朝日が山の向こうから顔を出し、村の田畑を照らし始めていた。
「……違うな」
俺は手元の縄を見つめ、小さく呟いた。
編み目が一か所だけ歪んでいる。
使えないわけじゃない。実際、昨日作った縄だって、少しくらい歪んでいても問題なく使えていた。
けれど、どうにも気に入らない。
「もう一回……」
縄をほどき、最初から編み直す。
右の藁を重ね、左の藁を通す。指先に力を込め、緩まないように引き締める。
何度も繰り返しているうちに、少しずつ形が整ってきた。
「よし、今度こそ……」
「おーい! まだやってるのかい!」
突然、背後から声が飛んできた。
「うわっ!?」
驚いて振り返ると、村の女が呆れた顔で立っていた。
「何だい、その声は。さっきから何度も呼んでるんだよ」
「えっ、そうなんですか?」
「そうなんですか、じゃないよ。もう昼になるよ」
「……昼?」
空を見上げる。
確かに、さっきまで東にあったはずの太陽が、随分と高い位置に昇っていた。
「……あれ?」
「まったく。朝飯を食べたら手伝いに来るって言ってたのは、どこの誰だったかねえ」
「あっ!」
そうだった。
今日は収穫した野菜を荷車に積む手伝いを頼まれていたんだ。
「す、すみません! すぐ行きます!」
「もうほとんど終わったよ」
「ええっ!?」
慌てて立ち上がる。
女は俺の手元を覗き込んだ。
「……また縄を編み直してたのかい?」
「はい。どうしても綺麗にできなくて……」
「昨日のだって十分使えたろうに」
「でも、少し歪んでたので」
「はあ……」
女は大きくため息をついた。
「あんたは昔からそうだねえ。一つのことを始めると、周りが見えなくなるんだから」
「……すみません」
「別に怒っちゃいないよ。ただ、もう少し周りを見なさいな」
そう言って、女は俺の頭を軽く撫でた。
「ほら、昼飯にするよ」
「はい!」
俺は編みかけの縄を置き、女の後を追った。
*
俺が暮らしているのは、山の麓にある小さな農村だ。
家は数十軒ほど。周囲には田畑が広がり、村人たちは農業を中心に生活している。
特別豊かな村ではないが、飢えるほど貧しいわけでもない。
そんな、ごく普通の村だった。
この村では、女たちが畑を耕し、木を切り、重い荷物を運ぶ。
男は家の中の仕事や、比較的軽い作業を任されることが多い。
理由は単純だ。
女の方が男より大きく、強いからだ。
俺も何度か畑仕事を手伝おうとしたことがある。
だが、女たちが軽々と持ち上げる荷物を、俺は両手で抱えてようやく運べる程度だった。
無理をして運ぼうとすれば、すぐに取り上げられる。
『男が無理するんじゃないよ』
『怪我でもしたらどうするんだい』
そんな言葉は、これまで何度も聞いてきた。
別に俺だけが特別弱いわけではない。
村の男たちは、大体似たようなものだ。
だから、俺も自分が力仕事に向いていないことくらい理解していた。
それでも、何もできないのは嫌だった。
少しでも役に立てるように、縄編みや裁縫、炊事など、任された仕事はなるべく上手くできるように練習している。
もっとも、夢中になりすぎて他の仕事を忘れることも多いのだが。
「そういえば、町に行く人は決まったの?」
昼飯を食べていると、隣に座っていた女が尋ねた。
「ああ、あれかい。まだ決まってないよ」
向かいに座っていた年配の女が答える。
「塩も油も少なくなってきたし、そろそろ買いに行かなきゃならないんだけどねえ」
「今は収穫で忙しいからね」
「誰か手の空いてる奴がいればいいんだけど」
俺は箸を止めた。
「……町?」
「ん? どうした?」
「あの、町に行くんですか?」
「ああ。買い物にね」
俺は少し考えた。
町。
村にやって来る行商人から、何度か話を聞いたことがある。
大きな店が並び、見たこともない品物が売られている場所。
人も多く、村とは比べものにならないほど賑やからしい。
一度くらい行ってみたいと思っていた。
