町というのは、こんなにも騒がしい場所なのか。
「おお……」
俺は思わず声を漏らした。
目の前には、村では見たこともないほど大勢の人が行き交っていた。
道の両側には店が並び、商人たちが声を張り上げている。
「さあ、寄っていきな! 今日はいい魚が入ってるよ!」
「反物ならうちだ! 浪華から仕入れた上物だよ!」
「そこのお姉さん! ちょっと見ていかない?」
荷車を引く女。
大きな荷物を肩に担ぐ女。
腰に刀を差し、堂々と道の真ん中を歩く女武者。
その一方で、男たちは店先で客を呼び込んだり、女たちの後ろを歩いたりしていた。
村とは何もかもが違う。
「すごいなあ……」
俺は周囲を見回しながら歩いた。
見たことのない品物。
嗅いだことのない香辛料の匂い。
どこからともなく聞こえてくる三味線の音。
あっちも見たい。
こっちも気になる。
気づけば、俺は一軒の店先で足を止めていた。
「……何だ、これ?」
並んでいるのは、色とりどりの小さな硝子玉だった。
日の光を受けて、きらきらと輝いている。
村では見たことがない。
「綺麗だな……」
「おや、坊や。気に入ったのかい?」
店主の女が声をかけてきた。
「あっ、はい! これ、何ですか?」
「硝子玉だよ。浪華の商人が持ってきた品さ」
「へえ……」
俺は一つを手に取ろうとして、慌てて手を引っ込めた。
勝手に触ってはいけない。
「……いくらですか?」
店主が値段を告げる。
「えっ!?」
思わず声が裏返った。
小さな玉一つで、村で何日も働いて貰える銭が必要だった。
「た、高い……」
「珍しい品だからねえ。まあ、男の小遣いじゃ手が出ないだろうさ」
店主は笑いながら言った。
俺も曖昧に笑い返し、その場を離れた。
「……町って、金がかかるんだな」
懐の銭袋を軽く押さえる。
中には、これまで少しずつ貯めてきた銭が入っている。
山賊に奪われたものだが、助けてくれた侍が、落ちていた銭袋を拾って返してくれた。
ありがたいことに、中身も無事だった。
けれど、さっきの硝子玉の値段を聞いたせいで、急に心細くなってきた。
俺にとっては、それなりに貯めたつもりだったのだが。
「……まあ、買わなきゃいいだけか」
そう呟いて、再び歩き出した。
そのときだった。
カン、カン、カン。
乾いた音が聞こえてきた。
「……ん?」
何だろう。
音のする方へ顔を向ける。
通りの奥に、何人かの女が集まっていた。
その手には、木刀が握られている。
「……あっ!」
俺は思わず駆け出した。
*
そこは、武術の稽古場らしかった。
広い庭のような場所で、数人の女たちが木刀を振るっている。
「はっ!」
「甘い!」
木刀同士がぶつかり、乾いた音が響いた。
一人が踏み込み、もう一人が受け流す。
そのまま足を払われ、片方が地面に倒れた。
「痛っ!」
「足元がお留守だよ。もう一度!」
「はい!」
倒れた女はすぐに立ち上がり、再び構えた。
俺は柵の外から、その様子をじっと見つめていた。
「……すごい」
山道で助けてくれた侍を思い出す。
あの人も、こうして稽古をしてきたのだろうか。
何度も刀を振り、何度も失敗して。
そうやって強くなったのだろうか。
俺は女たちの動きを目で追った。
右足を前に出す。
木刀を振り下ろす。
相手の攻撃を横へ受け流す。
「……こう、かな」
俺は無意識に右足を前へ出した。
次に、左足を少し引く。
稽古場の女たちがやっていたように、両手を前に出してみた。
もちろん、木刀なんて持っていない。
ただ、握っているつもりで腕を上げただけだ。
「えっと……右足を出して、それから……」
一歩踏み込む。
両手を振り下ろす。
「……あれ?」
何かが違う。
さっきの女たちは、もっと滑らかに動いていたはずだ。
俺はもう一度やってみた。
今度は少し速く。
