武士になれぬこの身でも   作:色彩悪夢

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『閉ざされた部屋で』

村に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。

 

「本当にありがとうございました!」

 

俺は荷車から降り、商人の女に頭を下げた。

 

「いいよ、別に。それより、もう一人で町に行くんじゃないよ」

 

「……はい」

 

「山賊に襲われたっていうのに、よく無事だったもんだ。命拾いしたね」

 

返す言葉もなかった。

 

実際、あの侍が助けてくれなかったら、今頃どうなっていたか分からない。

 

「それじゃ、私は行くよ」

 

「ありがとうございました!」

 

荷車が遠ざかっていく。

 

俺はその姿を見送ってから、村へ続く道を歩き始めた。

 

「……はあ」

 

気が重い。

 

町へ行ったことを、どう説明したものだろう。

 

勝手に出ていったのだから、怒られるのは当然だ。

 

それでも、なるべく穏便に済ませたい。

 

そんなことを考えながら村の入口へ向かうと、松明の明かりが見えた。

 

「……あれ?」

 

女たちが何人も集まっている。

 

何かあったのだろうか。

 

近づいたところで、一人がこちらを振り向いた。

 

「……お前!」

 

「……あ」

 

まずい。

 

俺は思わず足を止めた。

 

そこにいたのは、村の世話役を務めている年配の女だった。

 

村の仕事の割り振りや食料の管理を任されている人物で、特に男たちの外出や暮らしについては、この人の許しがなければ話が進まない。

 

俺も普段から何かと世話になっている。

 

そして今、その人がひどく恐ろしい顔をしていた。

 

「あ、あの……ただいま戻りました」

 

「この大馬鹿者!」

 

「ひっ!?」

 

怒鳴り声に肩が跳ねた。

 

「朝から姿が見えないと思ったら、勝手に村を出ていったんだってね!」

 

「す、すみません!」

 

「どれだけ探したと思ってるんだい! 山の方まで人を出したんだよ!」

 

女が大股で近づき、俺の肩を掴んだ。

 

「町へ行きたいと言っていたから、まさかとは思ったけど……本当に行く馬鹿があるか!」

 

「……はい」

 

「一人で行ったんだね?」

 

「……はい」

 

「山道は危ないと言っただろう!」

 

「……その通りです」

 

言い返せなかった。

 

山賊に襲われたことを思い出す。

 

あのときは本当に死ぬかと思った。

 

いや、殺されるよりひどい目に遭っていたかもしれない。

 

「……まったく。怪我はないんだろうね?」

 

「あ、はい。大した怪我は……」

 

「大した?」

 

「……その、山賊に襲われまして」

 

女の手が止まった。

 

「…………何?」

 

しまった。

 

また余計なことを言った。

 

「……山賊?」

 

「はい……」

 

「お前、山賊に襲われたのかい?」

 

「でも、通りかかった侍の方が助けてくれたので……」

 

「何だって!?」

 

女の声に、周囲の村人たちも集まってきた。

 

「山賊に襲われた!?」

 

「怪我は!?」

 

「どこか連れていかれなかったのかい!?」

 

あっという間に囲まれてしまった。

 

事情を説明すると、女たちは口々に無事を喜び、それから俺を叱り始めた。

 

「だから駄目だって言ったんだ!」

 

「本当に運がよかったねえ」

 

「男が一人で山道なんて、何を考えてるんだい」

 

その言葉を聞きながら、俺はひたすら頭を下げていた。

 

反論できることなど何一つない。

 

やがて世話役の女が、俺の腕を掴んだ。

 

「帰るよ」

 

「……はい」

 

「それと、お前は明日から二週間、家から出るんじゃない」

 

「……え?」

 

俺は顔を上げた。

 

「に、二週間ですか!?」

 

「そうだよ」

 

「そんなに長く!?」

 

「文句があるのかい?」

 

「い、いえ、でも……」

 

女は俺を見下ろした。

 

「何度も止めたのに、勝手に出ていった。そのうえ山賊にまで襲われたんだ。しばらく大人しくしてもらうよ」

 

「……」

 

「飯も運ぶし、用足しもさせる。家の仕事はできるだろう。それで十分だね?」

 

十分かどうかと聞かれれば、十分ではない。

 

だが、俺の返事を待たずに話が決まっていく。

 