「あの、俺が行くのは駄目ですか?」
そう尋ねた瞬間、周囲の女たちが一斉にこちらを見た。
「……は?」
「俺、町まで買い物に行ってみたいんです」
少しの沈黙。
それから、女たちが笑い始めた。
「ははは! 何を言い出すかと思えば!」
「男が一人で町に行くって?」
「駄目に決まってるだろう!」
「えっ……」
思っていたより、ずっとあっさり断られた。
「で、でも、道は覚えれば……」
「道を覚えたって駄目なものは駄目だよ」
「どうしてですか?」
「危ないからに決まってるだろう」
年配の女が呆れたように言った。
「町まで行くには山道を通らなきゃならない。山賊が出るって噂もあるんだよ」
「でも、昼間なら……」
「昼間でも危ないものは危ない」
「……」
「男が一人で出歩いて、何かあったらどうするんだい。あんたは村で大人しくしてな」
それ以上、口を挟む余地はなかった。
俺は仕方なく箸を動かした。
けれど、頭の中では町のことばかり考えていた。
*
翌朝。
まだ村の女たちが畑へ出る前の時間。
俺は小さな風呂敷包みを背負い、家の戸を静かに開けた。
「……よし」
周囲に人がいないことを確認する。
昨夜のうちに準備は済ませていた。
水筒。
握り飯。
道を聞いて書き留めた紙。
それから、少しばかりの銭。
銭は、普段の仕事で少しずつ貯めたものだ。
男が自由に使える金は多くないが、長い間貯めてきたおかげで、町で何かを買うくらいはできる。
「昼過ぎには町に着くはずだし……」
帰りのことも考え、道順は何度も確認した。
村から町へ向かう行商人にも、以前それとなく道を尋ねておいた。
準備は万全。
……のはずだ。
「日が暮れる前には帰ってこよう」
そう呟き、俺は村を出た。
もちろん、誰にも許可は取っていない。
言えば止められるに決まっているからだ。
少し後ろめたい気持ちはあった。
でも、町に行ってみたい。
それに、いつまでも村の外へ一人で出られないというのも、何だか悔しかった。
ちゃんと行って、ちゃんと帰ってくれば、皆も少しは認めてくれるかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は歩き始めた。
*
村から離れるにつれ、見慣れた景色が少しずつ変わっていった。
田畑が途切れ、草原が広がり、その先には山が見える。
「へえ……」
思わず声が漏れた。
村の外には、こんな景色が広がっていたのか。
道端には見たことのない花が咲き、小川には小魚が泳いでいる。
俺は何度も足を止め、その景色を眺めた。
「この花、村の近くには咲いてないな……」
しゃがみ込み、花びらを観察する。
五枚の白い花びら。
中心には黄色い模様。
何という名前だろう。
村に帰ったら、誰かに聞いてみよう。
そう考えているうちに、随分と時間が経っていた。
「あっ、いけない!」
慌てて立ち上がる。
また夢中になってしまった。
俺は足早に山道へ向かった。
山に入ると、木々が日差しを遮り、辺りは薄暗くなった。
道は細く、片側には斜面が続いている。
「……ここを抜ければ、町に続く街道か」
紙を取り出し、道順を確認する。
間違いない。
このまま進めばいい。
俺は紙をしまい、歩き始めた。
しばらく進んだところで、道の脇に古い石碑を見つけた。
「何だろう、これ……」
苔に覆われ、文字はほとんど読めない。
ただ、上の方には何かの絵が彫られていた。
狐……だろうか。
いや、耳の形が少し違う。
「妖怪を祀ってるのかな……?」
気になって近づく。
村でも、山には怪異が出るという話を聞いたことがある。
もっとも、実際に見たことはない。
俺は石碑の苔を指で払い、彫られた文字を読もうとした。
「えっと……」
そのとき。
「おや?」
背後から声がした。
「こんなところに男がいるじゃないか」
俺は振り返った。
そこには、三人の女が立っていた。
いずれも薄汚れた着物を身にまとい、腰には刀や鉈を差している。
