七月。
北海道、十勝。
朝食を食べ終えた俺は、台所で空になった皿を洗っていた。
窓の外では、父さんが畑を見回っている。
その少し前を、ポッポが飛んでいた。
最近ではすっかり見慣れた光景だ。
ポッポが畑の上を飛び、何か気になるものを見つけると鳴く。
父さんがそれに気づいて確認する。
最初は偶然だったらしいが、今ではそれなりに連携が取れている。
ポッポが父さんの指示をすべて理解しているわけではない。
父さんも、ポッポの鳴き声を全部聞き分けられるわけではない。
それでも、毎日一緒に畑を歩いていれば、少しずつ分かることが増えるらしい。
「……毎日一緒に、か」
俺は小さく呟いた。
バンギラスを捕まえてから、しばらく経つ。
あいつとの関係は、相変わらずだった。
懐いていない。
言うことも聞かない。
こちらを見る目には、今も明確な警戒がある。
ただ、最初の頃のように、姿を見せるたび威嚇することは少なくなった。
山へ連れていった時、岩塩を食べたこともあった。
それだけだ。
それだけなのだが、俺はその小さな変化が気になっていた。
もっと何かできるんじゃないか。
もう少し距離を縮められるんじゃないか。
そんなことを考えてしまう。
けれど。
『向こうが嫌がってるなら、無理に構わんでもいいだろ』
昨日の父さんの言葉が頭に残っていた。
『お前が仲良くしたいからって、向こうもそうとは限らんしな』
……まったく、その通りだと思う。
俺はバンギラスを知っている。
種族としての特徴も、好む環境も、食べるものも。
ゲームでの能力値だって覚えている。
けれど、目の前の一匹が何を考えているかは分からない。
知識があることと、理解していることは違う。
「……今日は、ちょっとやり方を変えるか」
皿を拭きながら、そう決めた。
◆
午前九時。
「父さん、今日も山の方行ってくる」
「おう」
父さんは軽トラックの荷台から顔を上げた。
「例のバンギラスか」
「うん」
「そうか。気をつけろよ」
「分かってる」
父さんは一度頷いてから、少し考えるように言った。
「……あれだぞ」
「ん?」
「何かしてやろうって考えすぎるなよ」
「……うん」
「お前、あれこれ考える方だからな」
「そうかな」
「そうだろ」
即答された。
まあ、否定はできない。
「餌置いて、あとは好きにさせとけばいいんじゃないか」
「でも、あいつ危ないし」
「だから見張るんだろ」
「……ああ」
「見張るのと構うのは違うぞ」
俺は少し黙った。
父さんは何でもないことのように続ける。
「畑に来る鳥だってそうだ。こっちが近づくと逃げるやつもいれば、平気なやつもいる」
「うん」
「逃げるやつを追いかけ回したって、余計逃げるだけだろ」
「……そうだね」
「まあ、あんなでかいのと鳥を一緒にするのも変な話だけどな」
父さんは笑った。
俺も少し笑った。
「……ありがとう」
「おう。山で何か壊されんようにな」
「そこは本当に気をつける」
冗談では済まない。
バンギラスは、山を崩すほどの力を持つポケモンだ。
俺が捕まえた個体はレベル58。
ゲームなら、もう十分に強い部類に入る。
そして現実では、その強さがそのまま危険性につながる。
だから、放っておくといっても、完全に自由にするわけにはいかない。
人のいない場所を選ぶ。
周囲を確認する。
必要なら、すぐボールへ戻せるようにする。
そこは変えられない。
ただ、今日からは。
必要以上に近づくのをやめようと思う。
◆
向かったのは、いつもの山だった。
集落から離れた、立ち入りの少ない場所。
周辺の地形は、事前に確認してある。
林道から外れた先に、比較的開けた岩場がある。
以前から、バンギラスを出す時はここを使っていた。
