光堕ちしないラスボス系生徒 作:あいら
救護騎士団の病棟は、朝から静かだった。
消毒液の匂いが薄く漂う廊下を歩きながら、先生は昨日の中庭を思い返していた。泣きながら謝る少女。散っていく三人の生徒。ベンチで微笑んでいた御影ユラ。報告書を何度読み返しても、あの午後の手触りだけはうまく言葉にならない。
「先生、おはようございます。来てくださったんですね」
病室の前で、鷲見セリナが小さく頭を下げた。胸には記録用のボードを抱えている。昨夜はほとんど休んでいないのだろう。目の下に、うっすらと疲れが残っていた。
「おはよう、セリナ。エマの様子はどう?」
「身体の方は大丈夫です。打撲と唇の裂傷、それから左手首の捻挫。三日もすれば、普通に歩けるようになると思います」
そこでセリナは、少しだけ言葉を選んだ。
「……ただ、気になることがあって。肩と背中に、古い痣がいくつかあったんです。昨日できたものではありません。色からすると、二週間から一か月くらい前のものだと思います」
「前にも、同じことが?」
「本人は、転んだと言っています」
セリナはボードに目を落とした。救護騎士団として、彼女はこれまで多くの怪我を見てきたはずだ。だからこそ、転んでできる痣とそうでない痣の違いも分かる。
「先生。手当てはできます。でも、帰る場所が同じなら、また同じ怪我をして戻ってくるかもしれません」
病室に入ると、エマはベッドの上で身体を起こしていた。昨日よりは顔色がいい。けれど先生の姿を見た途端、彼女は慌てて背筋を伸ばし、包帯を巻いた手を膝の上で重ねた。
「あ、あの……昨日は、ご迷惑を……」
「迷惑なんてかけてないよ。痛むところはない?」
「大丈夫です。それより……」
エマは窓の外へ目を向けた。その方角には、祝祭教会の保護寮がある。
「ユラ様は、怒っていませんでしたか?」
先生は答えに詰まった。最初に気にするのが自分の怪我ではなく、そこなのか。
「私、まだ謝れてないんです。ちゃんと謝らないと。ミオちゃんたちにも、迷惑かけちゃったし……」
ミオ。昨日、エマを通路へ連れていった少女の名前だろう。
「エマ。君を叩いたのは、その子たちだよね」
「はい。でも、それは私が間違えたからで……ミオちゃんは、私のために怒ってくれたんです。私がユラ様に嫌われないように」
責めるような響きはどこにもなかった。仲のいい友達を自慢するときの声だった。
「エマは、どうして教会にいるのかな」
先生が尋ねると、エマは少しだけ迷ってから話し始めた。
春に実家からの仕送りが止まったこと。寮費が払えなくなり、部屋を出たこと。二週間ほど、図書館裏の倉庫の軒下で寝ていたこと。誰にも言えなかったこと。そんなとき、教会の生徒に声をかけられたこと。
「温かいスープをもらって、シャワーを使わせてもらって、ベッドもあって。次の日には、遅れてた勉強も見てもらえたんです。入信式で、ユラ様が言ってくださったんですよ。『あなたは、ここにいていいんです』って」
エマは包帯の手で胸元を押さえた。
「……私、ああいうこと言われたの、初めてだったんです」
先生はしばらく何も言えなかった。
教会のことなんて忘れればいい。そう言うのは簡単だ。けれど、エマが今夜眠るベッドも、明日の朝食も、遅れた勉強を見てくれる相手も、すべてそこにある。代わりを用意できないまま居場所を否定すれば、彼女はまた倉庫の軒下へ戻るだけだ。
「エマ。退院したあとのこと、一緒に考えさせてほしい。教会に戻るかどうかも含めて」
「戻ります」
即答だった。
「戻って、ユラ様に謝ります。……あ、でも、先生がユラ様を怒ったりしないでくださいね。ユラ様は何も悪くないので」
病室を出たあと、セリナがぽつりと言った。
「……ああいう患者さん、たまにいるんです。自分を傷つけた人のことを、一番に心配する子」
「うん」
「でも、あそこまで迷いがないのは、初めてかもしれません」
