「……というわけで、お主は死んだのじゃ」
「…………は?」
目の前にいる、長い白髭を蓄えた老人の言葉に、俺は間の抜けた声を漏らした。
自称・神様。
なんでも俺は、あまりにも不条理で不幸な事故によって命を落とし、気付けばこの空間にいたらしい。
「まあ、突然のことで混乱するのも無理はない。じゃが安心せい。お主には転生する権利が与えられておる」
「転生……」
小説や漫画で飽きるほど見た、いわゆる異世界転生。
しかし、いざ自分がその当事者になってみると、死の悲しみや戸惑いなど微塵も湧かなかった。
何故か。
俺には、生前から抱き続けていた「男としての純粋な、あまりにも巨大な渇望」があったからだ。
「ちなみに、何か希望はあるかの?」
神様の問いかけに、俺の魂が、本能が、即座に答えを弾き出した。
金持ち? 魔法の才能? 聖剣?
そんなチャチなものは要らん。男として生まれたからには、目指す頂(いただき)は一つしかない。
「範馬勇次郎にしてくれ」
「……範馬勇次郎?」
「そうだ。地上最強の生物、範馬勇次郎だッッ!!」
あの圧倒的な肉体。常人の理解、いや生物の枠組みすら超えた身体能力。
国家すらもひれ伏し、誰もが認めざるを得ない絶対的な強さ。
そして、背中に浮かび上がる、あの美しくも悍ましい「鬼の貌」
男なら一度は夢見る。世界を我が儘に歩く、あの絶対的な生き様に。
「なるほどのう。しかし残念じゃが、範馬勇次郎そのものにすることはできん。転生先の世界は既に決まっておる。じゃから、本人そのものではなく、範馬勇次郎の肉体的なスペックを与えるという形なら――」
神様が何かを説明していたが、俺の耳にはもう届いていなかった。
(まずは肉体の確認だ。鬼の背中、あの『打突の瞬間にのみ完成する異常な筋肉の噛み合い』も再現されているはず……!)
「おい、聞いておるのか?」
(それから強者探しだ。この世界の強者がどれほど通用するのか、実に楽しみじゃねえか……)
「……まあ、よいか。では、そろそろ転生させるぞい」
◇
「…………ん?」
目を開ける。
薄暗い室内。見慣れない石造りの壁と、無骨な家具。
どうやら、無事に転生(はじまり)を迎えたらしい。
「ふむ……」
ゆっくりと身体を起こした瞬間――全身の神経が、今までとは次元の違う「戦慄」を脳に伝えてきた。
軽い。いや、違う。
全身の筋肉の一繊維にいたるまで、凄まじい密度のエネルギーが凝縮されている。
試しに指先をほんの少し動かす。
それだけで、大気を切り裂くような最適化された駆動が伝わる。
自身の前腕を軽く握り締める。
ミシミシ……と、皮膚の下で鋼鉄のワイヤーのような筋肉が収縮した。
「クク……」
思わず笑みがこぼれる。間違いない。この密度、この剛性。これこそが範馬勇次郎の肉体だ。
俺は立ち上がり、壁際にあった頑丈な木製の家具に手をかけた。
ほんの、指先を添える程度の軽い力。
――パキィッ!!
乾いた音を立てて、分厚い木材が消しゴムのようにあっけなく圧壊した。
「……ほう」
今のは力など込めていない。ただ「触れた」だけだ。それなのに、この破壊。
(凄まじいな……。これが『地上最強』の出力か……!)
