武士になれぬこの身でも   作:色彩悪夢

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『山道で出会った武士』

朝日が山の向こうから顔を出し、村の田畑を照らし始めていた。

 

「……違うな」

 

俺は手元の縄を見つめ、小さく呟いた。

 

編み目が一か所だけ歪んでいる。

 

使えないわけじゃない。実際、昨日作った縄だって、少しくらい歪んでいても問題なく使えていた。

 

けれど、どうにも気に入らない。

 

「もう一回……」

 

縄をほどき、最初から編み直す。

 

右の藁を重ね、左の藁を通す。指先に力を込め、緩まないように引き締める。

 

何度も繰り返しているうちに、少しずつ形が整ってきた。

 

「よし、今度こそ……」

 

「おーい! まだやってるのかい!」

 

突然、背後から声が飛んできた。

 

「うわっ!?」

 

驚いて振り返ると、村の女が呆れた顔で立っていた。

 

「何だい、その声は。さっきから何度も呼んでるんだよ」

 

「えっ、そうなんですか?」

 

「そうなんですか、じゃないよ。もう昼になるよ」

 

「……昼?」

 

空を見上げる。

 

確かに、さっきまで東にあったはずの太陽が、随分と高い位置に昇っていた。

 

「……あれ?」

 

「まったく。朝飯を食べたら手伝いに来るって言ってたのは、どこの誰だったかねえ」

 

「あっ!」

 

そうだった。

 

今日は収穫した野菜を荷車に積む手伝いを頼まれていたんだ。

 

「す、すみません! すぐ行きます!」

 

「もうほとんど終わったよ」

 

「ええっ!?」

 

慌てて立ち上がる。

 

女は俺の手元を覗き込んだ。

 

「……また縄を編み直してたのかい?」

 

「はい。どうしても綺麗にできなくて……」

 

「昨日のだって十分使えたろうに」

 

「でも、少し歪んでたので」

 

「はあ……」

 

女は大きくため息をついた。

 

「あんたは昔からそうだねえ。一つのことを始めると、周りが見えなくなるんだから」

 

「……すみません」

 

「別に怒っちゃいないよ。ただ、もう少し周りを見なさいな」

 

そう言って、女は俺の頭を軽く撫でた。

 

「ほら、昼飯にするよ」

 

「はい!」

 

俺は編みかけの縄を置き、女の後を追った。

 

*

 

俺が暮らしているのは、山の麓にある小さな農村だ。

 

家は数十軒ほど。周囲には田畑が広がり、村人たちは農業を中心に生活している。

 

特別豊かな村ではないが、飢えるほど貧しいわけでもない。

 

そんな、ごく普通の村だった。

 

この村では、女たちが畑を耕し、木を切り、重い荷物を運ぶ。

 

男は家の中の仕事や、比較的軽い作業を任されることが多い。

 

理由は単純だ。

 

女の方が男より大きく、強いからだ。

 

俺も何度か畑仕事を手伝おうとしたことがある。

 

だが、女たちが軽々と持ち上げる荷物を、俺は両手で抱えてようやく運べる程度だった。

 

無理をして運ぼうとすれば、すぐに取り上げられる。

 

『男が無理するんじゃないよ』

 

『怪我でもしたらどうするんだい』

 

そんな言葉は、これまで何度も聞いてきた。

 

別に俺だけが特別弱いわけではない。

 

村の男たちは、大体似たようなものだ。

 

だから、俺も自分が力仕事に向いていないことくらい理解していた。

 

それでも、何もできないのは嫌だった。

 

少しでも役に立てるように、縄編みや裁縫、炊事など、任された仕事はなるべく上手くできるように練習している。

 

もっとも、夢中になりすぎて他の仕事を忘れることも多いのだが。

 

「そういえば、町に行く人は決まったの?」

 

昼飯を食べていると、隣に座っていた女が尋ねた。

 

「ああ、あれかい。まだ決まってないよ」

 

