光堕ちしないラスボス系生徒 作:あいら
拘束されてから、九日が経った。
聖園ミカは、白い壁の数え方を覚えてしまった。継ぎ目が縦に七本、横に四本。天井の照明は、夜の十時に一段暗くなる。朝食のパンは、いつも少しだけ硬い。
先生は、今日も来てくれた。
面会の時間はいつも短い。先生はその短い時間で、責めるでもなく、慰めるでもなく、ミカの話を聞こうとする。アリウスと、いつ、どうやって知り合ったのか。セイアちゃんのことを、どう思っていたのか。ナギちゃんに、何を言いたいのか。
ミカは、ほとんど答えられなかった。
言葉にしようとすると、喉の奥で何かが固まってしまう。先生はそれでも急かさなかった。「また来るよ」と言って、毎回、本当に次の日も来た。この人は、私を見捨てていない。それは分かる。分かるから、余計に顔を上げられなかった。
「ミカ。誰か、会いたい人はいる?」
帰り際、先生がそう尋ねた。
ミカは、少しだけ迷った。ナギちゃん、と言うべきだったのかもしれない。セイアちゃん、と言うべきだったのかもしれない。けれど、頭に浮かんだのは、どちらでもなかった。
「……ううん。いないよ」
嘘をついた。
あの子の名前を口にしたら、先生はきっと、その子は誰なのかと聞くだろう。どういう関係なのか、何を話したのか。そうやって、ほんの少しずつ、あの子のことまで「話さなければならないこと」の中に入ってしまう気がした。
あの紅茶の時間だけは、誰にも渡したくなかった。今の自分に残っているのは、もう、それくらいしかないのだから。
***
検査のために、シュークリームには細い串の穴が開けられていた。
二つとも、きっちり三か所ずつ。中身を確かめるためだと説明されたが、もう少し目立たないところに刺してくださってもよかったのではないでしょうか。せっかく開店前から並んで買ったのに、これでは穴の開いた靴下のようだ。
面会室は、思っていたより明るかった。机が一つ、椅子が二つ。部屋の隅でシスターフッドのシスターが記録用の端末を構え、扉の脇には正義実現委員会の生徒が立っている。二十分。私の言葉も、すべて記録される。
扉が開いて、ミカが入ってきた。
少し痩せていた。ナギサの言った通りだ。髪は一応整えてあるけれど、いつもの華やかさはどこにもない。ミカは私の顔を見ると、一瞬だけ足を止めた。
「……あ。ユラちゃん」
笑おうとして、うまくいかなかったらしい。ミカは視線を落とし、それから、そっと椅子に座った。
「来てくれたんだ。……ナギちゃんに、頼まれたの?」
「いいえ。私が来たかったので」
机の上に、紙箱を置く。蓋を開けると、穴の開いたシュークリームが二つ並んでいた。
「約束していたでしょう? 来週はシュークリームにしよう、と。ミカさんが忘れていったので、届けに来ました」
ミカの目が、箱の中を見つめたまま動かなくなった。
しばらくして、ミカは顔を上げた。笑っていなかった。ずっと聞きたかったことを、ようやく口にする顔だった。
「……ユラちゃん。私のしたこと、知ってるの?」
「ええ。知っています」
嘘をつく必要はなかった。
「アリウスのことも、セイアさんのことも、ナギサさんのことも。全部、聞きました」
ミカの指先が、膝の上でぎゅっと握られた。
「じゃあ、なんで来たの。……軽蔑しに来たの?」
「いいえ」
私は、静かに首を振った。
「ミカさんのしたことは、間違いでした。それは変わりません。セイアさんは眠ったままですし、ナギサさんは怖い思いをしました。……でも、それで私がミカさんの友達をやめる理由にはなりませんもの」
ミカは、すぐには何も言わなかった。
泣くかと思った。泣かなかった。疑うように、確かめるように、私の顔を見ている。ここで簡単に崩れないのが、この子のいいところだ。
「……先生もね、同じようなこと言ってくれたよ。一人にはしない、ちゃんと話そうって」
「そうでしたか」
「でも、先生は、みんなの先生だもん。ナギちゃんのことも、セイアちゃんのことも、補習授業部の子たちのことも、全部見てなきゃいけないでしょ。……私のことだけ、見てるわけにいかないじゃん」
「ええ。先生は、みんなの先生ですから」
私は頷いた。
「それは、先生が悪いのではありませんよ。あの方は、本当に皆さんのことを大切にしていらっしゃる。だからこそ、ミカさん一人のそばにずっといることはできない。……でも、私は違います」
ミカが、わずかに目を見開いた。
「私は、ミカさんの友達です。みんなの、ではなく」
