村に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。
「本当にありがとうございました!」
俺は荷車から降り、商人の女に頭を下げた。
「いいよ、別に。それより、もう一人で町に行くんじゃないよ」
「……はい」
「山賊に襲われたっていうのに、よく無事だったもんだ。命拾いしたね」
返す言葉もなかった。
実際、あの侍が助けてくれなかったら、今頃どうなっていたか分からない。
「それじゃ、私は行くよ」
「ありがとうございました!」
荷車が遠ざかっていく。
俺はその姿を見送ってから、村へ続く道を歩き始めた。
「……はあ」
気が重い。
町へ行ったことを、どう説明したものだろう。
勝手に出ていったのだから、怒られるのは当然だ。
それでも、なるべく穏便に済ませたい。
そんなことを考えながら村の入口へ向かうと、松明の明かりが見えた。
「……あれ?」
女たちが何人も集まっている。
何かあったのだろうか。
近づいたところで、一人がこちらを振り向いた。
「……お前!」
「……あ」
まずい。
俺は思わず足を止めた。
そこにいたのは、村の世話役を務めている年配の女だった。
村の仕事の割り振りや食料の管理を任されている人物で、特に男たちの外出や暮らしについては、この人の許しがなければ話が進まない。
俺も普段から何かと世話になっている。
そして今、その人がひどく恐ろしい顔をしていた。
「あ、あの……ただいま戻りました」
「この大馬鹿者!」
「ひっ!?」
怒鳴り声に肩が跳ねた。
「朝から姿が見えないと思ったら、勝手に村を出ていったんだってね!」
「す、すみません!」
「どれだけ探したと思ってるんだい! 山の方まで人を出したんだよ!」
女が大股で近づき、俺の肩を掴んだ。
「町へ行きたいと言っていたから、まさかとは思ったけど……本当に行く馬鹿があるか!」
「……はい」
「一人で行ったんだね?」
「……はい」
「山道は危ないと言っただろう!」
「……その通りです」
言い返せなかった。
山賊に襲われたことを思い出す。
あのときは本当に死ぬかと思った。
いや、殺されるよりひどい目に遭っていたかもしれない。
「……まったく。怪我はないんだろうね?」
「あ、はい。大した怪我は……」
「大した?」
「……その、山賊に襲われまして」
女の手が止まった。
「…………何?」
しまった。
また余計なことを言った。
「……山賊?」
「はい……」
「お前、山賊に襲われたのかい?」
「でも、通りかかった侍の方が助けてくれたので……」
「何だって!?」
女の声に、周囲の村人たちも集まってきた。
「山賊に襲われた!?」
「怪我は!?」
「どこか連れていかれなかったのかい!?」
あっという間に囲まれてしまった。
事情を説明すると、女たちは口々に無事を喜び、それから俺を叱り始めた。
「だから駄目だって言ったんだ!」
「本当に運がよかったねえ」
「男が一人で山道なんて、何を考えてるんだい」
その言葉を聞きながら、俺はひたすら頭を下げていた。
反論できることなど何一つない。
やがて世話役の女が、俺の腕を掴んだ。
「帰るよ」
「……はい」
「それと、お前は明日から二週間、家から出るんじゃない」
「……え?」
俺は顔を上げた。
「に、二週間ですか!?」
「そうだよ」
「そんなに長く!?」
「文句があるのかい?」
「い、いえ、でも……」
女は俺を見下ろした。
「何度も止めたのに、勝手に出ていった。そのうえ山賊にまで襲われたんだ。しばらく大人しくしてもらうよ」
「……」
「飯も運ぶし、用足しもさせる。家の仕事はできるだろう。それで十分だね?」
十分かどうかと聞かれれば、十分ではない。
だが、俺の返事を待たずに話が決まっていく。
周りの女たちも、当然の処置だという顔をしていた。
「……分かりました」
結局、そう答えるしかなかった。
*
翌朝。
ガタッ。
「……開かない」
俺は戸から手を離した。
昨日、家へ戻された後、外から閂を掛けられてしまった。
今朝もそのままだ。
もう一度戸を引いてみる。
ガタガタッ。
「……やっぱり駄目か」
「何してるんだい?」
「うわっ!?」
外から声がした。
「戸を壊すんじゃないよ」
「こ、壊しません!」
