光堕ちしないラスボス系生徒 作:あいら
感想本当に嬉しいです!全部目を通してます!たくさん待ってます!
*10話構成でしたが11話完結になりました。すみません。
施設の夕食は、いつもパンが一つと、色の薄いスープだった。
パンは、子どもの拳くらいの大きさしかなかった。それが一日に一度。朝と昼は、何も出ない日の方が多かった。私たちはいつもお腹を空かせていて、夜になると、寝台のあちこちから小さな腹の音が聞こえた。
「シオン、これあげる」
ある冬の夜、ユラが自分のパンを差し出してきた。
半分ではなかった。丸ごと一つだった。
「……ユラのは?」
「私、さっき食べたから」
嘘だった。ユラの皿には、パン屑ひとつ落ちていなかった。食べたのではなく、最初から手をつけていなかったのだ。
「いらない。ユラが食べて」
「いいの。私、あんまりお腹空いてないし」
ユラは笑って、私の手にパンを押しつけた。それから、自分のスープを一口だけ飲んで、内緒話をするように顔を寄せた。
「いつかね、ここを出たら、二人でお腹いっぱい食べようね。パンも、お肉も、甘いものも。食べきれないくらい」
「……そんなの、無理だよ」
「無理じゃないよ。絶対、幸せになれるよ。シオンも、私も、みんなも」
その夜、隣の寝台から、小さな音が聞こえた。お腹の鳴る音だった。ユラは毛布を頭まで被って、ずっと丸まっていた。音が鳴るたびに、毛布の塊がぎゅっと小さくなった。私は、聞こえないふりをした。
ユラがパンを渡していたのは、私だけではなかった。熱を出した年少の子には、自分の毛布を掛けた。叱られて泣いている子がいれば、一晩中その隣に座っていた。施設の大人たちが誰も気づかないことに、あの子だけはいつも気づいた。自分がどれだけお腹を空かせていても。
だから、あの日も、ユラは誰かを庇ったのだと思う。
年上の、体の大きな子たちが、ユラを倉庫へ連れていった。扉が閉まって、しばらくして、中から音がした。それから、声がした。
『シオン、たすけて』
私は、扉の前にいた。取っ手に、手をかけた。
開けられなかった。
開けたら、次は自分の番になる。そう思ったら、指が一本も動かなくなった。扉の向こうで、ユラがもう一度私の名前を呼んだ。私は取っ手を握ったまま、そこに立っていた。
あの日のことを、私は今でも夢に見る。夢の中でも、私は扉を開けられない。
それから少しずつ、ユラは変わっていった。何がきっかけだったのか、そのすべてを私が知っているわけではない。ただ、ある日気づいたときには、あの子はもう、誰にもパンを渡さなくなっていた。
***
「シオン。パンケーキの三段は、少し寂しいと思いませんか」
調印式の朝、教会の食堂の窓際で、ユラは真剣な顔をしていた。皿の上には、バターとメープルシロップをたっぷり乗せたパンケーキが三枚。私が「四段目を頼みましょうか」と言うと、ユラは少し考えてから「五段にしてください」と言った。
この子は、本当に美味しそうに食べる。
ナイフで丁寧に切り分けて、シロップの染みたところから口に運ぶ。一口ごとに、少しだけ目が細くなる。それを見ていると、胸のどこかが緩む。昔、パンを丸ごと私に差し出した子が、今は好きなものを、好きなだけ食べている。それは、きっと悪いことではない。
「晴れてよかったですね。曇り空では、写真映えしませんもの」
ユラは窓の外を見上げた。雲一つない、よく晴れた空だった。
テーブルの上で、ユラの端末が震えた。画面に「桐藤ナギサ」の名前が浮かぶ。ユラはフォークを置いて、短い返信を打った。
「ナギサさん、緊張していらっしゃるみたいです。大丈夫ですよ、とお送りしておきました」
ユラは、穏やかに微笑んだ。
「今日はきっと、ナギサさんにとって一生忘れられない日になりますね」
五段目のパンケーキが運ばれてくる。ユラは嬉しそうに手を合わせた。
昔のあの子は、みんなが幸せになる日を楽しみにしていた。今のあの子は、大勢の人が泣き叫ぶ日を、パンケーキを頬張りながら待っている。どちらも、同じ笑顔で。
「今日は、古聖堂がよく見える場所にいましょうね」
最後の一切れを口に運びながら、ユラが言った。
「……ユラ様。アリウスの攻撃は、空から来ると報告がありました。会場の近くは、危険です」
「ええ。ですから、近くで見たいのです」
当たり前のことを言うような顔だった。
「せっかくのお祭りを、遠くから眺めるだけなんて、もったいないでしょう? 危ないときは、シオンが守ってくれますもの」
食堂を出たあと、私は救護班の最終確認に向かった。
先生が保留にした五人のことは、ずっと気になっていた。名簿に加えるよう命じたのは、ユラだ。五人とも、教会の保護寮から連れてこられたトリニティの子だった。けれど、炊き出しの列で見かけたことも、食堂で笑っているのを見たこともない。誰かと話しているところすら、一度も見たことがなかった。
そのうち三人には、記録があった。保護寮に入る前後に、学費の滞納で除籍になっていた子たちだ。今の在籍記録がないのは、それが理由だった。私は旧学籍の記録と除籍の通知、保護寮の入寮記録を揃えて、正義実現委員会に提出した。向こうは一人ずつ面談をして、本人であることを確かめた。三人は通過し、元の持ち場に戻った。