部屋の隅で、記録用の端末が小さく光った。
構わない。今の言葉の、どこにも問題はない。友人を励ます、ごく普通の言葉だ。シスターフッドの方々が後で何度読み返しても、ただ優しい言葉しか出てこないだろう。
「私は、あなたがどんな間違いを犯そうと、絶対に味方でいます」
ミカの肩が、小さく震えた。
「ですから、私を信じて、いつでも頼ってくださいね」
ミカは、唇を噛んだ。目の端が赤くなっていく。それでもまだ、涙はこぼれなかった。
「……ずるいよ、ユラちゃん」
前にも、同じことを言われた。苺のタルトを挟んで、テラスで。あのときより、ずっと掠れた声だった。
「セイアさんにも、ナギサさんにも、いつかちゃんと償いましょう」
私は、少しだけ声を和らげた。
「そのときは、私が隣にいます。一人で背負わなくていいんですよ。……償うためにも、まずはミカさんが、ちゃんと立っていられないと」
ミカは、何度か小さく頷いた。
それから、シュークリームに手を伸ばした。串の穴が開いた方を、そっと持ち上げる。一口かじると、さくり、と軽い音がした。
「……さくさくだ」
そう呟いた途端、ミカの目から涙がこぼれた。一粒、また一粒。ミカは慌てて袖で拭い、それでも止まらなくて、シュークリームを持ったまま俯いた。
私は、自分の分のシュークリームを手に取った。穴は三か所。噛むと、少しだけクリームがはみ出した。美味しい。並んだ甲斐があった。
泣いていゆティーパーティーのお姫様を眺めながら食べるシュークリームは、格別に美味しかった。
「……あのね、ユラちゃん」
しばらくして、ミカが鼻をすすりながら言った。
「アリウスのこと、少しだけなら話せるよ。スクワッドのリーダーの子、サオリっていうの。……あの子たちも、なんか、すごく苦しそうだった。私が言えることじゃないけど」
「教えてくださって、ありがとうございます」
私は穏やかに頷いた。記録の端末が、また小さく光る。シスターフッドとの約束は、これで果たせた。
「時間です」
扉の脇の生徒が告げた。ミカが、はっと顔を上げる。
「……また、来てくれる?」
「ええ。何度でも」
ミカは、ようやく少しだけ笑った。泣き腫らした目のままで。
面会室を出るとき、振り返った。ミカの手には、まだシュークリームが半分残っていた。串の穴が一つ、ちょうど噛み跡の縁に覗いている。あの子はたぶん、あれを最後まで食べられないだろう。
苺は、最後に取っておく子だから。
***
記録の再生を止めて、歌住サクラコは小さく息をついた。
「ユラさんは、とてもお優しい方でしたね」
隣で記録を取っていた伊落マリーが、ほっとしたように言った。サクラコは微笑んだまま、頷いた。
「ええ。どの言葉にも、問題はありません」
問題はない。友人を励まし、償いを促し、アリウスの情報まで引き出してくれた。審査の場で約束した通りだ。
それでも、サクラコは記録の一部を、もう一度だけ再生した。
『……また、来てくれる?』
面会が始まったときと、終わったとき。ミカの声は、まるで別人のようだった。先生との面会記録では、九日かけても一度も聞けなかった声だ。
「マリー。次の面会も、記録は私が確認します」
「はい。……何か、気になることが?」
「いいえ。ただ、ミカさんがどなたを頼りにしていらっしゃるのか、知っておきたいだけです」
***
気がつくと、先生は白い庭に立っていた。
空も、地面も、遠くの木々も、すべてが淡い光に溶けている。足元の感覚が曖昧で、ここが夢の中だということだけは、なぜかはっきりと分かった。
「また会ったね、先生」
振り向くと、白い東屋の中に、小柄な少女が座っていた。淡い金色の髪と、狐のような耳。
「……セイア」
「現実の私は、まだ目を覚ましていない。だからこうして、また君の夢を少し借りている。……今日は、見せておきたいものがあってね」
セイアは、静かに手招きした。先生が東屋に入ると、テーブルの上には紅茶が二つ用意されていた。湯気は立っているのに、香りはしなかった。
セイアがカップに指を添えた瞬間、庭の景色が揺らいだ。
燃える古聖堂。崩れ落ちる鐘楼。トリニティの制服とゲヘナの制服が、煙の中で互いに銃を向け合っている。誰かが誰かの名前を叫んでいる。そして、その真ん中で、先生自身が倒れていた。
揺れる銃口が見えた。誰の手なのかは、分からない。銃声が一つ。それから、倒れた先生を見下ろして、誰かが微笑んでいた。その顔だけが、霧に塗りつぶされたように見えなかった。
