魔女は実在する   作:ベータテストマン

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■

 

 三日後、島は静かになった。海軍の偵察船が、水平線の向こうからその島を見ていた。望遠鏡を覗いていた若い士官が、突然それを取り落とした。

「どうした」

「……あの、島の空が」

 上官が代わって望遠鏡を覗く。しばらく何も言わなかった。やがて、静かに望遠鏡を下ろした。

「記録しろ。ホールケーキアイランド戦闘終結。生存者の数は……」

上官は言葉を切った。

「……今は書かなくていい」

 その夜、その士官は一睡もできなかった。翌朝に除隊願を出した。理由欄には「甘い匂いが頭から離れません」とだけ書いてあったという。

 三日前、あの島には数万人が暮らしていた。

 ビッグ・マム海賊団の戦闘員、その家族、島の住民、菓子職人、シャーロット家の子供たち。

 その八割がいなくなった。

 生き残った二割も無傷ではない。誰もあの三日間の話をしない。聞かれても首を振る。笑顔を浮かべたまま涙を流して、首を振るのだ。

 ある若い菓子職人は、後に尋ねられた。

「何を見たのですか」

「……見ていません」

「見ていないはずが――」

「見ていません。見ていないんです。私はずっと地下の貯蔵庫で砂糖の袋を数えていました。ずっと数えていました。三日間、ずっと」

 彼は今でも砂糖の袋を数えている。

 新聞記者たちが島への上陸を許されたのは一週間後だった。魔女教が「秩序の回復」を宣言したあとのことだ。

ひとりの記者が、街の広場で立ち尽くしていた。

 そこには巨大なウエディングケーキを模した城がそびえていたはずだった。今はもうない。城の跡地には、黒い福音書の一節が巨大な石碑に刻まれていた。

 

『隣人を愛そう』

 

 その石碑の足元に、花が供えられていた。誰が供えたのかはわからない。ただ、花の数だけは数えきれないほどだった。

 記者はその日の取材ノートに一行だけ書いた。

 

『ここには、人がいたはずだ』

 

 翌日の朝刊に、その一行は載らなかった。編集長の判断だ。

 編集長は数日前から、魔女教の関係者と頻繁に会っているらしい。

 

■

 

 その頃。鬼ヶ島では酒宴が開かれていた。

 百獣海賊団の幹部たちが巨大な広間に集まっている。中央でカイドウが巨大な盃を傾けていた。

「ウォロロロ……ビッグ・マムがやられたか」

 その声は愉快そうだった。

 だが、広間の空気は凍りついていた。

 幹部の一人、クイーンが冷や汗を拭いながら口を開く。

「カイドウさん、情報によりますとビッグ・マム海賊団の主力はほぼ全滅。本人は魔女教に身柄を……」

「そうか」

 カイドウは盃を傾けた。

「あの女にあんな連中に負けたのか。つまらん話だ」

 誰も答えなかった。

 キングもジャックも黙っていた。彼らはカイドウの機嫌を損ねる恐ろしさを知っている。だが今、彼らが恐れているのはカイドウではなかった。

 キングが慎重に口を開いた。

「……カイドウさん。魔女教の連中は、おそらく次にこちらへ――」

「来るだろうな」

 カイドウの笑みが消えた。盃を握る手に力がこもる。

 バキリ、と巨大な盃が粉々に砕けた。酒が床にこぼれる。

「面白ェ」

 その声は低く静かだった。

「おれァあの女に会ってみてェ。あの顔を一度見てやりてェ。白ひげを殺し、ビッグ・マムを潰した『虚飾の魔女』とやらを」

 誰かが息を呑んだ。

「だが、今は動かん」

 カイドウは新しい盃を受け取り、酒を注がせた。

「あの女が本気でおれの首を狙うなら、向こうから来る。おれはここで待つ。それだけだ」

 クイーンがおそるおそる尋ねた。

「ですがカイドウさん、もしホールケーキと同じことを……」

「同じ、か」

 カイドウは鼻で笑った。

「ビッグ・マムは領土を持ちすぎた。守るもんが多い奴は弱ェんだ。おれァ違う」

 そう言いながらも、彼は盃を傾ける手をふと止めた。

 窓の外を見る。新世界の海が広がっていた。その向こうのどこかに「あの女」がいる。

 カイドウは、千を超える戦いの人生で一度も感じたことのない種類の感覚を、胸の奥に覚えていた。

 それが「不安」と呼ばれるものだと、彼は認めたくなかった。

 その夜、鬼ヶ島の見張りたちの間で不思議な噂が流れた。

 カイドウ様が、珍しく眠れないらしい、と。

 

■

 

 赤い船が、静かに水平線を進んでいた。レッドフォース号の甲板で、赤髪のシャンクスは新聞を広げていた。

「……ふむ」

見出しをじっと見つめる。

 

『ビッグ・マム海賊団壊滅 魔女教の完全勝利』

 