周りの女たちも、当然の処置だという顔をしていた。

 

「……分かりました」

 

結局、そう答えるしかなかった。

 

*

 

翌朝。

 

ガタッ。

 

「……開かない」

 

俺は戸から手を離した。

 

昨日、家へ戻された後、外から閂を掛けられてしまった。

 

今朝もそのままだ。

 

もう一度戸を引いてみる。

 

ガタガタッ。

 

「……やっぱり駄目か」

 

「何してるんだい?」

 

「うわっ!?」

 

外から声がした。

 

「戸を壊すんじゃないよ」

 

「こ、壊しません!」

 

「だったら離れな。朝飯を持ってきたから」

 

俺が下がると、閂の外れる音がした。

 

世話役の女が盆を持って入ってくる。

 

「ほら、食べな」

 

「ありがとうございます……」

 

「用足しは今のうちに済ませるかい?」

 

「あ、お願いします」

 

家の裏にある便所へ連れていかれた。

 

もちろん、女は外で待っていた。

 

用を済ませると、すぐに部屋へ戻される。

 

「昼にまた来るからね」

 

「……はい」

 

「身体も拭きたかったら、そのとき湯を持ってきてやるよ」

 

「ありがとうございます」

 

女が出ていく。

 

再び閂が掛けられた。

 

「……本当に二週間も閉じ込めるつもりなのか」

 

俺は戸を見つめた。

 

勝手に村を出たのは悪かった。

 

山賊に襲われたのだから、皆が怒るのも分かる。

 

でも、俺はもう帰ってきた。

 

怪我だって、たいしたことはない。

 

それなのに、外に出ることさえ許してもらえない。

 

「……はあ」

 

何だか納得できなかった。

 

けれど、俺が男だから仕方ないのだろう。

 

村では昔からそうだった。

 

男が遠出するときには女が付き添い、危険な仕事も女が引き受ける。

 

それが当たり前だ。

 

俺も今まで、特におかしいとは思っていなかった。

 

ただ。

 

「……外に出たいなあ」

 

自分が出られない立場になって初めて、少し窮屈に感じた。

 

俺は窓へ近づいた。

 

木の戸を開けると、外の光が差し込んでくる。

 

窓には細い格子が嵌められており、大人が身体を通せるほどの隙間はない。

 

もっとも、格子がなかったとしても、逃げるつもりはなかった。

 

ここでまた勝手なことをすれば、二週間では済まなくなるかもしれない。

 

俺は窓枠に肘を置き、外を眺めた。

 

畑では、女たちが働いている。

 

重い籠を背負い、収穫した野菜を運んでいた。

 

少し離れた場所では、別の女が薪を割っている。

 

いつもと変わらない村の景色だった。

 

「……暇だなあ」

 

俺は小さく呟いた。

 

*

 

しばらく外を眺めていると、少し変わったことをしている女が目に入った。

 

「……ん?」

 

若い女が、庭先で石を持ち上げていた。

 

大きな石だった。

 

両手で抱え、腰の高さまで持ち上げる。

 

それから地面へ下ろし、再び持ち上げる。

 

同じ動きを何度も繰り返していた。

 

「……何してるんだろう?」

 

最初は石を運んでいるのかと思った。

 

けれど、そうではないらしい。

 

石は一向に移動しない。

 

ただ持ち上げて、下ろしているだけだ。

 

やがて女は石を置き、今度はその場で何度も腰を落とし始めた。

 

膝を曲げる。

 

立ち上がる。

 

また曲げる。

 

「……あれって」

 

俺は首を傾げた。

 

何かの稽古だろうか。

 

そういえば、町の稽古場でも似たようなことをしている女がいた気がする。

 

刀を振るだけではなく、走ったり、身体を曲げ伸ばししたりしていた。

 

「……身体を鍛えてるのかな」

 

そう考えると、石を持ち上げていた理由も何となく分かった。

 

重い物を何度も持ち上げれば、力がつくのかもしれない。

 

「……なるほど」

 

俺は自分の腕を見下ろした。

 

細い腕だった。

 

山賊に掴まれたところには、まだ薄い痣が残っている。

 

あのとき、どれだけ力を入れても相手の腕を振りほどけなかった。

 

あの女たちは、俺よりずっと力が強かった。

 

「……鍛えれば、少しは変わるかな」

 