「よっ……と!」
踏み込んだ瞬間、身体が前へ傾いた。
「うわっ!?」
慌てて足を出す。
危うく転びそうになった。
「……難しいな」
足の位置が悪かったのだろうか。
俺は稽古場に目を戻した。
女たちの足元を注意深く観察する。
右足。
左足。
踏み込むときは、後ろの足も動かしている。
「……なるほど」
もう一度、真似してみる。
今度は少し上手くできた気がした。
「……よし、もう一回」
「おい、そこの男」
「……右足を出して……」
「おい!」
「うわっ!?」
突然、肩を叩かれた。
振り返ると、稽古着を着た大柄な女が立っていた。
「何してるんだ?」
「あっ、すみません! 稽古を見ていて……」
「見ていたのは分かるけどね」
女は俺の足元を見た。
「さっきから、何をやってるんだい?」
「その……真似してました」
「真似?」
「はい。剣術の動きを……」
女は目を丸くした。
「……お前が?」
「はい」
少しの沈黙。
女は俺の身体を上から下まで眺めた。
「……ちょっと、構えてみな」
「えっ?」
「さっきやってたやつだよ」
「あっ、はい!」
俺は慌てて足を開き、両手を前に出した。
稽古場の女たちがやっていた姿勢を思い出す。
右足を前。
左足を後ろ。
両手は胸の前。
「……こう、ですか?」
「違う」
即答だった。
「えっ?」
「足が開きすぎだよ。それじゃ踏み込んだときに身体が流れるだろ」
「あっ……」
「それに、腕に力を入れすぎ。そんなに肩を上げてどうするんだい」
「す、すみません!」
「謝らなくていいから、直してみな」
「はい!」
俺は言われた通りに足を動かした。
少し狭くする。
肩の力を抜く。
「……こうですか?」
「まだ広い」
「……これくらい?」
「そうそう。で、身体を前に倒しすぎない」
俺は何度か姿勢を直した。
女は腕を組んで見ている。
「……よし。じゃあ、そのまま一歩踏み込んでみな」
「はい!」
俺は右足を前へ出した。
続けて左足も動かす。
「……あれ?」
また身体が揺れた。
女がため息をつく。
「だから、身体を前に倒しすぎだって」
「す、すみません!」
「もう一回」
「はい!」
俺は繰り返した。
一回。
二回。
三回。
何度も足を動かす。
少しずつ、身体の揺れが小さくなってきた。
「……よし!」
「いや、まだ駄目だよ」
「ええっ!?」
女は呆れたように笑った。
「お前、随分と熱心だねえ」
「……そうですか?」
「ああ。普通はここまで言われたら嫌になるもんだよ」
俺は少し考えた。
「でも、できないままだと気になるので……」
「……ははっ!」
女が笑った。
「変わった男だねえ」
それから、俺の腕を見た。
「……ただね」
「はい?」
「お前、剣術を習いたいのかい?」
「……はい」
「何のために?」
俺は少し迷った。
けれど、正直に答えた。
「……武士になりたいんです」
女の表情が変わった。
「……武士?」
「はい」
「お前が?」
「……はい」
女はしばらく黙っていた。
それから、困ったように頭を掻いた。
「……そりゃあ、また大きな夢だねえ」
「……やっぱり、無理でしょうか?」
「無理かどうかは知らないよ」
意外な答えだった。
「……え?」
「私はお前の一生を知ってるわけじゃないからね。ただ、相当難しいとは思うよ」
女は稽古場を指差した。
「あそこにいる連中だって、何年も稽古してる。それでも、武士として仕えられるかどうかは分からない」
「……」
「それに、お前は男だろ?」
俺は頷いた。
「女より身体が小さいし、力も弱い。稽古で身体を壊すかもしれない」
「……でも、練習すれば」
「そりゃあ、今より上手くはなるだろうさ」
女は俺の腕を軽く掴んだ。
「ただ、覚えなきゃならないのは剣の振り方だけじゃない。踏み込みも、体力も、相手の動きを読むことも必要だ」
