海の国の湿り気を含んだ風は、上層へと登るにつれて潮の匂いから甘ったるく狂気じみた香水の匂いへと変貌を遂げていた。
石造りの長大な階段を上り詰めた先にそびえ立つのは、海の国を統べるファイブの絢爛豪華な城塞である。
外壁には過剰なまでの彫刻が施され、金銀の装飾が曇天の僅かな光を反射してギラギラと下品な輝きを放っていた。まるで「私はここにいる」と叫び続けているような、必死さすら感じさせる装飾。
下層の港町の惨状を知っている者ほど、この落差に吐き気を覚えるだろう。
「……ケッ、クソみてぇな城だな」
大剣を肩に担ぎ階段の最後の段を踏み越えたゼロが吐き捨てる。
その目は、城の華美な外観ではなく壁面に刻まれた無数の落書きのような傷跡に向けられていた。誰かが爪で引っ掻いたような痕。血の滲んだような赤錆。この城が、単なる「美しいだけの場所」ではないことを、ゼロは知っていた。
その背後では、羽ばたくミハイルが、鼻をヒクヒクと動かして露骨に顔を顰めていた。
「ゼロ……なんだかここ、すっごく変な匂いがするよ。お花みたいな、でもなんだか頭がクラクラする匂い……」
「あのクソ女が撒き散らしてる毒香水だ。吸い込みすぎると脳みそが腐るぞ、ミハイル」
「えぇっ!? ぼ、ボク、息止める! んぐっ……!」
ミハイルが膨らませた頬を両翼で押さえる横で、最後尾を歩いていた孫悟空は物珍しそうに城の装飾を見上げていた。
「へぇ〜! 立派な城だなあ! でも、天津飯のいた鶴仙人の道場よりちょっとギラギラしすぎじゃねぇか?」
「知らねーよ!! バカ悟空!! ここからは遊びじゃねえんだ!」
ゼロは低い声で威嚇し腰の鞘から大剣を引き抜いた。その刃は、階段を上る間にすでに研ぎ澄まされていた。振り向きざま、ゼロはミハイルの膨らんだ頬を軽くつついた。
「おい、息止めっぱなしで倒れるなよ。毒なら私が先に吸ってやる。お前は私の後ろを飛べ」
「うん……! ありがと、ゼロ」
「礼はいい。お前が倒れたら、誰が私の背中を守るんだ」
ぶっきらぼうに言ってゼロは前を向いた。その言葉の端々に「気遣い」が滲んでいることに、ミハイルは気づいていたがあえて何も言わなかった。
重厚な鉄の扉は鍵すら掛けられておらず、まるで客を歓迎するかのように不気味に開かれていた。広大なエントランスホールの中央には、赤と紫のシルクと金ピカの縁とフレームで出来たケバい大きな椅子が置かれていた。
その椅子から肌も露わな薄生地の衣装を纏った美しい金髪の女が、妖艶な身振りで立ち上がった。
胸元を大きく穿った衣装。爛漫と咲き誇る肉感的な美貌。額にⅤの文字を痣を浮かべた女“ウタウタイ・ファイブは、まるで愛しい恋人を迎えるかのように両腕を広げた。
「あぁらん?ゼロお姉様じゃなああい はううん」
粘りつくような鼓膜を濡らすような甘い声が広いホールに反響する。その声は、耳から入って脳髄を直接舐め回すような、生理的な不快感を伴っていた。
「お逢いしたかったわ、お姉様! 私の愛しい冷酷で、野蛮でけれど誰よりもお美しいゼロお姉様! 追っ手たちを皆殺しにしてここまで来られたのね? ああ、恐ろしい……! でも、その血生臭い匂いすら今の私には最高の媚薬に見えてしまうの…… 」
ファイブは胸元に手を当てうっとりと吐息を漏めきながら、くねくねと腰をくねらせた。その姿は、実の姉を迎える肉親ではなく、欲情に狂った雌そのものであった。傍らには、小柄で可憐な少年の容姿をした使徒ディトが立ち、心底くだらなそうに欠伸をかいてた。
「はぁ、めんどくせぇなオイ」
ディトは美しい顔立ちを歪め、吐き捨てるように言った。
「ファイブ様、アンタの甘ったるい歓喜の声、聞いてるだけで耳の穴から腐った虫が湧いてきそうだよ。さっさと、そのクソ姉貴をぶち殺して、新しいオモチャで遊ばせてくれない?」
「まあディトったら意地悪ね?でもそういう生意気な口も後でたっぷり可愛がってあげますわよぉ」
ファイブは艶やかな唇を舐めゆっくりと椅子から立った。腰に付けられた金の鈴がチリンチリンと淫らな音を奏でる。その瞳には狂気的なまでの情欲と、むき出しの殺意が同時に渦巻いていた。
