海の国の港町は、巨大な棺桶だった。
断崖の窪みに押し込まれるように建てられた石造りの家々は、どれも窓を固く閉ざしている。軒先に吊るされた干し魚が潮風に揺れて乾いた音を立てるが、それ以外に物音はない。通りを歩く人影もなければ、ましてや笑い声などありはしない。あるのは、腐った海藻の匂いと湿った石が放つ冷気、そして——広場の中心から漂ってくる、異様なまでの「生」の気配だけだった。
広場に運び込まれた長テーブルの上には、無残な残骸が山を成している。
骨。骨。骨。巨大な魚の背骨が、まるで城壁の廃墟のように折り重なっている。その隙間から覗くのは、見たこともない海獣の骨片。血の滲んだ布切れ。そして、食い散らかされた果実の皮。
「あー、食った食った! やっぱ旅の始まりは腹一杯食うに限るなぁ!」
その骸骨の山の向こうから、のんびりとした声が上がった。
悟空が、テーブルに胡坐をかいて腹をポンポンと叩いている。その顔には、この陰鬱な世界の空気など微塵も付着していない。まるで日向の縁側で茶でも啜っているかのような、弛緩しきった笑み。
「なぁ、ゼロ。この魚ちょっと硬かったけど噛めば噛むほど味が出て美味かったぞ。なんだっけ、この辺の守り神かなんかだって言ってたよな?」
ゼロは答えなかった。
テーブルの対面。大剣を膝の上に横たえ、研ぎ石を刃に這わせている。ガリ、ガリ、ガリ、と一定のリズムで。その音だけが、広場の静寂を刻んでいた。
(……食った。こいつ、海竜の幼体を。この港で何世代も崇められてきた、あの生贄の儀式に使うはずだった海竜を。頭から丸焼きにして、骨までしゃぶっていま「美味かった」と抜かしやがった)
研ぎ石を握る手に自然と力がこもる。ぎち、と音がした。
「……テメエ」
「ん?」
「あの魚はなぁ……この国の連中が十年かけて育ててきた海竜だ。ファイブに貢物として、丁重に丁重に扱われてきた代物だ。それを、お前はぁっ!!」
「おお! 十年もかけて育てたのか! そりゃあ手間暇かかってるだけあるな! 味に深みがあったもんな!」
「感想を聞いてんじゃねえよ」
ゼロは研ぎ石をテーブルに叩きつけた。
瞬間、広場を囲む建物の影が、一斉にびくりと震えた。路地の奥、崩れかけた石壁の陰二階の窓の隙間、そこに隠れていた幾十もの視線が、息を殺して縮こまる。
(殺される。あの魔女が、今、間違いなく誰かを殺す)
(誰だ、あの男は!?なぜゼロの殺気を浴びて平然としていられる)
(海竜様を……海竜様を焼いて食った……あれは神に等しい存在だったのに……)
誰も、声を出せない。逃げ出すこともできない。
ただ、この広場を中心に広がる「異常」が通り過ぎるのを待つしかない。ファイブの兵士たちも、兜の下で顔を引きつらせたまま、槍を握る手を震わせている。誰一人、前に出ようとしない。出たら最後、あの白髪の女に切り刻まれる。それだけは、この港に住む者なら誰でも知っている。
「なぁ、ゼロ」
悟空が、骨の山から一本太い肋骨を引き抜いて爪楊枝のように弄びながら言った。
「さっきから『ウタヒメ』って言葉が出てくるけどよ、オメェもウタヒメなんだろ? 歌、うまいのか?」
ゼロは顔を上げた。片目に咲く白い花が、ゆらりと揺れる。
「……あ?」
「いや、だって『ウタヒメ』って言うからよ。歌姫ってことだろ? だったら歌がうまいのかなって」
「歌、ねえ」
ゼロは唇の端を持ち上げた。笑みの形をしているが、目は笑っていない。むしろ奥底で何かが煮えたぎっているような、そんな光だった。
「私が歌うのは、呪いだ。世界を壊すためのな。あの妹どもが歌うのは、嘘っぱちの甘ったるい賛美だ。聞いてるだけで耳の奥が腐ってくるような、反吐の出る歌ばかり」
「へぇ、呪いの歌か! すげぇな! どんな歌なんだ? オラにも歌えるか?」
