光堕ちしないラスボス系生徒 作:あいら
補習授業部の教室には、いつの間にか参考書の山ができていた。
最初の数日は、手探りだった。ヒフミは真面目すぎて空回りし、コハルは問題文を三行読んだところで顔を真っ赤にし、アズサは数式の代わりに罠の配置図を描いていた。ハナコはにこにこしながら、白紙に近い答案を出した。四人とも、ばらばらの方向を向いていた。
それでも先生は、一度も諦めようとは思わなかった。どんな理由で集められた部でも、この子たちが退学になる結末だけは、絶対に選ばせない。最初の日に、そう決めていた。
それが、少しずつ形になっていった。
ヒフミは、みんなが解ける順番に問題を並べ直す係になった。コハルは「正義実現委員会のエリートが落第なんてありえないんだから!」と叫びながら、夜中まで単語帳をめくった。アズサは罠を描く手を止めて、ノートの端に小さく「次は八十点」と書いた。
試験の条件は、そのたびに理不尽に変わった。出題範囲は直前で三倍に広がり、合格点は九十点に引き上げられ、会場はゲヘナ自治区の真ん中へ移された。ティーパーティーの決定だった。先生は抗議の書類を何枚も書き、その一方で、生徒たちと一緒に深夜の問題集を開いた。
「先生は、怒らないんですか?」
ある晩、ヒフミがそう聞いた。
「怒ってるよ。だから、絶対にみんなで合格する」
先生がそう答えると、コハルは「……当たり前でしょ」とそっぽを向き、アズサは黙って問題集のページをめくった。
そして、ハナコだけが、ずっと答案の点数を調整していることに、先生は気づいていた。
あの子は、解けないふりをしている。合格点の少し下を、毎回正確に狙って。理由を聞いても、ハナコは「うふふ、何のことでしょう」と笑うだけだった。
すべてが変わったのは、第三次試験の前夜だった。
「――私は、アリウスから来た」
消灯後の教室で、白洲アズサは言った。
背筋を伸ばしたまま、目を逸らさずに。自分はアリウスの生徒で、トリニティに潜り込んだのは、桐藤ナギサを殺すためだったこと。アリウスの生徒たちは、トリニティの地下に広がるカタコンベの迷宮を通って出入りしていること。道筋は毎回変わり、自分でさえ任務のたびに出口の地図を渡されていたこと。アリウスの部隊が、今夜ナギサを襲うこと。そして、自分はもうその命令に従うつもりがないこと。
「ここで勉強した時間は、本物だった。だから、私はこっちを守りたい」
ヒフミが息を呑み、コハルが銃に手をかけかけて、やめた。先生は、アズサの顔をまっすぐに見た。震えてはいなかった。たぶん、何度も一人で考えて、もう決めてきた顔だった。
「ありがとう、アズサ。話してくれて」
先生がそう言ったとき、ハナコが静かに手を挙げた。
「実は、もう手は打ってあるんです」
いつもの笑みのまま、ハナコは言った。
「アズサちゃんの様子がおかしいことには、数日前から気づいていましたから。ナギサさんは、もうこちらで保護しています。今夜アリウスがどれだけ探しても、あの方のお部屋は空っぽですよ」
「ほ、保護って……ナギサ様を、ですか?」
「少し強引な方法でしたけれど」
ヒフミの悲鳴に近い声に、ハナコはにっこりと微笑んだ。先生は小さく息をつき、それから顔を上げた。もう、迷っている時間はない。
「分かった。今夜は、ここでみんなを守ろう」
***
作戦の大半は、浦和ハナコが組んだ。
数日前の夜、寮を抜け出すアズサの背中を見かけたのが始まりだった。問い詰めると、アズサは驚くほど正直に話した。アリウスの命令のこと。けれど本当は、ナギサを守りたいと思っていること。ハナコはその場で、彼女と手を組むことに決めた。
ナギサの居場所を確かめ、アリウスの侵入経路を三つに絞り込み、シスターフッドの歌住サクラコに話をつけた。補習授業部だけでは手が足りない。けれどシスターフッドを動かすには、ティーパーティーへの借りではなく、シスターフッド自身の理由が要る。ハナコはそれを、一晩で用意した。