残る二人は、どれだけ探しても、名簿の名前では何も出てこなかった。ユラに尋ねると、「その二人は、外でいいでしょう」とだけ言われた。だから二人は、警備区域の外にある救護テントへ回した。空いた二つの持ち場には、私が選んだ二人を入れた。
副官には、あの三人から目を離さないよう言ってある。
何か企まれているのだろうとは、思っていた。当日の混乱に紛れて噂を流させるのか、それとも、どこかの通信を乱させるのか。それくらいのことだろうと、私は思おうとしていた。それ以上のことは、考えないようにしていた。
腰の銃を、一度だけ確かめた。
『君なら、ユラを止められるかもしれない』
あの人の声が、まだ耳の奥に残っていた。
***
通功の古聖堂は、白い花で埋め尽くされていた。
入口にはクロノス報道部のカメラが並び、トリニティとゲヘナの生徒たちが、互いに距離を測るようにして列を作っている。正義実現委員会と風紀委員会が、会場の東西を分けて警備に就いていた。上空には、ゲヘナの万魔殿の飛行船が、堂々とした影を落としている。
桐藤ナギサは、朝から一度も座っていなかった。段取りを確かめ、来賓に挨拶し、警備の報告を受け、その合間に端末を見る。画面を見た瞬間だけ、ナギサの肩からわずかに力が抜けるのを、先生は見ていた。
補習授業部の四人は、今日は会場にいない。第三次試験の合格祝いに、ヒフミが目をつけていたケーキ屋へ行くのだと言っていた。それでいい、と先生は思った。あの子たちには、今日くらい普通の一日を過ごしてほしかった。
隣で、空崎ヒナが小さく息をついた。
「……先生。顔色が悪いわ」
「少し、夢見が悪くてね」
燃える古聖堂。銃を向け合う生徒たち。揺れる銃口と、霧の向こうの微笑み。
けれど、胸のざわつきは、夢のせいだけではなかった。
保留にしていた五人のうち、三人は昨日のうちに確認が取れた。三人とも、教会の保護寮に入る前後に学費の滞納で除籍になった、トリニティの元生徒だった。今の在籍記録がないのはそのためで、旧学籍の記録とも照合が取れた。正義実現委員会が一人ずつ面談をして、本人であることも確かめている。
『受け答えは、どれも丁寧でした。……少し、揃いすぎているほどに』
羽川ハスミは、そう報告していた。けれど、受け答えが揃っていることは、警備区域から締め出す理由にはならない。三人は通った。
残る二人は、名簿の名前では、どこにも記録がなかった。顔写真を照合して、ようやく別の名前が出てきた。半年前に、友人から捜索届が出されていたトリニティの生徒だった。教会は、二人を保護寮で保護していると言う。けれど面談では、二人とも、自分の本当の名前を聞かれても答えなかった。
二人には、警備区域の外の救護テントから出ないよう、正義実現委員会が見張りをつけている。打てるだけの手は打った。それでも、ざわつきは消えなかった。
先生は、白い花の飾られた鐘楼を見上げた。よく晴れた空だった。
その空に、白い筋が一本、引かれた。
『先生、伏せてください!』
シッテムの箱が、腕の中で白く光った。アロナの叫び声と同時に、目に見えない壁のようなものが、先生の周りに張り巡らされる。
音が届いたのは、光のあとだった。
古聖堂が、内側から膨らむように砕けた。爆風が来賓席を薙ぎ、白い花が一斉に宙を舞う。見えない壁に、瓦礫が叩きつけられる。何度も、何度も。その向こうで、ヒナの身体が吹き飛ばされるのが見えた。
続けて、二発目が落ちた。
耳鳴りの奥で、誰かが叫んでいた。
煙の中で身体を起こしたとき、先生はほとんど無傷だった。シッテムの箱の画面が、ちかちかと弱く明滅している。
『せ、先生……ご無事ですか……』
「アロナ。ありがとう。……大丈夫?」
『すみません……今ので、ちょっと、力を使いすぎちゃいました……しばらく、さっきみたいには、守れないかもしれません……』
画面の光が、さらに弱くなった。
「ありがとう。休んでて」
崩れた来賓席の向こうで、ヒナが立ち上がろうとしていた。額から血が流れ、左腕がだらりと下がっている。それでもヒナは、銃を拾い上げた。
「ヒナ、その怪我」
「平気。……動けるうちは、動くわ」
ヒナは、崩れた壁の向こうを睨んだ。ガスマスクの部隊が雪崩れ込んでくる。アリウスだった。その後ろには、古い修道服をまとった顔のない兵たちが、音もなく列を成していた。
頭上で、轟音がした。
見上げると、万魔殿の飛行船が、炎を噴き上げていた。船腹に開いた穴から黒い煙が流れ出し、巨大な影が、ゆっくりと傾いていく。そのまま、古聖堂の向こうの湖へ、斜めに落ちていった。
水柱が上がった。遅れて、地面が揺れた。
「……マコト」
ヒナが、一瞬だけ顔を歪めた。それから、すぐに前を向いた。
「先生は、ここにいて。救護テントの近くから動かないで」
崩れた来賓席の陰には、動けない負傷者たちが集まっていた。顔のない兵たちの列は、まっすぐそこへ向かってくる。
「あれは、私が止める。ここを抜かれたら、怪我人も先生も守れない」
「無理はしないで、ヒナ」
「先生こそ」
ヒナは片腕で銃を構え、負傷者たちの前に立った。二十歩ほど先で、銃声が鳴り始める。
先生はタブレットを開いた。各校の通信網に、情報が洪水のように流れ込んでくる。その中に、妙なものが混じっていた。