向かいに座っていた年配の女が答える。

 

「塩も油も少なくなってきたし、そろそろ買いに行かなきゃならないんだけどねえ」

 

「今は収穫で忙しいからね」

 

「誰か手の空いてる奴がいればいいんだけど」

 

俺は箸を止めた。

 

「……町?」

 

「ん? どうした?」

 

「あの、町に行くんですか?」

 

「ああ。買い物にね」

 

俺は少し考えた。

 

町。

 

村にやって来る行商人から、何度か話を聞いたことがある。

 

大きな店が並び、見たこともない品物が売られている場所。

 

人も多く、村とは比べものにならないほど賑やからしい。

 

一度くらい行ってみたいと思っていた。

 

「あの、俺が行くのは駄目ですか?」

 

そう尋ねた瞬間、周囲の女たちが一斉にこちらを見た。

 

「……は?」

 

「俺、町まで買い物に行ってみたいんです」

 

少しの沈黙。

 

それから、女たちが笑い始めた。

 

「ははは! 何を言い出すかと思えば!」

 

「男が一人で町に行くって?」

 

「駄目に決まってるだろう!」

 

「えっ……」

 

思っていたより、ずっとあっさり断られた。

 

「で、でも、道は覚えれば……」

 

「道を覚えたって駄目なものは駄目だよ」

 

「どうしてですか?」

 

「危ないからに決まってるだろう」

 

年配の女が呆れたように言った。

 

「町まで行くには山道を通らなきゃならない。山賊が出るって噂もあるんだよ」

 

「でも、昼間なら……」

 

「昼間でも危ないものは危ない」

 

「……」

 

「男が一人で出歩いて、何かあったらどうするんだい。あんたは村で大人しくしてな」

 

それ以上、口を挟む余地はなかった。

 

俺は仕方なく箸を動かした。

 

けれど、頭の中では町のことばかり考えていた。

 

*

 

翌朝。

 

まだ村の女たちが畑へ出る前の時間。

 

俺は小さな風呂敷包みを背負い、家の戸を静かに開けた。

 

「……よし」

 

周囲に人がいないことを確認する。

 

昨夜のうちに準備は済ませていた。

 

水筒。

 

握り飯。

 

道を聞いて書き留めた紙。

 

それから、少しばかりの銭。

 

銭は、普段の仕事で少しずつ貯めたものだ。

 

男が自由に使える金は多くないが、長い間貯めてきたおかげで、町で何かを買うくらいはできる。

 

「昼過ぎには町に着くはずだし……」

 

帰りのことも考え、道順は何度も確認した。

 

村から町へ向かう行商人にも、以前それとなく道を尋ねておいた。

 

準備は万全。

 

……のはずだ。

 

「日が暮れる前には帰ってこよう」

 

そう呟き、俺は村を出た。

 

もちろん、誰にも許可は取っていない。

 

言えば止められるに決まっているからだ。

 

少し後ろめたい気持ちはあった。

 

でも、町に行ってみたい。

 

それに、いつまでも村の外へ一人で出られないというのも、何だか悔しかった。

 

ちゃんと行って、ちゃんと帰ってくれば、皆も少しは認めてくれるかもしれない。

 

そんなことを考えながら、俺は歩き始めた。

 

*

 

村から離れるにつれ、見慣れた景色が少しずつ変わっていった。

 

田畑が途切れ、草原が広がり、その先には山が見える。

 

「へえ……」

 

思わず声が漏れた。

 

村の外には、こんな景色が広がっていたのか。

 

道端には見たことのない花が咲き、小川には小魚が泳いでいる。

 

俺は何度も足を止め、その景色を眺めた。

 

「この花、村の近くには咲いてないな……」

 

しゃがみ込み、花びらを観察する。

 

五枚の白い花びら。

 

中心には黄色い模様。

 

何という名前だろう。

 

村に帰ったら、誰かに聞いてみよう。

 

そう考えているうちに、随分と時間が経っていた。

 