「だったら離れな。朝飯を持ってきたから」
俺が下がると、閂の外れる音がした。
世話役の女が盆を持って入ってくる。
「ほら、食べな」
「ありがとうございます……」
「用足しは今のうちに済ませるかい?」
「あ、お願いします」
家の裏にある便所へ連れていかれた。
もちろん、女は外で待っていた。
用を済ませると、すぐに部屋へ戻される。
「昼にまた来るからね」
「……はい」
「身体も拭きたかったら、そのとき湯を持ってきてやるよ」
「ありがとうございます」
女が出ていく。
再び閂が掛けられた。
「……本当に二週間も閉じ込めるつもりなのか」
俺は戸を見つめた。
勝手に村を出たのは悪かった。
山賊に襲われたのだから、皆が怒るのも分かる。
でも、俺はもう帰ってきた。
怪我だって、たいしたことはない。
それなのに、外に出ることさえ許してもらえない。
「……はあ」
何だか納得できなかった。
けれど、俺が男だから仕方ないのだろう。
村では昔からそうだった。
男が遠出するときには女が付き添い、危険な仕事も女が引き受ける。
それが当たり前だ。
俺も今まで、特におかしいとは思っていなかった。
ただ。
「……外に出たいなあ」
自分が出られない立場になって初めて、少し窮屈に感じた。
俺は窓へ近づいた。
木の戸を開けると、外の光が差し込んでくる。
窓には細い格子が嵌められており、大人が身体を通せるほどの隙間はない。
もっとも、格子がなかったとしても、逃げるつもりはなかった。
ここでまた勝手なことをすれば、二週間では済まなくなるかもしれない。
俺は窓枠に肘を置き、外を眺めた。
畑では、女たちが働いている。
重い籠を背負い、収穫した野菜を運んでいた。
少し離れた場所では、別の女が薪を割っている。
いつもと変わらない村の景色だった。
「……暇だなあ」
俺は小さく呟いた。
*
しばらく外を眺めていると、少し変わったことをしている女が目に入った。
「……ん?」
若い女が、庭先で石を持ち上げていた。
大きな石だった。
両手で抱え、腰の高さまで持ち上げる。
それから地面へ下ろし、再び持ち上げる。
同じ動きを何度も繰り返していた。
「……何してるんだろう?」
最初は石を運んでいるのかと思った。
けれど、そうではないらしい。
石は一向に移動しない。
ただ持ち上げて、下ろしているだけだ。
やがて女は石を置き、今度はその場で何度も腰を落とし始めた。
膝を曲げる。
立ち上がる。
また曲げる。
「……あれって」
俺は首を傾げた。
何かの稽古だろうか。
そういえば、町の稽古場でも似たようなことをしている女がいた気がする。
刀を振るだけではなく、走ったり、身体を曲げ伸ばししたりしていた。
「……身体を鍛えてるのかな」
そう考えると、石を持ち上げていた理由も何となく分かった。
重い物を何度も持ち上げれば、力がつくのかもしれない。
「……なるほど」
俺は自分の腕を見下ろした。
細い腕だった。
山賊に掴まれたところには、まだ薄い痣が残っている。
あのとき、どれだけ力を入れても相手の腕を振りほどけなかった。
あの女たちは、俺よりずっと力が強かった。
「……鍛えれば、少しは変わるかな」
女と同じくらい強くなれるかどうかは分からない。
それでも、今よりは力がつくかもしれない。
俺は部屋の中を見回した。
何か持ち上げられるものはないだろうか。
布団。
机。
水桶。
そして、部屋の隅に置かれた米袋。
「……あれか」
俺は米袋に近づいた。
両手で抱えてみる。
「よっ……と!」
持ち上がった。
だが、思っていたより重い。
腰の辺りで支えるだけでも、少し苦しかった。
「……これを、何回も?」
窓の外で石を持ち上げていた女を思い出す。
あの人は、もっと重そうな石を何度も持ち上げていた。
「……よし」
俺は一度、米袋を下ろした。
両足を開き、腰を落とす。
そして、もう一度。
「よい……しょっ!」
何とか持ち上げた。
しかし、身体が後ろへ傾いてしまった。
「うわっ!?」
慌てて袋を床へ下ろす。
どさり、と鈍い音がした。
「……危なかった」
あと少しで倒れるところだった。
俺は米袋を見つめた。
どうも重すぎるらしい。
それなら、もう少し軽いものから始めた方がいいのだろうか。
「……そうだ」
