」
俺はスマートフォンを手に取った。
もちろん、仕事中なので休憩時間に。
そこは大事だ。
◆
昼休み。
社員食堂で昼食を済ませ、スマートフォンを開く。
検索欄へ入力する。
『モンスターボール 一般販売』
検索。
「……うわ」
いろいろ出てきた。
政府の発表。
メーカーのニュース。
個人ブログ。
通販サイト。
そして、怪しげな販売ページ。
『本物のモンスターボール! 即日発送!』
「……絶対怪しいじゃん」
値段は三万円。
商品説明には『捕獲成功率には個体差があります』と書いてある。
「……いや、それはそうだろうけど」
何とも言えない。
別のページを見る。
『手作りモンスターボール製作キット』
「……これも違うなぁ」
そもそも、自分で作れる気がしない。
俺は普通の会社員だ。
工作は得意じゃない。
学生時代の技術の成績も、別に良くなかった。
そんな人間が作ったボールに、ワンリキーを入れていいものなのか。
「……怖いな」
少なくとも、俺は使いたくない。
政府の案内を開く。
正式なモンスターボールは製造が進められているものの、警察や消防などへの配備が優先されているらしい。
民間向けについても準備が進められているようだが、地域や販売方法によって状況が違う。
少なくとも、近所のコンビニで買えるようなものではなかった。
「……そりゃそうか」
ポケモンが現れてから、まだ三か月。
ゲームみたいに店へ行けば買える、というわけにはいかないらしい。
それに、仮に買えたとしても。
「……あいつ、入ってくれるかな」
そこが一番の問題だった。
◆
「何調べてんの?」
隣から声がした。
顔を上げると、同僚が立っていた。
「モンスターボールです」
「ああ、さっきの」
「はい」
「買えそう?」
「微妙ですね」
画面を見せる。
同僚は少し眉を寄せた。
「……これ、三万円?」
「怪しいですよね」
「怪しいね」
「ですよね」
意見が一致した。
「でも、何で急に欲しくなったの?」
「……ああ」
俺はスマートフォンを伏せた。
「仕事中、ずっと家にいるんですよ」
「ワンリキーが?」
「はい」
「まあ、そうだよね」
「朝出て、帰るの夜じゃないですか」
「うん」
「何か、かわいそうかなって」
同僚は少し考えた。
「……なるほどね」
「ボールがあれば、一緒に出かけられるのかなって」
「会社にも?」
「……そこは会社次第ですけど」
同僚が笑った。
「さすがに勝手には連れてこられないもんね」
「そうなんですよ」
それに、モンスターボールがあれば全部解決するのかも分からない。
あの中がどうなっているのか、俺にはよく分からないし。
入っている間、ワンリキーが退屈しないのか。
本人が嫌がらないのか。
そもそも、あいつは入りたいと思うのか。
考えることはいくらでもある。
「……でもさ」
同僚が言った。
「はい?」
「別にボールなくても、一緒にいられる方法はあるんじゃない?」
「……例えば?」
「会社に相談するとか」
「え?」
「ほら、最近ポケモン連れてる人も増えてるじゃん」
「まあ、そうですけど」
「最初から駄目って決めなくてもいいんじゃない?」
「……」
俺は少し考えた。
確かに。
聞くだけなら、別にいいのかもしれない。
「……でも、うちの会社ですよ?」
「うん」
「絶対面倒くさいことになりますよ」
「それはそう」
即答だった。
「そこは否定してくださいよ」
「だって、うちの会社だし」
「……ですよね」
二人で笑った。
◆
午後五時半。
「……あの」
俺は上司の席へ向かった。
「ん? どうした?」
「ちょっと相談があるんですけど」
「仕事のこと?」
「いや、仕事じゃないんですが」
「……?」
上司が不思議そうに顔を上げる。
「実は、家でポケモンと暮らしてまして」
「ああ、そうなの?」
「はい。ワンリキーっていうんですけど」
「ワンリキー……ああ、筋肉のすごいやつ?」
「そうです」
「テレビで見たことあるよ」
よかった。
名前は通じた。
「それで?」
「その、仕事中は家で留守番させてるんですけど」