***
祝祭教会の本部は、トリニティ自治区の外れにあった。
古い礼拝堂を改装した建物で、白い外壁は塗り直されたばかりらしい。隣には三階建ての保護寮、向かいには食堂と小さな診療所が並んでいる。正午前の広場には炊き出しの列ができていた。並んでいるのは信徒だけではない。他校の制服や、作業着姿の住民も混じっている。
先生は列の脇を歩きながら、目に入るものを一つずつ確かめた。食堂の床は磨かれ、配膳台には献立表とアレルギー表示が貼られている。診療所の前には『ご相談はどなたでもどうぞ』の看板。保護寮の窓辺には洗濯物が並び、学習室からは数学の公式を読み上げる声が聞こえた。
どれも、ちゃんとしていた。
善意だけで始まった慈善事業が、資金や人手の不足で消えていくのを、先生は何度も見てきた。だが、ここは違う。動線は整理され、在庫の管理表が壁に掛かり、配膳係は交代で休憩を取っている。誰かが相当な手間と金をかけて、この場所を回しているのだ。
「シャーレの先生ですか? わあ、本当に来てくださったんですね!」
配膳台の向こうから、エプロン姿の少女が声をかけてきた。一年生くらいだろう。おたまを持ったまま、ぱっと顔を明るくする。
「シチュー、食べていきますか? 今日のは自信作なんです!」
「ありがとう。じゃあ、少しだけ」
受け取った器は温かかった。具が大きい。少女は先生が一口食べるのを、わくわくした顔で見守っている。
「美味しいよ」
「よかったぁ! 私、ここに来る前は料理なんて全然できなかったんです。お金の取り立ての人たちに追いかけられてて、毎日それどころじゃなくて」
少女は天気の話でもするように言った。
「でも、教会の皆さんが話をつけてくれて、ここに住まわせてもらえて。今はこうして、他の子にご飯を作れるようになったんですよ」
「そうなんだ。……頑張ったんだね」
「はい! だから――」
少女は胸元の銀色の徽章に触れた。昨日、中庭の信徒たちがしていたのと同じ仕草だった。
「彼女は私たちを救ってくれた救世主なんです! だから、あの人が望むことは全部叶えたいんです! 何をしてでも!」
弾むような声だった。威圧も陶酔もない。好きな先輩の話をする、ごく普通の女子生徒の顔だった。
先生は器を置いた。
「何をしてでも、か。……それは、友達を傷つけることでも?」
少女はきょとんと瞬きをした。答えたのは彼女ではなかった。隣でテーブルを拭いていた二年生の信徒が、手を止めもせずに言う。
「ユラ様のお考えなら、必要なことでしょう」
ためらいは、一秒もなかった。
「あ、エマちゃんのことですか? 大丈夫ですよ、先生。ちゃんと反省すれば、ユラ様は許してくださいますから。……お代わり、いかがです?」
布巾を畳みながら、彼女は笑った。先生は「ありがとう、もう十分だよ」と答えた。自分の声が、思っていたよりも平らに聞こえた。
ここにいる子たちは優しい。明るくて親切で、他人のために働くことを苦にしない。そして、その優しさと同じ場所から、何のためらいもなく暴力を肯定する言葉が出てくる。
信仰を否定するだけなら簡単だ。だがそれをすれば、ここで暮らす子たちは住む場所を失う。取り立てから逃れた子も、仕送りが止まった子も、また外へ放り出される。救われたことは嘘ではないのだ。
支援は支援として残す。暴力は暴力として止める。両方を、別々に。口で言うほど簡単でないことは、先生にも分かっていた。
「――先生!? 先生ではありませんか!」
背後から、よく知った声が響いた。振り向くと、野菜の木箱を三つ重ねて抱えた少女が、よろめきながら駆けてくるところだった。
「宇沢レイサ、ただいま参上しました! ……っとと」
「レイサ? 危ないよ、一つ持とうか」
「いえ、大丈夫です! これも自警団の鍛錬ですから!」
レイサは木箱を配膳台の裏へ下ろすと、得意げに胸を張った。