俺は米袋の隣に置かれていた、小さな藁の束を手に取った。
これなら軽い。
試しに持ち上げてみる。
「……よし」
何度か繰り返しても、さっきほど苦しくはなかった。
しかし、何度も続けているうちに腕がだるくなってきた。
「……ふう」
俺は藁を置いた。
簡単そうに見えたのに、意外と難しい。
外の女たちは、あんな重そうなものを軽々と持ち上げていた。
「……すごいなあ」
俺は小さく呟いた。
それから、ふと思い出した。
町の稽古場で教わった足の動かし方。
あれも、部屋の中なら練習できるのではないだろうか。
「……よし」
俺は畳の中央に立った。
*
「右足を前に……」
町で教わったことを思い出す。
足を開きすぎない。
肩の力を抜く。
身体を前に倒しすぎない。
俺は姿勢を整え、一歩踏み込んだ。
「……こう、だったかな」
次に、後ろの足を動かす。
しかし、思ったより身体が前へ傾いた。
「……あれ?」
もう一度。
今度は背筋を伸ばしてみる。
「……よっ」
先ほどより上手くいった。
気がした。
だが、何が正しいのかは分からない。
稽古場の女は、足を開きすぎるなと言っていた。
それだけは覚えている。
「……もう一回」
俺は繰り返した。
何度も同じ動きをしていると、少しずつ身体が慣れてきた。
けれど、速く動こうとすると、途端に足がもつれる。
「うわっ!」
畳に手をついた。
「……難しいな」
立ち上がり、もう一度構える。
今度はゆっくり。
速さより、姿勢を崩さないことを意識する。
そんなことを続けているうちに、いつの間にか夢中になっていた。
「……もう一回」
何度目か分からなくなった頃。
ガタッ。
「おーい、昼飯だよ」
「うわっ!?」
俺は慌てて姿勢を戻した。
戸が開き、世話役の女が入ってくる。
「何だい、そんなところに立って」
「あ、その……」
女は俺を見つめた。
それから、畳へ目を向けた。
「……随分と足跡がついてるね」
「えっ?」
俺も足元を見た。
なるほど。
同じところを何度も踏んでいたせいか、畳の上の埃が擦れていた。
「さっきから、何をやってたんだい?」
「……ちょっと、身体を動かしてました」
「身体を?」
「はい。ずっと座ってると、身体が固まるので……」
女は俺の顔を見た。
「……ふうん」
少しの沈黙。
俺は何となく落ち着かなくなった。
「……まさか、また何か妙なことを考えてるんじゃないだろうね?」
「い、いえ!」
「本当かい?」
「本当です!」
女はしばらく俺を見つめていた。
それから、ため息をついた。
「まあ、ずっと閉じこもってたら身体も鈍るだろうけどね」
「……はい」
「怪我だけはするんじゃないよ。お前は力が弱いんだから」
「分かりました」
女は飯を置いた。
「それと、米袋を動かしたのかい?」
「……え?」
「置いてある場所が変わってるじゃないか」
「……少しだけ」
「まったく。重いものを無理して持つんじゃないよ」
「……はい」
「いいね?」
俺は頷いた。
女が出ていき、閂が掛けられる。
俺はようやく息を吐いた。
「……危なかった」
別に悪いことをしているわけではない。
ただ身体を動かしていただけだ。
それでも、武士になるための稽古だと知られたら、きっと止められる。
そう思うと、簡単には話せなかった。
「……もう少し、静かにやろう」
俺は畳の足跡を見つめ、そう決めた。
*
翌朝。
「……痛っ!」
布団から起き上がった瞬間、足に痛みが走った。
「……何だ?」
膝を曲げる。
太腿が痛い。
腕を動かす。
こちらもだるい。
「……昨日のせいか」
藁の束を持ち上げたり、足を動かしたりした。
あれだけで、こんなに痛くなるとは思わなかった。
俺は布団の上に座り込んだ。
「……これじゃ、今日は何もできないな」
少し悔しかった。
昨日は頑張ったつもりだったのに、今日はむしろ身体が動かしにくい。
無理して動けば、また痛くなる。
「……どうしたものかな」
俺はしばらく考えた。
身体を動かせないなら、別のことをすればいい。
そういえば、部屋の隅に藁が残っていたはずだ。
「……縄でも編むか」
俺は藁を取り出し、畳の上に広げた。
右の藁を重ねる。
左の藁を通す。
少しずつ、縄の形になっていく。
「……よし」
やはり、慣れている仕事はやりやすい。