「あっ、いけない!」

 

慌てて立ち上がる。

 

また夢中になってしまった。

 

俺は足早に山道へ向かった。

 

山に入ると、木々が日差しを遮り、辺りは薄暗くなった。

 

道は細く、片側には斜面が続いている。

 

「……ここを抜ければ、町に続く街道か」

 

紙を取り出し、道順を確認する。

 

間違いない。

 

このまま進めばいい。

 

俺は紙をしまい、歩き始めた。

 

しばらく進んだところで、道の脇に古い石碑を見つけた。

 

「何だろう、これ……」

 

苔に覆われ、文字はほとんど読めない。

 

ただ、上の方には何かの絵が彫られていた。

 

狐……だろうか。

 

いや、耳の形が少し違う。

 

「妖怪を祀ってるのかな……?」

 

気になって近づく。

 

村でも、山には怪異が出るという話を聞いたことがある。

 

もっとも、実際に見たことはない。

 

俺は石碑の苔を指で払い、彫られた文字を読もうとした。

 

「えっと……」

 

そのとき。

 

「おや?」

 

背後から声がした。

 

「こんなところに男がいるじゃないか」

 

俺は振り返った。

 

そこには、三人の女が立っていた。

 

いずれも薄汚れた着物を身にまとい、腰には刀や鉈を差している。

 

一人は背が高く、肩幅も広い。

 

もう一人は頬に傷があり、最後の一人は痩せていたが、俺よりずっと大柄だった。

 

「……あの」

 

「お前、一人かい?」

 

背の高い女が尋ねた。

 

「は、はい……」

 

「へえ」

 

女は口元を歪めた。

 

「護衛もつけずに山道を歩いてるなんて、随分と不用心な男だねえ」

 

嫌な予感がした。

 

女たちの視線が、俺の顔から身体、そして背負っている荷物へと移る。

 

「どこへ行くんだい?」

 

「……町です」

 

「そうかい。なら、あたしたちと一緒に来な」

 

「えっ?」

 

「いいところへ連れていってやるよ」

 

女が近づいてくる。

 

俺は一歩後ずさった。

 

「い、いえ。急いでいるので……」

 

「遠慮することないって」

 

別の女が、俺の背後へ回り込もうとした。

 

そこで、ようやく理解した。

 

山賊だ。

 

「す、すみません!」

 

俺は咄嗟に走り出した。

 

だが。

 

「遅いねえ!」

 

「うわっ!?」

 

数歩も進まないうちに、襟首を掴まれた。

 

強い力で引き戻され、地面に転がる。

 

「いっ……!」

 

背中を打ち、息が詰まった。

 

「逃げるんじゃないよ」

 

女が俺の腕を掴む。

 

「は、離してください!」

 

必死に振りほどこうとする。

 

だが、びくともしない。

 

両手で押しても、腕を捻っても、相手の手はまったく動かなかった。

 

「おとなしくしな!」

 

「嫌だ!」

 

俺は空いている手で女の顔を殴ろうとした。

 

しかし、その拳は簡単に掴まれた。

 

「……何だい、これ」

 

女が呆れたように笑った。

 

「こんな細い腕で、あたしを殴ろうってのかい?」

 

「くっ……!」

 

握られた拳に力が加わる。

 

「いっ、痛い! 痛いって!」

 

「だったら暴れるなよ」

 

女が手を離す。

 

俺は痛む指を抱えながら、地面にうずくまった。

 

怖い。

 

今まで、こんな目に遭ったことはなかった。

 

村の女たちも俺よりずっと力が強かったが、こんなふうに力を振るわれたことはない。

 

「さて、どうする?」

 

「町に連れていけば、そこそこの金になるだろ」

 

「逃げられないように縛っときな」

 

女たちが相談している。

 

俺は必死に頭を働かせた。

 

逃げなければ。

 

何とかして逃げなければ。

 

だが、どうすればいい?