対するゼロは微動だにせず大剣を構えた。片目の花が、静かに死の予告を刻む。
「会いたかったよファイブ。……キミを殺すために、ここまで辿り着いた。1年前の借りを此処で返させてもらうよ。」
絶対的な緊張感。姉妹同士の殺戮、欲望と憎悪が交錯するウタヒメ特有の濃密な絶望が、広場全体を支配しかけた………。
ふいに重苦しい空気の真ん中へ、橙色の道着を着た男がすたすたと歩み出た。
緊張感など微塵もない。殺気も無し。悟空は笑顔で右手を大きく掲げ、天真爛漫な声を張り上げた。
「おお!! オメェがゼロの妹のファイブか!! おっす!! オラ悟空!! よろしくな!!」
大広間の時間が、ピタリと止まった。
「……は?」
ディトの耳穴をほじる指が止まり、口元が固まった。ファイブの妖艶な笑みが凍りつき、くねらせていた腰が奇妙な角度で静止する。
「……え?」
ファイブはパチパチと大きな目を瞬かせ、目の前に立つ見知らぬ男を注視した。筋肉質だが妙に浮いた橙色の服、逆立った黒髪そして何より、自分というウタヒメの性的な魅力や威圧感に対して、一欠片の反応も示していない純粋無垢な瞳。
「な、何なの……? この……何なの、この男は……? 私の究極の美と色気に、一切の情欲を抱いていないのかしら……? ウソでしょ、こんなことが……!?」
ファイブは困惑のあまり自分の豊かな胸を強調するように寄せてみせたが、悟空の視線は完全にそこをスルーして、ファイブの後ろにある巨大な装飾や絵画に向けられていた。
「うっわー! すっげぇでっかいシャンデリアだなあ! なあゼロ、あのデカさならオラの家に入りきらねーぞ!!」
「テメエは黙ってろって言っただろうがバカッ!!」
ゼロが大剣の平で悟空の頭を思い切り殴りつけた。
ズドォンッ!!
ホール全体が揺れるほどの衝撃。床の石畳が爆発するように弾け飛ぶ。しかし、悟空は頭をポリポリと掻くだけで、痛がる様子すらない。
「あてて……何すんだよゼロ。おら、挨拶しただけだぞ? 亀仙人のじっちゃんも『挨拶は基本だ』って言ってたしな!」
「ここは“亀仙人の家”じゃねえんだよ!!」
ゼロの叫びが響く中、ディトが眉をひそめて二人を交互に見比べた。
「おいおい……なんだアイツ。あの女の新しい従者か? 頭がおかしいんじゃないの? 全力の一撃を受けて、首が折れてないどころか傷一つねぇぞ……」
「あら……あらあらあら……!」
ファイブの顔色が、困惑から一転して奇妙な興奮へと塗り替えられていった。
「まあ! なんて乱暴で粗野な男なのかしら! ゼロお姉様ったら、そんな凶暴なお仕置きをなさるなんて……! でも、あの男……お姉様の攻撃を受けてもピンピンしているわ……!!ああうん、なんて頑丈な肉体! なんて力強い筋肉なのぉ!!」
ファイブは頬を染め、うっとりと自分の体を抱きしめた。
「凄いわ……! 私のウタの力にも、私の男を狂わせるフェロモンにも一切揺らがない……! むしろ私を無視してシャンデリアを見ている……! こんなの初めて……はぁうううんっ!! ねぇ、貴方は『ゴクウ』とおっしゃるのね? 私の新しいペットにならないかしら……? 毎晩、あなたを私好みに調教してあげますのよぉ」
ファイブが指先で自分の衣装を少し肌蹴させ、妖しい吐息を吹きかける。だが悟空は心底不思議そうな顔で首を傾げた。
「ペット? やだぞオラは人間だ。それに調教ってなんだ? 拳術なら教えてやるけど、オメェそんな格好で修行するのか? 風邪引くぞ」
「風邪……? 修行……!?」
ファイブの思考回路が完全にショートした。どんな男であれ、一目で自分に平伏し欲望の下僕にしてきたウタヒメの力が、この男には「風邪の心配」として返されてしまったのだ。
「ぷっ……あはは! あははははははははっ!!」
沈黙を破って爆笑したのはディトだった。腹を抱え、指を指してファイブを嘲笑する。
「ざまぁみろぉぉっファイブ様! あんたの自慢のドスケベフェロモンが、全然効いてねぇじゃねぇか! 風邪引くぞだってさ! ギャハハ!」
「黙りなさいディトッ!!」
ファイブは顔を真っ赤にして叫んだ。その声は、先ほどまでの妖艶な甘さなど微塵もなく、まるで駄々をこねる子どものような金切り声だった。
