王炎の使い魔   作:ミスタ・ごんずい

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我は水は好かんー突然の別離.2ー

ここは、かつて絶暴のイバルが治めていた領地のすぐ近く。小さな村のはずれに建つ、ささやかな宿屋である。

 

 一行は旅の途中、しばらく休息を取るためにこの宿へ立ち寄っていた。

 

 赤い帽子の青年――シャウトたちは、古代にまつわる様々な謎を解き明かすべく、各地を旅している。

 

 頂上決戦と呼ばれる長い戦いを戦い抜き、ようやく勝ち得た平和な世界。

 

 その世界を、自分たちの足で巡る。

 

 それは、キャプテン・オメガホーンとして活動を始めるよりも前から、シャウトが抱いていた夢であり、目標でもあった。

 

 かつては戦いに追われ、立ち止まることさえ許されなかった日々。

 

 だからこそ、今の旅には特別な意味がある。

 

 目的地を急ぐ必要もなければ、迫り来る敵を警戒する必要もない。気になる場所があれば立ち寄り、面白そうなものがあれば調べる。そんな気ままな旅を、彼らは楽しんでいた。

 

 もっとも、同行する仲間たちの性格を考えれば、完全に平穏な旅とは言い難いのだが。

 

「……たまにはお風呂もいいものですよ、炎角」

 

 沈黙を破ったのは、もう一人の同行者だった。

 

 情報端末オメガアナライザーを管理するAI――通称アナ。

 その声はいつも通り落ち着いており、感情の起伏を感じさせない。もっとも、長い付き合いの炎角にとっては、その声のわずかな変化さえ聞き分けることができた。

 

「む……今日はそんな気分ではない」

 

 炎角はそう答えながら、ふとアナへ視線を向けた。

 そして、眉をひそめる。

 

「……む?」

 

 何かに気づいたように、炎角は身を起こした。

 アナの本体であるオメガアナライザー。その外装には、細かな土埃や泥が付着していた。

 

 無理もない。

 

 今日はかなりの距離を歩いた。途中には整備された道など存在せず、草木をかき分け、道なき道を進まなければならない場所もあった。

 

 さらに、宿へ到着する直前には通り雨に見舞われた。

 

 幸いにも大きな問題はなかったが、雨水と泥が混じり、荷物や装備にはそれなりの汚れが残っている。炎角アイは、そうした細かな変化を見逃さなかった。

 

「アナよ」

 

「はい?」

 

「少し汚れているな。我が洗ってやろう」

 

「えっ……いえ、その必要はありません。忘れたのですか、あの件を」

 

 アナの返答には、いつもよりわずかな間があった。

 

 あの件。

 

 それは、数ヶ月前に起きた出来事を指している。

 

 発端は、ほんの些細な不注意だったのだが。

 

 炎角が謎クッキングをしている最中に、アナをクリームと紅生姜を混ぜていたボールの中に落としてしまったのである。

 

 問題は、その後だった。

 

 汚れたアナを見た炎角は、すぐさま洗浄しようとした。ところが、慣れない作業に焦った結果、あろうことかアナを水の中へ沈めてしまったのだ。

 

 しかも、それだけでは終わらなかった。

 

 水気を取り除こうとした炎角が次に選んだ方法は、なんと電子レンジで乾燥させるというものだった。

 

 アナはレンジの中へ放り込まれ、あわや大惨事というところまで追い込まれた。

 

 幸い、内部の保護機構が作動したため、再起動だけで事なきを得た。

 

 だが、もしその機構が存在しなかったら……オメガアナライザーは爆発炎上していてもおかしくなかっただろう。

 

 アナにとっては、決して忘れられない事件である。

 

「う、うぬぅ……」

 

 炎角は、気まずそうに唸った。さすがに自分でも、あの一件については思うところがあるらしい。

 

 しかし、すぐに気を取り直す。

 

「だがしかし、我もあれから人の世のことを学び、成長しておる。遠慮するな。まかせておけ」

 

「遠慮ではなく、あなたに任せること自体が問題なのです」

 

「案ずるな。今度こそ失敗はせぬ」

 

「その自信はどこから来るのですか」

 

 アナの声に、わずかな諦めが混じる。

 

 しかし、炎角はすでに聞いていなかった。 

 

 彼は堂々と立ち上がると、部屋の片隅に置かれていたバケツを手に取った。

 

 そして、シャウトが飲料用として置いていた水を、惜しげもなく注ぎ込む。

 

 とぷ、とぷ、と水がバケツの底を叩く音が響いた。

 