女と同じくらい強くなれるかどうかは分からない。

 

それでも、今よりは力がつくかもしれない。

 

俺は部屋の中を見回した。

 

何か持ち上げられるものはないだろうか。

 

布団。

 

机。

 

水桶。

 

そして、部屋の隅に置かれた米袋。

 

「……あれか」

 

俺は米袋に近づいた。

 

両手で抱えてみる。

 

「よっ……と!」

 

持ち上がった。

 

だが、思っていたより重い。

 

腰の辺りで支えるだけでも、少し苦しかった。

 

「……これを、何回も?」

 

窓の外で石を持ち上げていた女を思い出す。

 

あの人は、もっと重そうな石を何度も持ち上げていた。

 

「……よし」

 

俺は一度、米袋を下ろした。

 

両足を開き、腰を落とす。

 

そして、もう一度。

 

「よい……しょっ!」

 

何とか持ち上げた。

 

しかし、身体が後ろへ傾いてしまった。

 

「うわっ!?」

 

慌てて袋を床へ下ろす。

 

どさり、と鈍い音がした。

 

「……危なかった」

 

あと少しで倒れるところだった。

 

俺は米袋を見つめた。

 

どうも重すぎるらしい。

 

それなら、もう少し軽いものから始めた方がいいのだろうか。

 

「……そうだ」

 

俺は米袋の隣に置かれていた、小さな藁の束を手に取った。

 

これなら軽い。

 

試しに持ち上げてみる。

 

「……よし」

 

何度か繰り返しても、さっきほど苦しくはなかった。

 

しかし、何度も続けているうちに腕がだるくなってきた。

 

「……ふう」

 

俺は藁を置いた。

 

簡単そうに見えたのに、意外と難しい。

 

外の女たちは、あんな重そうなものを軽々と持ち上げていた。

 

「……すごいなあ」

 

俺は小さく呟いた。

 

それから、ふと思い出した。

 

町の稽古場で教わった足の動かし方。

 

あれも、部屋の中なら練習できるのではないだろうか。

 

「……よし」

 

俺は畳の中央に立った。

 

*

 

「右足を前に……」

 

町で教わったことを思い出す。

 

足を開きすぎない。

 

肩の力を抜く。

 

身体を前に倒しすぎない。

 

俺は姿勢を整え、一歩踏み込んだ。

 

「……こう、だったかな」

 

次に、後ろの足を動かす。

 

しかし、思ったより身体が前へ傾いた。

 

「……あれ?」

 

もう一度。

 

今度は背筋を伸ばしてみる。

 

「……よっ」

 

先ほどより上手くいった。

 

気がした。

 

だが、何が正しいのかは分からない。

 

稽古場の女は、足を開きすぎるなと言っていた。

 

それだけは覚えている。

 

「……もう一回」

 

俺は繰り返した。

 

何度も同じ動きをしていると、少しずつ身体が慣れてきた。

 

けれど、速く動こうとすると、途端に足がもつれる。

 

「うわっ!」

 

畳に手をついた。

 

「……難しいな」

 

立ち上がり、もう一度構える。

 

今度はゆっくり。

 

速さより、姿勢を崩さないことを意識する。

 

そんなことを続けているうちに、いつの間にか夢中になっていた。

 

「……もう一回」

 

何度目か分からなくなった頃。

 

ガタッ。

 

「おーい、昼飯だよ」

 

「うわっ!?」

 

俺は慌てて姿勢を戻した。

 

戸が開き、世話役の女が入ってくる。

 

「何だい、そんなところに立って」

 

「あ、その……」

 

女は俺を見つめた。

 

それから、畳へ目を向けた。

 

「……随分と足跡がついてるね」

 

「えっ?」

 

俺も足元を見た。

 

なるほど。

 

同じところを何度も踏んでいたせいか、畳の上の埃が擦れていた。

 

「さっきから、何をやってたんだい?」

 

「……ちょっと、身体を動かしてました」

 

「身体を?」

 

「はい。ずっと座ってると、身体が固まるので……」

 

女は俺の顔を見た。

 

「……ふうん」

 

少しの沈黙。

 

俺は何となく落ち着かなくなった。

 

「……まさか、また何か妙なことを考えてるんじゃないだろうね?」

 

「い、いえ!」

 

「本当かい?」

 

「本当です!」

 

