光堕ちしないラスボス系生徒 作:あいら
苺のタルトを、今度は二切れだけ予約した。
先週の反省である。ホールで頼むと、誰かが来なかったときに私一人で片付ける羽目になる。美味しかったので問題はなかったのだが、さすがに三日ほどはタルトの顔を見たくなかった。
約束の時刻を十分過ぎたところで、テラスの扉が勢いよく開いた。
「ごめんごめん! お待たせ、ユラちゃん☆」
聖園ミカは、走ってきたとは思えないほど髪の一本も乱れていなかった。ティーパーティーのお姫様は、遅刻の仕方まで華やかだ。
「先週はほんとにごめんね。ナギちゃんがさ、急に話があるって」
「いいえ。おかげでタルトを独り占めできましたから」
「えっ、ずるい! ……あ、でも今日もあるんだ。やったー!」
ミカは席に着くなりフォークを手に取った。それから苺だけを器用に皿の端へ避け、タルト生地から食べ始める。好きなものは最後に取っておく子らしい。
そういう子は、取っておいたものを横から攫われたとき、一番いい顔をする。……流石に、やらないが。
ミカはよく喋った。新しく見つけた雑貨屋のこと、正義実現委員会の誰それが怖いこと、パテル分派の会議が退屈なこと。話題はくるくる変わる。
正直に言えば、少し退屈だった。雑貨屋の猫の置物がどれほど可愛かったかを三分かけて説明されても、私には相槌くらいしか打つことがない。
ただ、一つの名前だけは、どれだけ待っても出てこなかった。
百合園セイア。
あの夜から、ミカの口から出なくなった名前だ。避けているのではない。口にしたら最後、何かが崩れてしまうのだろう。
「……でさ、ナギちゃんがね」
ふと、ミカの声が小さくなった。フォークの先で、端に避けた苺をつつく。
「最近、すっごいピリピリしてるの。先週呼ばれたのも、なんか、いろいろ聞かれて。どこに行ってたのとか、誰と会ってたのとか。……あはは、尋問みたいだったよ。あ、もちろんユラちゃんのことは言ってないからね!」
「まあ。秘密にしてくださったのですか」
「だって内緒のお茶会だもん☆」
ミカは笑った。けれど、苺をつつく手は止まらなかった。
「……ナギちゃん、私のこと疑ってるのかなぁ」
笑顔の端が、ほんの少しだけ崩れた。
ああ、ようやく出てきた。猫の置物の話を三分聞いた甲斐があったというものだ。今日のタルトより、こちらの方がずっといい。
「ナギサさんは今、誰も信じられないのだと思います」
私はカップを置いた。
「ミカさんだけが疑われているのではありませんよ。あの方は、ご自分のことすら信じきれていないように見えます。……ですから、ミカさんが心配して近づくほど、かえって怖がらせてしまうかもしれません」
「……そう、なのかな」
「少しだけ距離を置いて差し上げるのも、優しさだと思いますよ。ナギサさんが落ち着くまで」
ミカは苺を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「ユラちゃんってさ、なんでそんなに分かるの?」
「さあ。ミカさんのことを、よく見ているからでしょうか」
ミカが、少しだけ目を見開いた。それから困ったように笑う。
「……ずるいなあ、そういうの」
言いたいことがあるのは、顔を見れば分かった。喉の手前まで出かかっている。セイアの名前と、あの夜のことと、たぶん、もっと別のことも。
けれど、私は聞かなかった。今ここで全部吐き出させてしまうのは、もったいない。
「誰にでも、言えないことの一つや二つはありますもの。言えるようになったら、そのときに聞かせてください。言えないままでも、構いませんよ」
「……うん」
ミカは、ようやく苺を口に入れた。
「ねえ、来週もお茶できる?」
「ええ、喜んで。次は何を用意しましょうか」
「ロールケーキ! ……あ、だめだめ、ナギちゃん思い出しちゃう。んーと、じゃあシュークリーム!」
帰っていくミカの背中を見送りながら、私は残りの紅茶を飲んだ。私の皿のタルトは、半分残ったままだった。
あの子は、セイアがもう二度と戻らないと思っている。自分のせいで、と思っている。だから、あんなに苺を食べるのが遅い。
本当は、救護騎士団の奥の部屋で眠っているだけなのに。
教えてあげたら、あの子はどんな顔をするのだろう。……いいえ、まだです。タルトの苺と同じ。一番おいしいものは、最後に取っておくものでしょう?
