その日、空は快晴だった。
先日まで降り続いていた雨はすっかり止み、空気には雨上がり特有の澄んだ匂いが残っていた。
学院の敷地を囲む草原には、まだ朝露の名残があった。風が吹くたびに芝生の葉先が揺れ、そこに宿った無数の水滴が陽光を受けて、宝石のような小さな輝きを散らしていく。
遠くに広がる森は、雨に洗われた木々の葉を青々と茂らせていた。枝の隙間から差し込む光が、地面に複雑な模様を描いている。
どこまでも続く碧落の彼方では、名も知らぬ鳥がその翼を大きく広げ、風に乗って悠々と旅立っていった。
穏やかで、平和な朝。
世界は何事もなく、いつも通りに時を刻んでいるように見えた。
――そんな平和な蒼穹の下。
草原の一角にて、突如として爆音が轟いた。
爆風が草原を駆け抜ける。
少女が手にした杖を振り下ろした、その直後だった。
彼女の眼前に広がる空間が、微かに歪む。
何もないはずの場所に、目には見えない何かが生まれていた。
ーーそれは魔力。
大気中に満ちる不可視のエネルギーが一点に集まり、急速に膨張していく。だが、次の瞬間にはそれが不自然なほどに圧縮され、限界まで凝縮された力が臨界を迎える。
そして――解放。
轟音とともに爆炎が巻き起こった。
赤々と燃え上がる炎が一瞬だけ少女の姿を覆い隠し、熱風が周囲の草を激しくなびかせる。舞い上がった土砂が陽光を遮り、視界を茶色く染め上げた。
だが、熱に髪を焦がされながらも、少女は怯まなかった。
頬を撫でる熱風。鼻腔を刺激する焦げた土と草の匂い。
耳の奥に残る爆発音の余韻。
普通の人間ならば思わず身をすくめてしまうような状況だった。
しかし、少女はその場に立ち続けていた。
身にまとうスカートは土埃にまみれ、白いブラウスはところどころ煤けている。袖口や裾には小さな焦げ跡があり、乱れた髪の隙間から覗く白磁のような肌には、いくつもの土汚れが付着していた。
おおよそ美少女と呼ぶにふさわしい、整った顔立ち。
その額には玉のような汗が浮かび、こめかみを伝った一滴が頬を滑り落ちる。
けれど、その表情に浮かんでいるのは疲労だけではなかった。
焦燥。
苛立ち。
悔しさ。
そして、それらを押しのけるようにして燃え続ける、強い意志。
少女は無言で前を見据えていた。
また、失敗。
今回も召喚には至らなかった。
眼前に残る煙が風に流されていく。その向こうには、何もない草原が広がっているだけだった。
本来なら、そこには自分の使い魔となる存在が現れているはずだった。
鳥か、獣か、それとも何か別の生き物か。
メイジにとって使い魔とは、単なる従者ではない。生涯を共にし、主人を支え、時には主人の目となり耳となる大切なパートナーだ。
その存在を呼び出す儀式。
それがサモン・サーヴァント。
魔法学院に通う生徒ならば、誰もが一度は経験する儀式であり、進級に必要な大切な課題でもある。
そして今、少女はその儀式に挑んでいた。
だが、結果は散々だった。
何度杖を振るっても、何度呪文を唱えても、彼女の魔法は爆発という形でしか結果を残さない。
召喚どころか、まともな魔法すら成功しない。
それが、彼女に与えられた評価だった。
『ゼロのルイズ』
いつからだっただろう。
その呼び名が、自分の名前よりも先に周囲の口から出るようになったのは。
いつからだっただろう。
彼女が何かをしようとするたびに、周囲が期待ではなく嘲笑を向けるようになったのは。
少女は唇を噛んだ。
悔しくないわけがない。
何度も失敗してきた。
何度も笑われてきた。
自分だけが他の生徒たちと同じように魔法を使えない。
その事実を突きつけられるたびに、胸の奥が締め付けられるような思いをしてきた。
それでも。
それでも、彼女はここに立っている。
「……っ」
少女は顔を上げた。
その時、背後から聞こえてきたのは、堪えきれないといった様子の笑い声だった。
「また爆発かよ……」
「本当に懲りないわね」
「これで何回目だ?」
「ゼロのルイズに召喚なんてできるわけないだろう?」
くすくすと笑う声。
わざと聞こえるように発せられた言葉。
それらは一つ一つが小さな棘となって、少女の心に突き刺さる。
彼らにとっては、いつもの光景なのだろう。
ルイズが失敗し、爆発を起こし、周囲が笑う。
それはもはや、学院の日常の一部と化していた。
だが、笑われる側にとって、それがどれほど屈辱的なことなのか。
彼らは知ろうともしない。
少女はゆっくりと息を吐いた。
ここで怒鳴り返しても意味はない。
言い返したところで、彼らはますます面白がるだけだ。
何より、今はそんなことに構っている場合ではない。
彼女は視線を落とし、手にしていた杖を見つめた。
細い木製の杖。
これまで何度も握り、何度も振り下ろしてきたもの。
失敗するたびに、この杖を投げ捨ててしまいたくなったこともある。
自分には才能がないのではないか。
メイジとしてやっていけるのだろうか。
そんな考えが頭をよぎったことも、一度や二度ではない。
けれど、杖を手放したことはなかった。
手放せなかった。
自分は貴族なのだ。ヴァリエール家の娘なのだ。
たとえ周囲から何と呼ばれようとも、たとえ誰からも認められなくとも、自分自身だけは自分を諦めてはならない。
それが、彼女なりの矜持だった。
ルイズは杖を握り直した。
指先に力がこもる。
爪が掌に食い込むほどに強く。
――今度こそ。
彼女の心は折れない。
失敗したからといって、ここで諦めるわけにはいかない。
笑いたければ笑えばいい。馬鹿にしたければ、好きなだけ馬鹿にすればいい。
結果さえ出せば、そんなものはすべて覆せる。
自分が自分であることを、自分自身の力で証明してみせる。
「……できるわ。きっと」
誰に聞かせるでもなく、少女は小さく呟いた。
その声には、震えがあった。
しかし、それ以上に強い決意が込められていた。
少女はゆっくりと顔を上げる。
眼前に広がるのは、どこまでも続く草原。
その先には、青く澄み渡った空がある。
風が吹き抜け、彼女の髪を揺らした。
一度、深く息を吸い込む。
肺いっぱいに満ちる、雨上がりの清涼な空気。
そして、吐く。
胸の内に渦巻いていた感情を、すべて呑み込むように。
ルイズは手にした杖を天へと掲げた。
その姿に、周囲の嘲笑が一瞬だけ弱まる。
彼女の背筋は伸びていた。
その瞳は、真っ直ぐに前を見据えている。
たとえ何度失敗しようとも。
たとえ誰に笑われようとも。
今度こそ、成功させてみせる。
少女――ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは、高らかに召喚の祝詞を口にした。
その声は、快晴の草原に響き渡る。
そして、世界のどこかにいる何者かへと届いていく。
それが、彼女の運命を大きく変えることになるとも知らずに。