 

相手は三人。

 

全員、俺より大きくて強い。

 

武器まで持っている。

 

俺には何もない。

 

……いや。

 

懐には、小さな銭袋がある。

 

金を渡せば、見逃してもらえるかもしれない。

 

「あ、あの!」

 

「あ?」

 

「お金ならあります! だから、見逃してください!」

 

震える手で銭袋を取り出す。

 

女はそれを見ると、笑った。

 

「何だ、持ってるじゃないか」

 

銭袋を奪い取られる。

 

「これで……」

 

「で、他には?」

 

「……え?」

 

「他に何か持ってないのかって聞いてるんだよ」

 

「そ、それだけです……」

 

「そうかい」

 

女は銭袋を懐にしまった。

 

「じゃあ、行こうか」

 

「ま、待ってください! お金を渡したじゃないですか!」

 

「だから何だい?」

 

女が俺の腕を掴んだ。

 

「金も貰ったし、お前も連れていく。それだけだろ?」

 

「そんな……!」

 

抵抗しようとした瞬間、頬を叩かれた。

 

「っ!」

 

視界が揺れる。

 

口の中に血の味が広がった。

 

俺は地面に倒れ込んだ。

 

痛い。

 

怖い。

 

帰りたい。

 

どうして、こんなことになったんだろう。

 

村の女たちは、危ないと言っていた。

 

俺はそれを聞かなかった。

 

自分なら大丈夫だと思っていた。

 

ちゃんと準備をしたから。

 

道も覚えたから。

 

昼間なら安全だと思ったから。

 

……馬鹿だ。

 

俺は本当に馬鹿だ。

 

「……助けて」

 

小さな声が漏れた。

 

「誰か……」

 

女が縄を取り出す。

 

俺は必死に後ずさった。

 

「助けてくれ……!」

 

そのときだった。

 

「おい」

 

聞き慣れない声が響いた。

 

「そこで何をしている?」

 

*

 

三人の山賊が振り返った。

 

山道の向こうに、一人の女が立っていた。

 

旅装束の上から簡素な防具を身につけ、腰には刀を差している。

 

背中には荷物を背負っていた。

 

女は俺と山賊たちを見比べると、眉をひそめた。

 

「……男を攫おうとしているのか?」

 

「だったら何だい?」

 

山賊の一人が答えた。

 

「見なかったことにして通り過ぎな。あんたには関係ないだろ」

 

女は小さく息を吐いた。

 

「そうしたいところだが……」

 

背負っていた荷物を道端に下ろす。

 

「流石に見過ごせないな」

 

山賊たちの表情が変わった。

 

「……あんた、武士か?」

 

「まあ、一応な」

 

「へえ。なら、痛い目を見たくなきゃ大人しくしてな」

 

女は腰の刀に手をかけた。

 

「その男を離してくれれば、こちらも何もしない」

 

「断るよ」

 

「……そうか」

 

刀が鞘から抜かれる。

 

俺は息を呑んだ。

 

初めて見る、本物の武士の構えだった。

 

「なら、仕方ないな」

 

女は刀を正面に構えた。

 

*

 

「やっちまいな!」

 

山賊の一人が鉈を振り上げた。

 

女はすぐには動かなかった。

 

じっと相手を見据え、距離を測っている。

 

「おらあっ!」

 

山賊が斬りかかる。

 

女は半歩横へ動き、鉈を避けた。

 

そのまま刀を振るい、相手の腕を斬りつける。

 

「ぐあっ!」

 

山賊が悲鳴を上げた。

 

鉈が地面に落ちる。

 

「この野郎!」

 

別の山賊が刀を抜いた。

 

女はすぐに後退し、細い山道の中央へ移動した。

 

道の片側は斜面。

 

もう片側には木々が生い茂っている。

 

山賊たちは横に並ぶことができず、一人ずつ前へ出るしかなかった。

 

俺は地面に座り込んだまま、その様子を見つめていた。

 

山賊が刀を振り下ろす。

 

女はそれを受け止めた。

 

