■
戦争は、商売になる。
聖堂の円卓に地図を広げて、俺は静かにそう告げた。
「アラバスタ王国。砂漠の大国です」
大罪司教たちが息を潜めて聞いている。
「この三年、雨が降っていません。民は飢え、国王への不満が高まっています。国中のあちこちで、反乱の火種が燻っています」
「その火種を煽っているのが……」
「バロックワークス、デスね」
ペテルギウスが恍惚とした声で言った。
「ええ。社長のクロコダイルは、国の乗っ取りを狙っています」
俺は卓上の小さな駒を動かした。
「ですが、それでは足りません。彼の計画は中途半端です」
「中途半端、とは」
「国を奪うだけでは儲かりません」
俺はにこりと笑った。
「戦争を起こすのです。大きく、長く、徹底的に」
一瞬、円卓の空気が固まった。
「国王軍と反乱軍。両方に金を貸し、武器を売り、糧食を売ります。傭兵を貸し、医療も有償で提供します。戦争が長引けば長引くほど、魔女教は潤います」
「……両方に、ですか」
「ええ、両方に」
レグルスは何か言いかけて、口を閉じた。
ライ・バテンカイトスが小さく笑う。
「いいね、実に効率的だ。さすがパンドラ様」
「ありがとうございます」
俺は書類の束を卓に置いた。
黒の福音銀行の貸付契約書だ。国王軍への融資と、反乱軍への融資。同じ日付、同じ条件で署名が並んでいる。
「この戦争が終わるとき、国王も反乱軍の指導者も、魔女教に莫大な借金を背負っています。国は魔女教の庇護下に入るでしょう」
そこで、一枚の報告書を取り出した。
観測員がある演説を書き写したものだ。アラバスタ国王、ネフェルタリ・コブラの言葉である。
『国とは人である。人が生きている限り、国は滅びない』
「立派なお考えです」
俺は報告書を指で軽く弾いた。
「ですが、私はこう思います」
一拍置く。
「人は死にます。国は残ります」
誰も何も言わなかった。
俺は微笑んだまま続けた。
「王族だけは生かしてあげましょう。国の顔が必要ですから。他の人間がどれだけ死んでも」
窓の外の夕日が、部屋を赤く染めていた。
「さあ、始めましょう。大きな商売を」
■
砂は熱かった。
船を降りたとたん、足の裏がじゅうと焼ける音がした。
「あちちちちっ!」
「当たり前でしょう! ここは砂漠よ!」
ビビが呆れた顔で言った。
けれど、その表情はすぐに曇った。
遠くの地平線をじっと見つめている。故郷に帰ってきたのに、少しも嬉しそうではなかった。
「……空気が重いわ」
「え?」
「この国の空気。二年前に出ていった時よりも、ずっと重い」
ビビは胸の前で、ぎゅっと手を握った。
「急ぎましょう。首都アルバーナへ」
一行は砂漠を横断した。
ビビの相棒のカルーと、その仲間の超カルガモ部隊が背中に乗せてくれる。ルフィたちは揺られながら、砂の海を進んだ。
途中の小さな町で、水を買おうとした。
店の主人はルフィの顔を見ると、無言で扉を閉めた。別の店でも同じだった。
「……ここもか」
サンジが吐き捨てるように言った。
「仕方ねェよ」
ルフィは笑った。
「おれたちはお尋ね者だからな!」
その笑顔には、リトルガーデンのあの日以来、どこか無理があった。
仲間たちは気づいていた。けれど、誰もそれを指摘しなかった。
アルバーナへ向かう道中で、反乱軍の野営地に出くわした。
数万人の兵士たちが、砂漠に陣を張っている。
掲げられた旗は、黒地に白い魔女の横顔。魔女教の旗だった。
「これは……」
ビビの顔が凍りついた。
「反乱軍が、魔女教の旗を……」
「どういうことだ」
ゾロが低く尋ねる。
「魔女教は、国王軍と反乱軍のどちらにも味方していないはずよ」
「いや」
サンジが静かに言った。
「どちらにも味方してるんだ。どちらにも武器を売ってる」
その声は乾いていた。
「戦争を商売にしてやがる」
野営地の中央で、一人の青年が兵士たちに演説をしていた。
「同志たちよ! この国は腐っている! 王は民を見捨てた! 魔女教の慈悲によって、我々は武器を手に入れた!」
反乱軍の指導者、コーザ。かつてのビビの幼なじみだ。
ビビは人垣を掻き分けて前に出た。
「コーザ!」
「……ビビ?」
コーザは目を見開いた。
けれどその目には、懐かしさよりも深い怒りが宿っていた。
「何しに来た」
「やめて。お願い、戦争は……」
「遅いんだ」
低い声だった。
「もう止まらない。おれが止めようとしても、他の連中が止まらない」