一人は背が高く、肩幅も広い。
もう一人は頬に傷があり、最後の一人は痩せていたが、俺よりずっと大柄だった。
「……あの」
「お前、一人かい?」
背の高い女が尋ねた。
「は、はい……」
「へえ」
女は口元を歪めた。
「護衛もつけずに山道を歩いてるなんて、随分と不用心な男だねえ」
嫌な予感がした。
女たちの視線が、俺の顔から身体、そして背負っている荷物へと移る。
「どこへ行くんだい?」
「……町です」
「そうかい。なら、あたしたちと一緒に来な」
「えっ?」
「いいところへ連れていってやるよ」
女が近づいてくる。
俺は一歩後ずさった。
「い、いえ。急いでいるので……」
「遠慮することないって」
別の女が、俺の背後へ回り込もうとした。
そこで、ようやく理解した。
山賊だ。
「す、すみません!」
俺は咄嗟に走り出した。
だが。
「遅いねえ!」
「うわっ!?」
数歩も進まないうちに、襟首を掴まれた。
強い力で引き戻され、地面に転がる。
「いっ……!」
背中を打ち、息が詰まった。
「逃げるんじゃないよ」
女が俺の腕を掴む。
「は、離してください!」
必死に振りほどこうとする。
だが、びくともしない。
両手で押しても、腕を捻っても、相手の手はまったく動かなかった。
「おとなしくしな!」
「嫌だ!」
俺は空いている手で女の顔を殴ろうとした。
しかし、その拳は簡単に掴まれた。
「……何だい、これ」
女が呆れたように笑った。
「こんな細い腕で、あたしを殴ろうってのかい?」
「くっ……!」
握られた拳に力が加わる。
「いっ、痛い! 痛いって!」
「だったら暴れるなよ」
女が手を離す。
俺は痛む指を抱えながら、地面にうずくまった。
怖い。
今まで、こんな目に遭ったことはなかった。
村の女たちも俺よりずっと力が強かったが、こんなふうに力を振るわれたことはない。
「さて、どうする?」
「町に連れていけば、そこそこの金になるだろ」
「逃げられないように縛っときな」
女たちが相談している。
俺は必死に頭を働かせた。
逃げなければ。
何とかして逃げなければ。
だが、どうすればいい?
相手は三人。
全員、俺より大きくて強い。
武器まで持っている。
俺には何もない。
……いや。
懐には、小さな銭袋がある。
金を渡せば、見逃してもらえるかもしれない。
「あ、あの!」
「あ?」
「お金ならあります! だから、見逃してください!」
震える手で銭袋を取り出す。
女はそれを見ると、笑った。
「何だ、持ってるじゃないか」
銭袋を奪い取られる。
「これで……」
「で、他には?」
「……え?」
「他に何か持ってないのかって聞いてるんだよ」
「そ、それだけです……」
「そうかい」
女は銭袋を懐にしまった。
「じゃあ、行こうか」
「ま、待ってください! お金を渡したじゃないですか!」
「だから何だい?」
女が俺の腕を掴んだ。
「金も貰ったし、お前も連れていく。それだけだろ?」
「そんな……!」
抵抗しようとした瞬間、頬を叩かれた。
「っ!」
視界が揺れる。
口の中に血の味が広がった。
俺は地面に倒れ込んだ。
痛い。
怖い。
帰りたい。
どうして、こんなことになったんだろう。
村の女たちは、危ないと言っていた。
俺はそれを聞かなかった。
自分なら大丈夫だと思っていた。
ちゃんと準備をしたから。
道も覚えたから。
昼間なら安全だと思ったから。
……馬鹿だ。
俺は本当に馬鹿だ。
「……助けて」
小さな声が漏れた。
「誰か……」
女が縄を取り出す。
俺は必死に後ずさった。
「助けてくれ……!」
そのときだった。
「おい」
聞き慣れない声が響いた。
「そこで何をしている?」
*
三人の山賊が振り返った。
山道の向こうに、一人の女が立っていた。
旅装束の上から簡素な防具を身につけ、腰には刀を差している。
背中には荷物を背負っていた。
女は俺と山賊たちを見比べると、眉をひそめた。