「……」
「お前が何年稽古したって、体格のいい女に力比べで勝てるとは限らないよ」
俺は自分の腕を見た。
女の手と比べると、随分と細い。
「……そう、ですよね」
「だから悪いことは言わない。無理して武士なんて目指さず、別のことを考えた方がいい」
「……」
「剣術を覚えたいだけならともかく、武士になりたいとなると話は別だからね」
女は俺の肩を軽く叩いた。
「ほら、もう行きな。お前に何かあったら、私まで叱られちまう」
「……はい」
俺は頭を下げた。
「教えてくれて、ありがとうございました」
「ああ。気をつけて帰りな」
俺は稽古場を後にした。
少し歩いてから、もう一度足を止める。
右足を前へ。
左足を後ろへ。
身体を倒しすぎないように、一歩踏み込む。
「……こう、だったかな」
今度は転ばなかった。
けれど、これで合っているのかは分からない。
「……難しいなあ」
俺は小さく呟き、再び歩き出した。
*
しばらく町を歩いていると、一軒の店が目に入った。
店先には、刀や槍、弓などが並んでいる。
「……武器屋?」
俺は足を止めた。
店の奥には、大小さまざまな刀が置かれていた。
鞘に美しい装飾が施されたもの。
飾り気のない実用的なもの。
長い槍や、重そうな鎧まである。
「……おお」
思わず見入ってしまった。
山道で見た、あの侍の刀。
あの人も、こういう店で刀を買ったのだろうか。
「何だい、坊や」
店の奥から声がした。
顔を上げると、腕の太い女がこちらを見ていた。
「何か探してるのかい?」
「あっ、はい!」
俺は店に近づいた。
「あの、刀っていくらくらいするんですか?」
「刀?」
「はい!」
女は店先に置かれた刀を一本手に取った。
「物によるね。飾り刀なら高いし、実際に使うものでも出来次第だ」
「……一番安いのは?」
「そうだねえ……」
女は一本の刀を指差した。
「これなんかは安い方だよ」
そして、値段を告げる。
「…………え?」
俺は固まった。
聞き間違いかと思った。
「……あの、もう一度いいですか?」
女が同じ値段を繰り返す。
俺は懐の銭袋を押さえた。
全然足りない。
それどころか、今の所持金では刀の代金のほんの一部にしかならなかった。
「……そんなにするんですか?」
「そりゃあ、刀だからね」
女は当たり前のように言った。
「鉄も使うし、鍛えるのにも手間がかかる。安物でもそれなりの値段はするよ」
「……」
「で、買うのかい?」
「……その、今はちょっと」
「そうかい」
女は刀を元の場所へ戻した。
「金が貯まったら、またおいで」
「……あの」
「ん?」
「男でも、刀を買えるんですか?」
女は不思議そうな顔をした。
「金さえ払えば売るよ」
「……え?」
「うちは武器屋だからね。男だろうが女だろうが、金を持ってる客なら相手にするさ」
女は肩をすくめた。
「まあ、男が刀を買うなんて滅多にないけどね」
「……そうなんですか」
「そりゃあ、普通は必要ないだろう?」
女は俺の顔を見た。
「それで、お前は何に使うつもりなんだい?」
俺は少し迷った。
けれど、正直に答えることにした。
「……武士になりたくて」
「……武士?」
「はい」
女は俺を見つめた。
それから、少しだけ眉を上げた。
「へえ。男が武士を目指すのかい」
「……変ですか?」
「珍しいとは思うけどね。まあ、人の夢に口を出すつもりはないよ」
意外だった。
てっきり笑われると思っていた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃないさ」
女は店の奥から木刀を一本取り出した。
「ただ、武士になりたいなら、いきなり真剣を買う必要はないんじゃないかい?」
「……木刀?」
「ああ。まずは稽古だろう?」
「……確かに」