足が痛くても、座ったままできる。
一本編み終えたところで、俺はふと思った。
「……そういえば」
この縄。
売れないだろうか。
村では荷物を縛るのに使うし、畑仕事にも必要だ。
町へ向かう荷車にも、何本もの縄が使われていた。
もし売れるなら、少しは金になるかもしれない。
俺は懐から銭袋を取り出した。
中には、これまで貯めてきた銭が入っている。
町で見た木刀の値段を思い出した。
「……まだ全然足りないな」
刀はもちろん、木刀を買うにも金が足りない。
稽古を習うなら、さらに金が必要になるらしい。
それなら。
「……縄を売れば、少しは足しになるかも」
俺は完成した縄を見つめた。
試してみる価値はありそうだった。
*
昼飯を持ってきた世話役の女に、俺は思い切って頼んでみた。
「あの、お願いがあるんですけど」
「何だい? 外に出たいって話なら駄目だよ」
「いえ、そうじゃなくて……」
俺は編んだ縄を見せた。
「これ、買い取ってもらえませんか?」
「……縄?」
「はい」
女は俺から縄を受け取った。
指で編み目を確かめ、何度か引っ張る。
「……悪くないね」
「本当ですか!?」
「ああ。荷物を縛るには十分だよ」
女はもう一度、縄を眺めた。
「でも、どうして急に売ろうと思ったんだい?」
「……少し、お金を貯めたくて」
「金?」
「はい」
「何か欲しいものでもあるのかい?」
「……えっと」
俺は言葉に詰まった。
木刀が欲しい。
そう言ったら、どうなるだろう。
きっと何に使うのか聞かれる。
武士になりたいと言えば、反対されるかもしれない。
「……町で、色々なものを見たので」
「ほう?」
「いつか、自分でも買ってみたいなって……」
女は少し考えた。
「……まあ、欲しいものができるのは悪いことじゃないけどね」
「……!」
「ただ、縄なんて村でも作れるものだから、高くは売れないよ」
「それでもいいです!」
女は笑った。
「随分と乗り気だねえ」
それから、縄をもう一度確かめる。
「ちょうど荷を縛る縄が足りなくなってたところだし、村の仕事として引き取ろうか」
「本当ですか!?」
「ああ。ただし、藁は村のものを使うんだ。払うのは編んだ手間賃だけだよ」
「はい!」
「出来が悪ければ引き取れないし、値段も普通の相場だからね」
「分かりました!」
「それじゃ、後で藁を持ってきてやるよ」
「ありがとうございます!」
俺は深く頭を下げた。
女は少し呆れたように笑った。
「まったく。閉じ込められてる間も仕事をしたがるなんてねえ」
「……何もしてないと、落ち着かなくて」
「そういうところは昔から変わらないね」
女は俺の頭を軽く撫でた。
「でも、ちゃんと休みなよ。身体を壊したら元も子もないんだから」
「はい!」
俺は元気よく返事をした。
*
それから数日。
俺の生活は少しだけ忙しくなった。
朝起きたら、身体の調子を確かめる。
足が痛くなければ、町で教わった足運びを練習する。
腕も動くようなら、軽い藁の束を持ち上げてみる。
しかし、最初のうちは思ったようにいかなかった。
「……よっ」
一歩踏み込む。
後ろの足を動かす。
「……あれ?」
身体が前に流れる。
もう一度。
今度は姿勢を意識する。
「……よし」
少し上手くいった。
だが、何度も繰り返しているうちに、また足がもつれ始めた。
「……何でだろう」
俺は首を傾げた。
上手くできたときと、できなかったとき。
何が違うのか、よく分からない。
稽古場にいた女なら、すぐに教えてくれるのだろうか。
「……もう一度教わりたいなあ」
けれど、今は外へ出られない。
それどころか、あの女が次も教えてくれるとは限らない。
俺は諦めて、もう一度構えた。
身体を動かした後は、縄編みだった。
こちらは慣れている。
藁を重ね、指で締め、少しずつ編み進める。
一本できれば、次の一本。
また一本。
何本も編んでいるうちに、時間を忘れてしまうこともあった。
けれど、いつまでも続けられるわけではない。
「……痛っ」
ある日、指先に痛みが走った。
見ると、皮が少し剥けていた。
「……あれ?」
いつの間にか、指先が赤くなっている。
藁を何度も擦ったせいだろう。
俺は傷を確かめた。
大したものではなさそうだった。
「……これくらいなら」
再び藁を握る。