胸の奥から湧き上がる歓喜を、俺は勇次郎らしく、傲然たる態度で抑え込む。
そして大きく背筋を伸ばし、両肩を回した。
その瞬間。
背中の筋肉が、まるで独自の意思を持つ生き物のように、ゴツゴツと音を立てて噛み合い、蠢いた。
鏡など見る必要はない。
皮膚の突っ張り、骨格の軋み、そのすべてが教えてくれる。
背面に完成した、あの哭き、嗤う、圧倒的な歪形。
「ククク……ッッ!!」
俺は低く、獰猛に笑った。
間違いない。俺は今、この世界における『範馬勇次郎』となったのだ。
◇
それからしばらくして、俺は街へ出た。
見知らぬ建造物、行き交う人々の見慣れぬ衣装。
どうやら、随分と遠い異国に来たらしい。
だが、そんなことは些細な問題だ。重要なのは、この肉体を満足させてくれる『強者』がどこにいるか、それだけ。
歩きながら、すれ違う人々の骨格、歩法、筋肉のつき方を観察する。
「……退屈だな」
自然と言葉が漏れた。
鍛えている者はいる。だが、全員が「弱者」の域を出ない。
せっかく手に入れたこの暴力を、存分に振るえる相手がいないというのは、あまりにも退屈な話だ。
「少し、探してみるか」
俺は街の中心部を離れ、自然と『血の匂い』が漂う場所へと足を向けていた。
◇
街の外れ。
そこには、いかにも法や秩序から見放された荒くれ者たちが集まる酒場があった。
大声で笑い合う大男、凶器を弄ぶ者、周囲を血走った目で警戒する者たち。
少なくとも、街中で見た一般人よりは「闘争(あそび)」の相手になりそうだ。
俺が正面から堂々と近づくと、たむろしていた何人かの男たちが、一斉にこちらを睨みつけてきた。
彼らの目には――
金髪をなびかせ、不気味な巨体を揺らしながら歩いてくる『解体屋(バラシヤ)ジョネス』の姿が映っていた。
当の本人は、自分がそんな「小物の殺人鬼」の姿をしているとは夢にも思わず、地上最強の笑みを浮かべていた。
そのうちの一人が、俺の顔を見るなり、まるで劇薬を飲まされたかのように目を見開いた。
「お、おい……嘘だろ……あれって……」
「あ? 何だよ、怯んじまって」
「ジョネスだ……! 『解体屋』ジョネスが何でこんな場末に……ッッ!!」
その悪名が響いた瞬間、周囲の男たちの空気が凍りついた。
「何だと……!?」
「あの生きたまま人間の肉を毟り取るっていう……」
「本物かよ。何故こんなところに……」
彼らは俺の『顔』を知っていた。それも当然だろう。この世界において、この肉体はすでに十分すぎるほどの凶名を轟かせていたのだから。
もっとも、中身が入れ替わった当の本人は、そんな手垢のついた小物の悪名など知る由もない。
「……何だ?」
俺は男たちを見回した。
なぜか、先ほどまでの威勢が綺麗さっぱり消えている。
(あれ? 何だか反応が変だな。転生者特有のイベントか……?)
内心で首を傾げつつも、地上最強の肉体に免じて表情には出さない。
「何を見ている。用があるなら口を開け」
「お、お前……何の用だ……?」
一人の男が、喉の奥を鳴らしながら恐る恐る尋ねてきた。
俺は傲然と答える。
「強い奴を探している。この俺を、満たせるようなな」
「強い奴……だと?」
男たちは顔を見合わせた。そして、やがて人が恐怖を誤魔化すように、乾いた嘲笑を漏らす。
「おいおい……冗談だろ?」
「何がおかしい」
「いや……あの解体屋がわざわざ『強い奴』を探してるっていうのがな。おい、お前……自分がどんな人間か分かって言ってるのか?」
俺は男を冷徹に見下ろした。
「阿呆が。己の力量も測れぬ者に用はない。消え失せろ」
その一言が、悪党たちのプライドを逆撫でした。
一人の大男が、床を鳴らして前に出てくる。
「……調子に乗るなよ、ジョネス」
「ほう」
男は俺の姿を上から下まで値踏みすると、丸太のような拳を握り締めた。
「以前のお前がどうだったかは知らねえ。だがな、ここはお前の縄張りじゃねえんだ。今ここで、好き勝手できると思うなよ!」
(範馬勇次郎と知らず……随分と元気なことだ)
内心では一介の弱者の吠え面に呆れながらも、俺は口元を凶悪に歪めた。
「フン……。威勢だけは一人前か」
男が拳を振り上げる。俺は構えすらしない。ポケットに手を突っ込んだままだ。
その頃、男たちの後方では、ある『違和感』に関する囁きが交わされていた。
「おい、あいつ……前と雰囲気が違わないか?」
「ああ、前はもっと、こう……ケダモノみたいな卑しい狂気だった。だが、今のあいつは何だ? まるで――」
「国家の元首でも睨みつけているような、圧倒的な不遜さだぞ……」
そんな弱者どもの内面など、俺の知ったことではない。
俺の関心は、ただ目の前の男の『打撃』にのみ向けられていた。
(さて……バキ世界の暴力、どれほどのものか……)
◇
最初に向かってきた男は、全体重を乗せた鋭い右ストレートを放ってきた。
俺は、避けなかった。
――ガッッ!!!