自分でも、少し驚いていた。白紙の答案を出していた自分が、こんなに熱心になっている。
理由は分かっていた。この部屋で過ごした数週間が、楽しかったからだ。深夜の問題集も、コハルの悲鳴も、アズサの罠の配置図も。打算抜きで誰かと笑える時間を、ハナコは、ここでもう一度手に入れていた。
もう一度。
一度目は、去年の夏祭りだった。
作戦の準備を進めながら、ハナコはふと、一人の顔を思い浮かべた。補習授業部の退学条件を、なぜか知っていた人。ナギサと親しく、執務棟に頻繁に出入りしている人。先生にも、そのことは話していない。
今は、目の前のことに集中すべきだ。そう自分に言い聞かせた。それが言い訳だということも、ハナコには分かっていた。
襲撃は、その夜に来た。
アズサの罠が、最初の一波をまとめて止めた。ヒフミは震える手で、それでも廊下の角から一歩も退かなかった。コハルは半泣きで叫びながら、引き金から指を離さなかった。先生はタブレットを片手に、全員の位置を一つずつ呼び続けた。
予定通りなら、アリウスはここで引くはずだった。だが、引かなかった。
中庭の向こうから、ゆっくりと人影が歩いてくる。月明かりの下で、淡い色の髪が揺れた。
「……あはは。みんな、こんな夜遅くまで頑張ってるんだ」
聖園ミカだった。
ヒフミが「ミカ様……?」と呟く。コハルが言葉を失う。ハナコだけは、驚かなかった。驚かずに済む程度には、もう答えに辿り着いていた。
「ナギちゃん、どこにいるの?」
ミカは笑っていた。いつもと同じ、華やかな笑顔だった。けれど目だけが、ひどく疲れていた。
「ミカ、どうしてこんなことを」
先生の声に、ミカの笑顔がわずかに歪んだ。
「……だって、ゲヘナと仲良くなんて、できるわけないじゃん。あんな子たちと手を繋いで、平和になりましたって笑うの? 私は嫌。絶対に嫌」
ミカは銃を下ろさなかった。
「それに、ナギちゃんだって、ずっと私のこと疑ってたでしょ。知ってるよ。目を見れば分かるもん。……だったら、もう、いいじゃん」
声が、少しずつ早くなる。
「セイアちゃんだって、私が……私が、アリウスの子たちに頼んだせいで……っ。もう戻れないの。戻れないなら、最後までやるしかないでしょ!?」
アズサが、一歩前に出た。
「ミカ。あなたがアリウスと何を約束したのかは知らない。でも、アリウスはあなたの味方じゃない。……それは、私が一番よく知ってる」
「……アズサちゃん、だっけ」
ミカは、アズサを見た。それから、その後ろに並ぶ補習授業部の顔を、一人ずつ見た。
「いいなぁ。アリウスの子なのに、ちゃんと、こっちに居場所があって」
小さな声だった。誰に向けた言葉なのか、ミカ自身にも分かっていないようだった。
そのとき、中庭の反対側から別の足音が響いた。シスターフッドだった。歌住サクラコの指示で、アリウスの増援が来るはずの通路が、静かに塞がれていく。
ミカは振り返らなかった。ただ、補習授業部の方を見ていた。
ハナコは、一歩前に出た。
「ミカさん」
この言葉を、どう使うべきか。ハナコはずっと考えていた。武器としてではなく、真実として渡すべきだと決めたのは、ついさっきのことだ。
「セイアちゃんは、生きていますよ」
ミカの動きが止まった。
「救護騎士団が、ずっと匿っていたんです。意識はまだ戻っていません。でも、生きています」
長い沈黙だった。
ミカの顔から、少しずつ表情が抜け落ちていった。安堵が広がり、それから少し遅れて、別の何かが押し寄せてくるのが、ハナコには見えた。
「……なにそれ」
ミカは笑おうとして、失敗した。
「じゃあ、私……なんのために……」
銃口が、ゆっくりと地面へ下がった。