『ゲヘナが撃った。調印式は罠だった』
『トリニティがアリウスを手引きした。ゲヘナを一網打尽にするつもりだ』
正反対の二つの話が、両校の通信網に、ほとんど同じ時刻に流れていた。発信元を辿ると、どちらも途中で消える。名簿を照合したときと、同じ消え方だった。
――あの噂だ。
先生は、すぐにハスミと風紀委員会へ回線を繋いだ。
「攻撃しているのはアリウスだ。トリニティでもゲヘナでもない。両校の指揮系統から、同時にそう流してほしい。クロノスにも頼む。互いに撃たないように」
手応えは、あった。東側では、銃を向け合いかけていた二つの部隊が、互いの通信を聞いて銃口を下ろした。外周の救護テントでは、見張りをつけていた例の二人が内側の区域へ入ろうとして、正義実現委員会に止められていた。
けれど、すべてには届かなかった。
西側の回廊では、トリニティの生徒がゲヘナの生徒に銃を向けていた。「お前たちが撃ったんだろう」と叫ぶ声が震えている。昨日まで同じ会場の設営をしていた相手だった。
その少し先で、銀色の徽章を付けた少女が、血を流したゲヘナの生徒を背負って走っていた。見覚えのある顔だった。教会の食堂で、シチューを振る舞ってくれた子だ。「大丈夫です、もうすぐですから!」と何度も繰り返しながら、救護テントへ向かっていく。
そのさらに奥では、同じ徽章を付けた別の信徒が、拡声器を手に叫んでいた。
「ゲヘナは敵です! 皆さん、騙されないで!」
同じ徽章。同じ教会。救う手と、煽る声。
そのとき、東の方角で光が弾けた。
少し遅れて、腹に響くような音が届く。さっき銃口を下ろしたばかりの東側の向こうに、新しい煙が一本、まっすぐ立ち上った。
『東の避難路で爆発! 救護班の腕章をつけたトリニティの生徒が、ゲヘナの避難列に――』
『負傷者多数! 本人も、重傷です!』
別の回線から、怒鳴り声が重なる。
『トリニティの救護班が、ゲヘナを狙った!』
『やっぱり罠だったんだ!』
東側の部隊が、また銃を構え直していく。
救護班の腕章。トリニティの生徒。先生の頭に、昨日の報告がよぎった。揃いすぎた受け答え。本当の名前を答えない二人。
「ハスミ。教会の救護班のうち、昨日確認を通した三人の名前を送る。今すぐ全員の所在を確かめて、見つけたら保護してほしい。……東の爆発と、関係があるかもしれない」
『了解しました。すぐに人を回します』
「風紀委員会にも。今の爆発は、トリニティ全体の攻撃じゃない。報復しないように伝えて。負傷者の搬送を最優先に」
手は打った。けれど、東側の銃声は、さっきより増えていた。
救護班の腕章をつけた信徒たちの大半は、今も本当に負傷者を運んでいた。何も知らずに、ただ目の前の誰かを助けるために走っている子たちだった。同じ腕章をつけた誰かが、東の避難路で何をしたのかも知らずに。
回廊の奥で、崩れた天井の下から子どもの泣き声がした。逃げ遅れた生徒がいる。
先生は周囲を見回した。ヒナは前線で、顔のない兵たちを一人で押し留めている。救護の子たちは、目の前の負傷者で手一杯だった。手の空いている者は、誰もいない。
「ヒナ。西の回廊に子どもが取り残されてる。すぐ戻る」
『先生、待って――』
通信越しのヒナの声を背中に聞きながら、先生はタブレットを抱えて、煙の中へ走った。
***
白い筋が空を裂いた瞬間、思わず手を叩いていた。
古聖堂から少し離れた、旧礼拝堂の回廊。ここからなら、鐘楼がよく見える。来てよかった。光が走って、ほんの少し遅れて――
視界が、黒く塞がれた。
シオンが、私の上に覆いかぶさっていた。
爆風が回廊を吹き抜け、石の欠片が雨のように降ってくる。シオンの背中に、何かが当たる鈍い音がした。一度。二度。シオンの身体が小さく跳ねて、それでも、私の上からどかなかった。
音が止んで、シオンがゆっくりと身体を起こした。
「……ユラ様、お怪我は」
「ありません。あら、シオン。血が出ていますよ」
シオンの左肩から背中にかけて、制服が裂けていた。そこから、赤いものがじわりと滲んでいる。
「大丈夫です。かすり傷です」
「そうですか」
それよりも。
私はシオンの肩越しに、古聖堂を見た。
鐘楼が、花束ごと弾け飛んでいた。白い花びらが、雪みたいに青い空へ舞い上がっていく。二発目が来た。そのたびに足元が揺れて、悲鳴が上がって、煙が空を塗り替えていく。
ああ、来た。本当に来た。
手帳に星印をつけた日から、ずっとこの瞬間を待っていた。けれど、待っていた何倍も素敵だった。
頭上で、轟音がした。
見上げると、ゲヘナの大きな飛行船が、炎を噴いていた。船腹から黒い煙を吐き出しながら、巨大な影がゆっくりと傾いていく。傾いて、傾いて、そのまま古聖堂の向こうの湖へ落ちていった。
白い水柱が、空まで届きそうなほど高く上がった。
「まあ……!」
声が裏返った。あんなもの、聞いていなかった。誰も教えてくれなかった。あの大きな船が、まるで玩具みたいに、空から湖へ落ちていくなんて。
「シオン、見ましたか? 今の、見ましたか?」
「……ユラ様、ここも危険です。下がってください」