「うん」
「……会社に連れてくるのって、やっぱり難しいですよね」
上司が止まった。
「……会社に?」
「はい」
「ワンリキーを?」
「はい」
「……」
数秒の沈黙。
「……ちょっと待ってね」
「はい」
上司は椅子へ深く座り直した。
「それって、犬みたいな感じ?」
「いや、犬ではないんですけど」
「そうだよね」
「人間に近い体型ですね」
「……なるほど」
上司は少し考えた。
「暴れたりはしないの?」
「普段は大人しいですよ」
「そうなんだ」
「言うことも結構聞いてくれます」
「へえ」
思っていたより、反応は悪くなかった。
ただ。
「……うーん」
上司が腕を組む。
「会社としては、まだルールがないんだよね」
「ですよね」
「他の社員もいるし、アレルギーとか、事故が起きた時のこともあるし」
「はい」
「それに、ビルの管理会社にも確認が必要だと思う」
「……ああ」
そうだった。
うちの会社は、自社ビルじゃない。
オフィスビルの一角を借りている。
そもそも建物へポケモンを入れていいのか、という問題がある。
「……やっぱり難しいですか」
「今すぐはね」
「そうですよね」
「ただ、相談してみるのはいいと思うよ」
「……え?」
上司は少し笑った。
「これから増えるだろうし、そういう人」
「……」
「人事にも聞いてみるよ。すぐに答えは出ないと思うけど」
「あ、ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「明日いきなり連れてこないでね」
「……もちろんです」
さすがに、それはしない。
◆
午後七時十分。
「……ただいまー」
「リキーッ!」
ドアを開けた瞬間、ワンリキーが駆け寄ってきた。
「おっと」
いつものように鞄を受け取ろうとする。
「いや、今日はそんな重くないから」
「リキ!」
「……はいはい」
鞄を渡した。
ワンリキーは満足そうに部屋へ運んでいく。
「……元気だなぁ」
靴を脱ぐ。
部屋へ入る。
テレビがついていた。
画面には、夕方のニュースが流れている。
「……テレビ見てたの?」
「リキ」
「そっか」
テーブルの上には、朝置いていった食事の皿がある。
きれいに空になっていた。
水も減っている。
部屋も、特に荒れていない。
ただし。
「……ん?」
冷蔵庫の前に、小さな椅子が置いてあった。
「……」
俺はワンリキーを見る。
「……これ、何?」
「リキ?」
「この椅子」
「……リキ」
「冷蔵庫、開けようとした?」
「……」
ワンリキーが目を逸らした。
「……やっぱり」
まったく。
まあ、実際には開けていないようなので、今日は許すことにする。
「……さて」
俺はソファへ腰を下ろした。
ワンリキーも隣に座る。
「今日さ」
「リキ?」
「お前のこと、会社で相談してみたんだよ」
「リキ」
「一緒に会社行けないかなって」
ワンリキーがこちらを見た。
「……リキ?」
「いや、まだ決まってないけどね」
「リキ」
「それと、モンスターボールも調べてみた」
スマートフォンを取り出す。
政府の資料に掲載されたモンスターボールの画像を見せた。
「これ」
「……リキ?」
「モンスターボール」
ワンリキーは画面を覗き込んだ。
そして、首を傾げた。
「……リキ」
「知らない?」
「リキ?」
「……まあ、知らないか」
そういえば、こいつは野生だった。
登山中に出会って、そのままついてきたのだ。
人間が使うモンスターボールなんて、見たことがないのかもしれない。
「これがあれば、外に行く時に一緒に連れていけるらしいんだよ」
「リキ」
「ただ、中に入ってもらう必要があるんだけど」
「……」
ワンリキーは画面をじっと見ている。
「……どう?」
「リキ?」
「入ってみたい?」
ワンリキーは少し考えた。
それから。
「リキ」
俺の隣へ、さらに近づいて座った。
「……」
どういう意味だろう。
「……それは、ここにいたいってこと?」
「リキ」
「……そう」
分かったような、分からないような。