煙の向こうで、踏みつけられた銀色の徽章が、炎を映して光っていた。どこか遠くで、誰かが叫ぶ声がした。
『――ユラ様!』
景色が戻る。先生は、自分が息を止めていたことに気づいた。
「今の徽章……祝祭教会の」
「知っているのかい」
セイアは、紅茶のカップを両手で包んだ。
「私も、名前くらいは知っている。御影ユラ。ナギサがずいぶん頼りにしている子だと、眠る前に聞いた覚えがある。……けれど、あの子が何をするのかは分からない。あの徽章が何を意味するのかも、あの声が誰を呼んでいたのかも。私に見えたのは、断片だけだ」
セイアは、少しだけ目を伏せた。
「私は、何度も未来を見てきた。そして私には、まだ一度も、それを変えられたことがない。見えたものは、形を変えて、必ずやってきた。……君が倒れる未来も、きっと」
「誰が撃つのかは、見えなかったの?」
「見えなかった。予知というのは、そう便利なものではないのさ。時間も、意味も、ぐちゃぐちゃに混ざって届く。あの銃口が誰のものなのか、あの微笑みが誰のものなのか、私にも分からない」
先生は、しばらく黙っていた。
怖くない、と言えば嘘になる。燃える古聖堂も、銃を向け合う生徒たちも、倒れた自分の姿も、まだ目の裏に焼きついている。
「それでも、まだ選べると思う」
「……先生」
「倒れるのが私なら、倒れる前に、できることがある。生徒たちが銃を向け合う未来が見えたなら、そうならないように手を伸ばせる。セイアが見せてくれたのは、終わりじゃなくて、警告なんじゃないかな」
セイアは、呆れたように小さく息を吐いた。それから、しばらく先生の顔を見つめていた。
「君はきっと、あの徽章の持ち主にも手を伸ばすのだろうね」
「うん。誰であっても」
「一つだけ、気になっていることがある」
セイアの声が、少し低くなった。
「君の善意は、多くの生徒を救ってきた。けれど、それがいつも救いになるとは限らない。救われることを、望んでいない者もいる。今の自分に満足していて、誰かを傷つけることさえ、心から楽しんでいる者も。……あの微笑みが、私の見間違いでなければ」
「……」
「そういう相手に差し伸べた手は、救いにはならないかもしれない。むしろ、その者にとっての新しい玩具になるだけかもしれない。……私の杞憂であればいいのだけれどね」
先生は、すぐには答えなかった。
救いを望んでいない生徒。それがどんな顔をしているのか、先生には想像できなかった。想像できないことが、少しだけ怖かった。
「それでも、手は伸ばすよ」
先生は、ゆっくりと言った。
「救えないかもしれない。でも、止めることならできるかもしれない。誰かを傷つけ続けるのを、黙って見ているよりはずっといい」
セイアは、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「君は本当に、愚かなほど諦めが悪いね」
「よく言われるよ」
庭の光が、少しずつ強くなっていく。セイアの輪郭が、白い光に溶けていく。
「先生。……彼女には、気をつけたまえ」
目を覚ますと、シャーレの執務室の窓の外は、まだ暗かった。
先生は、しばらく天井を見上げていた。燃える古聖堂。揺れる銃口。霧の向こうの微笑み。踏みつけられた銀色の徽章と、「ユラ様」と叫ぶ声。
徽章も声も、それだけでは何も証明しない。祝祭教会の信徒は何百人もいる。救護係として会場に入る子も、四十人近くいる。あの声が誰を呼んでいたのかも、助けを求めていたのか、それとも別の何かだったのかも分からない。
それでも、確かめておくべきことは増えた。先生は端末を開き、名簿の残り二名について、確認を急ぐよう正義実現委員会へ連絡を入れた。
あの銃口を握っていたのは、誰の手だったのか。あの微笑みは、誰のものだったのか。考えようとするたびに、輪郭はするりと逃げていった。
***
保留になった五名の書類を受け取りに来たのは、シャーレの先生本人だった。
白鷺シオンは、教会の倉庫で先生を迎えた。調印式で使う救護物資の木箱が、天井近くまで積み上がっている。他の信徒たちは、昼の炊き出しの準備に出払っていた。
「三名分は、明日までに書類を揃えます。残りの二名については、現在、確認中です」
「ありがとう。急がせてごめんね」
「いいえ。ご用件は、以上でしょうか。私はこの後、炊き出しの手伝いがありますので」
事務的に、短く。それ以上の会話をするつもりはなかった。この人は、警戒すべき相手だ。ユラの計画に、少しずつ手を伸ばしてきている。