女はしばらく俺を見つめていた。

 

それから、ため息をついた。

 

「まあ、ずっと閉じこもってたら身体も鈍るだろうけどね」

 

「……はい」

 

「怪我だけはするんじゃないよ。お前は力が弱いんだから」

 

「分かりました」

 

女は飯を置いた。

 

「それと、米袋を動かしたのかい?」

 

「……え?」

 

「置いてある場所が変わってるじゃないか」

 

「……少しだけ」

 

「まったく。重いものを無理して持つんじゃないよ」

 

「……はい」

 

「いいね?」

 

俺は頷いた。

 

女が出ていき、閂が掛けられる。

 

俺はようやく息を吐いた。

 

「……危なかった」

 

別に悪いことをしているわけではない。

 

ただ身体を動かしていただけだ。

 

それでも、武士になるための稽古だと知られたら、きっと止められる。

 

そう思うと、簡単には話せなかった。

 

「……もう少し、静かにやろう」

 

俺は畳の足跡を見つめ、そう決めた。

 

*

 

翌朝。

 

「……痛っ!」

 

布団から起き上がった瞬間、足に痛みが走った。

 

「……何だ?」

 

膝を曲げる。

 

太腿が痛い。

 

腕を動かす。

 

こちらもだるい。

 

「……昨日のせいか」

 

藁の束を持ち上げたり、足を動かしたりした。

 

あれだけで、こんなに痛くなるとは思わなかった。

 

俺は布団の上に座り込んだ。

 

「……これじゃ、今日は何もできないな」

 

少し悔しかった。

 

昨日は頑張ったつもりだったのに、今日はむしろ身体が動かしにくい。

 

無理して動けば、また痛くなる。

 

「……どうしたものかな」

 

俺はしばらく考えた。

 

身体を動かせないなら、別のことをすればいい。

 

そういえば、部屋の隅に藁が残っていたはずだ。

 

「……縄でも編むか」

 

俺は藁を取り出し、畳の上に広げた。

 

右の藁を重ねる。

 

左の藁を通す。

 

少しずつ、縄の形になっていく。

 

「……よし」

 

やはり、慣れている仕事はやりやすい。

 

足が痛くても、座ったままできる。

 

一本編み終えたところで、俺はふと思った。

 

「……そういえば」

 

この縄。

 

売れないだろうか。

 

村では荷物を縛るのに使うし、畑仕事にも必要だ。

 

町へ向かう荷車にも、何本もの縄が使われていた。

 

もし売れるなら、少しは金になるかもしれない。

 

俺は懐から銭袋を取り出した。

 

中には、これまで貯めてきた銭が入っている。

 

町で見た木刀の値段を思い出した。

 

「……まだ全然足りないな」

 

刀はもちろん、木刀を買うにも金が足りない。

 

稽古を習うなら、さらに金が必要になるらしい。

 

それなら。

 

「……縄を売れば、少しは足しになるかも」

 

俺は完成した縄を見つめた。

 

試してみる価値はありそうだった。

 

*

 

昼飯を持ってきた世話役の女に、俺は思い切って頼んでみた。

 

「あの、お願いがあるんですけど」

 

「何だい? 外に出たいって話なら駄目だよ」

 

「いえ、そうじゃなくて……」

 

俺は編んだ縄を見せた。

 

「これ、買い取ってもらえませんか?」

 

「……縄?」

 

「はい」

 

女は俺から縄を受け取った。

 

指で編み目を確かめ、何度か引っ張る。

 

「……悪くないね」

 

「本当ですか!?」

 

「ああ。荷物を縛るには十分だよ」

 

女はもう一度、縄を眺めた。

 

「でも、どうして急に売ろうと思ったんだい?」

 

「……少し、お金を貯めたくて」

 

「金?」

 

「はい」

 

「何か欲しいものでもあるのかい?」

 

「……えっと」

 

俺は言葉に詰まった。

 

木刀が欲しい。

 

そう言ったら、どうなるだろう。

 

きっと何に使うのか聞かれる。

 

武士になりたいと言えば、反対されるかもしれない。

 

「……町で、色々なものを見たので」

 

「ほう?」

 

「いつか、自分でも買ってみたいなって……」

 

女は少し考えた。

 

「……まあ、欲しいものができるのは悪いことじゃないけどね」

 

「……!」

 

