魔女は実在する   作:ベータテストマン

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■

 

 雪は、白くなかった。

 ドラム島の岸辺に降り立ったとき、ルフィが最初に思ったのはそれだった。

 空から降りしきる雪は、どこか灰色がかっている。

 

 ナミがベッドの上で、荒い息を吐いていた。

 船医のいない船で、彼女は三日前から高熱に倒れている。

「ナミさんの熱が、四十度を超えているわ」

 ビビが冷たい布を絞りながら言った。

「早くお医者さんに診せないと」

「この島に医者はいるのか」

 ゾロが尋ねた。

「ドラム王国。以前は医療大国と呼ばれていた国よ」

 ビビは地図を見ながら答えた。

「でも、今は……」

 彼女は言葉を濁した。

 

 雪の中、ルフィはナミを背負い、一行は港町へ向かった。

 町は静かだった。

 家々の窓には板が固く打ちつけられ、通りを歩く人影もほとんどない。

 ルフィは近くの扉を叩いた。

「おーい! 病人がいるんだ! 助けてくれ!」

 返事はない。

 隣の家の扉を叩く。やはり返事はない。

 三軒目。四軒目。

 扉の隙間から、誰かが一瞬だけ顔を覗かせた。

 その目が麦わら帽子を捉える。

 途端に顔は引っ込み、ガチャリと錠の下りる音がした。

「おい! 頼むよ!」

 ルフィは扉を叩き続けた。

「ナミが死んじまうんだ!」

 扉の向こうから、低い震え声が聞こえた。

「……帰ってくれ」

「え?」

「頼む、帰ってくれ。あんたに関わると、うちが……」

 声はそこで途切れた。

 ルフィの拳が、扉に当たったまま止まった。

 町のあちこちから、扉の閉まる音が続く。

 一つ、また一つ。

 やがて通りは、完全な静寂に包まれた。

 誰もルフィたちを見ようとしない。誰も声をかけようとしない。

 雪だけが、ただ降り続けていた。

「……そういうことかよ」

 サンジが低く呟いた。

「麦わらに関わった奴は、三日以内に報いを受ける。その噂が、もうここまで届いてやがる」

 ルフィは何も言わなかった。

 ただ、ナミを背負い直した。

「山の上に行く」

「山?」

「そうだわ」

 ビビが思い出したように言った。

「この国には、もう一人だけ医者がいるはず。ドクトリーヌ。魔女と呼ばれているお医者さんよ」

「魔女?」

「ええ。百三十歳を超えているって噂なの」

 ルフィは山を見上げた。

 雪に烟る巨大な岩山。その頂に、城が聳えている。

「行くぞ」

 

 風が容赦なく吹きつけた。

 積もった雪に足首まで沈む。ウソップは何度も転び、ビビは凍えた指を擦り合わせている。

 ナミはルフィの背中で、時折うわ言を呟いた。

「……お母さん……お義父さま……ごめんなさい……」

 ルフィはその声を聞き流した。

 聞き流しながら、ひたすら足を前に出した。

 中腹で、白く巨大なウサギの群れ、ラパーンが現れた。

 ルフィは片足でそれを蹴り飛ばし、足を止めなかった。

 誰も驚かなかった。誰も笑わなかった。

 

 頂上のドラム城は、半ば崩れていた。

 かつて国王が住んだ城も、今は石の塊に近い。

 その裏手に小さな小屋があり、窓から薄く明かりが漏れている。

 ルフィが扉を蹴破ろうとしたその時、扉が内側から開いた。

「うるさいね」

 小柄な老婆が現れた。

 派手な帽子に黒いドレス。片手には巨大な鉄パイプを握っている。

「なんだい、あんたたち。こんな時間に」

 ルフィは背中のナミを差し出した。

「診てくれ。頼む、ばあさん」

「ドクトリーヌとお呼び」

 老婆の目がナミの顔に向けられ、一瞬細くなった。

「……ケスチアだね。暖かい島の密林にいる、ちっぽけな虫の仕業さ。あんたたち、どこかでそんな島に寄ったろう」

「治るのか」

「あたしなら治せる」

 老婆は扉を大きく開けた。

「入りな。ただし――」

 じろりと、ルフィを睨む。

「あたしの診察代は高いよ。ヒーッヒッヒッヒ! ハッピーかい?」

 