甲高い音が響く。

 

「くっ……!」

 

女の身体が少し押された。

 

決して余裕があるわけではないらしい。

 

山賊がさらに刀を振るう。

 

女は受け流しながら後退した。

 

しかし、足元にあった石に躓きかける。

 

「っ!」

 

体勢が崩れた。

 

「もらった!」

 

山賊が刀を振り下ろす。

 

「危ない!」

 

思わず叫んだ。

 

女は咄嗟に身体を捻った。

 

刃が肩先を掠め、着物が裂ける。

 

赤い血が滲んだ。

 

「ぐっ……!」

 

女は歯を食いしばりながら後退した。

 

俺は息を呑んだ。

 

怪我をした。

 

あの人も、山賊にやられてしまうかもしれない。

 

だが、女は刀を握り直した。

 

「……やっぱり、実戦は稽古とは違うな」

 

小さく呟く。

 

それから、再び構えた。

 

山賊が踏み込む。

 

女は今度こそ足元を確かめながら、相手の攻撃を受け流した。

 

そして、刀を振り下ろした山賊の手首を斬りつける。

 

「ぎゃあっ!」

 

山賊が刀を落とした。

 

女はすぐに間合いを詰め、刀の柄で相手の顔を打った。

 

山賊が地面に倒れる。

 

残る一人が後ずさった。

 

「な、何だよ……!」

 

女は肩を押さえながら、刀を構えた。

 

「まだやるか?」

 

「……くそっ!」

 

山賊は倒れた仲間を引きずり起こした。

 

「覚えてろよ!」

 

そう叫ぶと、山道の奥へ逃げていった。

 

腕を斬られた山賊も、すでに姿を消していた。

 

静寂が戻った。

 

「……はあ」

 

女は大きく息を吐いた。

 

「危なかった……」

 

刀を納め、肩の傷を確認する。

 

「浅いか。よかった……」

 

それから、俺の方へ歩いてきた。

 

「おい、大丈夫か?」

 

「……え?」

 

「怪我は?」

 

「あ、あの……」

 

言葉が出なかった。

 

俺はただ、目の前の女を見上げていた。

 

俺にはどうすることもできなかった山賊たち。

 

腕を掴まれただけで、逃げることすらできなかった相手。

 

その山賊たちを、この人は追い払った。

 

「おい、聞いてるか?」

 

「は、はい!」

 

「立てるか?」

 

「だ、大丈夫です!」

 

慌てて立ち上がろうとした。

 

だが、足に力が入らず、再び尻餅をついた。

 

「あいたっ……」

 

「……大丈夫じゃなさそうだな」

 

女は困ったように笑うと、手を差し伸べた。

 

「ほら、掴まれ」

 

「……ありがとうございます」

 

その手を握る。

 

ぐいっと引き上げられ、俺は簡単に立ち上がった。

 

「それで、どうして男が一人でこんなところに?」

 

「……町へ行こうと思って」

 

「一人で?」

 

「はい……」

 

女は眉をひそめた。

 

「護衛は?」

 

「……いません」

 

「村の者は何をしているんだ?」

 

俺は俯いた。

 

「……黙って出てきました」

 

「……は?」

 

「町に行きたいって言ったら、危ないから駄目だって言われて……」

 

女はしばらく黙っていた。

 

それから、大きくため息をついた。

 

「……なるほどな」

 

「すみません……」

 

「謝る相手が違うだろう」

 

「……はい」

 

「帰ったら、ちゃんと村の者に謝るんだぞ」

 

「はい……」

 

女は肩の傷を押さえながら、道端に置いた荷物を拾った。

 

「それで、町まではあとどのくらいだ?」

 

「えっと……一刻くらいだと思います」

 

「そうか」

 

女は少し考えた。

 

「私も町へ向かうところだ。そこまで送ってやる」

 

「えっ?」

 

「また山賊に襲われたら困るだろ?」

 

「で、でも、怪我を……」

 