俺は木刀を見つめた。
さっきの稽古場の女たちが使っていたものと似ている。
「……これなら、いくらですか?」
女が値段を告げる。
「……あっ」
刀よりは、ずっと安い。
けれど。
「……やっぱり、足りない」
俺は肩を落とした。
女は苦笑した。
「随分と銭が少ないみたいだねえ」
「……はい」
「だったら、まずは金を貯めることだね」
「……そうですよね」
「それに、剣術を習うなら師匠への礼も必要になるだろうし、武具も揃えなきゃならない」
「……師匠にも、お金を払うんですか?」
「そりゃあね。どこかの家に奉公して教わるならともかく、道場に通うなら月謝がいるところも多いよ」
「……」
「武士になるには、腕だけじゃなく金も必要ってことさ」
俺は懐の銭袋を握りしめた。
刀を買う金がない。
木刀を買う金も足りない。
稽古を習う金もない。
武士になるには、思っていた以上に金がかかるらしい。
「あの……」
「まだ何かあるのかい?」
「武士になるには、どうしたらいいんでしょうか?」
女は少し考えた。
「うーん……そうだねえ」
そして、遠くに見える城を指差した。
「一番分かりやすいのは、どこかの城に仕官することだろうね」
「仕官……」
「ああ。もっとも、普通は誰かの紹介があったり、腕を認められたりして初めて話が進むもんだけど」
「……紹介?」
「武家の知り合いでもいれば、話を通してもらえるかもしれないね」
俺は少し考えた。
武家の知り合い。
村にはいない。
たまに武士が訪れることはあるが、顔を覚えている程度だ。
そもそも、相手が俺を覚えているかどうかも怪しい。
「……お城に行けば、何か分かりますか?」
「さあねえ。門前払いされるかもしれないけど、聞くだけならできるんじゃないかい?」
「……分かりました!」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「ああ。金が貯まったら、またおいで」
俺は店を後にした。
懐の銭袋が、さっきより軽く感じられた。
中身は変わっていないはずなのに。
*
町の奥へ進むと、大きな城が見えてきた。
「……あれが、お城か」
高い石垣。
立派な門。
その向こうには、幾重にも屋根が重なった建物が見える。
村で見たことのある建物とは、比べものにならないほど大きかった。
門の前には、槍を持った女武者たちが立っている。
俺はその姿を見つめた。
あの侍も、ここへ向かったのだろうか。
仕官の試しを受けると言っていた。
上手くいけば、城に仕えることができるらしい。
「……」
俺は少し迷った。
武器屋の女は、紹介が必要になるかもしれないと言っていた。
それでも、実際に聞いてみなければ分からない。
もしかしたら、何か方法があるかもしれない。
「……よし」
俺は門へ向かった。
「すみません!」
門番の女武者がこちらを見た。
「何だ?」
「あの、少しお聞きしたいことがあるんですが……」
「何を聞きたい?」
俺は一度深呼吸した。
「武士になるには、どうしたらいいんでしょうか?」
「……武士?」
「はい」
「誰がなるんだ?」
「……俺です」
女武者は俺を見下ろした。
そして、少し眉をひそめた。
「……お前が?」
「はい」
「……本気で言っているのか?」
「はい!」
女武者はしばらく俺を見ていた。
それから、ため息をついた。
「……まあ、志すだけなら勝手だが」
「……!」
「ただし、ここは誰でも仕官を願い出られる場所じゃない」
「……そうなんですか?」
「ああ。仕官を望むなら、まずは紹介状を持ってくることだ」
「……紹介状?」
「そうだ。武家や有力者の推薦があれば、仕官の試しを受ける道が開ける場合もある」
「……」
「もちろん、紹介されたからといって必ず仕官できるわけじゃない。腕や素行も見られる」