「パトロールのついでに、炊き出しのお手伝いをしているんです。ここ、いつも人手が足りなくて。先生も視察ですか?」
「うん、そんなところ。レイサは教会の子なの?」
「いえいえ、私は信者さんではありませんよ! トリニティ自警団の宇沢レイサです!」
それから少しだけ声を落とし、照れくさそうに頬を掻いた。
「……でも、ユラさんに褒めてもらったことがあるんです。『レイサさんが夜の見回りをしてくださるようになってから、保護寮の前が静かになりました』って。私、ちゃんと見回りしてたの、誰も気づいてないと思ってたので……」
えへへ、とレイサは笑った。嬉しさを隠しきれない笑い方だった。
誰かの役に立ちたい。自分のしたことを、誰かに見ていてほしい。その気持ちはレイサの一番いいところで、先生もそれをよく知っている。
だからこそ、配膳台の向こうから聞こえた声を、先生は聞き逃さなかった。
「レイサさん、射撃もお上手なんですよね。今度、寮の警備も手伝っていただけたら、ユラ様もきっとお喜びになりますよ」
「本当ですか!? 任せてください!」
レイサは屈託なく頷いた。先生は口を開きかけ、閉じた。今ここで止めれば、レイサの善意そのものを疑うことになる。
「レイサ」
「はい!」
「何か困ったことがあったら、私にも相談してね。どんなことでも」
「……? はい、もちろんです!」
***
事務室の窓から、広場がよく見えた。
先生がシチューを食べ、信徒と話し、宇沢レイサに何か言っている。声は聞こえないが、表情は分かる。困っているときの顔だ。昨日の中庭でも、あの人は同じ顔をしていた。
私は帳簿を閉じた。今月の新規入信者は四十二名。炊き出しの一食分の原価は、寄付の食材を差し引けば缶ジュース一本にも満たない。それで毎日あれだけの笑顔が並び、そのうち何人かは来月、信徒名簿に自分の名前を書く。慈善事業とは、実によくできた投資だ。
「ユラ様、お、お昼をお持ちしました!」
扉が叩かれ、紙袋を抱えた信徒が入ってきた。昨日とは別の子だ。彼女は袋を机に置くと、震える指で箱を開き、中身をこちらへ向けた。
「チ、チーズバーガーで、お間違いございませんでしょうか……!」
「ええ。完璧です」
「よかった……っ、よかったです……!」
少女はその場にへたり込みそうになりながら、何度も頭を下げて出ていった。レシートを三回確かめたらしい。教育というのは、一度で十分に伝わるものですね。
チーズバーガーを半分ほど食べたところで、私は事務室を出た。
広場に降りると、先生はすぐにこちらに気づいた。信徒たちが道を空け、胸元の徽章に手を添える。私はそれに頷き返しながら、先生の前で足を止めた。
「ようこそ、先生。昨日の今日でいらっしゃるとは思いませんでした」
「急にごめんね。どうしても、自分の目で見ておきたくて」
「構いませんよ。……エマさんのお加減はいかがですか?」
名前は、昨日覚えた。
「怪我は、数日で良くなるって」
「そうですか。よかった」
安堵の息をついてみせる。先生は私の顔を見て、それから広場を見回した。炊き出しの列、洗濯物の並ぶ窓、学習室から漏れる声。
「いい場所だね」
「まあ。ありがとうございます」
「本当にそう思うよ。ここで助けられている子がたくさんいる。それは嘘じゃないと思う」
おや、と思った。
この手の人は、まず施設のあら探しから始めるものだ。帳簿を見せろと言うか、寮の部屋を見せろと言うか。あるいは善行を並べられて何も言い返せず、黙り込むか。昨日の続きを、私は少しばかり楽しみにしていたのですが。
「だから、ここを壊すつもりはないよ」
先生は続けた。
「でも、エマのことは別の話だ。あの子を叩いた子たちとも、話をさせてほしい。それに、エマには古い痣もあった。同じことが前にもあったのかもしれない」
……ああ。