「……男を攫おうとしているのか?」
「だったら何だい?」
山賊の一人が答えた。
「見なかったことにして通り過ぎな。あんたには関係ないだろ」
女は小さく息を吐いた。
「そうしたいところだが……」
背負っていた荷物を道端に下ろす。
「流石に見過ごせないな」
山賊たちの表情が変わった。
「……あんた、武士か?」
「まあ、一応な」
「へえ。なら、痛い目を見たくなきゃ大人しくしてな」
女は腰の刀に手をかけた。
「その男を離してくれれば、こちらも何もしない」
「断るよ」
「……そうか」
刀が鞘から抜かれる。
俺は息を呑んだ。
初めて見る、本物の武士の構えだった。
「なら、仕方ないな」
女は刀を正面に構えた。
*
「やっちまいな!」
山賊の一人が鉈を振り上げた。
女はすぐには動かなかった。
じっと相手を見据え、距離を測っている。
「おらあっ!」
山賊が斬りかかる。
女は半歩横へ動き、鉈を避けた。
そのまま刀を振るい、相手の腕を斬りつける。
「ぐあっ!」
山賊が悲鳴を上げた。
鉈が地面に落ちる。
「この野郎!」
別の山賊が刀を抜いた。
女はすぐに後退し、細い山道の中央へ移動した。
道の片側は斜面。
もう片側には木々が生い茂っている。
山賊たちは横に並ぶことができず、一人ずつ前へ出るしかなかった。
俺は地面に座り込んだまま、その様子を見つめていた。
山賊が刀を振り下ろす。
女はそれを受け止めた。
甲高い音が響く。
「くっ……!」
女の身体が少し押された。
決して余裕があるわけではないらしい。
山賊がさらに刀を振るう。
女は受け流しながら後退した。
しかし、足元にあった石に躓きかける。
「っ!」
体勢が崩れた。
「もらった!」
山賊が刀を振り下ろす。
「危ない!」
思わず叫んだ。
女は咄嗟に身体を捻った。
刃が肩先を掠め、着物が裂ける。
赤い血が滲んだ。
「ぐっ……!」
女は歯を食いしばりながら後退した。
俺は息を呑んだ。
怪我をした。
あの人も、山賊にやられてしまうかもしれない。
だが、女は刀を握り直した。
「……やっぱり、実戦は稽古とは違うな」
小さく呟く。
それから、再び構えた。
山賊が踏み込む。
女は今度こそ足元を確かめながら、相手の攻撃を受け流した。
そして、刀を振り下ろした山賊の手首を斬りつける。
「ぎゃあっ!」
山賊が刀を落とした。
女はすぐに間合いを詰め、刀の柄で相手の顔を打った。
山賊が地面に倒れる。
残る一人が後ずさった。
「な、何だよ……!」
女は肩を押さえながら、刀を構えた。
「まだやるか?」
「……くそっ!」
山賊は倒れた仲間を引きずり起こした。
「覚えてろよ!」
そう叫ぶと、山道の奥へ逃げていった。
腕を斬られた山賊も、すでに姿を消していた。
静寂が戻った。
「……はあ」
女は大きく息を吐いた。
「危なかった……」
刀を納め、肩の傷を確認する。
「浅いか。よかった……」
それから、俺の方へ歩いてきた。
「おい、大丈夫か?」
「……え?」
「怪我は?」
「あ、あの……」
言葉が出なかった。
俺はただ、目の前の女を見上げていた。
俺にはどうすることもできなかった山賊たち。
腕を掴まれただけで、逃げることすらできなかった相手。
その山賊たちを、この人は追い払った。
「おい、聞いてるか?」
「は、はい!」
「立てるか?」
「だ、大丈夫です!」
慌てて立ち上がろうとした。
だが、足に力が入らず、再び尻餅をついた。
「あいたっ……」
「……大丈夫じゃなさそうだな」
女は困ったように笑うと、手を差し伸べた。
「ほら、掴まれ」
「……ありがとうございます」
その手を握る。
ぐいっと引き上げられ、俺は簡単に立ち上がった。
「それで、どうして男が一人でこんなところに?」
「……町へ行こうと思って」
「一人で?」
「はい……」
女は眉をひそめた。
「護衛は?」
「……いません」
「村の者は何をしているんだ?」
俺は俯いた。
「……黙って出てきました」