先生が、ミカに歩み寄った。ミカは一度だけ後ずさり、それから、その場に膝をついた。先生も膝をつき、ミカと目の高さを合わせた。
「ミカ。君がしたことは、なかったことにはできない。でも、ここで終わりにもしないよ。ちゃんと一緒に向き合おう。君を一人にはしないから」
「……なんで」
ミカの声が、掠れた。
「なんで先生は、こんなときに、そういうこと言えちゃうの……」
答えを待たずに、ミカは自分から両手を差し出した。正義実現委員会が駆けつけたとき、抵抗は一つもなかった。
連れていかれる間、ミカは何度も校舎の方を振り返った。ナギサが匿われている方角だった。
翌日の昼、補習授業部は第三次特別学力試験に合格した。
発表を見たコハルが泣き、ヒフミが泣き、アズサは小さく拳を握った。ハナコは、この日初めて、本気で解いた答案の点数を見た。それから、先生の方を見た。
先生は、生徒たちと一緒に笑っていた。昨夜、ほとんど眠っていないはずなのに。
***
拘束室の壁は、白かった。
聖園ミカは、硬いベッドの端に座って、ずっと自分の手を見ていた。この手で何をしたのか。何を壊したのか。考えるたびに、指先が冷たくなる。
セイアちゃんは、生きていた。
それを聞いた瞬間、身体中の力が抜けた。よかった、と思った。本当によかったと。それから、ハナコの声が何度も耳の奥でよみがえった。生きている。でも、意識は戻っていない。そうさせたのは、自分だ。
殺していなかった。それでも、許されることは何一つ変わらない。
昨日、ナギちゃんが来た。正義実現委員会の子が扉の横に立っていて、時間は十分だけだった。ごめんなさい、と言った。何度も言った。それ以外の言葉は、一つも出てこなかった。ナギちゃんも、ほとんど何も言わなかった。帰り際に、一度だけこちらを振り返った気がした。気のせいだったのかもしれない。
先生は、面会のたびに話を聞いてくれる。どうしてアリウスと繋がったのか。セイアちゃんのことを、どう思っていたのか。責める言葉は一度もなかった。「ちゃんと話そう」と、それだけを繰り返した。
先生の優しさが本物だということは、ミカにも分かっている。だからこそ、受け取るのが苦しかった。ちゃんと話すためには、自分のしたことを、一つずつ言葉にしなければならない。言葉にするたびに、自分がどれだけひどいことをしたのか、思い知らされる。こんな自分が、あの優しさを受け取っていいはずがない。
ふと、紅茶の香りを思い出した。
苺のタルト。猫の置物の話を、黙って最後まで聞いてくれた横顔。『言えないままでも、構いませんよ』と言ってくれた声。来週はシュークリームにしようと、約束したこと。
ユラちゃん。
あの子だけは、何も聞かなかった。言わなくていいと言ってくれた。言わなくても、そばにいてくれた。
だからこそ、怖かった。言えないままでいいと言ってくれたのに、私が言えなかったことは、こんなにひどいことだった。全部知ったら、あの子はどう思うだろう。あの穏やかな声で「そうでしたか」とだけ言われて、目を逸らされたら。
ナギちゃんに会うのも怖い。先生の優しさも苦しい。けれど、ユラちゃんに見放されることが、なぜか一番怖かった。
「……シュークリーム、食べに行けなかったな」
白い壁に向かって呟いた声は、誰にも届かなかった。
***
シュークリームは、二つ買ってあった。
ミカが食べたいと言ったからだ。駅前の、皮がさくさくしている方の店。わざわざ開店前から並んだ。約束の時刻を一時間過ぎても、あの子は来なかった。
代わりに届いたのは、信徒からの報告だった。
補習授業部が、アリウスの襲撃を迎え撃った。手引きしていたのは聖園ミカ。ミカは補習授業部とシャーレの先生、シスターフッドに阻まれて降伏し、拘束された。そして、浦和ハナコが、百合園セイアの生存をミカに告げた。