シオンに手を引かれて、回廊を走る。瓦礫を飛び越えるたびに、スカートの裾が翻る。足が勝手に弾んでしまう。崩れた壁の向こうから、ガスマスクの部隊が雪崩れ込んでくる。その後ろに、見たこともない兵たちがいた。古い修道服をまとって、顔がなくて、音もなく歩いている。
「あれは何でしょう?」
「……分かりません。報告にはありませんでした」
「まあ、素敵。聞いていない出し物まであるなんて」
アリウスの子たちが何を用意していたのか、私は全部を知っていたわけではない。知らなくてよかった。知らないものが、次から次へと出てくる。飛行船が湖に落ちて、顔のない兵が歩いて、空はまだ青い。これほど贅沢なことがあるだろうか。
どこかで、誰かが叫んでいた。『ゲヘナが撃った!』。別のどこかで、誰かが叫び返していた。『トリニティの罠だ!』。
育っている。私がまいた種が、ちゃんと芽を出している。
トリニティの子が、ゲヘナの子に銃を向けていた。泣きそうな顔で。昨日まで、同じ会場で花を飾っていた相手に。
胸の奥から、何かがこみ上げてきた。止めようとは思わなかった。止められるとも思わなかった。
「あは」
一度こぼれたら、もう駄目だった。
「あはは……あはははははっ!」
笑いが止まらない。お腹が痛い。涙まで滲んできた。こんなに笑ったのは、生まれて初めてかもしれない。どれだけ美味しいものを食べても、どれだけ甘いお菓子を口にしても、こんな気持ちにはならなかった。
空は青くて、古聖堂は燃えていて、みんなが泣いている。
最高の一日だ。
「……そうだ」
笑いすぎて浅くなった息を整えながら、私はスマートフォンを取り出した。写真フォルダは、ちゃんと空けておいた。
「シオン、こちらへ」
「……ユラ様?」
「記念写真です。せっかくですもの」
シオンの袖を引いて、隣に立たせる。画面を内側に向けると、私とシオンの後ろに、燃え上がる古聖堂がちょうど収まった。炎が鐘楼の残骸を舐めて、黒い煙が青い空に伸びていく。構図としては、申し分ない。
シャッターを切る。
画面を確かめて、私は眉を寄せた。
「シオン。顔が硬いです」
「……申し訳、ありません」
「せっかくの記念なのに。もう少し笑ってください。ほら、もう一枚」
二枚目。シオンの顔は、さっきより白かった。肩の血が、制服の襟元まで染みている。
三枚目。シオンは、唇を引き結んで、炎の方を見ていた。
「……まあ、いいでしょう」
三枚とも、私はとても良い顔で笑っている。シオンだけが、どれも笑っていない。撮り直したかったけれど、いつまでも同じ場所に立っているわけにもいかない。
ついでに、三枚ともシオンの端末へ送っておいた。
「後で見返してくださいね。あなた、ひどい顔ですけれど」
お祭りは、まだ始まったばかりなのだから。
***
古聖堂の周りは、どこもかしこも賑やかだった。
石畳には瓦礫が散らばり、あちこちで火の手が上がっている。焦げた花びらが、風に乗ってくるくると舞っていた。遠くで銃声が鳴り、少し間を置いて、また鳴る。たん、たたん、たん。ちょうどいい拍子だ。
気がつくと、その拍子に合わせて足が動いていた。
踵で石畳を軽く鳴らし、崩れた柱を一歩で跨ぐ。倒れた案内板の上をつま先で渡り、割れたステンドグラスの欠片を、水たまりでも避けるようにひょいと飛び越える。スカートの裾が、そのたびにふわりと揺れた。鼻歌が、勝手にこぼれてくる。何の曲だったかは思い出せない。思い出せなくても、今の私にはちょうどいい。
広場の噴水の前で、トリニティの生徒が二人、互いに銃を突きつけ合っていた。同じ制服に、同じ部活の腕章。
「あなたでしょう、ゲヘナに配置を流したの!」
「違う、私じゃない! ねえ、信じてよ……!」
片方が泣いていた。もう片方も、泣き出しそうだった。昨日まで一緒にお昼を食べていたのかもしれない。その横を通り過ぎながら、私は二人の顔を順番に眺めた。どちらも、いい顔をしている。
救護テントの前では、担架を運ぶ子たちが怒鳴り合っていた。「次はこっち!」「もう場所がない!」。その脇で、ゲヘナの生徒が一人、瓦礫に座り込んで、動かない友達の手を握っていた。
私は少しだけ歩調を緩めて、その子の頭をそっと撫でた。
「大丈夫ですよ」
顔を上げたその子に微笑みかけて、また歩き出す。何が大丈夫なのかは、私にも分からない。振り返ると、その子はぽかんと口を開けたまま、私の背中を見ていた。
すれ違った救護班の子が、一瞬だけ足を止めて、こちらを見た。何か言いたげな顔だった。けれど、担架の上の負傷者がうめき声を上げると、その子はすぐに走り去っていった。
くるりと、一度だけ回ってみた。焦げた花びらが、スカートの裾と一緒に舞い上がる。……少し、はしゃぎすぎたかもしれない。まあ、誰も見ていないからいいでしょう。
広場を抜けかけたところで、煙の向こうから足音がした。
ガスマスクの子たちが三人、瓦礫の陰から飛び出してくる。アリウスだ。銃口が、まっすぐこちらを向いた。トリニティの制服を着ていれば、誰でもいいのだろう。
「あら。お誘いですか?」
最初の銃声に合わせて、半歩、左へ。弾が、さっきまで私の頭があったところを抜けていく。倒れたベンチを片手で跳び越えながら、腰の拳銃を抜いた。
たん。