「何なのよこの男は!? 私の美しさが理解できないなんて、去勢された豚以下だわ! ええい、気に入らない! 気に入らないわ!! ゼロお姉様もろとも、その無神経な男も細切れにして煮込み料理にしてやるわッ!」
ファイブが激昂して手を掲げると、空中に怪しい魔法陣が浮かび上がり、ウタの波動がホールを満たし始めた。
「ゼロ! 来るよ! ウタの力だよ!」
ミハイルが叫ぶ。ゼロは「チッ」と舌打ちし、剣を構え直した。
「バカ悟空! 前に出るな! あの女の攻撃は普通の武器じゃあ………」
「へぇ〜! なんか知らんが、気の高まりを感じるぞ!」
悟空はニシシと無邪気に笑うと、ゼロの言葉を無視してファイブの前へと歩み出た。
「オメェ、見た目の割に結構骨がありそうだな! ゼロが『強い』って言ってた理由がちょっと分かったぞ!」
「ふん! 口だけは達者なようね! 私の力で、その生意気な顔を恐怖に歪ませてあげるわッ! ディト!!」
ファイブがウタを歌い始めると、巨大な光の魔法陣が更に輝きを増す。ディトがそれに応えるように詠唱を始めた。
「ハァ〜、面倒くせぇな。ったくぅ」
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聴きたもうれ 聴きたもうれ 第五の歌
古ノ異光現世に顕現せし力轟魔を払わんとす
光臨の儀神罰が彩る断罪の槍 その目に焼き付けん
我がディトの名に於いて出でよ ファヌエル!
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ドォォンッ!!
城塞全体が、巨大地震に見舞われたかのように激しく揺動した。天井から豪華なシャンデリアが落下して粉々に砕け散り、壁の金銀の装飾が次々と剥がれ落ちていく。
魔法陣から現れたのは、漆黒の巨体に黄金色の無数の筋が走っているカニ型の魔獣。暴れたらこの巨大な豪華な城とはいえ無事では済まない。
オオオオオオッ!!
大気を揺らすような咆哮が辺り一面を軋ませる。城内の支柱や壁にヒビが走り出す。
「チクショウ!! こんな所で戦っては分が悪すぎる!! ミハイルっ!! この城から出るぞ!!」
「ゼロ!! 乗って!!」
すぐさまゼロは判断した。この場での戦闘は不可能ではない。だが、この城の下には港町がある。ファヌエルが暴れれば、城は崩れ瓦礫が下の街を押し潰す。関係のない人間が数千人単位で死ぬ。
(そんなのは、私のやり方じゃない)
ゼロはミハイルの背に跨りながら、頭の中で瞬時に地図を描いていた。港町を避け、風向きを考えファヌエルを誘き出せる場所はどこか。
あった。街の西、岬の突端に使われなくなった円形の神殿跡がある。あそこなら周囲に民家はない。海に面しているから、最悪ファヌエルが海に落ちても被害は最小限で済む。
「おい!! バカ悟空!! 何モタモタしてやがるんだ!! 下敷きになるぞ!!」
ファヌエルが動くごとに城塞内が揺れ、土埃や瓦礫が降り注ぐ。緊迫感の中、悟空は呑気に何事もないかのように微笑み出す。
「おおっ!! なんかスゲェデカい蟹だなぁ!! これスープにしたら美味いんじゃねぇのか?」
「ふざけんなぁぁ!! スープに話してんじゃねぇんだよっ!! テメェは私の道具なんだ!! いいからミハイルに乗れ!! 乗れよ!!」
「おお!! 随分と熱くなったなぁゼロ。そこまで言うなら乗せてもらうか」
「あれ? ゼロもしかして悟空の事……」
「違ぇえっ!! コイツは私の使い捨ての道具だ!! まだ使いどきじゃねぇんだよっ!!」
そんな3人?の掛け合いを見てファイブは何故かムキになり、感情的に温度感が高まる。
「はううっううん!! この私の目の前で男女の仲睦まじいアピールするなんて、なんたる屈辱ですことぉぉっ!!」
「ファイブ様? こんな馬鹿なやり取り見てキーキーしてないで、早く殺しちゃいましょーよー?」
ディトの冷めた声も、今のファイブには届いていない。その瞳は、悟空だけを捉えていた。
(なによ……なによあの男……! 私が声をかけているのに、私を見ていない……! 私の胸も、脚も、声も、匂いも全部無視して、あの女の言うことだけ聞いて……!)