なるほど。この人は、善行と悪行を分けて持つのか。慈善を認め、そのうえで暴行を咎める。片手で握手をしながら、もう片方の手で襟首を掴むようなやり方だ。善行を盾にすれば黙ってくれる大人なら、話はずっと簡単だったのに。
実に面倒で、面白い。
「もちろんです。当人たちが望むなら、いつでもお話しください」
「ありがとう」
望むなら。あの子たちが望むはずがないことは、先生も分かっているだろう。それでもこの人は、きっと一人ずつ訪ねていく。断られても、また来る。そういう顔をしている。
「先生」
「うん?」
「シチューは、お口に合いましたか?」
先生は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「美味しかったよ。作った子の自信作だって」
「ふふっ。それは何よりです」
あの子の名前も、私は知らない。
***
ティーパーティーのテラスに通されたのは、夕方近くのことだった。
桐藤ナギサは、いつものように完璧な所作で紅茶を注いだ。だが、カップを置く指先にはかすかな硬さがある。セイアが表に姿を見せなくなってから、ナギサの周囲には目に見えない緊張が張りつめていた。
「条約の件ではない、と伺いましたが」
「うん。祝祭教会のことで、少し聞きたくて」
先生は昨日の出来事を、事実だけに絞って話した。中庭で起きた暴行。被害者が加害者を庇っていること。古い痣のこと。その場に御影ユラがいたこと。ユラが命じたとは言わなかった。言えるだけの証拠が、まだない。
ナギサは最後まで黙って聞き、カップを静かにソーサーへ戻した。
「生徒間の暴行については、正規の手続きで調査させましょう。被害者の保護も、救護騎士団と連携します」
「ありがとう。助かるよ」
「ですが、先生」
ナギサは目を上げた。
「祝祭教会の保護寮には、ティーパーティーも随分と助けられているのです。行き場を失った生徒の受け入れ、食事の提供、学習の遅れの補填。本来なら行政が担うべきことを、あの方々は自分たちの手で回しています。……それに」
一拍、間が空いた。
「御影ユラさんは、私が相談できる数少ない方です」
先生は、すぐには返事ができなかった。
ナギサの言葉に熱はなかった。信徒たちのような弾む響きもない。事実を述べるように、静かに言った。それがかえって、二人の距離の近さを物語っていた。
「……そうなんだ」
「今のトリニティでは、誰を信じればいいのか分からなくなるときがあります。そういうとき、あの方は落ち着いて話を聞いてくださる。結論を押しつけることもなく、私の考えを整理する手伝いをしてくださるのです」
ナギサは紅茶に口をつけた。
「先生が中庭で見たことを、疑うつもりはありません。ですが、ユラさんがその場に居合わせたことと、ユラさんが関わっていたことは、別の話でしょう?」
正論だった。先生自身も、同じことを考えていた。
「うん。その通りだと思う」
「ご理解いただけて何よりです」
ナギサは微笑んだ。ティーパーティーのホストとして、隙のない微笑みだった。
帰り道、先生は端末を開き、昨日書き留めた二つの名前を見つめた。それから、その下にもう一行書きかけて――指を止めた。
まだ早い。そう思った。
***
その夜、桐藤ナギサから電話があった。
『夜分に申し訳ありません。……今日、シャーレの先生がいらっしゃいました』
「まあ。何かお困りのことでも?」
『教会で暴行があったと。その場にユラさんがいたとも、仰っていました』
電話の向こうで、ナギサが言葉を探している。疑っているのではない。疑ってしまうことが不安なのだ。この方は誰かを信じるたびに、その信頼が裏切られる瞬間を想像せずにいられない。今のトリニティでは、無理もない話だ。
「ご心配をおかけしてしまいましたね」
私は声を落とした。
「信徒同士の諍いを、私が止められなかったのは事実です。怖くて、足がすくんでしまって……。救護騎士団には、明日こちらからお見舞いと謝罪に伺います。調査にも、もちろん協力いたします」