先生は書類を受け取り、それから、木箱の山を見上げた。
「すごい量だね。これ、全部シオンが手配したの?」
「……救護班の統括は、私の担当ですので」
「そっか。きっと、当日はこれで助かる子がたくさんいるね」
シオンは答えなかった。軽く一礼して、倉庫の扉の方へ向かおうとした。
「シオン」
呼び止められて、足が止まった。
「少し、顔色が悪いね。……それ、苦しくない?」
先生の視線が、シオンの首元に向いていた。黒いチョーカー。シオンは無意識に手をやりかけ、途中で止めた。
「……ユラ様からの、贈り物です。お気遣いなく」
「この前、執務棟の廊下で会ったときも、そうやって触ろうとしてたよね」
見られていた。あの、ほんの一瞬を。
「シオン。もしそれが、君にとって危ないものなら、ちゃんと言ってほしい。ユラのことは別にしても、君の身に何かあるなら、私はそれも放っておけないから」
「危ないものではありません」
嘘だった。
口にしてから、自分の声が少しだけ早かったことに気づいた。先生はそれ以上は聞かなかった。ただ、少しだけ眉を寄せて、シオンの顔を見ていた。
「シオンは、どうしてそこまでユラを大切にしてるの?」
「……それを、先生にお話しする理由はありません」
「うん、そうだね。無理に聞くつもりはないよ」
先生は、本当にそれ以上は聞かなかった。木箱の一つに寄りかかり、急ぐ様子もなく、ただそこにいた。
沈黙が落ちた。倉庫の外から、炊き出しの準備をする信徒たちの笑い声が、かすかに聞こえてくる。
「先生が、ユラ様を調べていることは知っています」
先に口を開いたのは、シオンの方だった。
「名簿のことも、監査のことも。……ですから、はっきり申し上げておきます。私は、ユラ様を裏切るつもりはありません。何を聞かれても、何を言われても」
「裏切ってほしいなんて、言わないよ」
先生の声は、静かだった。
「ユラのそばにいるのは、君が自分で選んだことなんだと思う。それを責めるつもりはない。……ただ、一つだけ聞かせてほしい。ユラがしていることを、君は全部、正しいと思ってる?」
シオンは、答えられなかった。
答えられないこと自体が、答えになってしまうと分かっていた。分かっていて、それでも何も言えなかった。
正しいと思ったことなど、一度もない。エマが殴られたときも、シチューの子を回収業者の事務所へ行かせたときも、ナギサが泣くほどの不安を、あの子がわざと運んだときも。全部、知っていた。知っていて、隣に立っていた。
誰にも聞かれたことがなかった。あの子の隣にいる理由を、それが正しいのかどうかを。聞かれないまま何年も経って、聞かれないことに慣れてしまっていた。
「……昔の、話を」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
言うべきではない。分かっている。この人は、ユラを調べている大人だ。それなのに、喉の奥で何年も固まっていたものが、勝手に動き出していた。
「少しだけ、してもいいですか」
先生は、黙って頷いた。
「私とユラ様は、同じ施設で育ちました。……ひどい場所でした。ユラ様は、そこで、ひどい目に遭っていました。誰にも言えないような。一度だけ、ユラ様は私に助けを求めました。私はそれを知っていたのに、怖くて、何もできなかった。扉の前に立ったまま、開けられなかったんです」
シオンは、木箱の角を見つめたまま話した。先生の顔は、見られなかった。
「あの頃のユラ様は、今とは違いました。自分のことより、他人のことばかりの子でした。転んだ子がいたら、一番に駆け寄るような。……ですが、勘違いはなさらないでください。昔のユラ様に戻ってほしいなどとは、思っていません。戻らないことくらい、分かっています。今のユラ様は、ご自分で選んで、ああしていらっしゃる」
拳を握った。
「だから、今のユラ様のしていることが、私のせいだとは言いません。言えば、ユラ様に失礼です。でも、私が何もしなかったことも、消えません」
しばらく黙って、それから、もう一つだけ付け足した。
「あの施設には、もう一人、ユラ様がいちばん信じていた子がいました。……その子のことは、私の口からは言えません」
倉庫の中に、また沈黙が落ちた。
「話してくれて、ありがとう」
先生の声は、静かだった。
「昔のことだけで、今のユラを全部説明できるとは、私も思ってない。ユラが今していることは、ユラが自分で選んでることなんだと思う。……それでも」
