【名前のない少女と、かぶき町の映画館前での命名式】
カラン、コロン……――
かぶき町の裏手にある、いかにも昭和の香りを色濃く残す古びた映画館『大江戸座』の前。
看板には、なぜか『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』と『ワイルド・スピード/ファイヤーブースト』の二本立てという、マルチバースの歪みを疑うような怪しいポスターが並んで貼られていた。
「……遅ぇな、あの野郎」
坂田銀時が木刀の柄に手を掛けながら、冷え切った缶コーヒーのプルタブをプシュッと開けてため息をついた。
昨日の今日で、ラトタスクの狂気のデートシミュレーター『ラブチョリス2』のせいでハリセンボン・春菜のツッコミの幻聴に悩まされ続けた銀時の胃は、すでに限界を突破して穴が開きかけていた。
その時――。
「待たせたな、銀時!」
ふわりと吹き抜けた突風とともに、空間がわずかに歪み、あの漆黒の霊装をまとった少女――名前のない精霊が、映画館の看板の上にふわりと舞い降りた。
昨日よりもどこか機嫌が良さそうなのは、やはり今日の目的が「映画」と「美味しいもの」であることをラトタスク経由(あるいは彼女自身の直感)で察知しているからだろうか。
「おう、来たか。……って、いきなり看板のてっぺんに乗っかるな、お前は野良猫か」
銀時がやれやれと首を振って見上げたその時、ふと脳裏に一つの疑問がよぎった。
――そういえば、昨日からずっと『名前のないお嬢さん』とか『お前』とか呼んでたけどよ……。
映画館の券売機の前へ降り立った少女に向かって、銀時がボソッと尋ねた。
「なあ、そういえばさ……お前、自分の名前って何て言うんだ?」
少女の動きが、ぴたりと止まった。
彼女は驚いたように大きな目をパチクリとさせ、それからどこか寂しげに、しかし誇らしげに胸を張った。
「……名前、か? 私にはそんなものはない。人間たちが呼ぶような記号なぞ、この世界に生まれたときから持っていなかったのだ。私に名など必要ない」
「名前ねぇのかよ!」
銀時が思わず突っ込みを入れる。
「いや、名前がないって、お前、病院のカルテ作るときどうすんだよ。あるいは住民票発行してもらうとき『無名(ムメイ)さんで』って窓口のお姉ちゃんを凍りつかせる気か。いつまでも『名前のないお嬢さん』じゃ、キャバクラの仮名みたいで落ち着かねぇだろ。常識的に考えて、人間社会で生きてくなら名前くらい必要だろ常識的に!」
「むぅ……! 人間社会のルールなぞ私には関係ない! だが……」
少女は少しだけ視線を伏せ、モジモジと指先をいじった。
「……たしかに、お前がいつも『お前』と呼ぶたびに、少しだけ遠くへ置いていかれるような、妙な心地がしていたのも事実だが……」
「お、なんだ。意外と名前欲しかったのかよ」
銀時が呆れたように鼻をポリポリと掻く。
だが、その赤い瞳には、どこか呆れと、そして妙な優しさが混じっていた。
「しゃーねぇな。名前ってのはなぁ、親から貰うもんだの、あるいは悪友から変なあだ名で勝手に定着させられるもんだの色々あるけどよ……せっかくこうして、マルチバースのバグみたいな縁で映画館の前で待ち合わせしてんだ。今日からお前の名前、俺が考えてやっか」
「なに……!? お前が私に名を授けてくれるのか!?」
少女の瞳がキラキラと輝き、期待に満ちた表情で銀時を見つめた。
第二章:銀時のテキトーすぎるネーミングセンスと、激怒の鉄拳
「うーん、名前ねぇ……」
銀時は顎に手を当て、真剣に(しかし適当に)思案し始めた。
「今日出会ってから、俺の胃の痛みが限界突破して十倍に膨れ上がってっからなぁ……いっそのこと、『十円ハゲ』でどうだ。お前のその真っ黒な長髪をかき分ければ、いつでも隠された円形の荒野が広がるというロマンチックな……」
ガキィィィン―――ッ!!!
