ここは、かつて絶暴のイバルが治めていた領地のすぐ近く。小さな村のはずれに建つ、ささやかな宿屋である。
一行は旅の途中、しばらく休息を取るためにこの宿へ立ち寄っていた。
赤い帽子の青年――シャウトたちは、古代にまつわる様々な謎を解き明かすべく、各地を旅している。
頂上決戦と呼ばれる長い戦いを戦い抜き、ようやく勝ち得た平和な世界。
その世界を、自分たちの足で巡る。
それは、キャプテン・オメガホーンとして活動を始めるよりも前から、シャウトが抱いていた夢であり、目標でもあった。
かつては戦いに追われ、立ち止まることさえ許されなかった日々。
だからこそ、今の旅には特別な意味がある。
目的地を急ぐ必要もなければ、迫り来る敵を警戒する必要もない。気になる場所があれば立ち寄り、面白そうなものがあれば調べる。そんな気ままな旅を、彼らは楽しんでいた。
もっとも、同行する仲間たちの性格を考えれば、完全に平穏な旅とは言い難いのだが。
「……たまにはお風呂もいいものですよ、炎角」
沈黙を破ったのは、もう一人の同行者だった。
情報端末オメガアナライザーを管理するAI――通称アナ。
その声はいつも通り落ち着いており、感情の起伏を感じさせない。もっとも、長い付き合いの炎角にとっては、その声のわずかな変化さえ聞き分けることができた。
「む……今日はそんな気分ではない」
炎角はそう答えながら、ふとアナへ視線を向けた。
そして、眉をひそめる。
「……む?」
何かに気づいたように、炎角は身を起こした。
アナの本体であるオメガアナライザー。その外装には、細かな土埃や泥が付着していた。
無理もない。
今日はかなりの距離を歩いた。途中には整備された道など存在せず、草木をかき分け、道なき道を進まなければならない場所もあった。
さらに、宿へ到着する直前には通り雨に見舞われた。
幸いにも大きな問題はなかったが、雨水と泥が混じり、荷物や装備にはそれなりの汚れが残っている。炎角アイは、そうした細かな変化を見逃さなかった。
「アナよ」
「はい?」
「少し汚れているな。我が洗ってやろう」
「えっ……いえ、その必要はありません。忘れたのですか、あの件を」
アナの返答には、いつもよりわずかな間があった。
あの件。
それは、数ヶ月前に起きた出来事を指している。
発端は、ほんの些細な不注意だったのだが。
炎角が謎クッキングをしている最中に、アナをクリームと紅生姜を混ぜていたボールの中に落としてしまったのである。
問題は、その後だった。
汚れたアナを見た炎角は、すぐさま洗浄しようとした。ところが、慣れない作業に焦った結果、あろうことかアナを水の中へ沈めてしまったのだ。
しかも、それだけでは終わらなかった。
水気を取り除こうとした炎角が次に選んだ方法は、なんと電子レンジで乾燥させるというものだった。
アナはレンジの中へ放り込まれ、あわや大惨事というところまで追い込まれた。
幸い、内部の保護機構が作動したため、再起動だけで事なきを得た。
だが、もしその機構が存在しなかったら……オメガアナライザーは爆発炎上していてもおかしくなかっただろう。
アナにとっては、決して忘れられない事件である。
「う、うぬぅ……」
炎角は、気まずそうに唸った。さすがに自分でも、あの一件については思うところがあるらしい。
しかし、すぐに気を取り直す。
「だがしかし、我もあれから人の世のことを学び、成長しておる。遠慮するな。まかせておけ」
「遠慮ではなく、あなたに任せること自体が問題なのです」
「案ずるな。今度こそ失敗はせぬ」
「その自信はどこから来るのですか」
アナの声に、わずかな諦めが混じる。
しかし、炎角はすでに聞いていなかった。
彼は堂々と立ち上がると、部屋の片隅に置かれていたバケツを手に取った。
そして、シャウトが飲料用として置いていた水を、惜しげもなく注ぎ込む。
とぷ、とぷ、と水がバケツの底を叩く音が響いた。
「……炎角?」
アナの声が、ほんの少しだけ低くなる。