でも、無理に入れようとは思わなかった。
ボールが手に入ったら、その時にまた聞けばいい。
◆
夕飯を食べ終えた後。
俺はパソコンを開いた。
調べていたのは、ポケモンを連れて利用できる施設についてだった。
最近、そういう情報が少しずつ増えている。
公園。
散歩コース。
一部の商業施設。
ポケモン同伴についてのルールを設け始めた場所もあるらしい。
「……へえ」
まだまだ少ない。
ただ、四月と比べれば随分変わった。
あの頃は、ポケモンがいるだけでニュースになっていた。
今では、ポケモンと一緒に暮らす人間がどれくらいいるのか、行政が調べている。
世の中の変化は早い。
「……お」
ひとつの記事が目に留まった。
『ポケモン同伴勤務の試験導入を検討する企業も』
「……マジか」
記事を開く。
どうやら、一部の企業で、従業員が連れているポケモンの扱いについて話し合いが始まっているらしい。
もちろん、どんなポケモンでも自由に出勤できるわけではない。
安全性。
衛生面。
周囲への影響。
建物の規則。
確認事項は多い。
「……そりゃそうだよな」
うちの会社でも、すぐには無理だろう。
それでも。
「……いつか一緒に行けるといいね」
振り返る。
ワンリキーは床で腕立て伏せをしていた。
「……聞いてる?」
「リキッ!」
「……そう」
元気な返事だった。
多分、何も分かっていない。
◆
翌朝。
六時十二分。
「……いち、に、さん」
「リキッ!」
「……し、ご、ろく」
「リキッ!」
今日もスクワットから一日が始まった。
俺は布団の中で目を開ける。
「……ねえ」
「リキ?」
「何で毎朝、六時十二分なの?」
「リキ!」
「……そうだよね」
分かるわけがない。
俺は起き上がり、洗面所へ向かった。
顔を洗う。
歯を磨く。
朝食を用意する。
そして、いつものように出勤の準備をする。
「……じゃあ、行ってくるね」
「リキ」
ワンリキーが玄関までついてくる。
昨日と同じ。
一昨日とも同じ。
ただ、今日は少しだけ違った。
「……あのさ」
「リキ?」
「まだ分かんないけど」
しゃがんで、ワンリキーと目を合わせる。
「いつか、一緒に会社行けるかもしれないから」
「……リキ?」
「その時は、ちゃんと大人しくしててよ?」
ワンリキーが頷いた。
「リキッ!」
「……本当に分かってる?」
「リキ!」
「……まあ、いいか」
頭を撫でる。
「じゃあ、行ってきます」
「リキー!」
ドアを閉めた。
鍵をかける。
エレベーターへ向かう。
結局、今日もワンリキーは留守番だ。
何かが劇的に変わったわけではない。
モンスターボールも、まだ手に入っていない。
会社へ連れていけるかどうかも分からない。
でも。
「……まあ、少しずつだよな」
俺はエレベーターのボタンを押した。
数か月前まで、ポケモンなんて存在すら知らなかった。
それが今では、一緒に暮らしている。
なら、これから先も、いろいろ変わるのだろう。
急ぐ必要はない。
あいつが嫌がらない方法を、ゆっくり探せばいい。
◆
同じ頃。
部屋の中。
「……リキ」
ワンリキーは玄関の前に座っていた。
しばらくドアを眺める。
それから、立ち上がった。
朝食の皿を片付ける。
テレビの前へ座る。
ニュースを見る。
画面には、北海道で新しく確認されたポケモンの映像が流れていた。
「……リキ?」
ワンリキーは少し首を傾げた。
知らないポケモンだった。
しばらく眺めていたが、やがて興味を失ったらしい。
テレビから目を離す。
部屋を見回す。
そして。
「……リキ」
冷蔵庫を見る。
少し考える。
昨日、椅子を使おうとして怒られたことを思い出した。
「……」
ワンリキーは冷蔵庫から目を逸らした。
代わりに、窓の方へ向かう。
カーテンの隙間から外を見る。
道路には、人間がたくさん歩いていた。
車が走っている。
遠くでは、ポッポが飛んでいた。
「……リキ」
ワンリキーはしばらく外を眺めた。
それから、部屋の中央へ戻る。
両足を肩幅に開く。
膝を曲げる。
「リキッ!」
スクワットを始めた。
一回。