報告書を二度読んで、シュークリームを一つ手に取った。
……ハナコが、言ったのですか。
セイアが生きていると知った瞬間の、あの子の顔。それは私が、一番いい時に、一番いい形で見るはずのものだった。タルトの苺と同じだ。最後まで取っておいたのに、横から攫われた。
しかも、攫ったのはハナコだという。
思っていたより、ずっと不機嫌になっていた。シュークリームの皮を噛むと、さくさくという音がやけに耳障りだった。クリームが指についた。紙ナプキンは、一枚しかもらっていない。
二口目を食べる頃、ようやく気分が持ち直した。
苺は取られた。けれど、皿はまだ下げられていない。
今のあの子には、誰もいない。ナギサとはまともに話せず、セイアは眠ったまま。先生は優しいけれど、あの人の優しさは、今のあの子にとって罰のようなものだろう。ティーパーティーの席も、正しいと信じていたものも、全部なくした。
そこへ、何も責めない誰かが現れたら。
あの子が全部をなくした今こそ、私の席が空いている。
シュークリームを持つ手が、少しだけ止まった。クリームの甘さより、そちらの方がずっと舌に残った。
そういえば、あの子は約束を一つ忘れていった。来週はシュークリームにしよう、と言ったのはあの子の方だ。
忘れ物は、届けてあげなくては。
***
机の上に、三枚の紙を並べて、先生はしばらく動かなかった。
一枚目は、救護騎士団の記録だ。エマの古い痣と、同じ時期に診療所を訪れた信徒たちの怪我。転んだ、ぶつけた、と本人たちは言う。けれど、位置も形も、転んでできるものではなかった。
二枚目は、教会の配給記録。月に二度、決まった量の物資が、トリニティ自治区の外れにある古い礼拝堂跡へ運ばれている。人が住んでいる場所ではない。ただ、その地下には、カタコンベへ続く入口があるという。
アズサの言葉を、先生は思い出していた。アリウスの生徒たちは、カタコンベの迷宮を通って外へ出てくる。教会の物資は、その入口のすぐそばに置かれていく。誰が受け取っているのかは、記録のどこにも書かれていない。
三枚目は、調印式の救護・案内係として教会が提出した名簿だった。四十二人。そのうち五人は、トリニティにもゲヘナにも在籍記録が見つからなかった。
先生は、その日のうちに二本の連絡を入れた。一本は、調印式の警備を担う正義実現委員会へ。もう一本は、ティーパーティーの事務局へ。
『教会の救護係のうち五名について、本人確認が終わるまで、警備区域への立ち入りを保留してほしい。他の三十七名は、予定通りで構わない』
教会を疑っていると言ってしまえば、話はもっと早かったかもしれない。けれど、先生はそうしなかった。名簿の大半は、本当に手当ての心得がある信徒たちだ。五人についても、まだ何も分かっていない。分かっていないからこそ、確かめるまでは近づけない。それだけのことだった。
ほんの数日前、合宿所の中庭で、アリウスの銃口を見たばかりだ。同じものが調印式の会場に紛れ込む可能性が少しでもあるなら、手続きの手間を惜しむ理由はない。
それから、紙にはならない情報がもう一つある。
ゲヘナの風紀委員会の子から聞いた噂。「トリニティは条約の裏で兵を集めている」。正義実現委員会の子から聞いた噂。「ゲヘナは調印式で何か企んでいる」。どちらも、広がり始めた時期がほとんど同じだった。出どころを辿ろうとすると、どちらも途中で霧のように消える。
一つずつなら、偶然で片付けられる。
四つ並べると、どれも同じ方向を指している気がした。けれど、気がするだけでは、誰も裁けない。
先生は、ハナコの顔を思い出した。合格発表のあと、ナギサの周りの変化について尋ねたとき、ハナコは一瞬だけ何かを言いかけて、やめた。あの子が言葉を飲み込むのは、珍しいことだった。
先生は、紙を鞄にしまった。今日は、確かめるために行くのではない。先に守るべきものを、守りに行く。