「……炎角?」

 

 アナの声が、ほんの少しだけ低くなる。

 

 炎角はそれに構わず、今度は石鹸を手に取った。

 

「よし。アナよ。始めるぞ」

 

「あ……あ……」

 

 ゴリィ、と鈍い音と共にアナライザーに石鹸が押しつけられる。じきに泡と石鹸カスで真っ白になったアナライザーから、アナの声が途切れ途切れに聞こえてくる。

 

「やめ……あ……シャウ……」

 

 感情など持たないはずのAI。

 それでも、その声はどこか震えているように聞こえた。

 

 炎角はバケツを覗き込み、満足げに頷く。

 

「なに、心配するな。すぐに終わる」

 

「浸水を検知……保護機構作動……助け……シャウト……あ……」

 

「ふむ。見違えたぞアナ。まるで新品ではないか」

 

 炎角は、アナの訴えを聞いているのかいないのか、ひとり納得したように頷いた。

 

 そして、どこかで聞きかじったらしい言葉を口にする。

 

「カユイトコハアリマセンカ、オキャクサマ? と言うやつだ。気持ちよかろう、ア……」

 

 その時だった。

 炎角の耳に、何者かの声が届いた。

 

「……ん?」

 

 ふと、手が止まる。

 

 今、誰かに呼ばれたような気がした。

 

 炎角は顔を上げ、声のした方へと視線を向ける。

 

 部屋の中には、誰もいない。

 

 窓の外から聞こえるのは、遠くの村の生活音と、風が木々を揺らす音だけだ。

 

 シャウトが戻ってきたのだろうか。

 

 いや、違う。

 

 あの声はシャウトのものではなかった。

 

 聞き覚えのない声。

 

 か細く、弱々しい、少女の声だった。

 

 最初は、遠くから聞こえるかすかな囁きにすぎなかった。

 

 しかし、それは徐々に大きくなっていく。

 

 まるで、距離など関係なく、炎角の耳元へ直接届いているかのように。

 

「……誰だ?」

 

 炎角は警戒するように目を細めた。

 

 声は続く。

 

 聞き取れなかった音の連なりが、やがて明確な言葉へと変わっていく。

 

 それは、何かを求める祈りのようでもあり、何者かに命じる宣言のようでもあった。

 

 そして――。

 

『我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール! 五つの力を司るペンタゴン。我の運命に従いし、“使い魔”を召喚せよ!』

「……なんだ?」

 はっきりと、聞き慣れない言葉が炎角の耳朶を叩いた。そしてーーその声が発せられた直後。

 

 炎角の目の前に、奇妙なものが現れた。

 

 空間そのものが、音もなく歪んでいく。

 

 やがてそこに、一枚の鏡を思わせる光の膜が浮かび上がった。

 

 表面は静かな水面のように揺らめいている。

 

 しかし、それは鏡でも水でもない。

 

 向こう側に何があるのか、覗き込もうとしても何も見えない。ただ、そこから尋常ではない力が流れ出していることだけは、炎角にも理解できた。

 

「む……これは……」

 

 炎角が立ち上がろうとした、その瞬間。

 

 光の膜が大きく波打った。同時に、放たれた力が炎角の身体を包み込む。

 

「なっ――!?」

 

 全身を何かに掴まれたような感覚。

 

 炎角は反射的に踏みとどまろうとした。だが、足元の床が崩れたわけでも、身体を縛られたわけでもない。それなのに、抗いようのない力によって、身体が光の向こうへと引き寄せられていく。

 

「ぬおっ……何だ、これは!?」

 

 炎角の声が部屋に響く。

 

 その手が伸びる。

 

 だが、掴めるものは何もなかった。

 

 炎角の身体が、少しずつ光の中へ沈んでいく。

 

 そして、その足元では――。

 

「浸水率……上昇……保護機構……再……起動……」

 

 アナがバケツの底へと沈んでいた

 

「ぬおおおおっ!?」

 

 炎角の姿が、まばゆい光に包まれる。

 

 次の瞬間、そこにはもう何もなかった。

 

 まるで最初から誰もいなかったかのように、部屋は静まり返っている。

 

 残されたのは、床に置かれたバケツと、その中に沈んだオメガアナライザーだけ。

 

 こうして――。

 

 角獣王・炎角は、何の前触れもなく、何の準備もできぬまま。

 

 長年連れ添った相棒と、仲間たちのいる世界から、その姿を消したのである。

 

 それが、彼と一人の少女――ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールとの、奇妙な運命の始まりだった。

 

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