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雪は、白くなかった。
ドラム島の岸辺に降り立ったとき、ルフィが最初に思ったのはそれだった。
空から降りしきる雪は、どこか灰色がかっている。
ナミがベッドの上で、荒い息を吐いていた。
船医のいない船で、彼女は三日前から高熱に倒れている。
「ナミさんの熱が、四十度を超えているわ」
ビビが冷たい布を絞りながら言った。
「早くお医者さんに診せないと」
「この島に医者はいるのか」
ゾロが尋ねた。
「ドラム王国。以前は医療大国と呼ばれていた国よ」
ビビは地図を見ながら答えた。
「でも、今は……」
彼女は言葉を濁した。
雪の中、ルフィはナミを背負い、一行は港町へ向かった。
町は静かだった。
家々の窓には板が固く打ちつけられ、通りを歩く人影もほとんどない。
ルフィは近くの扉を叩いた。
「おーい! 病人がいるんだ! 助けてくれ!」
返事はない。
隣の家の扉を叩く。やはり返事はない。
三軒目。四軒目。
扉の隙間から、誰かが一瞬だけ顔を覗かせた。
その目が麦わら帽子を捉える。
途端に顔は引っ込み、ガチャリと錠の下りる音がした。
「おい! 頼むよ!」
ルフィは扉を叩き続けた。
「ナミが死んじまうんだ!」
扉の向こうから、低い震え声が聞こえた。
「……帰ってくれ」
「え?」
「頼む、帰ってくれ。あんたに関わると、うちが……」
声はそこで途切れた。
ルフィの拳が、扉に当たったまま止まった。
町のあちこちから、扉の閉まる音が続く。
一つ、また一つ。
やがて通りは、完全な静寂に包まれた。
誰もルフィたちを見ようとしない。誰も声をかけようとしない。
雪だけが、ただ降り続けていた。
「……そういうことかよ」
サンジが低く呟いた。
「麦わらに関わった奴は、三日以内に報いを受ける。その噂が、もうここまで届いてやがる」
ルフィは何も言わなかった。
ただ、ナミを背負い直した。
「山の上に行く」
「山?」
「そうだわ」
ビビが思い出したように言った。
「この国には、もう一人だけ医者がいるはず。ドクトリーヌ。魔女と呼ばれているお医者さんよ」
「魔女?」
「ええ。百三十歳を超えているって噂なの」
ルフィは山を見上げた。
雪に烟る巨大な岩山。その頂に、城が聳えている。
「行くぞ」
風が容赦なく吹きつけた。
積もった雪に足首まで沈む。ウソップは何度も転び、ビビは凍えた指を擦り合わせている。
ナミはルフィの背中で、時折うわ言を呟いた。
「……お母さん……お義父さま……ごめんなさい……」
ルフィはその声を聞き流した。
聞き流しながら、ひたすら足を前に出した。
中腹で、白く巨大なウサギの群れ、ラパーンが現れた。
ルフィは片足でそれを蹴り飛ばし、足を止めなかった。
誰も驚かなかった。誰も笑わなかった。
頂上のドラム城は、半ば崩れていた。
かつて国王が住んだ城も、今は石の塊に近い。
その裏手に小さな小屋があり、窓から薄く明かりが漏れている。
ルフィが扉を蹴破ろうとしたその時、扉が内側から開いた。
「うるさいね」
小柄な老婆が現れた。
派手な帽子に黒いドレス。片手には巨大な鉄パイプを握っている。
「なんだい、あんたたち。こんな時間に」
ルフィは背中のナミを差し出した。
「診てくれ。頼む、ばあさん」
「ドクトリーヌとお呼び」
老婆の目がナミの顔に向けられ、一瞬細くなった。
「……ケスチアだね。暖かい島の密林にいる、ちっぽけな虫の仕業さ。あんたたち、どこかでそんな島に寄ったろう」
「治るのか」
「あたしなら治せる」
老婆は扉を大きく開けた。
「入りな。ただし――」
じろりと、ルフィを睨む。
「あたしの診察代は高いよ。ヒーッヒッヒッヒ! ハッピーかい?」
治療が始まった。
老婆は手際よく薬を調合していく。部屋の奥から、小さなトナカイがチョコチョコと出てきて手伝いを始めた。