***
桐藤ナギサは、ロールケーキをいつもより厚めに切った。
前回、ユラはお茶請けのクッキーをすぐに食べ終え、あとは紅茶ばかり口にしていた。お代わりを勧めるべきだったと気づいたのは、ユラが帰ったあとだった。客人をもてなす立場として、同じ失敗は二度としたくない。
「今日は、少し個人的な相談です」
紅茶を注ぎ終えてから、ナギサは切り出した。ユラは皿のロールケーキに目を細め、静かに頷いた。
「ミカさんのことです」
口にした瞬間、胸の奥が冷たくなった。
幼い頃から知っている友人だ。わがままで、騒がしくて、時々ひどく無神経で、それでも誰より情に厚い。そのミカを、自分は今、疑っている。
「最近、ミカさんが私に隠れて誰かと会っているようなのです。先週問いただしましたが、はぐらかされました。……それに、ミカさんは以前からアリウスとの和解を口にしていたでしょう。この時期に」
ナギサは、カップを握る指に力を込めた。
「私は、何を疑っているのでしょうね。友人を疑うなんて、ティーパーティーのホストとしても、人としても、間違っているのかもしれません」
ユラはすぐには答えなかった。
ロールケーキに伸ばしかけていたフォークを、静かに皿へ戻す。それから、まっすぐにナギサを見た。口元に、かすかな笑みが浮かんでいる。
友人を疑っていると打ち明けて、微笑みを返される。考えてみれば、少しおかしなことなのかもしれない。けれど今のナギサには、それが何よりの慰めだった。責められないということが、こんなにも楽だとは思わなかった。
「ナギサさんがミカさんを疑ってしまうのは、ミカさんを大切に思っているからでしょう」
「……え?」
「どうでもいい相手なら、隠しごとをされても気になりません。大切な方だから、見て見ぬふりができないのです。それは、間違いではありませんよ」
ナギサは、ゆっくりと息を吐いた。
疑うことは、裏切りではない。大切だからこそ、確かめなければならない。それはナギサが自分に言い聞かせようとして、どうしても言い聞かせられなかった言葉だった。
この人は、いつもそうだ。私が欲しい言葉を、どんな時でも差し出してくれる。誰にも言えずにいた迷いを、責めることなく、正しいものに変えてくれる。
「それに」
ユラは、少しだけ声を和らげた。
「ミカさんにも、ナギサさんに言えない相手の一人や二人はいるでしょう。それが誰なのか、今は分からなくても。ナギサさんがトリニティを守ろうとなさるなら、目を逸らさないことも必要かもしれません」
「……ええ。そうですね」
ナギサは頷いた。自分で決めたことだった。誰に言われたわけでもない。ミカの周辺を、もう少し注意深く見ておく。補習授業部とは別に。
それは友人を守るためでもあり、トリニティを守るためでもある。
ユラが帰ったあと、ナギサは手つかずのまま残った自分のロールケーキを見つめた。ユラの皿は、きれいに空になっていた。
次は、もう少し厚く切ってもいいかもしれない。
***
補習授業部の初日は、思っていたよりずっと賑やかだった。
浦和ハナコは、夕暮れの並木道を歩きながら、今日のことを思い返していた。真面目すぎる阿慈谷ヒフミ、背筋の伸びた白洲アズサ、すぐに顔を赤くする下江コハル。それから、どこか頼りないのに、妙に目の離せないシャーレの先生。
落第すれば退学。表向きはそういう部だ。けれど集められた顔ぶれを見れば、それだけではないことくらい、ハナコにはすぐに分かった。
「――ハナコさん?」
聞き慣れた声に振り向くと、並木道の先のベンチに御影ユラが座っていた。夕日を背にしていたせいで、一瞬誰だか分からなかった。
「あら、ユラさん。こんなところでお会いするなんて、珍しいですね」
「少し寄り道をしていたんです。ハナコさんこそ、今日はずいぶん遅いのですね」
「うふふ。少し、賑やかな一日だったもので」
「それは、お疲れ様です」
ユラは膝の上の紙袋を、軽く持ち上げてみせた。
「甘いものはいかがですか? 並んで買ったたい焼きなんです。一人では少し多くて」
「では、遠慮なく」
隣に腰を下ろし、紙袋から一つ取り出す。まだ温かい。ユラはもう一つを取り出すと、頭からかじった。