ファイブの胸の内に、初めてドンヨリしたものが芽生えていた。
それは、これまで幾百人もの男を虜にしてきた自分への「侮辱」に対する、激しい怒りだった。
「許さない……許さないわよ、ゴクウとかいう男……! 私を無視するなんて、絶対に許さないんだから……!」
悟空はゼロの言われるままミハイルに乗る。
「よし!! ミハイル!! 出るぞ!!」
「何処に向かえばいいの!?」
「街から離れろ!! 関係ねー奴らが巻き込まれねぇ場所にだ!! 西の岬に円形の神殿跡がある! あそこなら民家はねぇ! 海に落ちても被害は最小限だ!!」
「おお!? ゼロ、オメェ随分と優しいんだな!?」
「黙れ!! 妹を殺すが、関係ねー奴は殺しても意味ねーんだよっ!!」
ミハイルが羽ばたき、城の大広間から飛び出す。悟空がその後ろに続く。ファヌエルが巨体を揺らして追いかけてくる。
「逃がしませんわよぉぉぉっ!! ディト!! アイツらを追うわよ!!」
「はいはい、面倒くせぇ……」
ファイブは十字架状の大槍を片手に、ディトを引き連れてファヌエルの背に飛び乗った。ファヌエルの咆哮が、彼女の怒りに同調するかのように乱暴に鳴り響く。
「ゼロお姉様!! 逃げても無駄ですこと!! その男は私が頂くんだから!!」
その叫びは、もはや殺意ではなく執着に近かった。悟空に対する、歪んだ独占欲。自分を無視した男への、報復とも言える執念。
風を切って飛ぶミハイルの背で、ゼロは唇を噛んでいた。
(あのクソ妹……悟空に執着しやがって。おかげで標的が私から悟空に移りやがった。……いや、好都合だ。ファイブが悟空に気を取られているうちに、私が仕留める)
「ゼロ! あそこ! 古い神殿が見えるよ!」
ミハイルの声に、ゼロは思考を断ち切った。
眼下に広がるのは、風化した白い石柱が円を描くように並ぶ、古の神殿跡。床は崩れところどころに海草がこびりついているが、戦うには十分な広さがあった。そして何より、周囲には民家どころか人の気配すら存在しない。
「よし……ミハイル、降りるぞ」
「うん!」
ミハイルが神殿の中央に舞い降りる。悟空もそれに続く。そして、後方からはファヌエルの轟音が迫っていた。
「ふふふ……! 観念なさいゼロお姉様! こんな海辺の朽ちた神殿が、お姉様の墓場になるなんてなんて風流なのかしら……!」
ファイブがファヌエルの背から飛び降り、優雅に着地した。その顔には先ほどまでの癇癪とは打って変わった、冷酷な笑みが浮かんでいる。だが、その目は常に悟空を追っていた。
「ゴクウさん……あなた、ゼロお姉様に従う必要なんてありませんのよ? 私のものになりなさい。そうすれば、命だけは助けてあげるわ」
悟空は、きょとんとした顔でファイブを見返した。
「命だけ助けてもらっても、腹は減るしなぁ。それにオメェからは何か気持ち悪いモンが感じる。そんな奴とは仲良くはなれねぇ。」
「なっ……!ききき、気持ち悪いですってぇぇっ!? 更に、この私の申し出を断るですってぇぇっ!?」
ファイブの顔が再び怒りに歪む。その変化の激しさは、まさに末っ子の癇癪そのものだった。
「いいわよ……! いいわよ!! そんなにその女がいいなら、まとめて海の藻屑にしてあげる!! ディト!! ファヌエル!! やっちゃうわよ!!」
「あいよー。……ったく、付き合わされる身にもなってくれよ」
ディトが気だるげに指を鳴らすと、ファヌエルが巨大な鋏を振り上げた。その一撃は、空気を裂いてゼロと悟空目がけて振り下ろされる。
「悟空!! 来るぞ!!」
「おう!!」
ゼロが大剣を構え悟空が拳を握る。二人の間に、言葉はいらなかった。
そして、海辺の円形神殿で、規格外の戦いが始まろうとしていた。