拍子に合わせて、引き金を引く。一人目が肩を押さえて膝をついた。二人目の弾が、袖をかすめていく。……穴が開いた。お気に入りの制服なのに。三人目の銃口がこちらへ回る前に、割れたステンドグラスの上を滑るように踏み込んで、二発。三人目が、瓦礫の上に転がった。
後ろで、シオンの銃声が二度鳴った。二人目が、遅れて崩れ落ちる。
「シオン、今のは私が撃とうと思っていたのですけれど」
「……失礼しました」
楽しい。身体が軽い。銃声が拍子を刻んで、足がそれに合わせて勝手に動く。こんなに思いどおりに身体が動くのは、いつ以来だろう。
崩れた壁の向こうから、別の影が現れた。
古い修道服の、顔のない兵たち。三体、音もなく近づいてくる。一体の胸に二発撃ち込むと、一瞬だけ揺らいで、それからまた、何事もなかったように歩き出した。
「まあ。撃っても、倒れないのですね」
面白い。どういう仕組みなのだろう。近くで見てみたいけれど、さすがにあれと踊るのは分が悪そうだ。
燃えている屋台の支柱を撃つ。傾いた屋根が、顔のない兵たちの前に崩れ落ちた。火の粉が舞い上がって、三体の影が炎の向こうで足を止める。今のうちに、少し距離を取っておこう。
そのとき、足元で声がした。
「た……たすけて……」
トリニティの生徒だった。瓦礫の間に倒れていて、制服の脇腹が赤く滲んでいる。私の靴に、震える指が伸びてきた。同じトリニティの制服を見て、助けが来たと思ったのだろう。
崩れた屋根の脇から、アリウスの子がもう一人、こちらへ銃口を向けていた。
避けることは、できた。横へ一歩跳べば済む。
けれど、ちょうどいいところに、ちょうどいいものがあった。
その子の襟首を掴んで、引き起こした。
「え……?」
助けてもらえると思った顔が、そのまま私の前に来る。銃声が三つ。その子の身体が、三度跳ねた。
その子の肩越しに、アリウスの子へ二発撃ち返す。向こうが倒れたのを見届けてから、手を離した。
その子は、瓦礫の上に崩れ落ちた。まだ息はあった。涙と煤でぐしゃぐしゃになった顔で、私を見上げていた。何が起きたのか分からない、という顔。それから、分かってしまった、という顔。
いい顔だった。
「ありがとうございます。助かりました」
お礼を言って、乱れた袖を直した。
かちり、と手元で軽い音がした。弾倉が空だった。予備は……持ってきていない。パンケーキのことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。
まあ、いいでしょう。今日はシオンがいますもの。
「……ユラ様」
振り返ると、シオンが倒れた子の傍らに膝をついていた。肩の血が、さっきよりも広がっている。シオンはその子の首元に指を当て、それから無線で何かを短く告げた。救護班を呼んだらしい。
「……息は、あります」
「そうですか。よかったですね」
さっきの鼻歌の続きを口ずさむ。どこまで歌ったのか、もう思い出せなかったけれど。
「シオン、置いていきますよ」
シオンは、しばらくその子を見下ろしていた。それから、唇を引き結んで立ち上がった。
後ろから、靴音がついてくる。
シオンは、私の三歩後ろを歩いていた。肩から背中にかけて血を滲ませたまま、銃を手に、四方へ目を配っている。崩れかけた壁があれば私の前に出る。いつも通りの、よくできた護衛だ。
ふと、目が合った。シオンは、妙な顔をしていた。何かを思い出しているような、置いていかれた子どものような顔。何を考えているのかは知らない。今は、どうでもいい。
「シオン、もう少し速く歩けませんか? お祭りが終わってしまいます」
「……はい」
回廊の入口で、正義実現委員会の子の無線から、聞き慣れない放送が流れていた。
『攻撃はアリウスによるもの。トリニティ、ゲヘナ両校は、互いに発砲しないこと。繰り返す――』
あら。
広場の向こうでは、さっきまで撃ち合っていた部隊が、銃口を下ろし始めていた。誰かが、私の芽を摘んでいる。少しだけ、もったいない。けれど、腹は立たなかった。こんな日に、こんなに手際よく火消しをして回る人がいる。それはそれで、顔を見てみたい。
その前に、一つだけ足しておきましょうか。
スマートフォンを取り出して、短い文面を打つ。宛先は、救護班の名簿に入れておいた子の一人。東の、ゲヘナの避難路にいちばん近い持ち場に立っているはずの子だ。
『今です』
送信した。それから、同じ名簿の別の二人にも、短く送っておいた。
『その場で待機。以後、何もしないこと』
端末から顔を上げると、シオンが私の手元を見ていた。
いつから見ていたのだろう。シオンは、私の画面と、東の方角とを、一度ずつ見た。それから、弾かれたように無線を掴んだ。
「――副官! 東の三番の持ち場、救護班の、あの子を止めて! 今すぐ――」
東の方角で、光が弾けた。
少し遅れて、腹に響くような音が届く。古聖堂の崩れた壁の向こうに、新しい煙が一本、まっすぐ立ち上った。
悲鳴が聞こえた。それから、怒鳴り声。
『トリニティの救護班が、ゲヘナの列に突っ込んだ!』
『やっぱりトリニティの罠だったんだ!』
さっき銃口を下ろしたばかりの部隊が、また銃を構え直していく。摘まれた芽の横から、新しい芽が顔を出していた。
ああ、よかった。ちゃんと届いた。
シオンの手から、無線が落ちた。石畳に当たって、乾いた音を立てる。無線の向こうでは、副官が何かを叫んでいた。間に合わなかった、と言っているように聞こえた。