「この程度なら大丈夫だ。それに、もう山道も半分以上来ている」

 

そう言って、女は歩き出した。

 

「ほら、行くぞ」

 

「あっ、はい!」

 

俺は慌てて後を追った。

 

*

 

しばらくの間、俺たちは山道を歩き続けた。

 

女は俺の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いてくれている。

 

「あの……」

 

「ん?」

 

「さっきは、本当にありがとうございました」

 

「気にするな。たまたま通りかかっただけだ」

 

「でも、怪我までして……」

 

「まあ、あれは私の腕が未熟だったせいだな」

 

女は苦笑した。

 

「もっと上手く立ち回れていれば、怪我なんてしなかっただろうし」

 

「……未熟?」

 

「ああ」

 

女は頷いた。

 

「私はまだまだだよ」

 

俺は驚いた。

 

あんなに強かったのに。

 

「あの、もしかして……武士の方ですか?」

 

「一応な」

 

「やっぱり!」

 

思わず声が大きくなった。

 

女は少し驚いたように俺を見る。

 

「何だ、そんなに珍しいか?」

 

「いえ、村にも武士の方が来ることはありますけど……戦っているところを見たのは初めてで」

 

「そうか」

 

「すごかったです!」

 

「……何が?」

 

「さっきの戦いです! 三人もいたのに、追い払って!」

 

女は苦笑した。

 

「追い払えたのは、相手が山賊だったからだよ」

 

「そうなんですか?」

 

「ああ。あいつらは武器を持っていただけで、まともな訓練を受けていなかった」

 

女は肩をすくめた。

 

「それでも怪我をしたんだから、私も大したことはないさ」

 

「……」

 

「ちゃんと訓練を受けた武士が相手だったら、どうなっていたか分からない」

 

俺は女の腰にある刀を見つめた。

 

「……武士って、そんなに強いんですか?」

 

「人によるな。私より弱い者もいれば、比べものにならないくらい強い者もいる」

 

「へえ……」

 

「それに、強さは生まれつきだけで決まるものじゃない」

 

女は自分の手を見せた。

 

そこには、いくつもの小さな傷があった。

 

掌には硬い豆もできている。

 

「これ……」

 

「稽古でできたものだよ」

 

「稽古……」

 

「ああ。毎日刀を振って、槍を突いて、何度も転ばされて……」

 

女は懐かしそうに笑った。

 

「最初の頃は、師匠に一本も取れなかったな」

 

「……それでも、続けたんですか?」

 

「そりゃあな」

 

「どうしてですか?」

 

「強くなりたかったからだよ」

 

女は当たり前のように答えた。

 

「武士になるなら、少しでも腕を磨かないとな」

 

俺はその言葉を聞きながら、女の手を見つめていた。

 

傷だらけの手。

 

何度も刀を握り、稽古を繰り返してきた手。

 

この人は、最初から強かったわけじゃない。

 

何度も練習して、少しずつ強くなったんだ。

 

……俺と同じだ。

 

いや、同じなんて言ったら失礼かもしれない。

 

俺がやっているのは、縄編みや裁縫くらいだから。

 

それでも。

 

何度も繰り返して、少しずつ上手くなる。

 

そのことなら、俺にも分かる。

 

「あの……」

 

「何だ?」

 

「武士になるのって、大変なんですか?」

 

「そりゃあ、大変だよ」

 

女は即答した。

 

「剣の稽古も必要だし、槍や弓も覚えなきゃならない。戦になれば命を落とすことだってある」

 

「……」

 

「それに、強ければいいってものでもない。主君に仕える以上、命令を守ることも大切だ」

 

「そうなんですね……」

 

「まあ、私もまだ勉強中だけどな」

 

「勉強中?」

 

「ああ。今から城へ行って、仕官の試しを受けるんだ」

 

「仕官……?」

 

「城に仕えることだよ。上手くいけば、しばらく試しに働かせてもらえる」

 

「じゃあ、これからお城の武士になるんですか?」

 