先生は、まっすぐにシオンを見た。
「シオン。君なら、ユラを止められるかもしれない」
シオンは、顔を上げた。
「ユラのことを一番近くで見てきたのは、君だと思う。ユラが何を考えているのか、今、何を望んでいるのか。たぶん、私よりずっと分かってる。……でも、君一人に背負わせるつもりはないよ。私も一緒に、方法を探す。それと、そのチョーカーのことも。君が危ない目に遭うようなことは、させたくない」
息が、詰まった。
そんなことを言われたのは、初めてだった。止められなかったことを責められたことはない。誰もそのことを知らないのだから。けれど、止められると言われたことも、一度もなかった。
胸の奥の、ずっと固く閉じていた何かが、少しだけ緩んだ気がした。
それと同時に、別の重さが、肩の上に降りてきた。
止めるということは、あの子の楽しみを奪うことだ。あの子に背を向けることだ。あの日、扉を開けられなかった自分が、今度はあの子の前に立ちはだかる。そんなことが、本当にできるのだろうか。
けれど、止めなければ、この人の言葉を裏切ることになる。あの子から目を逸らし続けた自分に、初めて「できるかもしれない」と言ってくれた人を。
今度こそ、失敗できない。
あの日、扉を開けられなかった自分に、もう一度だけ機会が与えられようとしている。それを逃したら、今度こそ、二度と取り返せない。
「……考えて、おきます」
それだけ言うのが、精一杯だった。
先生は頷き、書類を鞄にしまって、倉庫を出ていった。扉が閉まったあとも、シオンはしばらく、その場から動けなかった。
***
「シオン。焼き鳥は、塩とタレ、どちらが正しいと思いますか?」
夕食の帰り道、私は真剣に尋ねた。
今日の店は、タレが甘すぎた。悪くはないのだけれど、つくねにまで甘いタレを絡められると、少し胸焼けがする。ねぎまは塩がいい。皮はタレ。つくねは、やっぱり塩だろうか。
「……どちらでも、よろしいのでは」
「よろしくありません。これは大事な問題です」
シオンは「申し訳ありません」と言った。それきり、また黙ってしまった。
今日のシオンは、少しおかしい。返事が半拍遅い。私の話を聞いていないわけではないのに、どこか別のところを見ている。夕食の間、三回、首元に手を伸ばしかけてやめた。
「シオン、今日は随分ぼんやりしていますね」
「……申し訳ありません」
「謝ってばかりですね。何かありましたか?」
「いいえ。何も」
即答だった。この子が、私に即答で嘘をつくのは珍しい。
何かあったのだろう。そして、私に言えない何かだ。シオンが私に隠しごとをするなら、相手はたぶん、限られている。
問い詰めることもできた。チョーカーに指をかければ、この子は三秒で全部話すだろう。
けれど、やめておいた。今ここで聞き出してしまったら、それで終わりだ。この子が何を抱えて、それをどこまで一人で持ちこたえられるのか。重さに耐えきれなくなる瞬間は、自分の目で見たい。
「そうですか。でしたら、デザートを買って帰りましょう。モンブランがいいです」
「……承知しました」
***
部屋に戻って、私は手帳を開いた。
星印をつけた日付。指で、今日から順に数えていく。五日。……いえ、今日を入れれば六日。
遠足の前の晩は、指で数えないようにしていた。数えれば数えるほど、待ち遠しくなるから。けれど、ここまで近づいてしまえば、もう数えても数えなくても同じことだ。
ミカは、私を信じると決めた。ナギサは、私の前で泣いた。ハナコは、目を逸らしたまま試験に合格した。先生は、名簿の札を一枚めくった。シオンは、何かを隠し始めた。
どれも、まだ途中だ。途中だからこそ、楽しい。
そういえば、スマートフォンの写真フォルダがいっぱいだった。シュークリームの断面だの、焼き鳥の盛り合わせだので、気がつけば容量が残っていない。当日までに整理しておかなくては。せっかくのお祭りなのに、撮りたいものが撮れなかったら困りますもの。
「シオン。あと六日ですよ」
モンブランの箱を机に置いたシオンに、私は手帳を見せた。
「楽しみですね」
シオンは、手帳の星印を見つめていた。何か言おうとして、唇がわずかに動く。けれど、言葉は出てこなかった。
いつもなら、ここで「……はい」とだけ答える子だ。今日は、それすら言わなかった。
笑うことも、頷くこともせずに、シオンはただ、星印を見ていた。
感想、評価、お気に入りありがとうございます!!!
めちゃくちゃ嬉しいです!