もちろん、絶対に安全というわけではない。
だからこそ、周囲に人がいないことを確認してからボールを取り出す。
「……よし」
俺の隣には、リングマがいた。
「リングマ、今日は少し離れててくれ」
「グル?」
「何かあったら頼む。でも、こっちからは近づかない」
「……グル」
リングマは少し不満そうだった。
あいつもバンギラスのことを警戒している。
それは当然だ。
バンギラスは、以前リングマへも敵意を向けていた。
仲間として受け入れたわけではない。
むしろ、今でも顔を合わせると空気が張り詰めることがある。
「今日は喧嘩しないでくれよ」
「グルル」
「……頼むから」
リングマは鼻を鳴らした。
とりあえず、少し離れた場所へ移動してくれた。
俺はボールを構える。
「出てこい、バンギラス」
赤い光が広がる。
次の瞬間、岩場に巨大な影が現れた。
「……ギャアア」
バンギラス。
緑色の巨体。
鋭い牙。
全身を覆う硬い装甲。
そして、こちらを見下ろす目。
「……よう」
俺は軽く手を上げた。
バンギラスは答えない。
ただ、俺を見る。
次に、少し離れたリングマを見る。
「……ギルル」
低い唸り声。
リングマも顔を上げた。
「グルル……」
「リングマ」
俺が呼ぶと、リングマは一度こちらを見た。
「今日はいいから」
「……グル」
リングマは視線を外した。
バンギラスも、それ以上は唸らなかった。
……よし。
俺は持ってきた袋を取り出した。
中身は、以前バンギラスが口にした岩塩と、いくつかの食べ物だ。
バンギラスが岩を食べることは知っている。
ただ、何でも食べるわけではないだろうし、好みもあるはずだ。
今日は少し離れた場所に置いておくことにした。
「ここに置いとくぞ」
岩場の端に袋を置く。
中身を取り出し、平らな石の上へ並べた。
バンギラスは動かない。
俺の手元を見ている。
「……食べたかったら食べてくれ」
それだけ言って、俺は離れた。
いつもなら、もう少し様子を見ながら声をかけていた。
どれがいいか。
食べるか。
気に入ったか。
そんなことを、つい聞いてしまう。
もちろん、返事はない。
それでも何か反応が欲しくて、話しかけていた。
今日は、それをやめた。
少し離れた岩に腰を下ろす。
水筒を取り出す。
そして、何もしない。
「……」
バンギラスがこちらを見ている。
俺も、ちらりと見る。
目が合った。
バンギラスの眉間に皺が寄る。
「……」
俺は視線を外した。
山の方を見る。
風が吹いている。
木々が揺れる。
遠くで鳥の声が聞こえた。
……。
…………。
正直、落ち着かない。
いや、何だこれ。
俺が落ち着かなくてどうする。
何もしないと決めたのは自分だろう。
しかし、相手はバンギラスだ。
少しでも目を離したら何かするんじゃないか。
突然暴れ出すんじゃないか。
そう考えてしまう。
もちろん、完全に目を離しているわけではない。
視界の端には入れている。
リングマもいる。
それでも、いつもより距離がある。
……落ち着かない。
「……」
俺は水筒の蓋を開けた。
一口飲む。
閉める。
また山を見る。
……。
十分ほど経っただろうか。
石が擦れる音がした。
ちらりと見る。
バンギラスが動いていた。
ゆっくりと、岩塩を置いた場所へ近づいている。
俺は何も言わなかった。
バンギラスは岩塩の前で立ち止まる。
鼻先を近づける。
少しだけ匂いを確かめるような仕草をした。
そして。
ガリッ。
岩塩を噛み砕いた。
「……」
俺は水筒を握ったまま、黙っていた。
バンギラスはもう一度噛む。
ガリッ。
ガリガリ。
……食べている。
以前も食べた。
だから、今日食べてもおかしくない。
それだけのことだ。
それなのに。
……ちょっと嬉しい。
