軟禁されてから、六日目の朝。
「……いち、に、さん……」
俺は畳の上に両手をつき、ゆっくりと身体を下ろした。
「……よんっ……!」
腕が震える。
何とか身体を持ち上げ、もう一度下ろそうとする。
「……ごっ!」
そこで腕の力が抜けた。
「うわっ!」
俺は畳に倒れ込んだ。
「はあっ……はあっ……!」
五回。
昨日と同じだった。
「……増えないなあ」
寝転がったまま、自分の腕を見つめる。
相変わらず細い。
少しは太くなったのだろうか。
いや、そんな気はしない。
窓の外では、村の女たちが朝から畑仕事をしていた。
俺が何度も持ち上げていた米袋より重い荷物を、平気な顔で運んでいる。
「……あんなふうになれたらなあ」
そう呟き、俺は身体を起こした。
昨日は腕立てをした後、無理に続けて腕が痛くなった。
だから今日は、これで終わりにする。
代わりに、足の動かし方を練習することにした。
「……右足を前に」
一歩踏み込む。
続けて左足を動かす。
「……よし」
少しだけ、身体がふらつかなくなった気がした。
もっとも、正しい動きができているのかは分からない。
町の稽古場で教えてもらったのは、ほんの短い時間だけだった。
「……もう一回」
俺は構え直した。
それから何度か繰り返し、足が重くなってきたところで止める。
まだ続けたい気持ちはあった。
けれど、先日指を傷めて縄が編めなくなったことを思い出した。
「……今日はこれくらいにしておこう」
そう決め、畳に腰を下ろす。
次は縄編みだ。
指の傷は、ようやく痛まなくなっていた。
俺は藁を取り出し、編み始めた。
一本。
二本。
三本。
慣れた仕事だった。
ただ、以前のように休まず編み続けることはしない。
何本か編んだら、手を止める。
水を飲み、指先を確かめてから再開する。
その方が、結局は長く続けられると分かってきたからだ。
「……よし」
俺は完成した縄を脇に置いた。
少しずつでも金が貯まれば、いつか武具を買えるかもしれない。
そう思うと、単調な仕事も苦ではなかった。
もっとも、木刀一本買うまでにも、まだまだ時間がかかりそうだったが。
*
それからの日々は、似たようなものだった。
朝起きて、少し身体を動かす。
疲れたら休み、縄を編む。
昼には世話役の女が食事を持ってきて、夕方には編み上げた縄を引き取っていく。
外へ出られるのは、用を足したり身体を洗ったりするときだけ。
その間も誰かが見張っていた。
最初は気になって仕方がなかったが、何日も続くうちに、文句を言うのも面倒になってきた。
ただ、窓から外を眺めるたびに思う。
俺も外で働きたい。
村の中を歩きたい。
そして、いつかまた町へ行きたい。
あの侍が歩いていった道を、もう一度見てみたかった。
そんなことを考えながら過ごしているうちに、二週間が過ぎた。
*
「ほら、もういいよ」
朝飯を食べ終えた頃、世話役の女がそう言った。
「……え?」
「今日で二週間だろう。外に出ていいって言ってるんだよ」
「……本当ですか!?」
「嘘をついてどうするんだい」
女は呆れたように笑った。
俺は勢いよく立ち上がった。
「ありがとうございます!」
「ただし!」
「……はいっ!」
女が指を立てた。
「二度と勝手に村の外へ行くんじゃないよ」
「……はい」
「町へ行きたいなら、まず私に言いな。それから、護衛できる女がいるときに限る。いいね?」
「分かりました」
「本当に分かってるんだろうね?」
「はい!」
女はしばらく俺を見つめていた。
それから、ようやく頷いた。
「……まあ、今回は十分反省しただろうしね」
そう言って、俺の頭を軽く撫でる。
「ほら、仕事に戻りな。あんたがいない間、他の男たちにも手伝ってもらってたんだからね」
「はい!」
俺は戸へ向かった。
久しぶりに、自分の手で戸を開ける。
外からの閂は、もう掛かっていなかった。
「……おお」
思わず声が漏れた。
朝の空気が流れ込んでくる。
鳥の鳴き声。
畑から聞こえる女たちの話し声。
土と草の匂い。
たった二週間なのに、随分と久しぶりに感じた。
「……外だ」
俺は一歩踏み出した。
それから、もう一歩。
思わず駆け出しそうになる。
「こら! 走るんじゃないよ!」
「は、はい!」
背後からの声に、慌てて足を止めた。