「なれればいいんだがな」

 

女は肩をすくめた。

 

「腕の立つ者は他にも大勢いる。私が選ばれるとは限らない」

 

「でも、あんなに強いのに……」

 

「世の中にはもっと強い奴がいくらでもいるんだよ」

 

そう言って、女は笑った。

 

俺はその横顔を見つめた。

 

この人は、自分のことを強いとは思っていない。

 

まだまだ未熟だと言う。

 

それでも、山賊に襲われていた俺を助けてくれた。

 

危険だと分かっていても、刀を抜いて戦ってくれた。

 

俺にはできなかったことだ。

 

「……すごいな」

 

「ん?」

 

「あ、いえ! 何でもないです!」

 

慌てて首を振る。

 

女は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。

 

*

 

山を抜けると、景色が一変した。

 

広い街道。

 

行き交う人々。

 

荷車を引く商人や、馬に乗った武士たち。

 

遠くには、大きな建物がいくつも見える。

 

「わあ……!」

 

思わず声が漏れた。

 

「初めて来たのか?」

 

「はい!」

 

「そうか。なら、あまりきょろきょろするなよ。人にぶつかるぞ」

 

「は、はい!」

 

そう答えた直後、通りかかった荷車にぶつかりそうになった。

 

「おっと!」

 

女に襟首を掴まれ、引き戻される。

 

「言ったそばから……」

 

「す、すみません……」

 

「まったく、危なっかしい奴だな」

 

呆れたように言いながらも、女は笑っていた。

 

しばらく歩くと、町の入口にたどり着いた。

 

「さて、ここまで来れば大丈夫だろう」

 

女が足を止めた。

 

「私は城へ向かう。お前は町を見に来たんだったな?」

 

「はい……」

 

「なら、あまり遅くならないうちに帰るんだぞ」

 

「……はい」

 

「それと、帰りは誰かと一緒に帰れ。絶対に一人で山道を通るなよ」

 

「分かりました」

 

女は頷いた。

 

「よし。じゃあ、私は行くよ」

 

「あの!」

 

立ち去ろうとした女を、思わず呼び止めた。

 

「……ん?」

 

女が振り返る。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「本当に、ありがとうございました!」

 

「……ああ」

 

女は少し照れくさそうに笑った。

 

「気にするな。達者でな」

 

それだけ言うと、女は背を向けて歩き出した。

 

俺はその背中を見送った。

 

人混みの中へ消えていくまで、ずっと。

 

そして、ふと思った。

 

あの人みたいになれたら。

 

山賊に襲われても、何もできずに震えるだけだった俺。

 

女に腕を掴まれただけで、逃げることすらできなかった俺。

 

そんな俺でも、いつか。

 

誰かを助けられるようになれたら。

 

「……武士、か」

 

口に出してみる。

 

今まで考えたこともなかった。

 

武士になるのは女だ。

 

男は守られるもの。

 

それが当たり前だった。

 

村でも、そう教えられてきた。

 

でも。

 

俺は自分の手を見つめた。

 

小さく、力の弱い手。

 

さっきは山賊の腕を振りほどくことすらできなかった。

 

それでも。

 

「……俺も、あんなふうになりたいな」

 

小さく呟いた。

 

胸の奥が、不思議と熱かった。

 

どうすれば武士になれるのか。

 

男でも武士になれるのか。

 

何も分からない。

 

それでも、初めて自分のやりたいことが見つかった気がした。

 

俺はもう一度、女が消えた方向を見る。

 

そして、拳を握りしめた。

 

「……よし」

 

まずは、町を見て回ろう。

 

それから、村に帰ったら武士になる方法を調べてみよう。

 

そう決めて、俺は町の中へ足を踏み入れた。

 

このときの俺は、まだ知らなかった。

 

男が武士になるということが、どれほど難しいことなのかを。

 

ただ、あの武士のようになりたい。

 

その気持ちだけが、胸の中にあった。

 

第一話・終

 

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