いや、かなり嬉しい。
ただ、声には出さなかった。
バンギラスがこちらを見たからだ。
「……」
「……」
目が合う。
俺は何も言わない。
バンギラスも何も言わない。
しばらくして、バンギラスは再び岩塩へ顔を向けた。
ガリッ。
……よし。
今日は、それでいい。
◆
それから三十分ほど。
バンギラスは、岩場の端に座っていた。
俺は少し離れた場所で、持ってきた本を読んでいた。
もちろん、完全に読書へ集中しているわけではない。
時々、周囲を確認する。
バンギラスの位置を見る。
リングマの様子も見る。
ただ、こちらから声をかけることはしなかった。
「……」
ページをめくる。
風が吹く。
またページをめくる。
……何だろう。
妙な感じだ。
今まで、バンギラスと向き合う時は、常に何かしようとしていた。
食べ物を与える。
声をかける。
様子を見る。
反応を確かめる。
少しでも距離を縮めようとしていた。
けれど、今日は何もしていない。
同じ場所にいるだけだ。
バンギラスは好きな場所に座り、俺は本を読んでいる。
リングマは少し離れた木陰で休んでいる。
……これでいいのか?
そう思った時。
ガリッ。
音がした。
顔を上げる。
バンギラスが岩を噛んでいた。
置いておいた岩塩ではない。
そこらにあった石だ。
……ああ。
そうだよな。
別に俺が用意したものだけを食べる必要はない。
あいつは、自分で食べ物を探せる。
自分で動ける。
自分で判断できる。
俺が何でも用意してやる必要はない。
もちろん、人間の生活圏で勝手に岩を食べられたら困る。
道路や建物を壊されたら大問題だ。
だから場所は選ばなければならない。
ただ、こういう場所なら。
ある程度、好きにさせてもいいのかもしれない。
「……」
バンギラスが岩を噛み砕く。
俺は再び本へ目を落とした。
……少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
◆
昼前。
そろそろ帰る時間だった。
俺は本を閉じた。
立ち上がる。
「……バンギラス」
呼びかける。
バンギラスが顔を上げた。
「今日はここまでにするぞ」
「……ギル」
返事なのか、ただの唸り声なのか。
分からない。
俺はボールを取り出した。
バンギラスはそれを見た。
少しだけ、身体を動かす。
警戒している。
……まあ、そうだよな。
「……」
俺は一度、ボールを下ろした。
バンギラスがこちらを見る。
「……もう少しだけ、いるか?」
言ってから、少し後悔した。
結局、聞いてしまった。
あいつに言葉が通じるかも分からないのに。
バンギラスは動かない。
俺を見ている。
「……」
……どうするかな。
帰る時間は、別に厳密に決まっているわけではない。
ただ、長くいればいいというものでもない。
俺は腕時計を見た。
少し考える。
「……あと十分だけな」
そう言って、再び岩へ座った。
バンギラスは何も言わなかった。
ただ、少し離れた場所へ移動した。
そこで、どっかりと腰を下ろす。
……。
…………。
十分後。
今度は素直にボールへ戻った。
それだけだった。
◆
帰宅すると、父さんが庭先で作業していた。
「おう、おかえり」
「ただいま」
「どうだった?」
「……まあ、いつも通りかな」
「そうか」
父さんは頷いた。
それから、少しだけ俺を見る。
「何かあったのか?」
「いや」
「ん?」
「……今日は、あんまり構わなかった」
「ほう」
「餌置いて、少し離れて座ってただけ」
「それで?」
「岩塩食べてた」
「そうか」
「あと、勝手に石も食べてた」
「……石?」
「うん」
父さんが少し嫌そうな顔をした。
「……畑の石は食わせるなよ」
「分かってるよ」