「チョッパー、解熱剤を取っとくれ」
「は、はい、ドクトリーヌ!」
帽子を被った、青い鼻のトナカイだ。二足で歩き、喋っている。
「喋ったァァ!」
「ひぃぃ、人間がァァ!」
ウソップとチョッパーが同時に叫んだ。老婆が鉄パイプで二人を小突く。
「静かにおし! 病人がいるんだ!」
翌朝には、ナミの熱は下がった。
一同が胸を撫で下ろしたところで、老婆が静かに口を開いた。
「あたしはくれは。みんなからはドクトリーヌと呼ばれてる」
「ありがとな、ばあさん」
「礼はまだ早いよ」
老婆は窓の外を見た。
「あんたたち、魔女教に目をつけられているね」
ルフィの顔が強張った。
「知ってんのか」
「知ってるさ。新聞もちゃんと取ってる」
老婆はふんと鼻を鳴らした。
「あたしが診察したことが知られれば、三日以内に何か起きるだろう。もう手は回っているかもしれない」
「……!」
「まあ、あたしは構わんがね」
老婆はにやりと笑った。
「あたしは魔女だからね」
部屋の空気が、ぴんと張りつめた。
「魔女ってのは、どういう意味だ」
「ああ、そのことかい」
老婆は煙管に火を点けた。
「魔女教は魔女を探している。仲間にしたがっている。だが、魔女が何を指すのかは、教団の連中もろくに知らない」
「そうなのか」
「ああ。とにかく連中は、あたしのように百を超えて妙な力を持った人間に目をつけるのさ」
老婆は煙を吐いた。
「何度も勧誘に来たよ。『貴方こそ真の魔女だ』ってね。全部断ったが」
「断って大丈夫なのか」
「さあ、どうだろうね」
老婆の目が遠くを見た。
「あたしは三十年前に一度だけ、その教祖と会ったことがある」
ルフィの息が止まった。
「え?」
「正確には、『会った気がする』と言うべきかね」
老婆は小さく首を振った。
「記憶が曖昧なんだ。会ったはずなのに、何を話したか思い出せない。顔も声も思い出せない」
「それって……」
「改竄、だね」
老婆は断言した。
「あたしの頭の中のあの日の記憶を、誰かが弄った。それだけは確かだ」
ビビが息を呑んだ。
「そんなことができるんですか」
「できるんだろうさ、あの教祖には」
老婆は煙管を置いた。
「でも、一つ面白いことがあってね」
「面白いこと?」
「改竄されたはずの記憶が、時々夢に出てくるのさ」
静かな声だった。
「顔はわからない。声もわからない。ただ、『寂しそうだった』という感覚だけが残ってる」
ルフィは黙って聞いていたが、やがてぽつりと言った。
「寂しそう、か」
「ああ。強大な力を持っているくせに、誰にも本当には見てもらえていない。そんな寂しさだ」
老婆はルフィをじっと見た。
「あんた、あの教祖に会うつもりかい」
「会う」
「会ってどうする」
「ぶっ飛ばす」
「ふん」
老婆は口の端を上げた。
「それだけかい」
「それだけだ」
「そうかい」
老婆は立ち上がった。
「なら、年寄りの助言を一つしてやろう。記憶を操る者の、一番の弱点を教えてあげるよ」
全員が、次の言葉を待った。
「操った相手に『忘れられる』ことさ」
「え?」
「あの教祖は、誰かに自分を忘れさせる力を持っている。その力で、自分を覚えているべき人間たちを、次々に忘れさせてきた」
老婆は窓の外の雪を見つめた。
「忘れさせるってことは、その人間にとって自分は『最初からいなかった』ことになる。それは死ぬのと変わらない」
ルフィは眉を寄せた。
「どういう意味だ」
「人はいつ死ぬと思う?」
老婆は静かに問いかけた。
「……心臓が止まった時、か」
「違うね。それは肉体が死ぬ時だ」
「じゃあ……」
「人が本当に死ぬのは――」
老婆の声が、少しだけ低くなった。
「人に忘れられた時さ」
部屋に沈黙が落ちた。
チョッパーが小さく息を呑む。
「ドクトリーヌ、それ……」
「ヤブ医者の言葉だよ」
老婆は遠い目をした。
「あたしの、大事な友人のね」
その夜、一行は小屋に泊まった。