「ユラさんは頭から派なんですね」
「頭から食べれば、最後に尻尾のカリカリしたところが残るでしょう? 締めはあれに限ります」
真剣な顔で言うものだから、ハナコは思わず笑ってしまった。
この人には、こういうところがある。あの夏祭りのときもそうだった。
去年の夏の終わり、ハナコはユラと二人で、自治区の外れの夏祭りに出かけた。
トリニティに入ってから、誰かと普通に遊んだ記憶がほとんどない。周りが見ているのは「優等生の浦和ハナコ」で、ハナコ自身ではない。そんな話を、何かのついでに冗談めかしてこぼしたことがあった。
数日後、ユラが夏祭りのチラシを持ってきた。「では、行きましょうか」と、まるで約束していたことのように言った。誘ってくれたのは、ユラの方だった。
ユラは、屋台の前でいちいち真剣に悩んだ。焼きそばにするか、たこ焼きにするか。五分迷って両方買い、半分ずつ食べようと言った。型抜きの屋台では三回失敗し、四回目で傘の形を綺麗に抜いて、小さくガッツポーズをした。ハナコが笑うと、少しむっとした顔で「これは技術の問題です」と言った。
綿あめは、一つを半分こした。
花火が上がったとき、ハナコは空を見ていた。光が弾けて、音が遅れて届いて、周りから歓声が上がる。こんなにまっすぐ何かを綺麗だと思ったのは、久しぶりだった。
ふと隣を見ると、ユラは空ではなく、ハナコの方を見ていた。
「……花火、見ないんですか?」
「見ていますよ。ハナコさんのお顔に映っているのを」
冗談だと思って、ハナコは笑った。ユラも笑った。
帰り道、ハナコの下駄の鼻緒が切れた。ユラは自分の髪を結んでいた紐をほどいて、器用に鼻緒を結び直してくれた。髪を下ろしたユラと並んで歩く帰り道で、「来年も来ましょうか」と言ったのは、どちらだったか。
あの夜のことを、ハナコは何度も思い出す。何も計算せず、何の役も演じずに笑っていられた、数少ない時間だったから。
「そういえば、補習授業部、大変そうですね」
たい焼きの尻尾を最後に齧りながら、ユラが言った。
「落第したら退学だなんて。ハナコさんなら、心配いらないと思いますけれど」
ハナコの手が、一瞬だけ止まった。
補習授業部の存在は、まだ公には知らされていない。退学の条件を聞かされたのも、今日の昼、部員として呼び出されたときが初めてだった。
「……ユラさん、よくご存じですね」
「あら、噂になっていませんでしたか?」
ユラは首を傾げた。いつもと同じ、柔らかな笑みだった。
ただ、その目はハナコの顔から離れなかった。花火の夜に、空ではなくハナコを見ていたときと同じように。
噂になどなっていない。なるはずがない。この件を知っているのは、ティーパーティーと、選ばれた部員と、先生くらいのものだ。
そこまで考えて、ハナコはいくつかの話を思い出した。ユラが桐藤ナギサと親しいという話。最近、執務棟に頻繁に出入りしているという話。そして、中庭で祝祭教会の生徒が暴行を受けたとき、ユラがその場にいたという話。
並木道の向こうから、信徒の少女が歩いてきた。左手首に包帯を巻いている。少女はユラに気づくと、ぱっと顔を輝かせ、胸元の徽章に手を添えて深々と頭を下げた。ユラが小さく手を振ると、少女は泣きそうな顔で、もう一度頭を下げた。
嬉しそうだった。心の底から。
「……あの子は?」
「エマさんです。少し怪我をしてしまって。先日、退院したばかりなんですよ」
ユラは、たい焼きの紙袋を丁寧に畳んだ。
ハナコは、それ以上何も聞かなかった。
聞けば、答えは手に入るだろう。ハナコにはそれができる。言葉の端を拾い、矛盾を並べ、相手の顔色から本当のことを読み取る。それはハナコがずっとやってきたことで、得意なことだった。
けれど、隣でたい焼きの尻尾を齧っているこの人は、ハナコに初めて「普通の青春」をくれた人だった。何の打算もなく一緒に笑えた、ハナコにとって少しだけ特別な人。
答えを知ってしまえば、あの夏の夜まで疑わなければならなくなる。だからハナコは、生まれて初めて、分かりかけた答えから目を逸らした。
「……ユラさん。今年は、夏祭りに行けませんでしたね」
「ええ。来年こそ、行きましょうね」