「……ユラ様」
シオンの声が、かすれていた。
「今の、文面は」
「ええ。東の子に」
「あの子たちは……救護班の……」
「ええ。救護班ですよ。表向きは」
「……あの子は、自分から、あんなことを」
「あの子たちは、私の言うことなら何でも聞いてくれますもの」
シオンの顔から、表情が抜け落ちていった。肩の血が指先までつたっているのに、それを拭おうともしない。
それから、シオンは東の方角へ一歩、踏み出した。
「どこへ行くのです?」
シオンの足が止まった。
「負傷者が……あの子も、ゲヘナの子たちも……」
「救護班なら、東にもたくさんいますよ。あなたは、私の護衛でしょう?」
シオンは、しばらく東の煙を見ていた。それから、ゆっくりと振り返った。何か言おうとして、唇が一度だけ動いた。言葉は出てこなかった。
シオンは、いつものように私の三歩後ろへ戻った。
回廊を抜けた先で、私は足を止めた。
「まあ」
崩れた天井の下で、一人の大人が瓦礫をどけていた。その腕の中には、煤で顔を汚した小さな生徒が抱えられている。大人は生徒を安全な柱の陰へ降ろし、「ここで待ってて。すぐに救護の子が来るから」と言った。
シャーレの先生だった。
先生は、こちらに気づいて顔を上げた。煙の中で、目が合った。
「……ユラ」
先生の声は、静かだった。
「会場に流れてる噂。ゲヘナが撃った、トリニティの罠だった。どっちも、教会の子たちが流してたね」
「あら。もうお気づきでしたか」
「それに、さっきの東の爆発。救護班の腕章をつけたトリニティの子だったって、無線で聞いた。ゲヘナの子たちも、その子自身も、重傷だ」
先生は、まっすぐに私を見た。
「名簿の子、なんだね。……残りの子たちも、今、正義実現委員会が探してる」
まあ。お早いこと。
微笑んだだけで、答えなかった。
やはり、この人だった。さっきの放送も、銃口を下ろしていった部隊も、検問で止められた二人も。この混乱の中で、もうそこまで手を伸ばしている。
「……条約を、邪魔するつもりなの?」
「はい。当然です。その方が面白くなるでしょう?」
先生の表情が、わずかに動いた。驚きではなかった。ずっと前から分かっていたことを、ようやく本人の口から聞いた。そういう顔だった。
それから、先生の視線が私の隣へ移った。
「シオン、怪我をしてる。すぐに手当てを――」
シオンの肩が、びくりと揺れた。
私は、その横顔を見た。先生の声を聞いた瞬間の、シオンの顔。困ったような、苦しいような、それでいて、どこか縋るような目。
ああ。
この数日、シオンが隠していたのは、これだったのか。
何があったのかは知らない。けれど、この子はこの人に、何かを預けている。あるいは、何かを預けられている。今、この子の中で、私とこの人が、天秤に乗っている。
ふと、思いついた。
予定にはなかった。けれど、予定にないものほど面白いことを、今日の私はもう知っている。
「シオン」
私は、とびきりの笑顔で振り返った。
「先生を撃ってください」
ケーキを一つ追加してください、と言うのと同じ声で。
シオンの身体が、勝手に動いた。何年も訓練されてきた身体だ。腰の銃を抜き、構え、照準を先生の胸に合わせる。肩の怪我など、少しも邪魔になっていない。綺麗な構えだった。
さあ、どんな顔をするのだろう。
撃ちたくない。でも撃たなければならない。何かを預けた相手を、預けられた相手を、自分の手で撃ち抜く。引き金を引いた瞬間、この子の中で何かが壊れる。その音を、一番近くで聞ける。
飛行船も素敵だったけれど、これはそれ以上かもしれない。だって、私だけのために用意された出し物なのだから。
「シオン」
先生が、静かに言った。逃げようともせず、柱の陰の小さな生徒を背中に庇ったまま。
「私は,大丈夫だからね」
一秒。二秒。三秒。
シオンの銃口が、揺れていた。
「……あら?」
思わず、首を傾げた。
「どうしたのですか、シオン。……迷っているのですか?」
本当に、不思議だった。この子が私の言いつけに迷うところなど、ほとんど見たことがない。口では反対しても、最後には必ず従う子だ。シチューの子のときも、救護班の名簿のときも、今朝、会場の近くへ来ると決めたときも。今回もきっと、少し顔を歪めてから、引き金を引くのだろうと思っていた。
迷うのは、いい。迷った末に撃つのなら、その方がずっといい顔になる。
「何を、そんなに迷うことがあるのでしょう。先生とは、何をお話ししたのですか?」
シオンは答えなかった。銃口だけが、ゆっくりと宙をさまよっている。
五秒。十秒。
引き金も引かない。銃も下ろさない。
「シオン」
もう一度呼んでも、シオンは動かなかった。
ああ、そうか。
この子が先生に何を預けたのか、ようやく見当がついた。
「昔の私に戻ってほしい、とでもお話ししたのですか?」
シオンの肩が、びくりと跳ねた。
当たったらしい。
「あなたは、いつもそう言いますね。私のためだと。騒ぎを起こせばユラ様にも障る、ユラ様の御身のためにも、会場の近くは危険ですから。……何度も聞きました」
小さく息をついた。
「でも、私が一度でも、昔に戻りたいと言いましたか?」