「ただ、縄なんて村でも作れるものだから、高くは売れないよ」

 

「それでもいいです!」

 

女は笑った。

 

「随分と乗り気だねえ」

 

それから、縄をもう一度確かめる。

 

「ちょうど荷を縛る縄が足りなくなってたところだし、村の仕事として引き取ろうか」

 

「本当ですか!?」

 

「ああ。ただし、藁は村のものを使うんだ。払うのは編んだ手間賃だけだよ」

 

「はい!」

 

「出来が悪ければ引き取れないし、値段も普通の相場だからね」

 

「分かりました!」

 

「それじゃ、後で藁を持ってきてやるよ」

 

「ありがとうございます!」

 

俺は深く頭を下げた。

 

女は少し呆れたように笑った。

 

「まったく。閉じ込められてる間も仕事をしたがるなんてねえ」

 

「……何もしてないと、落ち着かなくて」

 

「そういうところは昔から変わらないね」

 

女は俺の頭を軽く撫でた。

 

「でも、ちゃんと休みなよ。身体を壊したら元も子もないんだから」

 

「はい!」

 

俺は元気よく返事をした。

 

*

 

それから数日。

 

俺の生活は少しだけ忙しくなった。

 

朝起きたら、身体の調子を確かめる。

 

足が痛くなければ、町で教わった足運びを練習する。

 

腕も動くようなら、軽い藁の束を持ち上げてみる。

 

しかし、最初のうちは思ったようにいかなかった。

 

「……よっ」

 

一歩踏み込む。

 

後ろの足を動かす。

 

「……あれ?」

 

身体が前に流れる。

 

もう一度。

 

今度は姿勢を意識する。

 

「……よし」

 

少し上手くいった。

 

だが、何度も繰り返しているうちに、また足がもつれ始めた。

 

「……何でだろう」

 

俺は首を傾げた。

 

上手くできたときと、できなかったとき。

 

何が違うのか、よく分からない。

 

稽古場にいた女なら、すぐに教えてくれるのだろうか。

 

「……もう一度教わりたいなあ」

 

けれど、今は外へ出られない。

 

それどころか、あの女が次も教えてくれるとは限らない。

 

俺は諦めて、もう一度構えた。

 

身体を動かした後は、縄編みだった。

 

こちらは慣れている。

 

藁を重ね、指で締め、少しずつ編み進める。

 

一本できれば、次の一本。

 

また一本。

 

何本も編んでいるうちに、時間を忘れてしまうこともあった。

 

けれど、いつまでも続けられるわけではない。

 

「……痛っ」

 

ある日、指先に痛みが走った。

 

見ると、皮が少し剥けていた。

 

「……あれ?」

 

いつの間にか、指先が赤くなっている。

 

藁を何度も擦ったせいだろう。

 

俺は傷を確かめた。

 

大したものではなさそうだった。

 

「……これくらいなら」

 

再び藁を握る。

 

右の藁を重ねる。

 

左の藁を通す。

 

「……痛っ!」

 

思わず手を止めた。

 

さっきより痛い。

 

力を入れようとしても、指が上手く動かなかった。

 

編み目が緩む。

 

「……ああ、もう」

 

俺は縄をほどいた。

 

もう一度、最初から。

 

けれど、また歪んだ。

 

「……何でだよ」

 

いつもなら簡単にできるのに。

 

何度も繰り返して、ようやく綺麗に編めるようになったのに。

 

指が痛いだけで、こんなにも上手くいかなくなるのか。

 

「……くそっ」

 

俺は唇を噛んだ。

 

もう一本。

 

あと一本だけ。

 

そう思って藁を握ったが、指先の痛みで手が止まった。

 

「……」

 

しばらく黙っていた。

 

それから、ゆっくりと藁を置いた。

 

「……駄目だ」

 

このまま続けても、まともな縄はできそうにない。

 

それどころか、さらに傷がひどくなるかもしれない。

 

そうなれば、明日も明後日も仕事ができなくなる。

 

「……休むしかないか」

 

俺は畳に寝転がった。

 

天井を見上げる。

 

身体を鍛えようとすれば、翌日には筋肉が痛くなる。

 

金を稼ごうとすれば、今度は指が痛くなる。

 

何だか、上手くいかないことばかりだった。

 

せっかく武士になるために何かを始めたのに、これでは何も進まない。

 