「お前には歌えねえよ。花の呪いがなきゃ、ただの噪音だ」
「なーんだよ、残念だ」
悟空は本当に残念そうに、眉を八の字にした。その表情があまりに無邪気で、ゼロは思わず目を細める。
(……こいつ、本気で残念がってやがる。この世界の成り立ちも、ウタの力の意味も何も理解してないくせに)
「なぁ、それよりさ。その『妹』ってやつら、強いのか?」
悟空の目が、急に真剣な色を帯びた。とはいえ、その真剣さは「修行」のそれだ。武道家が対戦相手の力量を測るときの、純粋な好奇心。
「ああ、強い。化物ぞろいだ」
「よっしゃ!」
悟空が膝を叩いた。
「じゃあ、早く行こうぜ! 強い奴と戦うのは、いつだって楽しみなんだ!」
「……お前、この世界がどうなってるか分かってて言ってるか?」
「ん? あんまり分かってねぇけど、強い奴がいるなら会いてぇし戦いてぇ。それじゃダメか?」
ゼロは、しばらく悟空の顔を見つめた。その目は、疑いでも警戒でもなく純粋な困惑だった。
(こいつ、本当に何も分かってない。この世界の絶望も、私の旅の意味も妹どもが何をしてきたかも。なのに——)
「……まあいい。どうせお前は私の道具だ。目的のために、使える駒。それ以上でもそれ以下でもない」
ゼロは立ち上がり、大剣を肩に担いだ。
「行くぞ。まずは『ファイブ』だ」
「ファイブ? 5番目ってことか? なんか、ギニュー特戦隊のメンバーみてぇだな!」
「だから知らねえって言ってんだろ!!ギニューとかリクームとかジースとか、ふざけた名前の奴なんか知るかよ!!」
ゼロは叫び、はあ、と大きく息を吐いた。この男と話していると、自分の怒りがどこか空回りしていくような、奇妙な感覚に陥る。
「ファイブは、この海の国を根城にしてるクソメスだ。民から絞り取った金で着飾って、男を侍らせて毎日を宴会で潰してやがる。この世界がどうなろうが、自分の欲さえ満たされればいいと思ってやがる」
「へぇ、美味いもの食い放題か。いいなぁ!」
「よくねえよ!!」
バンッ、とゼロがテーブルを叩いた。
木の板が悲鳴を上げて裂ける。遠くの物陰で、兵士が一人腰を抜かして倒れ込む音が聞こえた。
「民が飢えてるんだよ! ガキが腹を空かせてるんだよ! それを、あの女はっ!!」
「でもよぉ?」
悟空が、首を傾げた。
「美味いもの食って、楽しそうに笑ってる奴を殺すのか? オラ、それはちょっと嫌だな」
「——は?」
「強い奴と戦うのは好きだ。でも、ただ楽しく生きてるだけの奴を、殺すのはなぁ」
ゼロの頭の中で、何かが切れる音がした。
「ふざけんなよ……てめえ、何も知らねえくせに。あの女が何をしてきたか、この海の国がどうなってるか何も………」
「知らねえから、聞いてるんだろ?」
悟空の声は、静かだった。怒りも嘲りもない。ただ、純粋な「知りたい」という意志だけが、そこにあった。
ゼロは、言葉に詰まった。
「……そのファイブは、私の妹だ。それだけで殺す理由には十分だ」
「妹だから?」
「そうだ。私は、妹どもを全員殺す。それが……」
ゼロは、そこで言葉を切った。白い髪が、潮風に煽られて揺れる。
「……何でもねえ。行くぞ」
ゼロは背を向け、大股で坂道を歩き始めた。大剣の重みが、肩に食い込む。
「ゼロ! 待ってよー!」
どこからともなく、幼い白い竜がパタパタと飛んできた。ミハイルだ。その口には、青い花が咥えられている。
「ゼロ、ゼロ! さっきの公園の広場に綺麗なお花が落ちてたよ! ゼロにあげる!」
「いらねえ。捨てろ」
「えぇー……せっかくゼロにあげようと思ったのに……」
「ドラゴンが花持ってきてどうすんだよ。殺しの足しにもならねえだろ。それより周囲の警戒はどうしたんだ!?」
「酷いよ!!ゼロのために見つけてきたのに!! ゼロのバカァッ!