 治療が始まった。

 老婆は手際よく薬を調合していく。部屋の奥から、小さなトナカイがチョコチョコと出てきて手伝いを始めた。

「チョッパー、解熱剤を取っとくれ」

「は、はい、ドクトリーヌ!」

 帽子を被った、青い鼻のトナカイだ。二足で歩き、喋っている。

「喋ったァァ!」

「ひぃぃ、人間がァァ!」

 ウソップとチョッパーが同時に叫んだ。老婆が鉄パイプで二人を小突く。

「静かにおし! 病人がいるんだ!」

 

 翌朝には、ナミの熱は下がった。

 一同が胸を撫で下ろしたところで、老婆が静かに口を開いた。

「あたしはくれは。みんなからはドクトリーヌと呼ばれてる」

「ありがとな、ばあさん」

「礼はまだ早いよ」

 老婆は窓の外を見た。

「あんたたち、魔女教に目をつけられているね」

 ルフィの顔が強張った。

「知ってんのか」

「知ってるさ。新聞もちゃんと取ってる」

 老婆はふんと鼻を鳴らした。

「あたしが診察したことが知られれば、三日以内に何か起きるだろう。もう手は回っているかもしれない」

「……!」

「まあ、あたしは構わんがね」

 老婆はにやりと笑った。

「あたしは魔女だからね」

 部屋の空気が、ぴんと張りつめた。

「魔女ってのは、どういう意味だ」

「ああ、そのことかい」

 老婆は煙管に火を点けた。

「魔女教は魔女を探している。仲間にしたがっている。だが、魔女が何を指すのかは、教団の連中もろくに知らない」

「そうなのか」

「ああ。とにかく連中は、あたしのように百を超えて妙な力を持った人間に目をつけるのさ」

 老婆は煙を吐いた。

「何度も勧誘に来たよ。『貴方こそ真の魔女だ』ってね。全部断ったが」

「断って大丈夫なのか」

「さあ、どうだろうね」

 老婆の目が遠くを見た。

「あたしは三十年前に一度だけ、その教祖と会ったことがある」

 ルフィの息が止まった。

「え?」

「正確には、『会った気がする』と言うべきかね」

 老婆は小さく首を振った。

「記憶が曖昧なんだ。会ったはずなのに、何を話したか思い出せない。顔も声も思い出せない」

「それって……」

「改竄、だね」

 老婆は断言した。

「あたしの頭の中のあの日の記憶を、誰かが弄った。それだけは確かだ」

 ビビが息を呑んだ。

「そんなことができるんですか」

「できるんだろうさ、あの教祖には」

 老婆は煙管を置いた。

「でも、一つ面白いことがあってね」

「面白いこと?」

「改竄されたはずの記憶が、時々夢に出てくるのさ」

 静かな声だった。

「顔はわからない。声もわからない。ただ、『寂しそうだった』という感覚だけが残ってる」

 ルフィは黙って聞いていたが、やがてぽつりと言った。

「寂しそう、か」

「ああ。強大な力を持っているくせに、誰にも本当には見てもらえていない。そんな寂しさだ」

 老婆はルフィをじっと見た。

「あんた、あの教祖に会うつもりかい」

「会う」

「会ってどうする」

「ぶっ飛ばす」

「ふん」

 老婆は口の端を上げた。

「それだけかい」

「それだけだ」

「そうかい」

 老婆は立ち上がった。

「なら、年寄りの助言を一つしてやろう。記憶を操る者の、一番の弱点を教えてあげるよ」

 全員が、次の言葉を待った。

「操った相手に『忘れられる』ことさ」

「え?」

「あの教祖は、誰かに自分を忘れさせる力を持っている。その力で、自分を覚えているべき人間たちを、次々に忘れさせてきた」

 老婆は窓の外の雪を見つめた。

「忘れさせるってことは、その人間にとって自分は『最初からいなかった』ことになる。それは死ぬのと変わらない」

 ルフィは眉を寄せた。

「どういう意味だ」

「人はいつ死ぬと思う?」

 老婆は静かに問いかけた。

「……心臓が止まった時、か」

「違うね。それは肉体が死ぬ時だ」

「じゃあ……」

「人が本当に死ぬのは――」

 老婆の声が、少しだけ低くなった。

「人に忘れられた時さ」

 部屋に沈黙が落ちた。

 チョッパーが小さく息を呑む。

「ドクトリーヌ、それ……」

「ヤブ医者の言葉だよ」

 老婆は遠い目をした。

「あたしの、大事な友人のね」

 