「……はあ」

 

俺は大きくため息をついた。

 

でも。

 

指が治れば、また縄は編める。

 

足の痛みが引けば、また稽古ができる。

 

そう考えると、今は無理をしない方がいいのかもしれない。

 

「……明日は休もう」

 

そう決めた。

 

決めたのだが。

 

「……暇だなあ」

 

まだ昼過ぎだった。

 

*

 

夕方。

 

「おや、今日は縄を編んでないのかい?」

 

夕飯を持ってきた世話役の女が、不思議そうに尋ねた。

 

「あ、その……」

 

「ん?」

 

「指が痛くなってしまって……」

 

俺は手を見せた。

 

女は眉をひそめる。

 

「……ああ、皮が剥けてるじゃないか」

 

「……はい」

 

「どれだけ編んだんだい?」

 

「……ちょっと、多めに」

 

「ちょっと?」

 

女は畳の隅に積まれた縄を見た。

 

それから、俺の顔を見る。

 

「……あんたねえ」

 

「……すみません」

 

「何でそう、加減ってものを知らないんだい」

 

女は呆れたようにため息をついた。

 

「前からそうだけど、一つのことを始めると止まらなくなるんだから」

 

「……」

 

「仕事をするのはいいことだけどね。身体を壊すまでやる必要はないんだよ」

 

「……はい」

 

女は持ってきた盆を置き、傷を確かめた。

 

「今日はもう何もするんじゃないよ。傷を洗っておきな」

 

「分かりました」

 

「藁も、しばらく持ってこない方がよさそうだね」

 

「えっ!?」

 

思わず顔を上げた。

 

「そ、それは……」

 

「何だい?」

 

「……指が治ったら、また編みたいので」

 

女はしばらく俺を見つめていた。

 

「……まったく」

 

呆れたように笑う。

 

「本当に、好きなんだねえ」

 

「……はい」

 

「分かったよ。治ったらまた持ってきてやる。ただし、無理はしないこと」

 

「ありがとうございます!」

 

女は俺の頭を軽く小突いた。

 

「礼を言う前に、ちゃんと反省しな」

 

「……はい」

 

そう答えると、女は満足したように頷いた。

 

「それじゃ、飯を食べな」

 

女が出ていく。

 

閂が掛けられた。

 

俺は指先を見つめた。

 

少し痛い。

 

けれど、もう何日かすれば治るだろう。

 

「……気をつけないとな」

 

小さく呟いた。

 

*

 

軟禁されてから、五日が経った。

 

あと九日。

 

まだ半分も過ぎていない。

 

「……長いなあ」

 

俺は窓際に座り、外を眺めていた。

 

村の女たちは、いつも通り働いている。

 

少し離れた庭先では、あの若い女がまた石を持ち上げていた。

 

前に見たときと同じように、何度も繰り返している。

 

「……今日もやってる」

 

俺はその様子を眺めた。

 

女は何度か石を持ち上げた後、地面に置いた。

 

そして、水を飲み、しばらく休んでいる。

 

少しすると、再び石を持ち上げ始めた。

 

「……あ」

 

俺はふと思った。

 

あの人も、ずっと続けているわけじゃないんだ。

 

途中で休んでいる。

 

それも、苦しくなって倒れるまで続けるのではなく、自分で区切りをつけて。

 

「……なるほど」

 

俺は自分の指を見た。

 

まだ少し赤いが、昨日よりは痛みが引いている。

 

そういえば、町で出会った侍も、稽古を何度も続けてきたと言っていた。

 

でも、毎日限界まで身体を動かしていたとは言っていなかった。

 

「……やりすぎても、駄目なのかな」

 

正しいことは分からない。

 

教えてくれる人もいない。

 

それでも、自分が無理をして指を傷めたことだけは確かだった。

 

「……少しずつ、か」

 

俺は小さく呟いた。

 

そう簡単にはいかないらしい。

 

*

 

その日の夕方。

 

世話役の女が、これまで編んだ縄の代金を持ってきてくれた。

 

「ほら、約束の分だよ」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

俺は銭を受け取った。

 

女は縄の本数と出来を確かめ、村で決めている手間賃に従って払ってくれたらしい。

 

「思ったより丁寧にできてたよ」

 

「本当ですか!?」

 