「……は?」
「町に行きたいって言ったら、危ないから駄目だって言われて……」
女はしばらく黙っていた。
それから、大きくため息をついた。
「……なるほどな」
「すみません……」
「謝る相手が違うだろう」
「……はい」
「帰ったら、ちゃんと村の者に謝るんだぞ」
「はい……」
女は肩の傷を押さえながら、道端に置いた荷物を拾った。
「それで、町まではあとどのくらいだ?」
「えっと……一刻くらいだと思います」
「そうか」
女は少し考えた。
「私も町へ向かうところだ。そこまで送ってやる」
「えっ?」
「また山賊に襲われたら困るだろ?」
「で、でも、怪我を……」
「この程度なら大丈夫だ。それに、もう山道も半分以上来ている」
そう言って、女は歩き出した。
「ほら、行くぞ」
「あっ、はい!」
俺は慌てて後を追った。
*
しばらくの間、俺たちは山道を歩き続けた。
女は俺の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いてくれている。
「あの……」
「ん?」
「さっきは、本当にありがとうございました」
「気にするな。たまたま通りかかっただけだ」
「でも、怪我までして……」
「まあ、あれは私の腕が未熟だったせいだな」
女は苦笑した。
「もっと上手く立ち回れていれば、怪我なんてしなかっただろうし」
「……未熟?」
「ああ」
女は頷いた。
「私はまだまだだよ」
俺は驚いた。
あんなに強かったのに。
「あの、もしかして……武士の方ですか?」
「一応な」
「やっぱり!」
思わず声が大きくなった。
女は少し驚いたように俺を見る。
「何だ、そんなに珍しいか?」
「いえ、村にも武士の方が来ることはありますけど……戦っているところを見たのは初めてで」
「そうか」
「すごかったです!」
「……何が?」
「さっきの戦いです! 三人もいたのに、追い払って!」
女は苦笑した。
「追い払えたのは、相手が山賊だったからだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。あいつらは武器を持っていただけで、まともな訓練を受けていなかった」
女は肩をすくめた。
「それでも怪我をしたんだから、私も大したことはないさ」
「……」
「ちゃんと訓練を受けた武士が相手だったら、どうなっていたか分からない」
俺は女の腰にある刀を見つめた。
「……武士って、そんなに強いんですか?」
「人によるな。私より弱い者もいれば、比べものにならないくらい強い者もいる」
「へえ……」
「それに、強さは生まれつきだけで決まるものじゃない」
女は自分の手を見せた。
そこには、いくつもの小さな傷があった。
掌には硬い豆もできている。
「これ……」
「稽古でできたものだよ」
「稽古……」
「ああ。毎日刀を振って、槍を突いて、何度も転ばされて……」
女は懐かしそうに笑った。
「最初の頃は、師匠に一本も取れなかったな」
「……それでも、続けたんですか?」
「そりゃあな」
「どうしてですか?」
「強くなりたかったからだよ」
女は当たり前のように答えた。
「武士になるなら、少しでも腕を磨かないとな」
俺はその言葉を聞きながら、女の手を見つめていた。
傷だらけの手。
何度も刀を握り、稽古を繰り返してきた手。
この人は、最初から強かったわけじゃない。
何度も練習して、少しずつ強くなったんだ。
……俺と同じだ。
いや、同じなんて言ったら失礼かもしれない。
俺がやっているのは、縄編みや裁縫くらいだから。
それでも。
何度も繰り返して、少しずつ上手くなる。
そのことなら、俺にも分かる。
「あの……」
「何だ?」
「武士になるのって、大変なんですか?」
「そりゃあ、大変だよ」
女は即答した。
「剣の稽古も必要だし、槍や弓も覚えなきゃならない。戦になれば命を落とすことだってある」
「……」