ユラは微笑んだ。ハナコも微笑み返した。
それが嘘かどうか、ハナコは確かめなかった。
***
夜食のおにぎりは、鮭と昆布にした。
信徒の子が握ってくれたものだ。少し塩が強い。けれど夜中に食べるおにぎりは、多少しょっぱい方が美味しい。そういうものである。
鮭を食べながら、私は夕方のハナコを思い出していた。
補習授業部の話は、わざと振った。退学の条件まで知っていると分かれば、あの子は気づく。私がナギサと近いこと。もしかしたら、自分があの部に入れられたことにも、私が関わっているかもしれないこと。
たい焼きを持つ手が、一瞬だけ止まった。ほんの一瞬。それから何事もなかったように笑って、あの子は何も聞かなかった。
聞けば分かるのに、聞かなかった。
あれは良い顔だった。夏祭りの花火に照らされた顔もよかったけれど、今日の方がずっといい。信じたいものと、気づいてしまったものの間で、あの子の中の何かが小さく軋む音がした。たい焼きの尻尾より、よほど上等な締めだった。
二つ目の昆布に取りかかったところで、シオンが暗号化された報告書を持ってきた。
「アリウスからです」
アリウス自治区。トリニティから追われた者たちの末裔が、地下で暮らす場所だ。あそこには食べるものも、温かい寝床も、まともな大人もいない。だから、教会の差し入れはよく効いた。今では向こうの生徒の中にも、何人か私の名前を知っている子がいる。
報告書は短かった。
『調印式の日、スクワッドが動く。場所は古聖堂。手段は不明。ただ、「空から来る」とだけ聞いた』
おにぎりを、皿に置いた。
「……空から、ですか」
「協力者の立場では、これ以上は掴めなかったそうです。深入りすれば、正体が露見する恐れがあると」
「無理はさせなくて結構です。ここまでで十分」
空から。爆撃か、それとも別の何かか。何でも構わない。大事なのは、その日、古聖堂の空に何かが来るということだ。
「シオン。ゲヘナとトリニティの子たちに、少しずつ話を広めてください」
「……どのような」
「ゲヘナの子には『トリニティは条約の裏で兵を集めている』と。トリニティの子には『ゲヘナは調印式で何か企んでいる』と。急がなくていいのですよ。噂話の一つとして、ゆっくり、あちこちに」
シオンは、しばらく黙っていた。
「アリウスの攻撃を、止めないのですか」
「止める?」
思わず聞き返していた。
「ありえません」
シオンの顔がこわばる。
「調印式をめちゃくちゃにしてくれる人たちが、向こうから来てくださるのですよ。私が手を汚すまでもなく、空から花火が降ってくる。こんな贈り物を、どうして突き返さなければならないのです?」
「……大勢の生徒が、傷つきます」
「ええ。ですから、楽しみなのではありませんか」
シオンは何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
「アリウスの子たちが何を狙っているのかは知りませんし、興味もありません。私はただ、その日の見物客を増やしておきたいだけです」
せっかくのお祭りになるのだから。
空で何かが弾けたとき、トリニティの子はゲヘナを見るだろう。ゲヘナの子はトリニティを見るだろう。疑いの種がちゃんと育っていれば、その目に映るのは空ではなく、隣にいる相手の顔だ。
昨日まで一緒に笑っていた友達の顔を、銃口越しに見る。そんな顔が、古聖堂のあちこちに並ぶ。
喉の奥で、小さく笑いが漏れた。シオンが、わずかに身を固くするのが分かった。
「……承知しました」
シオンが部屋を出ていく。気がつくと、皿の上の昆布のおにぎりは、すっかり冷えて固くなっていた。いつ置いたのか、もう覚えていない。
まあ、いいでしょう。冷えたおにぎりも、それはそれで美味しいものですし。
今度の花火は、もっと大きいらしい。
見上げる顔も、きっとたくさん並ぶ。夏祭りのハナコのように、まっすぐ空を見上げて――それから、隣にいる誰かの方を振り向く顔が。
手帳を開くと、星印をつけた日付が、少しだけ近づいていた。
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