窓の外では、雪が降り続いている。
その静けさの中で、ルフィはチョッパーの話を聞いていた。
チョッパーは小さな体を震わせて語った。
ヒトヒトの実を食べて、トナカイなのに人の言葉を話す化け物になったこと。仲間のトナカイに拒まれ、人間にも怖がられたこと。
そして、ヒルルクという医者が拾ってくれたこと。
「ドクターはバカだった」
チョッパーは小さく笑った。
「薬はちっとも効かないのに、ずっと人を治そうとしてた。魔女教に何度脅されても、断り続けてた」
「脅された?」
「うん。『魔女教の医師団に入れ』って。断ったら、診療所の窓を割られた」
声が震えた。
「ドクターは病気で、もう長くなかったんだ。でも、おれには言わなかった。おれはそれを知って、本で調べて、病気に効くっていうキノコを採ってきた」
ルフィは黙って聞いている。
「それ、毒キノコだったんだ。ドクターはわかってたのに、『うまい』って言って、全部飲んじゃった」
チョッパーは涙を堪えていた。
「おれのせいだ。おれがバカだったから、ドクターを……」
「チョッパー」
ルフィは静かに遮った。
「お前、おれの船に乗らねェか」
「え?」
「船医が欲しいんだ。それに、お前、なんでも治せる医者になりてェんだろ」
チョッパーは目を丸くした。
「で、でも、おれは化け物だ」
「関係ねェ」
「みんな、おれを怖がる」
「おれは怖がらねェ」
ルフィは即答した。
「お前はチョッパーだ。人間でもトナカイでも化け物でもねェ。ただのチョッパーだ」
「で、でも、おれは……」
「うるせェ!! 行こう!!」
チョッパーの目から、大粒の涙が溢れ出した。
「う、うれしくなんかねェぞ、コノヤロー!」
泣きながら、彼は何度も頷いた。
その時、小屋の外から大勢の足音が聞こえた。
扉が乱暴に蹴り開けられる。
「見つけたぞ! ドクトリーヌ・くれは!」
王冠を被った太った男が、兵士を引き連れてなだれ込んできた。
ワポル。
ドラム王国の元国王にして、現・魔女教総督。
その背後には、黒い制服のハンターが静かに控えている。
「マーッハッハッハ! 見つけた見つけた!」
ワポルは下品に笑った。
「魔女教の方々からお達しがあってな! 麦わらの一味に手を貸した愚か者を処分せよ、とな!」
ルフィの目が細まった。
「また、それか」
「マーッハッハッハ! そうだそうだ! 逆らう気か、小僧!」
ワポルが口を大きく開けた。
口は巨大に膨らみ、小屋の壁を丸呑みにしようとする。バクバクの実だ。
隣でゾロが刀に手をかけた。だがそれより早く、老婆が鉄パイプを振り上げた。
「年寄りを舐めるんじゃないよ!」
ガン!
ワポルの顔面に、鉄パイプが炸裂した。
「ぐあっ!?」
「ドクトリーヌ!?」
「あんたたちは下がってな! あたしが片付ける!」
百三十歳を超えているとは思えない動きだった。
鉄パイプが空を切るたびに、兵士たちが次々と吹き飛ばされていく。
ハンターはその様子をじっと見ていたが、やがて静かに前に出た。
「ドクトリーヌ・くれは様」
「なんだい」
「魔女教に入信いただければ、この件は不問にいたします」
老婆は鉄パイプを肩に担いだ。
「悪いが断るよ」
「そうですか」
ハンターは静かに頷いた。
「では、パンドラ様にそのようにお伝えします」
「ああ、伝えとくれ」
老婆はにやりと笑った。
「魔女はあんたたちの教祖だけじゃないってね」
ハンターは深く一礼し、小屋を後にした。ワポルと兵士たちも慌てて逃げていく。
小屋に静寂が戻った。
「いいのか、ばあさん。あいつらまた来るぞ」
「来るだろうね」
老婆は肩をすくめた。
「でも、あたしはもう百三十を超えてる。いつ死んでもおかしくない」
「それでも……」
「それでも、だよ」
老婆は窓の外を見た。雪が止みかけていた。
「あたしは魔女だ。魔女の誇りにかけて、あの教祖に屈する気はないね」
翌朝、出航の日。
老婆はチョッパーを呼んだ。