女は呆れたように笑っている。
「まったく。少しは落ち着きな」
「……すみません」
俺は頭を掻いた。
けれど、久しぶりに外へ出られたことが嬉しくて仕方がなかった。
*
その日の仕事は、収穫した作物を倉へ運ぶ手伝いだった。
もちろん、俺が運ぶのは軽い荷物ばかりだ。
大きな米俵や野菜の入った籠は、女たちが運んでいる。
「おーい! そっちの縄を持ってきておくれ!」
「はい!」
俺は縄の束を抱え、声のした方へ向かった。
倉の前では、女たちが荷物を積み上げている。
「そこに置いておいて」
「分かりました!」
縄を置いたところで、近くに米袋があることに気づいた。
俺が部屋で持ち上げていたものと、同じくらいの大きさだった。
「……」
少し気になった。
二週間。
毎日ではないが、身体を動かすようにしていた。
腕立てもしたし、足運びも練習した。
もしかしたら、以前より少しは力がついたかもしれない。
俺は米袋の前にしゃがんだ。
「……よし」
両手で袋を抱える。
足に力を入れ、ゆっくり持ち上げた。
「よい……しょっ!」
持ち上がった。
「……おお!」
思わず声が漏れる。
以前より、少しだけ楽に感じる。
部屋で試したときは身体が後ろへ傾いてしまったが、今は何とか踏ん張れた。
「……やった」
嬉しくなった。
だが、そのとき。
「何やってるんだい?」
「……え?」
振り返ると、村の女が立っていた。
「その米袋を運ぶのかい?」
「あっ、はい! 俺が……」
「いいよ、貸してごらん」
女は俺の手から米袋を受け取った。
そして。
「よっ、と」
片手で軽々と持ち上げた。
「…………」
そのまま倉の中へ歩いていく。
「男が無理するんじゃないよ。そっちの小さい荷物を頼むね」
「……はい」
俺は女の背中を見送った。
さっきまで、両手でようやく持ち上げていた米袋。
それを、あの人は片手で運んでしまった。
「……はあ」
自分の腕を見下ろす。
二週間、頑張ったのだ。
身体を動かし、筋肉痛になりながらも練習した。
なのに、女たちとの差はほとんど縮まっていない。
いや。
最初から違いすぎるのだろう。
「……まだまだだなあ」
俺は小さく呟いた。
それでも、以前より少しだけ楽に持ち上げられたことは確かだった。
気のせいかもしれないが。
「……まあ、いいか」
俺は小さな荷物を持ち上げた。
今は、できることをするしかない。
*
昼過ぎ。
俺は倉の裏で、薪を整理していた。
割り終わった薪を大きさごとに分け、束ねていく仕事だ。
村の女たちは忙しく、こういう細かな仕事は俺たち男が任されることが多い。
「……これは、こっち」
短い薪を脇へ置く。
長い薪は別の山へ。
途中、形の悪い木が何本か混ざっていることに気づいた。
「……ん?」
その中に、一本だけ真っ直ぐな木の棒があった。
長さは俺の腕より少し長いくらい。
太さも、ちょうど握りやすそうだった。
薪としては細長すぎるが、何かを突いたり叩いたりするには使えそうだ。
俺はそれを手に取った。
「……これ」
両手で握ってみる。
軽い。
刀よりもずっと軽いのだろう。
それでも。
「……こう、かな」
俺は山道で助けてくれた侍の姿を思い出した。
両手で刀を握り、山賊たちに向かって構えていた姿。
試しに、棒を正面へ向ける。
「……」
少しだけ、胸が高鳴った。
刀ではない。
ただの木の棒だ。
けれど、これなら稽古に使えるのではないだろうか。
町の武器屋で見た木刀は、まだ買えそうにない。
でも、この棒なら金はかからない。
「……よし」
俺は棒を握り直した。
そのまま軽く振り上げようとしたところで、背後から声がした。
「おーい! そっちは終わったかい?」
「うわっ!?」
俺は慌てて棒を薪の山へ戻した。
「ま、まだです!」
「そうかい。終わったらこっちも手伝っておくれ!」
「はい!」
声の主は、倉の向こうにいる女だった。
どうやら、こちらは見ていなかったらしい。
「……危なかった」
俺は小さく息を吐いた。
別に木の棒を持つこと自体が悪いわけではない。
ただ、武士になるために稽古をしていると知られたら、きっと止められる。
稽古場の女だって、男が剣術を習うのは危ないと言っていた。
村の女たちなら、なおさらだろう。
棒を取り上げられ、また家に閉じ込められるかもしれない。