シオンの唇が、震えた。何か言おうとして、言葉にならない。
「言っていませんよね。私は今、とても楽しいのです。今日は、人生で一番楽しい日でした。……それを、あなたは昔の私に戻したいという」
「ユラ様、私は……」
「それは、誰のためですか?」
シオンが、息を呑んだ。
「あの日、扉を開けられなかったご自分を、許してほしいだけではありませんか。昔の私が戻ってくれば、あなたは楽になれますものね」
返事はなかった。
もう少し、何かあるかと思った。言い返すなり、泣き出すなり、いっそ開き直って撃つなり。けれどシオンは、銃を構えたまま、ただ立っていた。撃つことも、やめることも、言い返すこともせずに。
私のためだと言いながら、私の望みは聞かない。自分のためなら、せめて自分で何かを選べばいいのに、それもしない。この子は結局、何がしたいのだろう。
考えようとして、やめた。考えるだけ、時間がもったいない。
すっと、何かが冷めた。
さっきまで胸の奥で弾けていたものが、全部、跡形もなく消えていく。燃える古聖堂も、湖に落ちた飛行船も、さっき撮った写真も、拍子を取って歩いた石畳も、軽やかに撃ち合った広場も、東の空に上がった煙も、急にどうでもよくなった。
「……もう結構です」
自分の声が、ひどく平らだった。
「あなたは、何も選べないのですね。……昔から、少しも変わらない」
シオンの顔から、血の気が引いていく。
「少しでも期待した私が、どうかしていました」
腹を立てる気にもなれなかった。ただ、馬鹿らしかった。せっかく思いついたとっておきの遊びを、こんなふうに台無しにされるなんて。楽しみにしていた分だけ、何もかもが白けて見えた。
「貸してください」
目も合わせずに、シオンの手から銃を取り上げた。
私の拳銃は、さっき空にしてしまった。けれど、弾が残っていたとしても、きっと同じことをしただろう。この子の手に、これ以上何かを任せておく理由がない。指がまだ引き金の形のまま固まっていて、引き剥がすのに少し手間取った。
「…本当に、つまらないですね」
銃口を、先生へ向ける。
先生は、逃げなかった。柱の陰の小さな生徒の前に立ったまま、私を見ていた。怒ってもいなかった。怯えてもいなかった。ただ、悲しそうな目をしていた。
引き金を引いた。
乾いた音が一つ、煙の中に響いた。
先生の身体が、ゆっくりと傾いた。膝が折れて、瓦礫の上に倒れ込む。白いシャツに、赤い色がじわりと広がっていく。柱の陰で、小さな生徒が悲鳴を上げた。
私は、倒れた先生を見下ろした。
思っていたほど、楽しくなかった。
先生を撃つこと自体は、悪くなかった。けれど、本当に見たかったのは、これではない。シオンが撃って、シオンが壊れて、それを見て先生がどんな顔をするのか。全部そろって、ようやく完成するはずだった。肝心のところが、すっぽり抜け落ちている。メインの料理だけ出てこなかったフルコースのようだ。
「お返しします」
銃を、シオンの手に戻した。シオンの指は、受け取ったまま動かなかった。
「では、あなたはそこで、ずっとそうしていてください。……永遠に…」
煙の向こうから、足音が近づいてくる。誰かが先生の名前を呼んでいる。たぶん、空崎ヒナだろう。あの子が来る前に、ここを離れた方がいい。
ポケットから、救護班の腕章を取り出して袖に通した。白地に、教会の銀の紋章。今日は会場のあちこちで、同じ腕章をつけた信徒たちが走り回っている。
回廊の脇の通路へ入ると、ちょうど外周の救護テントへ負傷者を運ぶ担架の列が通りかかった。「手伝います」と声をかけて、一本の担架の端を持たせてもらう。持ち手が汗で滑りそうだった。
途中の検問で、正義実現委員会の生徒が担架を見て、黙って道を開けた。救護係を呼び止めている暇のある子など、今日の古聖堂にはいない。テントの手前で担架を下ろし、他の子に場所を譲って、そのまま街の方へ歩き出した。
そういえば、お腹が空いた。
パンケーキは五段では足りなかったらしい。あれだけ笑って、あれだけ歩き回って、少し運動までしたのだから、無理もない。何か温かいものがいい。お肉か、それとも汁物か。街の外れの方なら、まだ開いているお店もあるだろう。
シオンのことは、角を曲がる頃には、もう考えていなかった。
***
身体が、冷たかった。
瓦礫の感触も、煙の匂いも、少しずつ遠くなっていく。シッテムの箱の画面は、もうほとんど光っていなかった。
『先生……先生……ごめんなさい……守れなくて……さっき、力を使いすぎちゃったから……』
アロナの声が、途切れ途切れに聞こえる。謝らなくていい、と言いたかった。声が出なかった。
「――先生!」
ヒナの声だった。銃声を聞いて、前線を部下に任せて駆けつけたのだろう。額から血を流したまま、片腕で銃を構えて、瓦礫を蹴って走ってくる。その目が、倒れた先生と、銃を握ったまま立ち尽くすシオンとを、一度に捉えた。
「……あなた」
ヒナの銃口が、シオンに向く。
「ちが……ちがうの……!」
柱の陰から、小さな生徒が泣きながら叫んだ。
「そのお姉さんじゃない……撃ったのは、もう一人の、笑ってたお姉さん……! あっちに、行っちゃった……!」
ヒナは、回廊の脇の通路を一瞬だけ見た。それから、先生の傍らに膝をついた。追わなかった。追えなかったのだろう。
