――戻ってきた五河琴里が、黒リボンを揺らしながらジト目で一同を睨みつける、まさにその瞬間だった。
「――司令官。お待ちください」
スッと神無月恭平が前に出る。彼はいつもの変態的な笑みを引っ込め、妙に真面目な、しかし底知れぬ熱を帯びた目で琴里の肩にそっと手を置いた。
「なに、急に神無月。ふざけてないで持ち場に戻りなさいよ」
「ふざけてなどいません。先ほどのピーター・パーカーとトニー・スタークの因縁に続く重要な話です。……司令官も思ったことはありませんか? スパイダーマンというヒーローは、アベンジャーズの中でも屈指のカッコよさを誇る最高のお方だというのに――『絶対にあんな人生を歩みたくない(なりたくない)』と」
「……は?」と、琴里は怪訝に眉をひそめた。
だが、艦内のクルーたち――川越、椎名、そしてなぜか村雨令音までが、一斉に深く、重々しくうなずいた。
第二章:スタン・リーが仕掛けた「パーカー・ラック」という名の地獄
「……どういうことよ、それ」と琴里が腕を組むと、神無月はうっとりと目を細めながら語り出した。
「生みの親であるスタン・リー氏とスティーヴ・ディッコがピーター・パーカーという少年に与えた呪い……それこそが、アメリカン・コミックス界に燦然と輝く不滅の概念『パーカー・ラック(不運の法則)』です!」
神無月はビシッと指を立てて熱弁をふるう。
「世界を救い、ニューヨークの街をウェブ・スイングで駆け抜け、数々の強敵を打ち破る最高にクールなヒーローであるにもかかわらず、ひとたびマスクを脱いだピーター・パーカーの日常は凄惨を極める! 家賃は常に滞納寸前、バイトのせいで大学の単位は危うく、愛する叔父は自分のせいで殺され、恋人は次々と命を落としかけ、新聞社(デイリー・ビューグル)の編集長からは『悪党スパイダーマンの仲間』として連日大嘘の悪口雑言を叩きつけられて全市民から嫌われる!」
「……っ!」
琴里は思わず言葉を詰まらせた。言われてみれば、彼の受難のスケールは他のヒーローの比ではない。
そこへ、ぐったりと椅子にもたれていた坂田銀時が、アンニュイな目をしながらボソッと加勢した。
「そうなんだよなぁ……。アイアンマンみたいに大富豪で自家用ジェット持ってビル経営してるわけでもなければ、ソーみたいに神様でピカチュウみたいな雷撃てるわけでもない。ピーターはな、等身大の一般人と同じ泥水をすする生活をしながら、命を削ってボランティアで人助けしてんだよ」
「そうよ……!」と、オペレーターの椎名が痛みに耐えるように胸を押さえる。
「どれだけ命がけで世界を救っても、次の日の朝には大家さんから家賃催促の鬼電が来て、スーパーの特売品を買い逃して絶望する……。あの『カッコいいのに生活が全方位でクソほど曇らされている』絶望的バランス感覚こそが、スタン・リーの真骨頂なのよ!」
「お前ら、スタン・リーの慈愛に満ちたキャラクタークリエイションを『性格の悪い曇らせ職人の所業』みたいに言うな!」と銀時がツッコミを入れるが、その顔もどこか遠い目をしている。
第三章:令音の分析と、全員一致の「なりたくない」
管制卓の端で、村雨令音手帳をパラパラとめくりながら、トロンとした声で静かに呟いた。
「……統計データが出ているわ。ピーター・パーカーが精神的・肉体的に受ける理不尽なストレスの総量は、通常の人間が一生かけて味わう不幸の平均値の約四百七十倍……。彼を待ち受けるのは、自己犠牲と報われない孤独の無限ループ。……ああっ、なんて美しく、なんて残酷なキャラクターデザインなのかしら……夜しか眠れなくなるわ……」
「お前の睡眠不足の原因はそこにもあったのかよ!!」
銀時のツッコミを華麗にスルーし、神無月はさらに陶酔感を深める。
司令官である琴里は、最初は呆れていたものの、頭の中でこれまでのスパイダーマンの映画や原作の数々の「理不尽な不幸(曇らせ展開)」を走馬灯のように思い返さざるを得なかった。
「……たしかに……」
琴里はポツリと呟いた。
「『ノー・ウェイ・ホーム』の結末だってそうよ。世界を救うために、愛するすべての友人や恋人から自分の記憶を消去してもらい、たった一人でクリスマスツリーのない狭いアパートの窓辺でボロボロのミシンを使って自前のスーツを作ってるなんて……あれ、救いがあったようで精神的には全シリーズ中で一番エグいバッドエンドじゃない……!」
「「「「それなーーーーっ!!!」」」」
艦内のクルー、銀時、そしてASTの気配を隠してこっそり聞いていたのかいつの間にか混ざっていた(?)者たちも含め、全員が完全に一致したトーンで激しく同意した。
「スパイダーマンは最高にリスペクトするし、映画としてはマジで神がかって好きだけどよ……!」
銀時が頭をガシガシとかきむしる。
「あんな『全方位から人生の幸福をすり潰されていくマルチバース級の不幸体質』を我が身に背負わされたら、一週間で胃に穴が開いて俺は自主的にサンドウィッチの具になるね! スタン・リー爺ちゃん、優しさのなかに毒を仕込みすぎなんだよ!」
「同感です……。彼を愛すれば愛するほど、原作者の歪んだ愛による『曇らせ』の洗礼から逃れられない……。ああ、ピーター君の不幸な顔を想像するだけで、私の胸がキュッと締め付けられます……っ!」(神無月、謎の昇天顔)
「……もうやめて。これ以上ピーターの不運について語ると、私のメンタルがマルチバースの歪みより先に崩壊しそうだから……」
琴里は両手で頭を抱え、チュッパチャプスの包み紙をクシャクシャに丸めた。
絶望的なマルチバースの脅威や精霊の少女を巡る戦いの最中、なぜか空中艦フラクシナスの内部は、「スパイダーマンの不条理な人生(曇らせ)に対する全人類共通の同情と恐怖」という、全く別の方向への連帯感に包まれてしまうのだった――。
(第十一話・終わり)