「どうして」
「魔女教の連中が裏で煽ってる」
コーザは拳を握りしめた。
「国王軍の中にも、魔女教の息のかかった連中がいる。どちらの陣営でも、指揮官たちが『戦え、戦え』と言ってるんだ」
ビビの顔から血の気が引いた。
「お父様は……」
「王は国王軍を止めようとしている。だが、将軍たちが聞かない」
コーザは苦しげに言った。
「おれたちはもう、誰にも止められない戦争に突入しようとしてるんだ」
ルフィは黙って聞いていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「ビビ」
「ルフィさん」
「おれがこの国を止める」
「え?」
「クロコダイルをぶっ飛ばす。そうすりゃ全部終わる」
ビビは目を潤ませた。
「でも……」
「大丈夫だ」
ルフィはいつもの笑みを浮かべた。
けれど、その奥で拳が静かに震えていた。
わかっていた。これはそんな単純な話ではない。
あの魔女が、クロコダイルを倒されておしまいにさせるはずがなかった。
三日後、アルバーナの王宮の前で、国王軍と反乱軍が衝突した。
最初の一発がどちらから撃たれたのか、誰にもわからない。
ただ爆発が起き、砂埃が舞い上がり、叫び声が上がった。
それが戦争の始まりだった。
王宮の屋上で、ルフィはクロコダイルと対峙していた。
「クハハハハ……麦わらの小僧か」
顔に横一文字の傷がある大男は、葉巻をくゆらせて嗤った。左手には金のフックが光っている。
「魔女教の教祖から聞いてるぜ。お前は特別扱いされてるそうだな」
「うるせェ」
「おれはあの女の命令で動いてるわけじゃねェ。ただ、お前が邪魔なだけだ」
「そうかよ」
「だが、あの女はおれにこう言った」
クロコダイルは薄く笑った。
「『麦わらの少年には手を出しません。ただし、貴方が彼を殺しても、私は咎めません』とな」
ルフィの目が細まった。
「……あいつ」
「面白ェ女だ」
クロコダイルの体が、砂に変わった。
苛烈な戦いだった。
砂に飲み込まれ、血にまみれながら、ルフィは何度も立ち上がった。その間にも、眼下の街は戦火に包まれていく。
砲声。銃声。悲鳴。
最後の一撃が、クロコダイルを王宮の地下へ叩き込んだ。
倒れ伏す男を見下ろし、ルフィは息を切らした。
「……終わった、か」
その時、街から新しい轟音が響いた。
屋上の端に駆け寄ったルフィは、眼下の光景に息を呑んだ。
戦いは終わっていなかった。むしろ激化していた。
国王軍と反乱軍が、街のあらゆる通りで入り乱れて殺し合っている。クロコダイルが倒れたことを誰も知らない。いや、知っていても、もう誰にも止められなかった。
「やめろォォォ!」
その声は、爆音と悲鳴に掻き消された。
広場の中央の塔の上に、ビビが立っていた。両手を大きく広げて叫んでいる。
「やめて! 戦いをやめて! クロコダイルは倒されたわ! もう戦う理由はないの!」
その声は拡声器を通して街中に響いた。
けれど、兵士たちは止まらなかった。
「王女の声だ! 偽物だ! 魔女教が言っていた!」
「王女は魔女教に洗脳されている!」
「そうだ、王女を討て!」
ビビの顔から血の気が消えた。
「……え?」
誰かが銃を構えた。
ルフィは咄嗟に飛び出した。ゴムの腕でビビを抱え、塔から飛び降りる。銃弾が石壁を抉った。
「ビビ、大丈夫か!」
「どうして……」
ビビは呆然と呟いた。
「どうして、誰も聞いてくれないの……」
ルフィは答えられなかった。ただ、砂塵の向こうで燃え盛る街を睨みつけた。
遠く街の外れに、黒い制服の一団が立っていた。
魔女教ハンター。
戦闘には加わらず、ただ静かに街を見下ろしている。その中心に、小柄な少年がいた。
ライ・バテンカイトスだ。
彼はルフィの視線に気づくと、おどけた仕草で一礼し、唇だけを動かした。
『見てなよ。パンドラ様の商売だ』
全身が燃えるような怒りに包まれた。けれど同時に、背筋が凍りついた。
あいつは動かない。ただ見ているだけだ。
それが何より残酷だった。
戦争は三日続いた。
三日目の夕方、ようやく戦いが終わった。
どちらが勝ったのかは誰にもわからない。ただ、双方が壊滅していた。
アルバーナの街は廃墟と化していた。
通りを埋め尽くす死体。砂に半ば埋もれた、無数の人影。
生き残った人々は呆然と立ち尽くしている。泣く気力すら残っていなかった。
王宮の前の広場で、ビビは膝をつき、砂を握りしめていた。