俺は少し考えた。
「……あの、紹介状って、どこで貰えるんですか?」
「お前を推してくれる武家や有力者がいれば、そこから貰えるだろう」
「……知り合いがいない場合は?」
「……いないのか?」
「はい……」
女武者は困ったように俺を見た。
「だったら、まずはそういう相手を探すところからだな」
「……」
「どこの村の者だ?」
「山の向こうの、小さな農村です」
「武家の生まれではないんだな?」
「はい。普通の農家です」
女武者は腕を組んだ。
「……そうか」
それから、俺の身体を見下ろした。
「それに、お前は男だろう?」
「……はい」
「戦になれば、女でも簡単に死ぬ。お前みたいな細い男を、わざわざ戦場へ連れていく理由がない」
「……でも、稽古をすれば」
「稽古をしたところで、女と同じように戦えるとは限らないだろう」
何も言い返せなかった。
山賊に襲われたときのことが、頭をよぎる。
あの女たちに、俺は何もできなかった。
女武者は俺の表情を見て、少し声を和らげた。
「……別に、お前の夢を笑うつもりはない」
「……」
「ただ、武士になりたいというだけで仕官できるほど、甘い世界じゃないんだよ」
「……はい」
「まずは腕を磨くことだ。それから、お前を推してくれる者を探すんだな」
「……分かりました」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございました」
「ああ。気をつけて帰りな」
俺は城門を後にした。
少し歩いたところで、振り返る。
高い石垣。
立派な門。
その前に立つ、槍を持った女武者たち。
あの中に入るには、紹介状が必要らしい。
でも、俺には紹介してくれる人がいない。
そもそも、紹介状を貰えたとしても、腕を認められなければ仕官できない。
「……はあ」
思わずため息が漏れた。
武士になるって、こんなに大変なのか。
*
気づけば、空が赤く染まり始めていた。
「……まずい」
思わず呟く。
町を見て回っているうちに、随分と時間が経ってしまった。
今から一人で山道を通れば、村に着く頃には暗くなってしまう。
それに、あの山には山賊がいる。
俺は自分の腕を見下ろした。
また襲われたら、今度こそ助からないかもしれない。
「……どうしよう」
しばらく悩んでいると、街道の脇に荷車が停まっているのが見えた。
商人らしい女が、荷物を縄で縛っている。
「あの……」
思い切って声をかけた。
「ん? 何だい?」
「すみません。これから山の向こうへ行くんですか?」
「ああ。麓の村まで品物を届けるところだよ」
「……本当ですか!?」
「何だい、急に」
俺は慌てて頭を下げた。
「あの! 俺も山の向こうの村に住んでいるんです! もしよかったら、一緒に連れていってもらえませんか?」
商人の女は俺を見た。
「……お前、一人かい?」
「はい……」
「護衛は?」
「……いません」
女は呆れたようにため息をついた。
「まったく。男が一人で町まで来たのかい?」
「……すみません」
「家の者には言ってきたんだろうね?」
「…………」
「……おい?」
俺は目を逸らした。
「……黙って出てきました」
「はあ!?」
女が素っ頓狂な声を上げた。
「あんた、何考えてるんだい!?」
「す、すみません!」
「山道には山賊も出るんだよ! 何かあったらどうするつもりだったんだい!」
「……実は、もう襲われました」
「……は?」
女が固まった。
「……何だって?」
「山賊に襲われて……でも、通りかかった侍の方に助けてもらって……」
女は頭を抱えた。
「……あんた、本当に馬鹿だねえ」
「……はい」
「呆れたよ、まったく……」
女はしばらくため息をついていた。
それから、荷台を指差した。
「……ほら、乗りな」
「えっ! いいんですか!?」