「うちの畑であんなのが石食い始めたら、地面ごと持ってかれそうだ」
「……否定できない」
父さんは笑った。
俺も笑う。
「……で?」
「ん?」
「お前はどうだった?」
「……俺?」
「ああ」
少し考えた。
「……落ち着かなかった」
「ははは」
「笑うなよ」
「いや、そうだろうなと思って」
父さんは手を止めた。
「でも、少しは分かったんじゃないか?」
「……何が?」
「別に、毎回何かしてやらなくてもいいってことだよ」
「……うん」
父さんは畑の方を見た。
ポッポが低く飛んでいる。
「うちのポッポだって、最初からああだったわけじゃないぞ」
「そうなの?」
「最初は近づくと逃げてた」
「へえ」
「餌やっても、こっちが見てると食わんしな」
「……ああ」
「だから、置いといて仕事してた」
父さんは笑った。
「そしたら、そのうち勝手に食うようになった」
「……」
「今じゃ、俺が畑に出るとついてくる」
ちょうどその時。
「ポッポ!」
ポッポが父さんの肩の近くへ飛んできた。
「おう」
父さんが軽く手を上げる。
ポッポは一度旋回して、近くの柵へ止まった。
「……まあ、あれはあれで勝手なやつだけどな」
「……はは」
俺は笑った。
父さんは続ける。
「でも、バンギラスは別だぞ」
「……うん」
「ポッポと同じように考えるなよ」
「分かってる」
「あれは危ないからな。ちゃんと見てろ」
「うん」
「ただ、見てるからって、ずっと構う必要はないだろ」
「……そうだね」
父さんは頷いた。
「まあ、焦るな」
それだけ言って、作業へ戻った。
俺はしばらく、その背中を見ていた。
◆
翌日。
俺はまた山へ向かった。
リングマも一緒だ。
場所は昨日と同じ。
周囲を確認する。
人がいないことを確かめる。
それから、バンギラスを出した。
「……ギャア」
「よう」
バンギラスは俺を見る。
リングマを見る。
少し唸る。
昨日と同じだ。
俺は岩塩を置いた。
「ここに置いとくぞ」
それだけ言って、離れた。
岩へ座る。
今日は本ではなく、スマートフォンを取り出した。
ただし、電波はあまりよくない。
「……まあ、そうだよな」
仕方なく、保存していた資料を開く。
最近、政府からの問い合わせも増えている。
シンオウ地方のポケモンが北海道に現れ始めたことで、確認事項が山ほどあるのだ。
ビッパ。
ムックル。
コリンク。
その他にも、様々なポケモンが確認されている。
生態。
危険性。
人間の生活への影響。
書くことは多い。
「……」
資料を確認する。
時々、バンギラスを見る。
バンギラスは岩場を歩いていた。
昨日より少し遠くまで行っている。
……まあ、いいか。
人が近づくような場所ではない。
ただ、地形を壊されるのは困る。
俺は注意して見守った。
バンギラスは岩の前で立ち止まる。
鼻先を近づける。
それから、別の岩へ移動した。
何かを探しているのだろうか。
……分からない。
少し気になったが、声はかけなかった。
やがて、バンギラスは岩塩の置いてある場所へ戻ってきた。
ガリッ。
食べ始めた。
俺は資料へ目を戻す。
……。
…………。
しばらくして。
ドスン。
少し大きな音がした。
「……ん?」
顔を上げる。
バンギラスが、岩場の端に座っていた。
昨日よりも、少しだけ俺に近い場所だった。
……。
いや。
近いといっても、十分距離はある。
たまたまそこに座っただけかもしれない。
日当たりがよかったのかもしれない。
風が当たりにくかったのかもしれない。
理由なんて、いくらでも考えられる。
「……」
俺は何も言わなかった。
バンギラスも何も言わない。
ただ、そこに座っている。
リングマは少し離れた場所で、こちらを見ていた。
……昨日より近い。