「……どうしようかな」
俺はしばらく考えた。
昼間は人目が多い。
村の女たちは、畑や倉の周りを行き来している。
とても棒を振っていられそうにない。
だったら。
「……夜なら、どうだろう」
皆が寝静まった後なら、人も少ない。
もちろん、夜回りをする女もいる。
それでも、昼間よりは見つかりにくいはずだ。
俺は薪の山を見つめた。
「……一時間くらいなら」
夜に一時間だけ。
それくらいなら、翌日の仕事にも大きく影響しないだろう。
そう考え、俺は棒を薪の山の奥へ隠した。
*
その日の夜。
村が静かになるのを、俺は待っていた。
昼間の仕事を終え、夕飯を食べた後、いつもならすぐに眠る時間だ。
けれど、今日は眠る気になれなかった。
「……もう、いいかな」
俺は戸を少し開けた。
外は暗い。
月明かりが、家々の屋根をぼんやりと照らしていた。
遠くから虫の声が聞こえる。
人の話し声は、ほとんどしない。
「……よし」
俺はそっと外へ出た。
足音を立てないように歩く。
向かった先は、昼間に薪を整理していた倉だった。
倉の裏手には小さな空き地がある。
普段は薪を積んだり、荷物を置いたりしている場所だ。
家々からは少し離れており、夜になると人が来ることも少ない。
「……ここなら」
俺は薪の山へ近づいた。
昼間に隠した棒を取り出す。
「……あった」
月明かりの下で見ると、ただの木の棒だった。
表面には少しささくれがあり、曲がっているところもある。
刀とはまるで違う。
それでも、今の俺にはこれしかない。
俺は棒を両手で握った。
「……よし」
まずは、町の稽古場で教わった構えを思い出す。
右足を前へ。
左足を少し後ろへ。
肩の力を抜く。
身体を前に倒しすぎない。
そして。
「……えいっ!」
棒を振り下ろした。
ヒュッ。
小さな風切り音がした。
「……あれ?」
思っていたより、ずっと軽い。
何だか、ただ腕を振り回しているだけのような気がする。
俺はもう一度構えた。
「……こう、かな」
棒を振り下ろす。
今度は少し速く。
ヒュッ。
「……違うなあ」
山道で見た侍の動きは、もっと滑らかだった。
刀を構える姿にも、無駄な動きがなかった気がする。
俺の動きは、何だかぎこちない。
棒を振るたびに身体が揺れる。
「……足が悪いのかな」
俺は足元を見た。
町の稽古場で教えてもらったことを思い出す。
足を開きすぎない。
身体を倒しすぎない。
それなら。
「……もう一回」
構え直す。
右足を出す。
棒を振り下ろす。
後ろの足を動かす。
「……よっ!」
また身体が前へ傾いた。
「うわっ!」
慌てて踏ん張る。
危うく転ぶところだった。
「……難しいな」
俺は棒を見つめた。
刀を振るというのは、こんなにも難しいことなのだろうか。
いや、俺が下手なだけなのかもしれない。
そもそも、握り方が合っているのかすら分からない。
「……誰かに教えてもらえればなあ」
そう呟いてから、俺は首を振った。
今は無理だ。
金もないし、師匠もいない。
男の俺を教えてくれる人がいるかどうかも分からない。
だから、今は自分でやるしかなかった。
「……よし」
俺はもう一度構えた。
*
何度も棒を振っているうちに、腕が重くなってきた。
「……はあっ」
少し休む。
それから、また振る。
途中で足運びだけを練習したり、構えを確認したりもした。
時間は正確には分からない。
それでも、一時間ほど経っただろうか。
「……そろそろ、終わりにしようかな」
俺は棒を下ろした。
正直、まだ続けたい。
もう少し練習すれば、上手くできるような気がする。
でも、明日も仕事がある。
ここで無理をして身体を痛めれば、縄編みもできなくなる。
それに、長く外にいれば見つかる可能性も高くなる。
「……よし、今日はここまで」
そう決めた。
そのときだった。
ザッ。
「……っ!?」
足音が聞こえた。
俺は思わず振り返った。
倉の向こうから、誰かが歩いてくる。
それも、一人ではない。
「……今日は静かだねえ」
「ああ。最近は山賊の噂もあるし、見回りを増やした方がいいかもしれないね」
女たちの声だった。
夜回りだ。
「……まずい!」
俺は慌てて棒を薪の山へ押し込んだ。
そのまま身を屈める。
足音が近づいてくる。
「……ん?」