「放っておいたら、また一人で山道を通りそうだからね」
「あ、ありがとうございます!」
俺は何度も頭を下げた。
「ただし、荷物には触るんじゃないよ」
「はい!」
「それと、途中で勝手に降りるなよ」
「分かりました!」
俺は荷台の隅に座った。
女はもう一度ため息をついた。
「……村に着いたら、家の者にちゃんと謝るんだよ」
「……はい」
やがて、荷車がゆっくりと動き始めた。
*
帰りの荷車が、山道をゆっくりと進んでいた。
俺は荷台の隅に座り、膝を抱えていた。
「……はあ」
今日、何度目になるか分からないため息が漏れた。
稽古場で教えてもらった足の動かし方。
武器屋で見た刀。
城の門番に言われた言葉。
どれも、頭から離れなかった。
俺は懐から銭袋を取り出した。
山賊に奪われたものだが、助けてくれた侍が取り返してくれた。
中身も無事だった。
けれど。
「……少ないなあ」
銭袋を開け、中を覗く。
長い間、村で仕事をして少しずつ貯めてきた金だ。
俺にとっては大金だった。
だが、武器屋で見た刀の値段を思い出すと、ため息しか出てこない。
刀どころか、まともな防具を買うことさえ難しい。
師匠に稽古を頼むにしても、金が必要らしい。
「……全然足りない」
銭袋を閉じ、懐に戻した。
それから、自分の手を見つめる。
女たちと比べれば、小さくて細い手だった。
山賊に腕を掴まれたときの感触を思い出す。
必死に振りほどこうとしても、まったく動かなかった。
殴りかかろうとしても、簡単に拳を掴まれた。
「……力もないし」
金がない。
力もない。
武士になるための知識もない。
それに、俺は男だ。
城の門番は、武士になるには紹介状が必要だと言っていた。
でも、俺には紹介してくれる人がいない。
稽古をつけてもらうにも、金が必要。
刀を買うにも、金が必要。
仮に全部揃えられたとしても、男というだけで仕官を認めてもらえないかもしれない。
「……何だよ、それ」
俺は膝に額を押しつけた。
「俺、何にも持ってないじゃないか……」
悔しかった。
あの侍は、何度も稽古をして強くなったと言っていた。
俺だって努力することならできる。
何度失敗しても、納得するまで繰り返すことなら得意だ。
今日だって、稽古場で教えてもらった足の動かし方を何度も試した。
少しずつ、上手くなっている気がした。
でも、あれだけで武士になれるわけじゃない。
何年も稽古を積んだ女たちでさえ、仕官できるとは限らないのだ。
「……ずるいなあ」
思わず呟いた。
生まれつき力の強い女たちが、少し羨ましかった。
もちろん、女たちだって稽古をしている。
あの侍の傷だらけの手を見れば、それくらい分かる。
それでも、最初から持っているものが違う。
俺には、刀を握る前から越えなければならない壁がいくつもあった。
「……はあ」
もう一度、ため息をついた。
荷車が揺れる。
遠くに、村のある山が見え始めた。
帰ったら、きっと叱られる。
無断で村を出たのだから、当然だ。
下手をすれば、しばらく外にも出してもらえないかもしれない。
そう考えると、ますます気が重くなった。
俺は懐の銭袋を握りしめた。
「……金が欲しいな」
それから、自分の細い腕を見下ろす。
「……力も欲しい」
どちらも、今の俺には足りなかった。
俺は荷車の縁にもたれ、夕焼け空を見上げた。
「……武士になるって、大変なんだなあ」
昨日まで、そんなことは考えもしなかった。
でも、諦める気にはなれなかった。
あの侍が刀を構えた姿を思い出す。
山賊を前にしても逃げず、俺を助けてくれた姿。
あんなふうになりたい。
その気持ちだけは、今も変わらなかった。
「……まず、何から始めればいいんだろう」
答えてくれる者はいなかった。
荷車は、ゆっくりと村へ向かって進んでいった。