炎角はそれに構わず、今度は石鹸を手に取った。
「よし。アナよ。始めるぞ」
「あ……あ……」
ゴリィ、と鈍い音と共にアナライザーに石鹸が押しつけられる。じきに泡と石鹸カスで真っ白になったアナライザーから、アナの声が途切れ途切れに聞こえてくる。
「やめ……あ……シャウ……」
感情など持たないはずのAI。
それでも、その声はどこか震えているように聞こえた。
炎角はバケツを覗き込み、満足げに頷く。
「なに、心配するな。すぐに終わる」
「浸水を検知……保護機構作動……助け……シャウト……あ……」
「ふむ。見違えたぞアナ。まるで新品ではないか」
炎角は、アナの訴えを聞いているのかいないのか、ひとり納得したように頷いた。
そして、どこかで聞きかじったらしい言葉を口にする。
「カユイトコハアリマセンカ、オキャクサマ? と言うやつだ。気持ちよかろう、ア……」
その時だった。
炎角の耳に、何者かの声が届いた。
「……ん?」
ふと、手が止まる。
今、誰かに呼ばれたような気がした。
炎角は顔を上げ、声のした方へと視線を向ける。
部屋の中には、誰もいない。
窓の外から聞こえるのは、遠くの村の生活音と、風が木々を揺らす音だけだ。
シャウトが戻ってきたのだろうか。
いや、違う。
あの声はシャウトのものではなかった。
聞き覚えのない声。
か細く、弱々しい、少女の声だった。
最初は、遠くから聞こえるかすかな囁きにすぎなかった。
しかし、それは徐々に大きくなっていく。
まるで、距離など関係なく、炎角の耳元へ直接届いているかのように。
「……誰だ?」
炎角は警戒するように目を細めた。
声は続く。
聞き取れなかった音の連なりが、やがて明確な言葉へと変わっていく。
それは、何かを求める祈りのようでもあり、何者かに命じる宣言のようでもあった。
そして――。
『我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール! 五つの力を司るペンタゴン。我の運命に従いし、“使い魔”を召喚せよ!』
「……なんだ?」
はっきりと、聞き慣れない言葉が炎角の耳朶を叩いた。そしてーーその声が発せられた直後。
炎角の目の前に、奇妙なものが現れた。
空間そのものが、音もなく歪んでいく。
やがてそこに、一枚の鏡を思わせる光の膜が浮かび上がった。
表面は静かな水面のように揺らめいている。
しかし、それは鏡でも水でもない。
向こう側に何があるのか、覗き込もうとしても何も見えない。ただ、そこから尋常ではない力が流れ出していることだけは、炎角にも理解できた。
「む……これは……」
炎角が立ち上がろうとした、その瞬間。
光の膜が大きく波打った。同時に、放たれた力が炎角の身体を包み込む。
「なっ――!?」
全身を何かに掴まれたような感覚。
炎角は反射的に踏みとどまろうとした。だが、足元の床が崩れたわけでも、身体を縛られたわけでもない。それなのに、抗いようのない力によって、身体が光の向こうへと引き寄せられていく。
「ぬおっ……何だ、これは!?」
炎角の声が部屋に響く。
その手が伸びる。
だが、掴めるものは何もなかった。
炎角の身体が、少しずつ光の中へ沈んでいく。
そして、その足元では――。
「浸水率……上昇……保護機構……再……起動……」
アナがバケツの底へと沈んでいた
「ぬおおおおっ!?」
炎角の姿が、まばゆい光に包まれる。
次の瞬間、そこにはもう何もなかった。
まるで最初から誰もいなかったかのように、部屋は静まり返っている。
残されたのは、床に置かれたバケツと、その中に沈んだオメガアナライザーだけ。
こうして――。
角獣王・炎角は、何の前触れもなく、何の準備もできぬまま。
長年連れ添った相棒と、仲間たちのいる世界から、その姿を消したのである。
それが、彼と一人の少女――ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールとの、奇妙な運命の始まりだった。