その背後に、コブラ王が静かに立った。
「ビビ」
「……お父様」
コブラは娘の肩に手を置いた。その顔には深い皺が刻まれている。
「よく無事でいてくれた」
「お父様、わたし、何も……」
「いや」
コブラは首を振った。
「お前はよくやった」
「でも、国が……」
ビビの声が震えた。
「国が、こんなに……」
コブラは静かに広場を見渡した。その目に涙が浮かぶ。
「国は人だと思っていた。人が生きている限り、国は滅びないと信じていた」
声が掠れた。
「だが、人が死んだ。国は残った。……我々だけが残った」
ビビは父の胸に顔を埋めた。嗚咽が広場に響く。
その時、広場の向こうから黒い制服の一団が現れた。
彼らは整然と並び、静かに跪く。
その先頭に、白金の髪の少女が立っていた。
聖母のように優しく、穏やかな微笑みだった。
「コブラ国王陛下、ご無事で何よりです」
風が、甘い匂いを運んできた。
広場の端にいたルフィの鼻の奥が、ツンと痛んだ。
あいつだ。
初めて見るのに、はっきりとわかった。
コブラが顔を上げた。
「……君が、魔女教の」
「ええ、パンドラと申します」
少女は優雅に一礼した。
「この度はとんだ災難でした。心よりお悔やみ申し上げます。魔女教は復興をお手伝いいたします。食糧、医療、建築資材。必要なものはすべてご用意いたしましょう」
「……条件は」
コブラは低く尋ねた。
「条件など」
パンドラは首を傾げた。
「ただ、貴国と魔女教の友好を深めたいだけです。具体的には、アラバスタ王国が魔女教の庇護下に入ること。毎年の寄付金を頂くこと。それだけです」
コブラは拳を握りしめた。その目に、静かな絶望が宿る。
断れば、この国は完全に滅びる。受け入れれば、国は残る。人はもう戻らないが。
「……承知した」
搾り出すような声だった。
「署名をしよう」
「ありがとうございます」
パンドラは深く頭を下げた。
顔を上げるとき、青い瞳がほんの一瞬、広場の端を向いた。
微笑みが、わずかに深くなった。
ルフィの全身が震えた。
ゾロがその肩を掴む。
「ルフィ」
「……ゾロ」
「今は動くな」
「わかってる」
低い声だった。
「わかってる、けど……」
唇を噛み切った。血が顎を伝い、砂に落ちる。
その隣で、サンジは胸の内ポケットを押さえたまま、一言も発さず少女を見つめていた。
その夜、一行は廃墟の一角で野営した。
誰も焚き火の周りに集まろうとしなかった。
ビビは王宮に残る。王女として、国の後始末をしなければならないからだ。
別れの時、彼女は静かに頭を下げた。
「ありがとう、みんな。ここまで連れてきてくれて」
「ビビ」
「わたしはここに残るわ」
その目は赤く腫れていた。
「国を立て直さなきゃいけないから……たとえ魔女教の庇護下でも」
「……そうか」
ルフィは静かに頷いた。
「元気でな」
「ええ、みんなも」
ビビは一人ひとりの手を握った。冷たく、震える手だった。
最後に、ルフィの前に立つ。
「ルフィさん」
「おう」
「あなたは止めようとしてくれた。わたしはそれだけで十分よ」
ビビは小さく微笑んだ。
「いつかこの国が立ち直ったら、また会いましょう」
「約束だ」
「ええ、約束」
立ち去ろうとしたビビを、ルフィが呼び止めた。
「ウソップ、ペンキ貸してくれ」
「ペンキ? お前、こんな時に何を……」
缶を受け取ると、ルフィはビビの左腕を取り、指先で大きなバツ印を描いた。お世辞にも上手いとは言えない、歪んだバツだった。
「ルフィさん、これは……」
「ラブーンの時と同じだ」
ルフィは顔を上げた。
「この国は魔女教のもんになったかもしれねェ。でも、お前は魔女教のもんじゃねェ」
ビビの唇が震えた。
ルフィは自分の左腕にも、同じ印を描いた。
「これがありゃ、離れてても仲間だ」
「……ったく、しょうがねェな」
ゾロが無言で腕を差し出し、サンジが煙草をくわえたままそれに続く。ウソップが鼻を啜りながら塗り、チョッパーは泣きながら毛の上に塗った。
ナミは少しの間、ペンキの缶を見つめていた。やがて、そっと指を浸す。
自分の左腕に描いたバツは、誰のものよりも細かった。
「見つかったら、ただじゃ済まないわよ」
掠れた声で、ナミは言った。
「袖で隠しなさい、ビビ」
「……ええ」
ビビは左腕を胸に抱くようにして、長い袖を下ろした。
そして涙を拭い、今度こそ背を向けた。
王宮へ戻っていくその背中は、小さく見えた。