「ああ。荷物を縛るには十分だ。もう少し早く編めるようになれば、もっと仕事を頼めるかもしれないね」

 

「……頑張ります!」

 

「だから、無理するんじゃないよ」

 

「……はい」

 

女は苦笑した。

 

「それにしても、そんなに金を貯めて何を買うつもりなんだい?」

 

「……えっと」

 

俺は少し考えた。

 

「……まだ、秘密です」

 

「秘密?」

 

「はい」

 

女は目を丸くした。

 

それから笑った。

 

「ははっ! まあ、いいさ。変なものを買うんじゃないよ」

 

「分かってます!」

 

「本当かねえ」

 

女はそう言って、部屋を出ていった。

 

閂が掛かる。

 

俺はしばらく戸を見つめていた。

 

それから、懐の銭袋を取り出した。

 

「……さて」

 

畳の上に銭を並べる。

 

一枚。

 

二枚。

 

三枚。

 

今日貰った分も合わせて、慎重に数えていく。

 

「……うーん」

 

少ない。

 

随分と頑張って編んだつもりだったのに、増えた銭はわずかなものだった。

 

町の武器屋で見た木刀の値段には、まだまだ届かない。

 

「……あと何本編めばいいんだろう」

 

考えるだけで、気が遠くなりそうだった。

 

しかも、今は指を傷めている。

 

毎日同じだけ編めるわけでもない。

 

「……はあ」

 

俺はため息をついた。

 

武士になるために必要なもの。

 

刀。

 

稽古。

 

身体の強さ。

 

仕官先。

 

紹介してくれる人。

 

考えてみれば、何一つ満足に揃っていない。

 

せいぜい、木刀を買うための金を少しずつ貯めているくらいだ。

 

俺は自分の手を見つめた。

 

細い腕。

 

小さな手。

 

指先には、縄を編んでできた傷が残っている。

 

町で出会った侍の手も、傷だらけだった。

 

あの人の傷は、刀の稽古でできたものだという。

 

俺の傷は、縄を編んでできたもの。

 

「……随分と違うなあ」

 

思わず苦笑した。

 

同じ傷だらけの手でも、随分と違う。

 

けれど。

 

今の俺にできるのは、これくらいだった。

 

金を貯める。

 

少しずつ身体を動かす。

 

町で教わった足の運びを忘れないようにする。

 

それだけだ。

 

俺は銭を袋に戻した。

 

昨日より、ほんの少し重くなった銭袋。

 

たったそれだけの変化だった。

 

身体だって、少し鍛えたところで急に強くなったわけではない。

 

村の女たちと力比べをしたら、きっと今でも簡単に負けるだろう。

 

それでも、何もしなかった頃よりは、少しだけ前に進んでいる気がした。

 

「……まあ、いいか」

 

俺は銭袋を枕元へ置いた。

 

窓の外では、女たちが仕事を終え、家へ帰り始めていた。

 

楽しそうな声が聞こえる。

 

俺も外へ出たい。

 

町にも、もう一度行ってみたい。

 

あの武器屋で、今度こそ木刀を買いたい。

 

「……あと九日か」

 

俺は窓の格子に手をかけた。

 

向こうには、村を囲む山々が見える。

 

あの山を越えた先に、町がある。

 

そして、その町の先には、あの侍が仕官を目指していた城がある。

 

今頃、あの人はどうしているのだろう。

 

無事に仕官できただろうか。

 

それとも、まだどこかで稽古をしているのだろうか。

 

「……俺も、いつか」

 

言いかけて、口を閉じた。

 

今は、まだ何も分からない。

 

武士になる方法すら、よく知らないのだから。

 

でも、諦めるつもりはなかった。

 

俺は窓から手を離した。

 

「……明日は、少しだけ足の稽古をしよう」

 

指の痛みが引いたら、また縄を編めばいい。

 

今度は、傷ができる前に休むようにしよう。

 

そう考えて、俺は寝床へ戻った。

 

戸には今日も、外から閂が掛けられている。

 

明日も、明後日も、きっと同じだ。

 

それでも、枕元の銭袋は、町へ行ったときよりほんの少しだけ重くなっていた。

 

俺はそれを確かめてから、布団に潜り込んだ。

 

刀を握るには、まだ遠い。

 

けれど、今はこの小さな手で、できることを続けるしかなかった。

 

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