とある宿屋にて。
「なあ、炎角。風呂、行こうぜ」
部屋の中に、気安い青年の声が響いた。
声をかけたのは、赤い帽子を被った青年――シャウトである。
旅の埃を落とすには、そろそろ頃合いだろう。そう考えた彼は、部屋の隅に置かれた荷物を整理していた相棒へと振り返り、軽い調子で誘いをかけた。
「断る」
返答は、あまりにも早かった。まるで、誘われることなど最初から分かっていたかのような即答である。
「えー、いいじゃん。せっかくイバルが教えてくれた、いい風呂があるってのに」
「我は水は好かんと言っておる」
荷物の整理を放り出し、大きなソファにその身を投げ出した赤いタープを纏った美丈夫――炎角は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
その姿は、ひと目見ただけで人並み外れた存在であると分かるほどに堂々としている。鍛え上げられた肉体に、王者の風格を漂わせる立ち居振る舞い。人の姿を取ってはいるものの、その身に宿る力は到底人間の尺度で測れるものではない。
角獣王、炎角。
この世界に数多く存在する角獣。その中でも最強を誇り、豪炎を司る王である。
超古代より、その事実が揺らいだことはない。
そして、頂上決戦と呼ばれる長き戦いを経て、炎角の名は世界中に轟くこととなった。
もっとも、そんな偉大な王にも苦手なものはある。その代表格が、水だった。
「せっかくの温泉なんだぜ? 疲れも取れるし、気持ちいいと思うけどなあ」
「御前様の気持ちは嬉しいが、好かんものは好かんのだ」
シャウトは肩をすくめた。
無理に誘っても、炎角が首を縦に振らないことは分かっている。そもそも、彼の水嫌いは今に始まったことではない。以前から何度も風呂に誘っては、同じようなやり取りを繰り返してきた。
無理強いすれば、しばらく機嫌が悪くなる……それもまた、長い時間を共に過ごしてきたシャウトにはよく分かっていた。下手に機嫌を悪くされると、あとが怖い。好物の紅生姜を山の様に買わされるに違いない。
まぁ結論、最強の角獣王であろうと嫌いなものは嫌いなのだ。
「わかったよ。じゃあ、俺、行ってくるから。ちゃんとお留守番しといてくれよな」
「うむ。御前様の荷物ぐらいは片付けておいてやろう。フロハイノチノセンタクとやらをしてくるが良い」
「ありがとう。じゃあいってくる」
そんな炎角の言葉を背中越しに聞きながら、シャウトは部屋の扉へと向かった。その姿を炎角はソファに身を預けたまま見送る。
扉が閉まる音がして、部屋には再び静寂が戻った。