右の藁を重ねる。
左の藁を通す。
「……痛っ!」
思わず手を止めた。
さっきより痛い。
力を入れようとしても、指が上手く動かなかった。
編み目が緩む。
「……ああ、もう」
俺は縄をほどいた。
もう一度、最初から。
けれど、また歪んだ。
「……何でだよ」
いつもなら簡単にできるのに。
何度も繰り返して、ようやく綺麗に編めるようになったのに。
指が痛いだけで、こんなにも上手くいかなくなるのか。
「……くそっ」
俺は唇を噛んだ。
もう一本。
あと一本だけ。
そう思って藁を握ったが、指先の痛みで手が止まった。
「……」
しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと藁を置いた。
「……駄目だ」
このまま続けても、まともな縄はできそうにない。
それどころか、さらに傷がひどくなるかもしれない。
そうなれば、明日も明後日も仕事ができなくなる。
「……休むしかないか」
俺は畳に寝転がった。
天井を見上げる。
身体を鍛えようとすれば、翌日には筋肉が痛くなる。
金を稼ごうとすれば、今度は指が痛くなる。
何だか、上手くいかないことばかりだった。
せっかく武士になるために何かを始めたのに、これでは何も進まない。
「……はあ」
俺は大きくため息をついた。
でも。
指が治れば、また縄は編める。
足の痛みが引けば、また稽古ができる。
そう考えると、今は無理をしない方がいいのかもしれない。
「……明日は休もう」
そう決めた。
決めたのだが。
「……暇だなあ」
まだ昼過ぎだった。
*
夕方。
「おや、今日は縄を編んでないのかい?」
夕飯を持ってきた世話役の女が、不思議そうに尋ねた。
「あ、その……」
「ん?」
「指が痛くなってしまって……」
俺は手を見せた。
女は眉をひそめる。
「……ああ、皮が剥けてるじゃないか」
「……はい」
「どれだけ編んだんだい?」
「……ちょっと、多めに」
「ちょっと?」
女は畳の隅に積まれた縄を見た。
それから、俺の顔を見る。
「……あんたねえ」
「……すみません」
「何でそう、加減ってものを知らないんだい」
女は呆れたようにため息をついた。
「前からそうだけど、一つのことを始めると止まらなくなるんだから」
「……」
「仕事をするのはいいことだけどね。身体を壊すまでやる必要はないんだよ」
「……はい」
女は持ってきた盆を置き、傷を確かめた。
「今日はもう何もするんじゃないよ。傷を洗っておきな」
「分かりました」
「藁も、しばらく持ってこない方がよさそうだね」
「えっ!?」
思わず顔を上げた。
「そ、それは……」
「何だい?」
「……指が治ったら、また編みたいので」
女はしばらく俺を見つめていた。
「……まったく」
呆れたように笑う。
「本当に、好きなんだねえ」
「……はい」
「分かったよ。治ったらまた持ってきてやる。ただし、無理はしないこと」
「ありがとうございます!」
女は俺の頭を軽く小突いた。
「礼を言う前に、ちゃんと反省しな」
「……はい」
そう答えると、女は満足したように頷いた。
「それじゃ、飯を食べな」
女が出ていく。
閂が掛けられた。
俺は指先を見つめた。
少し痛い。
けれど、もう何日かすれば治るだろう。
「……気をつけないとな」
小さく呟いた。
*
軟禁されてから、五日が経った。
あと九日。
まだ半分も過ぎていない。
「……長いなあ」
俺は窓際に座り、外を眺めていた。
村の女たちは、いつも通り働いている。
少し離れた庭先では、あの若い女がまた石を持ち上げていた。
前に見たときと同じように、何度も繰り返している。
「……今日もやってる」
俺はその様子を眺めた。
女は何度か石を持ち上げた後、地面に置いた。
そして、水を飲み、しばらく休んでいる。
少しすると、再び石を持ち上げ始めた。
「……あ」
俺はふと思った。
あの人も、ずっと続けているわけじゃないんだ。
途中で休んでいる。
それも、苦しくなって倒れるまで続けるのではなく、自分で区切りをつけて。
「……なるほど」
俺は自分の指を見た。
まだ少し赤いが、昨日よりは痛みが引いている。
そういえば、町で出会った侍も、稽古を何度も続けてきたと言っていた。
でも、毎日限界まで身体を動かしていたとは言っていなかった。