けれど左腕だけは、最後まで強く押さえられていた。
夜の闇の中で、ナミが一人、膝を抱えて座っていた。
ルフィはその隣に腰を下ろした。長い沈黙のあと、ナミが掠れた声で言った。
「……見たでしょ」
「何を」
「ライよ。ハンターの中に、あいつがいた」
ナミは膝に顔を埋めた。
「あたしのこと、見てた。ずっと」
「ああ」
「気づいてたんでしょ、あんたも」
「うん」
ルフィはあっさりと答えた。
「ローグタウンであいつがお前を見た時からな」
ナミは顔を上げた。
「どうして何も言わなかったの」
「聞いていいのか」
「……」
「聞いたら、お前、話してくれるのか」
ルフィの目は静かだった。ナミはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「あたしの母親は、ベルメール」
その名前は、小さく震えていた。
「レグルス・コルニアスの妻の一人。魔女教大罪司教の家族よ」
ルフィは黙って聞いている。
「あたしは魔女教の中で育った。優しい人たちだと思ってた。でも……」
声が震えた。
「地下には入っちゃいけないって言われてた。何が起きてるのかは知らなかった。でも夜、時々、悲鳴が聞こえたの」
涙が一粒、頬を伝った。
「大きくなるにつれて、少しずつわかってきた。この家が何の上に建ってるのか。このお金がどこから来てるのか」
「それで出てきたのか」
「ええ。海に出たかったのは本当よ。でもそれ以上に……」
ナミはルフィをまっすぐに見た。
「本当のことが知りたかったの。魔女教が何をしてるのか。あんたたちが何と戦ってるのか」
ルフィは何も言わず、麦わら帽子をナミの頭に載せた。
「知ってた」
「え?」
「ナミはおれの仲間だ」
その一言で、堰を切ったように涙が溢れた。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、ルフィ」
「謝んなくていい」
「あたし、ずっと騙してた」
「騙してなんかねェよ」
ルフィは笑った。
「お前は嘘ついてたけど、泣いてた。それは本当だった」
ナミはルフィの胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
ゾロもサンジもウソップもチョッパーも、誰も何も言わなかった。ただそっと背を向け、見えないふりをしていた。
翌朝、ルフィは船の上で一人、空を見上げていた。
空は青く澄んでいる。戦火の煙は、もう見えない。
それでも、目にはまだあの光景が焼きついていた。積み上げられた死体。砂に染み込んだ血。誰も救えなかった。
「……おれは弱ェ」
小さく呟く。
背中に、ゾロの声がかかった。
「ああ、弱ェな」
「ゾロ」
「だが、強くなれる」
ゾロは隣に腰を下ろした。
「お前はまだ始まったばかりだ。これから強くなって、あの魔女の喉元に刃を突きつけてやれ」
「……おう」
ルフィは麦わら帽子を深く被り直した。
「絶対に」
静かで、揺るぎない声だった。
聖堂で、俺はアラバスタの最終報告書を読み終えた。
死者、およそ三十万人。国王軍、反乱軍ともに八割が壊滅。
クロコダイルは魔女教ハンターが身柄を確保し、海軍へ引き渡した。懸賞金は規定どおり受領。
アラバスタ王国は魔女教の庇護下に入り、コブラ王は国家予算の三割を納める。王女ビビは復興の先頭に立つ。黒の福音銀行の収益は前期比七倍。
完璧だ。
静かに紅茶を啜る。窓の外には穏やかな夜が広がっている。
卓の引き出しを開けると、あの皺だらけの手配書があった。
権能を使おうとして、すぐにやめた。代わりに、じっとその笑顔を見つめる。
疑いは、確信に変わっていた。
署名の日、俺は広場で、王女の記憶を少しだけ書き換えようとした。弾かれた。報告書によれば、彼女はあの少年の腕に抱えられ、塔から飛び降りている。
あの少年が触れたものに、俺の権能は効かない。
ならば、触れなければいい。あの少年が触れられない存在になればいい。
直接戦う必要はない。世界を少しだけ書き換えればいいのだ。あの少年の拳が決して届かない世界に。
小さく微笑む。
「……いいゲームになりそうですね」
手配書の少年の笑顔は変わらなかった。
その変わらなさが、なぜか胸に小さく刺さった。
手配書を引き出しに戻し、鍵をかける。
窓の外で、夜風がひとつ鳴った。
それはどこか遠くで、誰かが泣いている声のようにも聞こえた。