二回。
三回。
どうやら、今日も元気らしい。
しばらくして疲れると、床に座ってテレビを見た。
昼には用意されたご飯を食べた。
午後には少し眠った。
夕方になると、玄関の方を何度か見た。
そして、夜。
廊下から足音が聞こえた。
「……!」
ワンリキーが顔を上げる。
足音が近づく。
鍵の回る音。
ドアが開いた。
「ただいまー」
「リキーッ!」
ワンリキーは駆け出した。
「おっと。今日も元気だねぇ」
差し出された鞄を受け取る。
いつもの重さ。
いつもの匂い。
いつもの声。
「……ん?」
男が冷蔵庫の方を見た。
「今日は椅子、動かしてないね」
「リキッ!」
「偉い偉い」
頭を撫でられる。
ワンリキーは満足そうに胸を張った。
「じゃあ、ご飯にしようか」
「リキー!」
今日も、いつもの夜が始まる。
モンスターボールは、まだない。
会社へ行けるようになったわけでもない。
けれど、ワンリキーには、ひとつ分かっていることがあった。
この人間は、朝になるとどこかへ行く。
そして、夜になると帰ってくる。
帰ってきたら、一緒にご飯を食べる。
それが、今の暮らしだった。
明日もきっと、同じだろう。
少なくとも、今のところは。
◆
その日の夜。
男のスマートフォンに、一通のメールが届いた。
差出人は、会社の人事部。
件名は、
『ポケモン同伴勤務に関するお問い合わせについて』
「……お?」
男は画面を開いた。
ワンリキーが隣から覗き込む。
「リキ?」
「……ちょっと待ってね」
メールには、こう書かれていた。
『現時点では、ポケモンを同伴した勤務について社内規定が整備されておりません』
「……うん」
『そのため、直ちに同伴を認めることは難しい状況です』
「……ですよね」
予想通りだった。
ただし、続きがあった。
『一方、今後同様の相談が増える可能性もあるため、管理会社および関係部署への確認を進める予定です』
「……へえ」
『差し支えなければ、同伴を希望するポケモンの種族、体格、普段の行動等について、簡単にお知らせください』
「……」
男は隣を見た。
ワンリキーは首を傾げている。
「……お前のこと、聞かれてるよ」
「リキ?」
「体格とか、普段の行動とか」
「リキ」
「……普段の行動、かぁ」
男は少し考えた。
そして、返信画面を開いた。
『種族:ワンリキー』
『体格:小柄ですが、力は非常に強いです』
『性格:普段は大人しく、人の指示もある程度理解します』
『日常の行動:散歩、買い物の荷物運び、運動など』
そこまで入力して、指が止まった。
「……」
ワンリキーを見る。
ワンリキーもこちらを見る。
「……冷蔵庫を開けようとする、って書いた方がいいかな」
「……リキ?」
「いや、書かなくていいか」
少し考えてから、最後に一文を追加した。
『なお、現在はモンスターボールを所持しておらず、未捕獲のまま一緒に生活しています』
送信。
「……よし」
スマートフォンを置く。
ワンリキーが膝へ手を置いた。
「リキ?」
「……まだ何も決まってないよ」
「リキ」
「でも、ちょっとだけ進んだかな」
ワンリキーはよく分かっていない顔をしていた。
男は笑って、その頭を撫でた。
「まあ、気長に待とうか」
「リキッ!」
元気な返事だった。
明日も仕事。
明日も留守番。
それでも、いつか。
二人で同じ電車に乗って、同じ場所へ出勤する日が来るのかもしれない。
そんなことを考えながら、男はテレビのリモコンを手に取った。
「……あ、そうだ」
「リキ?」
「明日、帰りにバナナ買ってくるね」
「リキーッ!」
「……そっちは分かるんだね」
ワンリキーは嬉しそうに頷いた。
モンスターボールのことは、まだよく分からない。
会社のことも、きっと分かっていない。
けれど、バナナの話だけは、ちゃんと伝わったらしい。
男は笑った。
「……まあ、今はそれでいいか」
テレビでは、今日もポケモンのニュースが流れている。
世界は少しずつ変わっていた。
そして、この小さな部屋の暮らしも。
ほんの少しずつ、変わろうとしていた。