「ふざけるなァァァァァッ!! 誰が頭皮のトラブルを想起させる不吉な名前だ!! 今すぐその腐った口を縫い合わせてやろうか!!」
一瞬で大剣を召喚した少女が、銀時の鼻先すれすれを叩き斬った。
木刀で辛うじて受け止めた銀時が、冷や汗をダラダラ流しながら叫ぶ。
「冗談だろ冗談だよ! 怒るなよ! じゃあ何だ、お前のそのいつも腹ペコな生態に合わせて、『マヨネーズぶっかけご飯大盛り』とか……」
「もっと嫌だ!! そんな名前で呼ばれた日には、私の尊厳がマヨネーズの海に沈んで消滅してしまうわ!!」
「おいおい、文句ばっかり言うなよ。じゃあ何だ、お前がいつも手に持ってるその大剣の重さにちなんで、『ギガント・鉄くずババア』……」
「誰がババアだ誰がァァァァァッ!! この不敬な天パめ、今日という今日は容赦せんぞ!!」
上空の空中艦フラクシナスの艦内で、このやり取りをモニターしていた五河琴里は、チュッパチャプスをバリバリと噛み砕きながら頭を抱えた。
「あいつ……本気でこのデートを破滅させる気なの……!? 精霊の名前を決定する神聖な儀式を、なぜキャバクラの源氏名決めみたいなノリでやってるのよあのバカ兄貴は!!」
副司令の神無月恭平はうっとりと身をよじっていた。
「ああっ……素晴らしい……! 少女のプライドを容赦なく踏みにじりながら、殺意のギロチンをギリギリで回避し続けるスリル……! 私もあの場に乱入して『私の名前は神無月・M・恭平です!』と名乗って一刀両断されたい……っ!」
「お前は一生艦内で自給自足してろ変態!」と琴里がインカム越しに怒鳴り散らした。
第三章:真面目に考えられた、本当の名前
地上では、危うく大剣でみじん切りにされかけた銀時が、ハァハァと荒い息を吐きながら両手を降参のポーズで上げた。
「わかった、わかったよ! もうふざけねぇから! 本気で考えるから剣を引っ込めろって!」
少女は不満そうに頬を膨らませながらも、大剣を消し去り、腕を組んでプイと顔を背けた。
「ふん……最初からそう言えばいいのだ。で、どんな高尚な名を考えてくれるというのだ、銀時」
銀時はフッと息をつき、遠い空を見上げた。
昨日の夜、空中艦の中で神無月や令音と語り合った「マーベルのマルチバースの残酷さ」や「スパイダーマンの容赦ない曇らせの歴史」、そして何より、この世界で誰からも名前を呼ばれず、たった一人で戦い続けてきた少女の孤独な背中を思い出す。
「……名前ってのはなぁ、あんまり気負ったもんでもねぇんだよ」
銀時は静かなトーンで語り始めた。
「お前がこの世界に降り立って、俺たちの前に姿を現してから……正確に何日経ったかは知らねぇけどよ。お前は今日、こうして俺の前に『十』全の輝きを持って立っている。そして、お前のその真っ直ぐすぎる目を見ていると、どんなに理不尽なマルチバースの絶望が襲ってきても、全部真っ向からぶっ飛ばしてくれそうな、そんな強烈な『香り』を感じるんだよ」
少女が、わずかに目を見開いた。
銀時は自分の頭をポリポリと掻きながら、少し照れくさそうに、しかしハッキリと言い放った。
「今日からお前の名前は――『十香(とおか)』だ」
……十香(とおか)。
その響きが、少女の胸の奥底に、温かい光のように染み渡った。
空間が、わずかに震えた。それは空間震の予兆ではなく、彼女の心が初めて「個としてのアイデンティティ」を得たことによる、奇跡のような共鳴だった。
「――十香……」
少女――十香は、自分の唇でその名をそっと呟いた。
胸の奥から湧き上がる、名前のなかった頃の孤独が、その二文字によって優しく満たされていくのが分かった。
「どうだ? 悪くねぇだろ。今日からお前は、ただの『名前のないお嬢さん』じゃなくて、かぶき町の映画館の前にいる、誇り高き精霊・十香さ」
十香はしばらく言葉を失っていたが、やがてふっと満面の笑みを浮かべ、少し誇らしげに胸を張った。
「うむ……! 悪くない! いや、非常に素晴らしい響きだ銀時! 今日から私の名は十香……! かぶき町の精霊にして、映画と甘いものを愛する者なり!」
「おう、よくできました。じゃあ早速、その十香さんのご所望通り、この怪しげな二本立て映画館でポップコーンをバケツ一杯買って、MCUの予習復習地獄の映画マラソンに付き合ってもらうからな」
「望むところだ! すべて叩き込んでやろう!」
名前を得た少女・十香と、相変わらずいい加減な天パ教師のデートは、こうして一歩を踏み出した。
だが、その背後では――かぶき町の電柱の陰から、お洒落なサングラスをかけた長髪の男が「ほう、十香とな……では拙者も『ヅラ』ではなく『カツラ・ザ・ムービー』として映画館に潜入するべきか……!」と、全く関係ない野望を燃やしていることに、まだ誰も気づいていなかった――!
(第十四話・終わり)