遠くから、サイレンが近づいてくる。瓦礫の手前で止まり、担架を持った生徒たちが駆け下りてきた。ゲヘナの救急医学部の救急車だった。
「……まだ、死体ではありませんね」
抑揚のない、落ち着いた声。氷室セナだった。
「止血します。動かさないで。このまま救急車へ運びます。……このままでは、すぐに死体になってしまいますので」
「先生! 先生、聞こえますか!」
セリナの声だった。セナの連絡を受けて、救護騎士団の子たちと駆けつけたらしい。誰かが傷口を強く押さえる。痛みが、遠いところで鈍く響いた。
「救護騎士団の病棟で受け入れます! 搬送、お願いします!」
身体が持ち上げられる。
柱の陰の、小さな子は無事だろうか。ヒナの腕は。東の避難路で倒れた子たちは。ハスミは、残りの子たちを見つけられただろうか。
それから、シオンの顔が浮かんだ。銃口をさまよわせたまま、どこにも行けなくなっていた顔。
揺れる銃口。銃声。倒れた自分。見下ろして、微笑む誰か。
――彼女には、気をつけたまえ。
セイアの声が、どこか遠くで響いた。
気をつけていたつもりだった。それでも、届かなかった。
けれど、まだだ。まだ、終わっていない。
そう思ったところで、先生の意識は、白い光の中へ沈んでいった。
***
「銃を置きなさい」
誰かが言った。
私は、銃を置いた。手から力を抜いたら、勝手に落ちた。
「手を上げて」
手を上げた。左肩が痛むはずだった。痛くなかった。何も感じなかった。
先生が、担架で救急車へ運ばれていく。セナとセリナが両側から何かを叫びながら、扉の中へ消えていく。白いシャツが、赤かった。
撃たなかった。
撃たなかったのに、止められなかった。
パンの温かさ。毛布の塊が小さくなる音。冷たい取っ手の感触。
――シオン、たすけて。
広場で、あの子の靴に伸びた指。三度跳ねた身体。「ありがとうございます」と言った、あの子の声。
私は、あの子を庇って肩を裂いた。あの子は傷ひとつ負わずに、鼻歌の続きを歌っていた。
東の空の煙。画面に浮かんでいた三文字。名簿に名前を書き加えたのは、私だった。書類を揃えて、あの子を元の持ち場に戻したのも、私だった。何か企んでいることには、気づいていた。噂を流させるくらいだろうと、思おうとしていた。
思おうとしていた、だけだった。
『それは、誰のためですか?』
答えられなかった。あの子のためだと、ずっと思っていた。けれど、あの子が一度でも、昔に戻りたいと言っただろうか。
考えようとすると、頭の中が白くなった。その先を考えてしまったら、自分が今まで何をしてきたのか、分からなくなる気がした。
『何も選べないのですね』。
今日は、あの子の人生で一番楽しい日だった。燃える古聖堂の前で、お腹を抱えて笑っていた。瓦礫の上を、跳ねるように歩いていた。あんなふうに歩くあの子を、私は施設の庭以来、一度も見たことがなかった。
その一番楽しい日を、最後に私が台無しにした。
あの子は、振り返らなかった。
追いかけなければ、と思った。思っただけで、足は動かなかった。
「この方も、怪我をしています」
残っていた救護騎士団の生徒が、私の肩の傷を見て顔を曇らせた。
「手当てが必要です。……風紀委員長、この方は」
「先生に銃を向けていたわ。撃ったのは別の子らしいけれど」
ヒナが、私を見た。血の滲んだ額の下で、目だけが鋭かった。その目が、一瞬だけ私の首元で止まった。
「祝祭教会の、白鷺シオンね。……手当てはして。でも、目は離さないで」
「はい」
誰かに腕を取られて、歩いた。救護テントの中で、座れと言われて、座った。傷口を消毒されて、包帯を巻かれた。名前を聞かれて、答えた。それ以外の質問には、何も答えられなかった。答えようとしても、言葉が出てこなかった。
テントの入口には、正義実現委員会の生徒が一人、ずっと立っていた。私を見張っているのだろう。それで構わなかった。どうでもよかった。
見張りの生徒の無線から、ハスミの声が聞こえた。
『救護班の二名、持ち場で確保しました。……二人とも、指示がないと動けない、と言っています』
動けないのではない、と思った。
待っているのだ。あの子に、そう言われたとおりに。
「その首のものは、何ですか」
見張りの生徒が、私の首元を見て言った。黒いチョーカー。指が、勝手にそこへ伸びた。
「……贈り物です」
見張りの生徒は少しだけ眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。
「端末を、預からせてもらいます」
手が差し出された。言われるままに、ポケットから取り出す。
渡す直前、画面が光った。
通知が一件、残っていた。ユラから送られてきた、写真が三枚。
一番上の一枚が、小さく表示されていた。燃える古聖堂を背にして、心の底から楽しそうに笑うユラ。その隣で、血で汚れた肩のまま、まったく笑えていない私。
あの写真の中で、幸せそうなのは、あの子だけだった。
見張りの生徒が、端末を受け取った。画面が、手の中から消えていった。
私は、包帯を巻かれた肩のまま、テントの隅に座っていた。どこへ行けばいいのか、分からなかった。だから、言われた場所に座っていた。