 その夜、一行は小屋に泊まった。

 窓の外では、雪が降り続いている。

 その静けさの中で、ルフィはチョッパーの話を聞いていた。

 チョッパーは小さな体を震わせて語った。

 ヒトヒトの実を食べて、トナカイなのに人の言葉を話す化け物になったこと。仲間のトナカイに拒まれ、人間にも怖がられたこと。

 そして、ヒルルクという医者が拾ってくれたこと。

「ドクターはバカだった」

 チョッパーは小さく笑った。

「薬はちっとも効かないのに、ずっと人を治そうとしてた。魔女教に何度脅されても、断り続けてた」

「脅された?」

「うん。『魔女教の医師団に入れ』って。断ったら、診療所の窓を割られた」

 声が震えた。

「ドクターは病気で、もう長くなかったんだ。でも、おれには言わなかった。おれはそれを知って、本で調べて、病気に効くっていうキノコを採ってきた」

 ルフィは黙って聞いている。

「それ、毒キノコだったんだ。ドクターはわかってたのに、『うまい』って言って、全部飲んじゃった」

 チョッパーは涙を堪えていた。

「おれのせいだ。おれがバカだったから、ドクターを……」

「チョッパー」

 ルフィは静かに遮った。

「お前、おれの船に乗らねェか」

「え?」

「船医が欲しいんだ。それに、お前、なんでも治せる医者になりてェんだろ」

 チョッパーは目を丸くした。

「で、でも、おれは化け物だ」

「関係ねェ」

「みんな、おれを怖がる」

「おれは怖がらねェ」

 ルフィは即答した。

「お前はチョッパーだ。人間でもトナカイでも化け物でもねェ。ただのチョッパーだ」

「で、でも、おれは……」

「うるせェ!! 行こう!!」

 チョッパーの目から、大粒の涙が溢れ出した。

「う、うれしくなんかねェぞ、コノヤロー!」

 泣きながら、彼は何度も頷いた。

 

 その時、小屋の外から大勢の足音が聞こえた。

 扉が乱暴に蹴り開けられる。

「見つけたぞ! ドクトリーヌ・くれは!」

 王冠を被った太った男が、兵士を引き連れてなだれ込んできた。

 ワポル。

 ドラム王国の元国王にして、現・魔女教総督。

 その背後には、黒い制服のハンターが静かに控えている。

「マーッハッハッハ! 見つけた見つけた!」

 ワポルは下品に笑った。

「魔女教の方々からお達しがあってな! 麦わらの一味に手を貸した愚か者を処分せよ、とな!」

 ルフィの目が細まった。

「また、それか」

「マーッハッハッハ! そうだそうだ! 逆らう気か、小僧!」

 ワポルが口を大きく開けた。

 口は巨大に膨らみ、小屋の壁を丸呑みにしようとする。バクバクの実だ。

 隣でゾロが刀に手をかけた。だがそれより早く、老婆が鉄パイプを振り上げた。

「年寄りを舐めるんじゃないよ!」

 ガン!

 ワポルの顔面に、鉄パイプが炸裂した。

「ぐあっ!?」

「ドクトリーヌ!?」

「あんたたちは下がってな! あたしが片付ける!」

 百三十歳を超えているとは思えない動きだった。

 鉄パイプが空を切るたびに、兵士たちが次々と吹き飛ばされていく。

 ハンターはその様子をじっと見ていたが、やがて静かに前に出た。

「ドクトリーヌ・くれは様」

「なんだい」

「魔女教に入信いただければ、この件は不問にいたします」

 老婆は鉄パイプを肩に担いだ。

「悪いが断るよ」

「そうですか」

 ハンターは静かに頷いた。

「では、パンドラ様にそのようにお伝えします」

「ああ、伝えとくれ」

 老婆はにやりと笑った。

「魔女はあんたたちの教祖だけじゃないってね」

 ハンターは深く一礼し、小屋を後にした。ワポルと兵士たちも慌てて逃げていく。

 小屋に静寂が戻った。

「いいのか、ばあさん。あいつらまた来るぞ」

「来るだろうね」

 老婆は肩をすくめた。

「でも、あたしはもう百三十を超えてる。いつ死んでもおかしくない」

「それでも……」

「それでも、だよ」

 老婆は窓の外を見た。雪が止みかけていた。

「あたしは魔女だ。魔女の誇りにかけて、あの教祖に屈する気はないね」

 