それだけだ。
それだけなのだが。
俺は、少しだけ嬉しかった。
◆
帰る前。
バンギラスをボールへ戻そうとした時だった。
「……ギル」
バンギラスが低く鳴いた。
「……ん?」
俺は手を止めた。
バンギラスは、こちらを見ていない。
少し離れた岩場を見ている。
そこには、まだ岩塩が残っていた。
「……」
俺は少し考えた。
そして、岩塩を拾いに行こうとした。
その瞬間。
「ギャア!」
バンギラスが鋭く鳴いた。
「……っ!」
俺は足を止めた。
リングマがすぐに立ち上がる。
「グルル!」
「リングマ、待て!」
俺は片手を上げた。
バンギラスは俺を睨んでいる。
牙を見せていた。
……。
…………。
ああ。
そうか。
俺はゆっくりと足を引いた。
「……悪い」
バンギラスは唸ったままだった。
俺は距離を取った。
岩塩は、そのままにした。
別に、全部持ち帰る必要はない。
ここは人がほとんど入らない場所だ。
置いておいても、すぐに問題になるものではない。
それに。
あいつが食べようとしていたものを、俺が勝手に片づけようとした。
……そりゃ、怒るかもしれない。
もちろん、本当にそれが理由なのかは分からない。
ただ、俺が近づいた瞬間に威嚇した。
それは事実だ。
「……分かった」
俺は小さく言った。
「触らない」
バンギラスはしばらく俺を見ていた。
やがて、牙を隠した。
「……ギル」
そして、岩塩の方へ歩いていった。
ガリッ。
……食べている。
俺はその場に立ったまま、少し笑った。
「……なるほどな」
仲良くなるために何かをする。
それだけが、付き合い方ではない。
嫌がることをしない。
勝手に決めつけない。
相手が何を望んでいるのか、少しずつ確かめる。
……簡単そうで、難しい。
特に相手がバンギラスなら、なおさらだ。
俺は少し離れた岩へ座った。
もう少しだけ、待つことにした。
◆
十分ほど経った頃。
バンギラスは岩塩を食べ終えた。
俺は立ち上がる。
「……そろそろ帰るぞ」
ボールを取り出す。
バンギラスがこちらを見た。
少しだけ、身体を動かす。
俺は待った。
無理に近づかない。
声もかけない。
ただ、待つ。
……。
…………。
やがて。
「……ギル」
バンギラスが小さく鳴いた。
そして、その場で動かなくなった。
俺はボールを向けた。
赤い光が広がる。
バンギラスの巨体が光に包まれ、ボールへ戻っていく。
カチリ。
静かになった。
「……ふぅ」
俺は息を吐いた。
リングマが近づいてくる。
「グル」
「……お疲れ」
リングマの頭を軽く撫でる。
「今日もありがとな」
「グルル」
リングマは鼻を鳴らした。
まだバンギラスを信用していない。
それは変わらない。
俺も、あいつを完全に信用できるわけではない。
けれど。
「……まあ、少しずつだな」
ボールを見下ろす。
中には、あのバンギラスがいる。
強くて。
危険で。
頑固で。
今も俺に懐いていない。
それでも。
今日は、昨日より少しだけ長く同じ場所にいた。
昨日より少しだけ近い場所に座った。
そして、嫌なことを嫌だと示してくれた。
……いや。
最後のは、最初からずっとそうだったか。
俺がちゃんと受け止められていなかっただけかもしれない。
「……」
俺はボールをしまった。
山道を歩き始める。
リングマが隣を歩く。
風が吹く。
木々が揺れる。
遠くで鳥の声が聞こえる。
いつもの北海道の山だった。
◆
その日の夕方。
「……で、今日はどうだった?」
父さんが夕食の席で聞いてきた。
「うん」
俺は箸を置いた。
「ちょっと怒られた」
「……何したんだ?」
「置いてた岩塩を片づけようとした」
「ほう」
「そしたら威嚇された」
「……ああ」
父さんは少し考えた。