『……そうでしたか』
ナギサの声から、少しだけ硬さが抜けた。
『いえ、ユラさんを疑ったわけではないのです。ただ、先生が気にかけていらしたので、念のため』
「ええ、分かっていますよ。……先生は、熱心な方ですものね」
私は、ほんの少しだけ間を置いた。
「シャーレは連邦生徒会の組織ですから、トリニティの内情までご存じないのは仕方ありません。ただ、根拠のないお話をティーパーティーのホストに直接お持ちになるのは、少し不用心かもしれませんね。……
電話の向こうで、ナギサが息を詰めた気配がした。
今の時期。条約を目前に控え、ティーパーティーの席が一つ空いたままの時期。セイアの消息は伏せられ、ナギサはそこに内通者の影を見ている。誰が敵で誰が味方かも分からない。わざわざ説明しなくても、この方なら自分で続きを考えてくれる。
もっとも、私はその空席の理由を知っている。百合園セイアは、救護騎士団の奥にある限られた者しか入れない部屋で、意識が戻らないまま眠り続けている。救護騎士団にも、信徒はいるのだ。ナギサが眠れない夜を重ねているその答えを、私は彼女より先に持っている。
教えてあげる気は、今のところない。
『……ええ。確かな証拠もなく、他人を疑うような方は』
短い沈黙のあと、ナギサは静かに言った。
『信用できませんね』
つい先ほど、自分が同じことをしていたとは気づいていないらしい。
「ナギサさん。最近、きちんと眠れていますか?」
『……正直に申し上げると、あまり』
「お声で分かります。今夜はもうお休みになってください。明日の分の心配は、明日のあなたに任せましょう」
『……ふふ。ユラさんには、敵いませんね』
通話を終え、私は端末を机に置いた。
ナギサは良い子だ。賢く、責任感が強く、誰よりも疑い深い。だからこそ、一度信じた相手を疑うことを何より恐れている。先週伝えた『ゲヘナの一部が条約に反発している』という話は事実だった。その前の、警備名簿についての小さな指摘も正しかった。正しい情報を三つ渡せば、四つ目は確かめずに受け取ってもらえる。
先生は、ナギサのところにまで足を運んだらしい。仕事の早い方だ。けれど今夜からは、ナギサの中で先生は『信用のできない大人』になった。あの人が次に何を持ち込んでも、ナギサはまず疑うところから始めるだろう。
さて、と伸びをしたところで、端末が短く震えた。
画面に浮かんだ名前を見て、私は目を細めた。
『やっほー、ユラちゃん☆ 明日の午後ってひま? ちょっとお茶しない? ……あ、ナギちゃんには内緒ね!』
聖園ミカ。
ティーパーティーのお姫様。いつも笑っていて、いつも賑やかで、最近はその笑顔の端が、ほんの少しだけ引きつっている子。セイアの件があってから、あの子は時々、笑いながら別のところを見ている。ナギサとも、どこかぎこちない。
何かを抱えている。誰にも言えない何かを。あの夜の襲撃にあの子がどう関わっていたのか、アリウスに潜らせた信徒の報告で、おおよその見当はついている。
そしてあの子はきっと、セイアがもう戻らないと思っている。
眠っているだけだと教えてあげたら、どんな顔をするのだろう。泣くのか、安堵するのか、それとも余計に怯えるのか。……いいえ、それはもう少し先に取っておきましょう。一番いい時に伝えた方が、きっと一番いい顔をしてくれる。
『もちろん、喜んで』
返信を送り、私は引き出しから焼き菓子の目録を取り出した。苺のタルトか、ピスタチオのマカロンか。甘いものがお好きな方だから、両方でもいいかもしれない。
あの子が私だけを頼り切ったら。誰にも言えない秘密を、私にだけ打ち明けるようになったら。そしてその秘密を私がどう扱うか知ったとき――あの子は、どんな顔をするのでしょう。
「……タルトにしましょう。季節のものですし」
目録を閉じ、私は灯りを落とした。明日は晴れるといい。せっかくのお茶会なのだから。