監査の件は、すでに連邦生徒会に正式な申請を出してあった。保護寮と診療所の運営状況、寮で暮らす生徒たちの健康状態。救護騎士団の団長とも話し合い、月に一度の健康診断を引き受けてもらう約束も取り付けた。閉鎖のためではない。支援を受けている子たちが、これからも安全にそこで暮らし続けられるようにするためだ。
祝祭教会の応接室で、御影ユラはいつもと同じ微笑みで先生を迎えた。
「合宿所のこと、伺いました。大変でしたね。補習授業部の皆さんは、ご無事でしたか?」
「みんな無事だよ。試験にも合格した」
「まあ。それは何よりです」
先生は、紅茶に口をつける前に切り出した。
「近いうちに、連邦生徒会から正式な通知が届くと思う。保護寮と診療所に、外部監査が入る。救護騎士団にも、月に一度、寮の子たちの健康診断をしてもらうことになった。その前に、直接話しておきたかったんだ」
ユラの手が、ほんのわずかに止まった。
「……監査、ですか」
「閉鎖するつもりはないよ。ここで暮らしてる子たちの居場所は、守りたい。でも、ここで怪我をしている子がいるなら、それも放っておけない。監査が入れば、教会の支援は、むしろ正式に続けやすくなる」
ユラは、少しだけ首を傾げた。それから、穏やかに頷いた。
「ええ、お受けします。断れば、何か隠していると思われてしまいますもの。行き場のない子たちを預かっている教会が、外の目を嫌がる理由はありませんから」
隠しごとがないから受けるのではなく、疑われないために受ける。ユラはそれを、少しも隠さずに口にした。先生は、その答え方の方が引っかかった。
「ありがとう。それと、もう一つ。調印式の救護係の名簿、在籍記録のない子が何人かいたんだけど」
「あら。在籍していなくても、手当てのできる子はいますよ。ナギサさんにも、名簿はご確認いただいています」
「うん。だから、その五人には、本人確認が済むまで警備区域の外で待ってもらうことにした。正義実現委員会とティーパーティーには、もう連絡してある。確認が取れれば、すぐに戻れるよ」
ほんの半拍、ユラの返事が遅れた。
「……まあ。先生は、お仕事が早いのですね」
微笑みは、すぐに元に戻っていた。けれど、一瞬だけ止まったことを、先生は見逃さなかった。
帰り際、先生は振り返った。
「ユラ。来月の健康診断、私も立ち会うから」
「ええ。お待ちしていますね」
扉が閉まる直前、先生はユラの横顔を見た。微笑みは、少しも崩れていなかった。崩れていないことが、かえって先生の胸に引っかかった。
***
ナギサの執務室のロールケーキは、前回よりさらに厚かった。
もはやケーキというより、小さな丸太である。何があったのだろう。……いえ、何があったのかは知っているのですが。
「急にお呼び立てして、申し訳ありません」
ナギサは紅茶を注ぎながら、まず仕事の話から始めた。この人は、いつもそうだ。弱いところを見せる前に、必ず一度、ホストの顔をする。
「シャーレの先生から、教会の救護係について申し入れがありました。五名の方について、本人確認が済むまで、警備区域への立ち入りを保留したいと」
ナギサはカップを置き、まっすぐにこちらを見た。
「受け入れました。あの方を信用しているわけではありません。ですが、手続きとして正しいことを、私情で退けるわけにはいきませんから。……教会の方々には、ご不便をおかけします」
「いいえ。当然のご判断だと思いますよ」
微笑んで頷く。本心を言えば、あの五人には、当日いちばん良い場所に立っていてもらうつもりだった。先生は、いつの間にあんなところまで覗き込んでいたのだろう。
ロールケーキにフォークを入れる。思っていたより弾力があって、うまく切れない。顔に出かけた苛立ちを、一口目の甘さで押し戻した。