「お頭、どうする」

 隣でベン・ベックマンが煙草の煙を吐いた。

「何がだ」

「あの魔女教のことだ。四皇が二人落とされた。次は、おれたちかカイドウか」

 シャンクスは新聞を折りたたんだ。いつものどこか軽い笑みは浮かんでいなかった。

「ベック」

「なんだ」

「おれはあの女の戦いを遠くから見ていた」

 ベックマンが眉を上げた。

「見ていた?」

「ああ。ビッグ・マムが落ちる、その最後の夜に」

 シャンクスは海を見つめた。

「勝敗はわかっていた。だがあの戦いの中で、あの女は一度も本気で戦っていなかった」

 甲板に風が吹いた。

「おれにはわかる。あの女は強さで勝ったんじゃない。『勝つ』ということを、最初から決めていた。それだけだ」

「……どういう意味だ」

「戦いが始まる前から、結果が決まっていたということさ」

 ベックマンは黙った。シャンクスは続ける。

「あの女は世界を盤上の駒みたいに動かしている。おれたち海賊なんて駒にすぎない。いや、駒ですらないかもしれん」

 彼は小さく笑った。笑った顔には深い疲れがあった。

「ベック。おれはあの女とは戦いたくない」

 ベックマンが目を見開いた。この男が戦いを避けると言うのを、彼は初めて聞いた。

「だが、いつか戦うことになるだろう。それまでに、おれはあの女に勝つ方法を考えなければならん」

 シャンクスは新聞を海に投げ捨てた。新聞は波に揉まれてすぐに見えなくなった。

「ルフィ。おれはお前に会う前に死にたくない」

 誰にも聞こえないような小さな声で、彼は呟いた。

 

■

 

 世界政府・マリージョア。

 

 五老星は重苦しい沈黙の中にいた。

「ビッグ・マム海賊団が壊滅した」

「白ひげに続き、これで二人目か」

「魔女教はもはや一つの国家だ。いや、国家以上の存在になっている」

「海軍に動く気は――」

「ない。いや、動けない」

 老人の一人が静かに言った。

「最近、海軍内部で奇妙な動きがある。高官たちの態度が変わった。魔女教に有利な方向へ判断が偏っている」

「買収されているのか」

「いや、それだけではない」

 五老星の一人が虚空を見つめた。

「私は数ヵ月前から、何かを忘れているような気がしてならん。何を忘れたのかはわからん。だが、何かを確かに忘れているのだ」

 沈黙が落ちた。全員が同じ感覚を胸の奥に抱えていた。

 

 海軍本部。

 元帥の部屋に、ガープが乱暴に入ってきた。

「センゴク! 本当にこのままでいいのか!」

「ガープ」

「あの魔女教を野放しにしていいのか! あいつらは島をひとつ丸ごと……!」

「ガープ」

 センゴクの声は低く静かだった。

「……わかっている」

「わかっているなら、なぜ!」

「証拠がないのだ」

 センゴクは窓の外を見た。

「あの島で何があったのか、生存者は誰も話さん。記録もすべて整理されている。魔女教の公式発表では『ビッグ・マム海賊団の内部抗争に魔女教が介入し、秩序を回復した』ということになっている」

「そんな嘘を!」

「嘘かどうか確かめる術がない。島民は全員魔女教に感謝している。海兵の中にも魔女教を支持する者が増えている」

 ガープは拳を握りしめた。

「ワシが行く」

「やめろ」

「止めるな!」

「行けばお前は帰ってこられん」

 センゴクの声に、初めてはっきりとした恐怖が混じっていた。

「あの女は白ひげを一人で殺した。ロジャーを捕らえた。お前でも勝てん」

 ガープはしばらく無言で立ち尽くした。やがて彼は乱暴に部屋を出て行った。

 扉が閉まる直前、小さく呟いた声が聞こえた。

「……ルフィ」

 

■

 

 ホールケーキアイランドの旧城跡。新しく建てられた魔女教の聖堂で、俺は一人で紅茶を飲んでいた。

窓の外には夕焼けが広がっている。かつてこの島が最も美しく見える時間だったという。

ビッグ・マムは地下でまだ生きている。

生きている、というのは正確ではない。「死んでいない」だけだ。権能で、彼女の「死ぬ」という概念を少しだけ書き換えてある。

 シャーロット・リンリン。四皇の一人、ビッグ・マム。

 今、彼女は魔女教のために毎日お菓子を作っている。魂を込めない、ただのお菓子を。命令に従う人形のように。

 俺は彼女の記憶を半分だけ残してある。何が起きたのか、自分が何者だったのか、全部わかる状態で。その上で、笑顔でお菓子を作るようにしてある。

 ……趣味が悪いとは自覚している。だが、これが一番効く。

 彼女の子供たちがこの姿を見たとき、どんな顔をするか。誰も二度と魔女教に逆らう気にはならないだろう。

 紅茶を一口飲む。甘い。

 ビッグ・マムが焼いたクッキーが皿に盛られている。一つ、つまんでみた。

 旨い。皮肉なほど旨かった。

「パンドラ様」

 マルコが聖堂に入ってきた。

「新たな報告です」

「どうぞ」

「カイドウ、シャンクス、両名とも動きはありません。ただ、カイドウは鬼ヶ島の防備を大幅に増強しているようです。シャンクスは航海を続けています。行き先は不明」

「そうですか」

 俺はクッキーをもう一つつまんだ。

「もう一つ。東の海から気になる情報が」

「東の海?」

「はい。新人の海賊が立て続けに大きな事件を起こしています。麦わら帽子の少年です。懸賞金はまだ低いですが」

 俺の手が止まった。

「……名前は」

「モンキー・D・ルフィ」

 ああ。

 やっと、来たか。

 窓の外の夕日が、ゆっくりと水平線に沈んでいく。

 世界は俺の手の中にある。金も、情報も、人の心さえも。だが、あの少年だけは俺の思い通りにはならないかもしれない。

 原作の主人公だからというだけではない。あの少年の持つ「自由」という力は、俺の「改竄」と最も相性が悪い。

 ……そんな気がする。

「マルコ」

「はい」

「東の海に人を送ってください。ただし、手を出してはいけません。ただ、見ているだけです」

「承知しました」

 マルコが静かに頭を下げた。

 俺はクッキーの最後の一枚を口に入れた。甘かった。世界で一番、甘い味がした。

 それが誰の絶望でできた味なのか。そんなことは考えないことにした。

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