 翌朝、出航の日。

 老婆はチョッパーを呼んだ。

「行っといで」

「ドクトリーヌ……」

「あたしの弟子なんだから、しっかりやるんだよ」

「うん……うん!」

 チョッパーは涙をぼろぼろ流して頷いた。老婆はそっと、その頭を撫でた。

 それから、山の頂上へ向かった。

 ヒルルクの旗を掲げた、あの場所へ。

 老婆が大砲に火を点けた。

 轟音が響き、空に白い煙が広がる。

 その煙の中から、ピンク色の花びらが舞い散った。

 桜だ。

 雪の降る冬の島に、満開の桜が咲き誇った。

 ルフィは呆然と、その光景を見上げた。

 チョッパーは嗚咽を漏らして泣いている。

「ドクター……!」

 ルフィはそっと手を伸ばし、舞い落ちる花びらの一枚に触れた。花びらは掌の中で、溶けずに残った。

 麦わらの一味は、桜の中を船出した。

 誰も何も言わなかった。

 けれど船上の空気は、ほんの少しだけ温かかった。

 

 聖堂で報告書を読み終え、俺は静かに息を吐いた。

 

『ドラム王国。ワポル、敗走。ドクトリーヌ・くれは、入信拒否。ヒルルクの旗を掲げ、桜を咲かせる』

 

 最後の一文で、手が止まった。

 

『ドクトリーヌは麦わらの船長にこう告げた。「人が本当に死ぬのは、人に忘れられた時さ」』

 

 紙が、指の間で微かに震えた。

「……忘れられた時」

 小さく呟いた。

 部屋は静かだった。大罪司教たちは全員退出している。マルコもいない。

 俺は一人だった。

 いつも、一人だ。

 ふと気づいた。

 この世界で俺を本当に知っている人間は、誰もいない。

 大罪司教たちは俺を恐れている。信者たちは俺を崇めている。五老星は俺を忘れた。

 俺がそうさせたのだ。

 俺が誰かに、本当の自分を見せたことがあっただろうか。

 ……転生してから、一度もない。

 前世の名前も顔も、もう思い出せない。

 あるのはパンドラという借り物の身体と、権能だけ。

 胸の奥がずきりと痛んだ。

「……バカバカしいですね」

 首を振る。

 これはあくまでゲームだ。悪が覇権を取る物語だ。感傷に浸っている場合ではない。

 卓の上に、一枚の手配書があった。

 麦わらの少年の笑顔。皺だらけの紙だ。シェルズタウンを出た船の上で、少年が手に取って見つめ、剣士が握り潰した手配書である。海に捨てられていたものを、観測員が回収した。

 ふと、思いついた。

 試してみよう。

 権能を使う。写真の笑顔を、無表情に書き換える。

 単純な改竄だ。造作もない。

 写真の中の少年の顔が、ゆっくりと笑みを失った。

 無表情な少年が、こちらを見ている。

 ……できた。

 そう思った数秒後、少年の口元がぴくりと動いた。

 笑みが戻った。

 麦わら帽子の下で、ニッと歯を見せている。

 俺は目を疑った。

 もう一度、権能を使う。無表情に書き換える。

 一秒。二秒。

 写真はまた笑った。

 三度、四度、五度。

 結果は同じだった。

「……何だ、これは」

 背筋に冷たいものが走った。

 単なる写真だ。改竄できないはずがない。

 それなのに、この一枚だけは、何度書き換えても元に戻る。

 理由はわからない。

 ただ一つ、思い当たることがあった。

 この手配書は、あの少年が一度手に取ったものだ。

 ……触れたものには効かない?

 まさか。

 俺は首を振った。偶然だ。きっと何かの誤差だ。

 それでも、胸の奥のざわめきは消えなかった。

 手配書を卓の引き出しに仕舞い、鍵をかける。

 その時、聖堂の扉が開く音がした。

「パンドラ様」

 マルコだった。いつもの眠たげな顔をしている。

「疲れてねェかよい」

「いいえ、大丈夫です」

 俺は微笑んだ。

「次の報告をお願いします」

「ああ、わかったよい」

 マルコは頷いた。

 その瞳は静かに澄んでいる。

 けれどその奥で、ほんの一瞬、何かが揺れた気がした。

 俺は気づかないふりをした。

 窓の外では、夜の海が静かに波を立てている。

 その遥か先に、麦わらの船がいる。

 あの少年が近づいてくる。一歩ずつ、確実に。

 俺はその足音を聞いていた。

 恐れているのか、待ち焦がれているのか、自分でもわからなかった。

 

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