!イジワル!」
ミハイルが、ぽろぽろと涙を零し始めた。その大きな瞳から、透明な滴が次々と零れ落ちる。
「お、どうしたどうした」
悟空が、ひょいとミハイルの前に現れる。
「コイツきっと恥ずかしがり屋なんだよ。ほら?オラがその花もらってやるから、泣くな」
「ほんと……? 悟空ありがと……」
「おう! それでさ、この花見たことねーけど、食えるのか?」
「食うな!!」
ゼロとミハイルの声が、見事に重なった。
「花は見るもんだよ?食べたらお腹壊しちゃうよ」
「そうだぞ、このバカ。何でもかんでも口に入れようとするな。そのうち毒キノコでも食って死ぬぞ」
「なーんだ、食えねぇのか。じゃあここに挿しとくか」
悟空は、青い花を自分の道着の胸元にそっと挿した。橙色の胴着に、鮮やかな青が映える。その姿は、あまりにもシュールであまりにも場違いで。
(なんだ、あの男……)
遠巻きに見ていた町民の一人が、思わず呟いた。
(薄紅の魔女と一緒にいるのにあんなに……あんなに、普通に笑ってる)
(狂ってる。あの男も、きっと狂ってるんだ。じゃなきゃ、ウタヒメの隣で笑えるはずがない)
誰もがそう思った。だがその「狂気」は、この世界の狂気とは明らかに質が違っていた。暗く沈んだ狂気ではなく、光に満ちた無軌道な狂気。
「よーし、腹も膨れたし行くか! その『ファイブ』って奴のところに!」
悟空が、元気よく立ち上がった。
「ああ。ただし、覚悟しておけよ?ファイブは私と同じウタヒメだ。世界を滅ぼす力を持ってるからな。君の呑気な好奇心なんて無慈悲に……….」
言い切る前に悟空の目が、爛々と輝いた。
「世界を滅ぼす力だと!?!すげぇな、この星にもフリーザみてぇな奴がいんのか!?」
「フリーザって誰だよ!?……話を聞いてるか? 危険だって言ってるんだ」
「危険な方が燃えるだろ!」
「……もういい。話は終わりだ。私が馬鹿だった」
ゼロは頭を抱え天を仰いだ。灰色の雲が、重く垂れ込めている。その向こうに、太陽があるとは信じられないほど、この世界は暗かった。
(なんで、こんなに明るいんだこいつは)
ゼロは、ふと思った。
(この世界に生まれてから、私は一度も笑ったことがない。ミハイルとだって、心から笑ったことなんて……ない。なのに、こいつは)
「なぁ、ゼロ」
「……なんだ」
「オメェさぁ、笑わねぇよな」
ゼロの足が、止まった。
「さっきから、怒ってばっかりだ。妹を殺すとか、世界を壊すとかそんなことばっかり。でも、それってよぉ……」
「……黙れ」
声が、低く響いた。
「キミに、私の何が分かるんだ!?何も知らねえだろ!?この世界の絶望も、裏切りも喪失も、何も——」
「知らねえよ。だから、聞いてるんだ」
悟空の声は、やはり静かだった。
「オラはよぉ、オメェのこと、まだ何も知らねえ。でも一つだけ分かったことがある」
「……なんだ」
「腹減ってんだろ?」
ゼロは、ぽかんと口を開けた。
「さっきから、オラの食いっぷり見てたけど、オメェ一口も食ってなかっただろ。それに、顔色も悪ぃ。怪我も治ってねぇし、疲れてる。そんな状態で妹を殺すとか言ったって、倒れちまうぞ」
「……余計なお世話だ。私はウタウタイだ。人間じゃねえ。腹が減ったくらいで、倒れやしねえ」
「ウタヒメだろうが人間だろうが、腹は減るんだろ?」
悟空は、にこりと笑った。
「ほら、これ」
差し出されたのは、焼き魚の残り——いや丁寧に身をほぐして、食べやすいようにされた魚の切り身だった。いつの間に用意したのか、まだ温かい。
「食えよ。話はそれからだ」
ゼロは、その差し出された魚を見つめた。
(こいつ……さっきから、ずっと、私のこと見てたのか?何も食ってないことも、怪我してることも全部)
「……いらねえ」
「遠慮すんなって」
「いらねえって言ってんだろ!」
ゼロは、悟空の手を払いのけた。魚の切り身が、足元に落ちる。
「私は、施しなんか受けない。誰かに優しくされる筋合いもない。一人で——」
「一人で、何だっていうんだ?」
悟空の声が、初めて、少しだけ硬くなった。
「一人で戦って、一人で傷ついて一人で死ぬのか?」
「……それが、私の生き方だ」
「寂しくねえのか?」
その言葉が、ゼロの胸に深く突き刺さった。
(寂しい……?)