「……それと」
ナギサの声が、少し小さくなった。
「ミカさんに、会ってきました。拘束から二日目に。正義実現委員会の立ち会いで、十分だけ」
「……いかがでしたか」
「あの子は、ごめんなさいとしか言いませんでした。何度も、何度も」
ナギサの指が、カップの縁をなぞった。
「少し、痩せていました。髪も、いつもみたいに整えていなくて。……あんなことをされたのに、私、あの子がちゃんと食べているのかなんて、考えてしまったんです」
笑おうとして、うまくいかなかったらしい。ナギサは小さく息を吐いた。
「許すとも、許さないとも、言えませんでした。怒りたいのに、怒れなかった。あの子の顔を見たら、昔のことばかり思い出してしまって。……それなのに、あの夜のことは、少しも消えてくれないのです。目を閉じると浮かぶんです。あの子が、本当に私を見つけていたらと思うと」
カップを持つ手が、かすかに震えていた。
怒りと、友情と、恐怖と、心配が、一つのカップに注がれて、どれも溶け切らずに残っている。この人は、自分の感情を整理するのが本当に下手だ。だからこそ、こういう顔をする。
私は、自分のカップを脇へ寄せた。
「ナギサさん。ミカさんのお話の前に、一つだけ聞かせてください。……ナギサさんは、ちゃんと眠れていますか?」
ナギサが、虚を突かれたように瞬きをした。
「……私、ですか」
「ええ。皆さん、ミカさんのことや条約のことばかり心配していらっしゃるでしょう。でも、狙われたのはナギサさんです。ナギサさんだって、傷ついているのですから」
ナギサは、何も言わなかった。唇が一度開いて、それから閉じた。
「許せないお気持ちも、もう一度会いたいお気持ちも、どちらも本当なのでしょう? どちらかを選ばなくていいんですよ。今すぐ答えを出さなくても、誰もナギサさんを責めたりしません」
「……ですが、私はホストです。いつまでも迷っているわけには」
「ここには、ホストはいませんよ」
そっと笑ってみせる。
「紅茶を淹れすぎて、ロールケーキを分厚く切りすぎる、ナギサさんが一人いるだけです。……せめて私の前でくらい、少しわがままになってくださいな」
ナギサの目元が、ふっと緩んだ。それから、こらえきれなくなったように、目の端から一粒だけ涙がこぼれた。
ハンカチを差し出すと、ナギサはそれを受け取り、目元を押さえて小さく笑った。
「……おかしいですね。ユラさんの前だと、どうしてか、取り繕えなくなってしまいます」
「取り繕わなくていい場所が、一つくらいあってもいいでしょう?」
「……ええ」
ナギサは、ハンカチを握ったまま頷いた。
壁には、ティーパーティーの紋章が飾られている。いつもその下で背筋を伸ばしているホストが、今は私のハンカチを握りしめて、子どものように鼻をすすっている。こんな顔は、きっとミカも、セイアも知らないのだろう。
私だけが知っている。
ロールケーキが、少しだけ甘くなった気がした。
「……ミカさんとは、また会われるおつもりですか?」
「会わなければ、とは思っています。でも、今会っても、同じことの繰り返しになる気がして」
「でしたら、少し時間を置かれてもいいのかもしれませんね」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「今のナギサさんは、ホストとしてのお務めと、友人としてのお気持ちを、一度に抱えていらっしゃる。どちらも抱えたまま会えば、またお互いに傷つくだけかもしれません。調印式が終わって、肩の荷が一つ下りてから。そのときなら、ナギサさん自身の言葉で、ちゃんとミカさんと向き合えると思います」
ナギサは、しばらく黙っていた。窓の外を見て、それからカップの中を見た。
「……そうですね。今の私では、あの子にかける言葉を見つけられません」