「それに、強ければいいってものでもない。主君に仕える以上、命令を守ることも大切だ」
「そうなんですね……」
「まあ、私もまだ勉強中だけどな」
「勉強中?」
「ああ。今から城へ行って、仕官の試しを受けるんだ」
「仕官……?」
「城に仕えることだよ。上手くいけば、しばらく試しに働かせてもらえる」
「じゃあ、これからお城の武士になるんですか?」
「なれればいいんだがな」
女は肩をすくめた。
「腕の立つ者は他にも大勢いる。私が選ばれるとは限らない」
「でも、あんなに強いのに……」
「世の中にはもっと強い奴がいくらでもいるんだよ」
そう言って、女は笑った。
俺はその横顔を見つめた。
この人は、自分のことを強いとは思っていない。
まだまだ未熟だと言う。
それでも、山賊に襲われていた俺を助けてくれた。
危険だと分かっていても、刀を抜いて戦ってくれた。
俺にはできなかったことだ。
「……すごいな」
「ん?」
「あ、いえ! 何でもないです!」
慌てて首を振る。
女は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。
*
山を抜けると、景色が一変した。
広い街道。
行き交う人々。
荷車を引く商人や、馬に乗った武士たち。
遠くには、大きな建物がいくつも見える。
「わあ……!」
思わず声が漏れた。
「初めて来たのか?」
「はい!」
「そうか。なら、あまりきょろきょろするなよ。人にぶつかるぞ」
「は、はい!」
そう答えた直後、通りかかった荷車にぶつかりそうになった。
「おっと!」
女に襟首を掴まれ、引き戻される。
「言ったそばから……」
「す、すみません……」
「まったく、危なっかしい奴だな」
呆れたように言いながらも、女は笑っていた。
しばらく歩くと、町の入口にたどり着いた。
「さて、ここまで来れば大丈夫だろう」
女が足を止めた。
「私は城へ向かう。お前は町を見に来たんだったな?」
「はい……」
「なら、あまり遅くならないうちに帰るんだぞ」
「……はい」
「それと、帰りは誰かと一緒に帰れ。絶対に一人で山道を通るなよ」
「分かりました」
女は頷いた。
「よし。じゃあ、私は行くよ」
「あの!」
立ち去ろうとした女を、思わず呼び止めた。
「……ん?」
女が振り返る。
俺は深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました!」
「……ああ」
女は少し照れくさそうに笑った。
「気にするな。達者でな」
それだけ言うと、女は背を向けて歩き出した。
俺はその背中を見送った。
人混みの中へ消えていくまで、ずっと。
そして、ふと思った。
あの人みたいになれたら。
山賊に襲われても、何もできずに震えるだけだった俺。
女に腕を掴まれただけで、逃げることすらできなかった俺。
そんな俺でも、いつか。
誰かを助けられるようになれたら。
「……武士、か」
口に出してみる。
今まで考えたこともなかった。
武士になるのは女だ。
男は守られるもの。
それが当たり前だった。
村でも、そう教えられてきた。
でも。
俺は自分の手を見つめた。
小さく、力の弱い手。
さっきは山賊の腕を振りほどくことすらできなかった。
それでも。
「……俺も、あんなふうになりたいな」
小さく呟いた。
胸の奥が、不思議と熱かった。
どうすれば武士になれるのか。
男でも武士になれるのか。
何も分からない。
それでも、初めて自分のやりたいことが見つかった気がした。
俺はもう一度、女が消えた方向を見る。
そして、拳を握りしめた。
「……よし」
まずは、町を見て回ろう。
それから、村に帰ったら武士になる方法を調べてみよう。
そう決めて、俺は町の中へ足を踏み入れた。
このときの俺は、まだ知らなかった。
男が武士になるということが、どれほど難しいことなのかを。
ただ、あの武士のようになりたい。
その気持ちだけが、胸の中にあった。
第一話・終