「行っといで」
「ドクトリーヌ……」
「あたしの弟子なんだから、しっかりやるんだよ」
「うん……うん!」
チョッパーは涙をぼろぼろ流して頷いた。老婆はそっと、その頭を撫でた。
それから、山の頂上へ向かった。
ヒルルクの旗を掲げた、あの場所へ。
老婆が大砲に火を点けた。
轟音が響き、空に白い煙が広がる。
その煙の中から、ピンク色の花びらが舞い散った。
桜だ。
雪の降る冬の島に、満開の桜が咲き誇った。
ルフィは呆然と、その光景を見上げた。
チョッパーは嗚咽を漏らして泣いている。
「ドクター……!」
ルフィはそっと手を伸ばし、舞い落ちる花びらの一枚に触れた。花びらは掌の中で、溶けずに残った。
麦わらの一味は、桜の中を船出した。
誰も何も言わなかった。
けれど船上の空気は、ほんの少しだけ温かかった。
聖堂で報告書を読み終え、俺は静かに息を吐いた。
『ドラム王国。ワポル、敗走。ドクトリーヌ・くれは、入信拒否。ヒルルクの旗を掲げ、桜を咲かせる』
最後の一文で、手が止まった。
『ドクトリーヌは麦わらの船長にこう告げた。「人が本当に死ぬのは、人に忘れられた時さ」』
紙が、指の間で微かに震えた。
「……忘れられた時」
小さく呟いた。
部屋は静かだった。大罪司教たちは全員退出している。マルコもいない。
俺は一人だった。
いつも、一人だ。
ふと気づいた。
この世界で俺を本当に知っている人間は、誰もいない。
大罪司教たちは俺を恐れている。信者たちは俺を崇めている。五老星は俺を忘れた。
俺がそうさせたのだ。
俺が誰かに、本当の自分を見せたことがあっただろうか。
……転生してから、一度もない。
前世の名前も顔も、もう思い出せない。
あるのはパンドラという借り物の身体と、権能だけ。
胸の奥がずきりと痛んだ。
「……バカバカしいですね」
首を振る。
これはあくまでゲームだ。悪が覇権を取る物語だ。感傷に浸っている場合ではない。
卓の上に、一枚の手配書があった。
麦わらの少年の笑顔。皺だらけの紙だ。シェルズタウンを出た船の上で、少年が手に取って見つめ、剣士が握り潰した手配書である。海に捨てられていたものを、観測員が回収した。
ふと、思いついた。
試してみよう。
権能を使う。写真の笑顔を、無表情に書き換える。
単純な改竄だ。造作もない。
写真の中の少年の顔が、ゆっくりと笑みを失った。
無表情な少年が、こちらを見ている。
……できた。
そう思った数秒後、少年の口元がぴくりと動いた。
笑みが戻った。
麦わら帽子の下で、ニッと歯を見せている。
俺は目を疑った。
もう一度、権能を使う。無表情に書き換える。
一秒。二秒。
写真はまた笑った。
三度、四度、五度。
結果は同じだった。
「……何だ、これは」
背筋に冷たいものが走った。
単なる写真だ。改竄できないはずがない。
それなのに、この一枚だけは、何度書き換えても元に戻る。
理由はわからない。
ただ一つ、思い当たることがあった。
この手配書は、あの少年が一度手に取ったものだ。
……触れたものには効かない?
まさか。
俺は首を振った。偶然だ。きっと何かの誤差だ。
それでも、胸の奥のざわめきは消えなかった。
手配書を卓の引き出しに仕舞い、鍵をかける。
その時、聖堂の扉が開く音がした。
「パンドラ様」
マルコだった。いつもの眠たげな顔をしている。
「疲れてねェかよい」
「いいえ、大丈夫です」
俺は微笑んだ。
「次の報告をお願いします」
「ああ、わかったよい」
マルコは頷いた。
その瞳は静かに澄んでいる。
けれどその奥で、ほんの一瞬、何かが揺れた気がした。
俺は気づかないふりをした。
窓の外では、夜の海が静かに波を立てている。
その遥か先に、麦わらの船がいる。
あの少年が近づいてくる。一歩ずつ、確実に。
俺はその足音を聞いていた。
恐れているのか、待ち焦がれているのか、自分でもわからなかった。