自分に言い聞かせるように、ナギサは続けた。
「条約を無事に結ぶこと。今の私がまずすべきなのは、それです。式典が終わったら、もう一度、ちゃんと会いに行きます。そのときは、ホストとしてではなく」
「ええ。そのときは、私も応援していますね」
ナギサの横顔に、わずかな安堵が浮かんだ。自分で決めた顔だった。今はまだ、会わなくていい。その理由を、自分の言葉で見つけた顔だ。
「それと、ナギサさん。一つ、お願いがあるのです」
「何でしょう」
「私に、ミカさんと会う機会をいただけないでしょうか。ミカさんがまだ話していないこと――アリウスのことを、ナギサさんの前では言えなくても、私の前でなら、話してくださるかもしれません」
ナギサは、すぐには答えなかった。ハンカチを膝の上で丁寧に畳み、それから、もう一度ホストの顔に戻った。
「……ユラさんを疑っているわけではありません。ですが、拘束中の面会は、私の一存では決められません。シスターフッドの審査が必要ですし、立ち会いも外せません」
「ええ、承知しています」
「むしろ、手続きは省かない方がいいのです。ユラさんに、妙な疑いがかからないように」
ナギサは、机の引き出しから便箋を取り出した。
「ティーパーティーとして、推薦状なら書けます。アリウスの情報を得られる可能性があるなら、試す価値はあるはずですから」
ペンが紙の上を走る。前に見たときは少し震えていたナギサの字が、今日は、まっすぐに並んでいた。
厚すぎるロールケーキは、最後の一切れまで美味しかった。
***
シスターフッドの審査は、その二日後にあった。
審査といっても、小さな礼拝室での静かな面談だった。歌住サクラコは、最初から最後まで穏やかな微笑みを崩さなかった。……私とよく似た種類の微笑みだった。
「アリウスについて得られたことは、すべてこちらと共有していただけますね」
「もちろんです」
「面会の記録は、シスターフッドで取らせていただきます。ミカさんのお言葉も、ユラさんのお言葉も」
私の言葉も。つまりこの方は、ミカから何かを聞き出すついでに、私が何を話すのかも見ておきたいらしい。賢い方だ。……少し、面倒ですね。
通知が届いたのは、さらに二日後だった。
「面会、許可が下りました」
シオンが、書類を差し出す。
「条件は、シスターフッドと正義実現委員会の立ち会い。時間は二十分。会話はすべて記録されます。差し入れは食品のみ、事前に検査を受けること。……ナギサ様の推薦が、決め手になったようです」
「そうですか」
書類に目を通す。二十分。短いけれど、十分だ。
「それと、救護係の件ですが」
シオンの声が、少しだけ硬くなった。
「保留になった五名は、本人確認が終わる見込みが立っていません。当日の配置を、どうなさいますか」
「外周の救護テントへ回してください。代わりの五人は、あなたが選んで」
「……承知しました」
監査に、名簿の保留。先生は、私が並べた札を、一枚ずつ裏返していく。誰かを責めるわけでもなく、ただ手続きの顔をして、静かに。
面倒だ。せっかく良い場所を用意していたのに。
けれど、面倒だと思うのと同じくらい、次はどの札をめくってくるのかが気になっている。あの人は、どこまで手を伸ばしてくるのだろう。
「シオン、明日の朝、駅前のお店に並んでおいてください。皮がさくさくしている方の」
「……シュークリーム、ですか」
「ええ。検査に出す分も考えて、少し早めに」
シオンは、何か言いたげに口を開きかけた。それから、閉じた。
「いくつ、ご用意しましょうか」
少しだけ考えて、指を二本立てた。
「二つ」
一つは、あの子の分。
もう一つは、あの子がどんな顔でそれを食べるのかを眺めながら食べる、私の分だ。
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