「そりゃ、まだ食ってたんじゃないか?」
「たぶん」
「じゃあ、取られたと思ったのかもな」
「……うん」
「まあ、分からんけど」
「そうだね」
父さんは味噌汁を飲んだ。
「で、どうした?」
「そのままにした」
「そうか」
「食べ終わるまで待った」
「うん」
「そしたら、普通にボールへ戻った」
父さんは頷いた。
「……なら、よかったじゃないか」
「……そうかな」
「少なくとも、喧嘩にはならんかったんだろ?」
「うん」
「じゃあ、今日はそれで十分だろ」
俺は少し笑った。
「……父さんって、意外とこういうの上手いよね」
「何が?」
「ポケモンとの付き合い方」
「そんなことないぞ」
父さんは笑った。
「俺はポケモンのことなんか、ほとんど知らん」
「……」
「ただ、嫌がってる相手に無理やり近づいても、ろくなことにならんだろ」
「……まあね」
「それだけだ」
父さんはそう言って、また味噌汁を飲んだ。
俺は少し考えた。
ポケモンの知識なら、俺の方が圧倒的に多い。
種族ごとの特徴。
技。
能力。
生態。
進化。
危険性。
知らないことの方が少ない。
けれど。
目の前の相手と、どう付き合うか。
それについては、まだまだ学ぶことがあるらしい。
「……明日も行ってくる」
「おう」
「また、少しだけ」
「それでいいんじゃないか」
父さんは頷いた。
「焦らずやれよ」
「うん」
俺は笑った。
明日も、バンギラスは懐かないかもしれない。
明後日も。
一週間後も。
もしかしたら、ずっと。
それでもいい。
少なくとも、今は。
あいつが俺を嫌がる理由を、これ以上増やさないようにしよう。
それくらいなら、俺にもできる。
窓の外では、夕暮れの畑をポッポが飛んでいた。
父さんが窓を開ける。
「おーい、そろそろ戻ってこい」
「ポッポ!」
ポッポが鳴いた。
そして、少し遠回りしてから家の方へ飛んできた。
「……まったく、寄り道ばっかりしやがって」
父さんは笑っていた。
俺も、つられて笑った。
……そうか。
別に、すぐ来なくてもいいんだよな。
自分の足で。
自分の速さで。
近づきたい時に、近づけばいい。
俺はポケットの中のボールへ触れた。
中にいるバンギラスが、何を考えているのかは分からない。
それでも。
明日もまた、あの岩場へ行こうと思う。
何かをさせるためではなく。
何かを教えるためでもなく。
ただ、同じ場所で過ごすために。
俺はポケットの中のボールへ触れた。
中にいるバンギラスが、何を考えているのかは分からない。
明日もまた、あの岩場へ行こうと思う。
何かをさせるためでも、何かを教えるためでもない。
ただ、同じ場所で過ごすために。
そんな日があってもいいだろう。
……まあ、あいつがどう思っているかは知らないけど。
それにしても。
捕まえてから今日までのことを思い返す。
威嚇する。
睨む。
唸る。
気に入らなければ牙を剥く。
岩塩を食べている時ですら、こっちが近づくと怒る。
……。
いや、待てよ。
俺はふと、捕獲した時に確認したバンギラスのステータスを思い出した。
レベル58。
性格は、確か。
ようき。
……。
…………。
「……あいつの性格、ほんとに『ようき』か?」
思わず声に出た。
「ん? 何か言ったか?」
「いや、何でもない」
父さんにそう返しながら、俺はもう一度ボールを見下ろした。
……まあ、ゲームの性格と実際の性格が必ずしも一致するわけじゃないんだろうけど。
それにしたって、もうちょっとこう。
陽気なところを見せてくれてもいいんじゃないだろうか。
……。
いや。
今のあいつにそんなこと言ったら、間違いなく怒られるな。
俺は小さく笑って、ボールから手を離した。
明日も、気長に付き合うとしよう。