「……やりすぎても、駄目なのかな」
正しいことは分からない。
教えてくれる人もいない。
それでも、自分が無理をして指を傷めたことだけは確かだった。
「……少しずつ、か」
俺は小さく呟いた。
そう簡単にはいかないらしい。
*
その日の夕方。
世話役の女が、これまで編んだ縄の代金を持ってきてくれた。
「ほら、約束の分だよ」
「あ、ありがとうございます!」
俺は銭を受け取った。
女は縄の本数と出来を確かめ、村で決めている手間賃に従って払ってくれたらしい。
「思ったより丁寧にできてたよ」
「本当ですか!?」
「ああ。荷物を縛るには十分だ。もう少し早く編めるようになれば、もっと仕事を頼めるかもしれないね」
「……頑張ります!」
「だから、無理するんじゃないよ」
「……はい」
女は苦笑した。
「それにしても、そんなに金を貯めて何を買うつもりなんだい?」
「……えっと」
俺は少し考えた。
「……まだ、秘密です」
「秘密?」
「はい」
女は目を丸くした。
それから笑った。
「ははっ! まあ、いいさ。変なものを買うんじゃないよ」
「分かってます!」
「本当かねえ」
女はそう言って、部屋を出ていった。
閂が掛かる。
俺はしばらく戸を見つめていた。
それから、懐の銭袋を取り出した。
「……さて」
畳の上に銭を並べる。
一枚。
二枚。
三枚。
今日貰った分も合わせて、慎重に数えていく。
「……うーん」
少ない。
随分と頑張って編んだつもりだったのに、増えた銭はわずかなものだった。
町の武器屋で見た木刀の値段には、まだまだ届かない。
「……あと何本編めばいいんだろう」
考えるだけで、気が遠くなりそうだった。
しかも、今は指を傷めている。
毎日同じだけ編めるわけでもない。
「……はあ」
俺はため息をついた。
武士になるために必要なもの。
刀。
稽古。
身体の強さ。
仕官先。
紹介してくれる人。
考えてみれば、何一つ満足に揃っていない。
せいぜい、木刀を買うための金を少しずつ貯めているくらいだ。
俺は自分の手を見つめた。
細い腕。
小さな手。
指先には、縄を編んでできた傷が残っている。
町で出会った侍の手も、傷だらけだった。
あの人の傷は、刀の稽古でできたものだという。
俺の傷は、縄を編んでできたもの。
「……随分と違うなあ」
思わず苦笑した。
同じ傷だらけの手でも、随分と違う。
けれど。
今の俺にできるのは、これくらいだった。
金を貯める。
少しずつ身体を動かす。
町で教わった足の運びを忘れないようにする。
それだけだ。
俺は銭を袋に戻した。
昨日より、ほんの少し重くなった銭袋。
たったそれだけの変化だった。
身体だって、少し鍛えたところで急に強くなったわけではない。
村の女たちと力比べをしたら、きっと今でも簡単に負けるだろう。
それでも、何もしなかった頃よりは、少しだけ前に進んでいる気がした。
「……まあ、いいか」
俺は銭袋を枕元へ置いた。
窓の外では、女たちが仕事を終え、家へ帰り始めていた。
楽しそうな声が聞こえる。
俺も外へ出たい。
町にも、もう一度行ってみたい。
あの武器屋で、今度こそ木刀を買いたい。
「……あと九日か」
俺は窓の格子に手をかけた。
向こうには、村を囲む山々が見える。
あの山を越えた先に、町がある。
そして、その町の先には、あの侍が仕官を目指していた城がある。
今頃、あの人はどうしているのだろう。
無事に仕官できただろうか。
それとも、まだどこかで稽古をしているのだろうか。
「……俺も、いつか」
言いかけて、口を閉じた。
今は、まだ何も分からない。
武士になる方法すら、よく知らないのだから。
でも、諦めるつもりはなかった。
俺は窓から手を離した。
「……明日は、少しだけ足の稽古をしよう」
指の痛みが引いたら、また縄を編めばいい。
今度は、傷ができる前に休むようにしよう。
そう考えて、俺は寝床へ戻った。
戸には今日も、外から閂が掛けられている。
明日も、明後日も、きっと同じだ。
それでも、枕元の銭袋は、町へ行ったときよりほんの少しだけ重くなっていた。
俺はそれを確かめてから、布団に潜り込んだ。
刀を握るには、まだ遠い。
けれど、今はこの小さな手で、できることを続けるしかなかった。