考えたこともなかった。そんな感情を、言葉にしたこともなかった。私は、呪われた存在だ。強くあらねばならない。誰にも頼らず、誰にも屈せずただ世界を滅ぼす為に生きる。それが、私の——。
「……うるせえよ」
ゼロは、震える声で言った。
「オマエに、何が分かる?」
「分かんねえよ。でも、オラはこうしてオメェと出会ったわけだし……」
「——ふざけんな!!」
ゼロは、叫んだ。その声は港町中に響き渡った。遠くの物陰で、また誰かが倒れる音がした。
「てめえは、何も知らねえんだよ! 私が何をしてきたか、何を失ってきたかこれから何をしなきゃいけないか、何も——!」
「知りてぇよ」
悟空は、真っ直ぐにゼロを見つめていた。その目には、怒りも哀れみも、軽蔑もない。ただ純粋な「知りたい」という意志だけが、静かに燃えていた。
「おら、オメェのこと、もっと知りてぇ。だから今一緒にいんだろ?」
ゼロは、言葉を失った。
(なんだ、こいつ。なんなんだこいつは)
「……勝手にしろ」
ゼロは、そう呟くのが精一杯だった。
「ただし、足手まといになったらその時は——」
「分かってる。背後から刺すんだろ?」
悟空が笑った。
「オラはよぉ、背後は苦手なんだよな。前から来てくれよ」
「……殺すぞ」
「ハハ! それ、さっきも聞いた!」
悟空は、楽しそうに笑った。その笑い声が、灰色の港町に不釣り合いなほど明るく響き渡る。
ミハイルが、そんな二人の間をパタパタと飛び回っていた。
「ねえねえ、悟空!! ボク悟空こと好きだよ! ゼロのこと、分かってくれるもん!」
「おう! オラもミハイルのこと気に入ったぞ!!喋るトカゲなんてオラの世界では珍しいからな!!」
「トカゲじゃないもん! ドラゴンだもん!」
「分かってるって。なぁ、ゼロ」
「……ああ」
ゼロは小さく頷いた。その横顔はまだ怒っているように見えたが、どこかほんの少しだけ、肩の力が抜けているようにも見えた。
(なぁ、ゼロ。お前さ笑わねぇよな——)
悟空の言葉が、頭の中でリフレインする。
(笑う余裕なんて、なかったんだよ。ずっと)
ゼロは、心の中で呟いた。
(でも、もしかしたら——)
「行くぞ。ファイブの城は、この街の奥だ」
ゼロは、大剣を担ぎ直し、歩き始めた。その背中を悟空とミハイルが追いかける。
「なぁ、ファイブって奴どんな奴なんだ?」
「豚だ。見た目も、中身も」
「豚だと! ?ウーロンの女版かっ!?こりゃあ面白くなりそうだ!!」
「ウーロンって誰だよ?ったく……お前、本当に、何でも楽しめるんだな」
「だって、新しい出会いだろ? 楽しまなきゃ損だ!」
「……そうか」
ゼロは、小さく息を吐いた。その息は白く濁って、灰色の空に溶けていく。
(新しい出会い、か)
(私にとっては、新しい「敵」だけどな)
(でも——)
ゼロは、チラリと後ろを振り返った。悟空が、ミハイルと笑いながらついてきている。その姿は、まるで——。
(まるで、太陽みたいだ)
そんなことを考えて、ゼロはすぐに頭を振った。
(馬鹿馬鹿しい。私に太陽なんて必要ない)
(私は、一人で——)
(……一人で、戦うんだ)
港町の坂道を2人の影が登っていく。灰色の空の下、橙色の道着がひどく鮮やかに見えた。
遠くで、雷鳴が轟いた。嵐が近づいている。
だが、悟空は、そんなことなど気にも留めず鼻歌を歌いながら、歩を進めていく。
その鼻歌は、ゼロには聞いたことのない——どこか、懐かしい旋律だった。