女の一人が声を上げた。
「今、何か音がしなかったかい?」
「そうか?」
「ああ。倉の裏から……」
俺は息を止めた。
女たちの足音が近づいてくる。
逃げようか。
いや、今動いたら余計に怪しまれる。
どうしよう。
考えている間にも、足音は近づいてきた。
「……おい、誰かいるのか?」
女の声が響いた。
俺はゆっくり顔を上げた。
「……あっ」
「……ん?」
女がこちらを覗き込む。
見覚えのある顔だった。
村の夜回りをしている女だ。
「お前、こんなところで何してるんだい?」
「え、えっと……」
俺は必死に頭を働かせた。
武士になるために稽古をしていました。
そんなことは言えない。
「……その、厠に行こうと思って」
「厠?」
「はい……」
女は俺を見つめた。
「……何で倉の裏にいるんだい?」
「えっ?」
「お前の家なら、厠は反対側だろう?」
「……あ」
しまった。
何も考えずに言ってしまった。
「……その」
女が眉をひそめる。
「何か隠してるんじゃないだろうね?」
「い、いえ!」
「本当かい?」
「……ちょっと、散歩をしてました」
「散歩?」
「はい……。二週間も閉じ込められてたので、夜の空気が気持ちよくて……」
女はしばらく俺を見つめていた。
そして、大きくため息をついた。
「……まったく」
「……」
「せっかく外に出られるようになったからって、今度は夜中に出歩くのかい?」
「……すみません」
「山賊に襲われたこと、もう忘れたのかい?」
「い、いえ! 忘れてません!」
「だったら、もう少し大人しくしてな」
女は腰に手を当てた。
「村の中だからって、夜中に一人で出歩いていいわけじゃないんだよ」
「……はい」
「分かったなら、さっさと帰りな」
「分かりました!」
俺は慌てて頭を下げた。
女たちは呆れたように笑いながら、見回りを再開した。
その足音が遠ざかっていく。
「…………はあ」
俺は大きく息を吐いた。
危なかった。
もう少しで、棒を持っているところを見られるところだった。
もし稽古をしていると知られれば、きっと取り上げられる。
下手をすれば、また家に閉じ込められるかもしれない。
「……気をつけないとな」
俺は薪の山を見た。
棒は、奥に隠したままだ。
今日はもう取り出さない方がいいだろう。
「……帰ろう」
俺は静かに立ち上がった。
*
家に戻った頃には、すっかり身体が冷えていた。
「……疲れた」
俺は布団に腰を下ろした。
腕が少しだるい。
足も重い。
ただの木の棒を振っただけなのに、随分と疲れた。
「……こんなものなのかな」
俺は自分の手を見つめた。
細い指。
小さな掌。
縄編みでできた傷が、まだ少し残っている。
あの侍の手は、もっと大きかった。
刀を握り慣れた、傷だらけの手だった。
「……俺も、いつか」
そう呟いてから、思わず苦笑した。
いつか、なんて言っても仕方がない。
今はまだ、木刀すら持っていないのだから。
稽古だって、たった一時間ほど。
正しい構えも、刀の振り方も分からない。
ただ棒を振っているだけだ。
「……これで強くなれるのかな」
正直、少し不安だった。
間違った動きを何度繰り返しても、意味がないかもしれない。
それどころか、変な癖がつく可能性だってある。
でも。
何もしないよりは、いいと思いたかった。
俺は布団に寝転がった。
天井を見つめる。
明日も朝から仕事がある。
縄を編んで、村の手伝いをして。
夜になったら、また棒を振ろう。
ただし、一時間だけ。
無理はしない。
誰にも見つからないように、静かに。
「……うん」
俺は小さく頷いた。
昼間は、いつも通りの仕事をする。
縄を編み、少しずつ金を貯める。
そして夜は、あの棒で稽古をする。
それなら、今の俺にもできるはずだ。
窓の外では、虫が鳴いていた。
俺は目を閉じた。
あの侍のようになるには、まだまだ遠い。
金も足りない。
力も足りない。
武士になる方法すら分からない。
それでも今日、初めて自分の手で、武器の代わりになるものを握った。
ただの木の棒だった。
けれど。
「……明日も、頑張ろう」
そう呟き、俺は眠りについた。
倉の薪の山には、一本の木の棒が隠されている。
誰が見ても、ただの薪にしか見えないような棒だ。
それが今の俺にとって、たった一つの稽古道具だった。