鈍い衝撃音が酒場に響く。拳は正確に俺の顎を捉えていた。
しかし、痛みなど皆無。
それどころか、仕掛けた男の表情が恐怖に強張った。
「なっ……!?」
男は自分の拳を見つめている。
無理もない。人間の頭部を殴ったはずが、まるで『焼入れを施した超硬度コンクリートの塊』を殴ったかのような衝撃が、自身の拳の骨を軋ませたのだから。
俺は微動だにせず、男を見下ろした。
「それで終わりか? 随分と優しい愛撫だな」
「て、てめえ……ッッ!!」
男が逆上し、再び拳を振るう。が、結果は同じ。
俺は相手の無様な駆動を眺めながら、わずかに首を傾げる。
遅い。あまりにも遅い。
大気の抵抗をそのまま受け、筋肉の連動もバラバラ。これでは、戦闘(たたかい)ではなくただの運動だ。
「どうした? もっと本気を出せ。肉体を、骨を、筋肉を呪うほどの出力をしてみせろ」
「ふざけやがってぇッッ!!」
男は力任せに、タックルの体勢で突っ込んできた。
俺は、ただ一歩だけ前に出た。
構えはない。ただ、向かってくる相手の勢いを受け止め、歩行の延長として、軽く身体を押し返したに過ぎない。
――ドォンッッ!!!
それだけで、大男の巨体がラグビーボールのように後方へ吹き飛び、木製の机を粉砕しながら地面を転がった。
「お、おい……!」
残った男たちの顔から完全に笑みが消え失せる。
ようやく理解したのだ。目の前にいる怪物が、自分たちの知る「ただの殺人鬼」の範疇を遥かに超越しているという現実を。
「次は誰だ?」
俺はゆっくりと周囲を見回した。
誰も動かない。先ほどまで酒の勢いで騒いでいた男たちは、蛇に睨まれた蛙のように硬直している。
「何だ。お前たちも同じか? 期待外れもいいところだ」
一人の男が、引きつった声で唾を飲み込む。
「お、お前……一体、何なんだよ……。何が目的で……」
「何なんだ、だと?」
俺は口元を愉悦に歪めた。
「貴様らが今、誰の前に平伏しているのか。その貧弱な脳髄に刻んでおくがいい」
そして、静かに、しかし空間を震わせる声で告げる。
「範馬勇次郎だ」
男たちは、恐怖の最中で激しく困惑した。
「は……? 範馬……? いや、ジョネスじゃ……」
「何か言ったか?」
「い、いや……! 何でもありませんッッ!!」
俺は男たちを一瞥した。
「くだらん。失せろ」
その場にいた全員が、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。先ほどまでの威勢は見る影もない。
俺は踵を返した。
(うーん……やっぱり、この世界のレベルってこんなもんなのかな。もっと骨のある、脳天が痺れるような強者はいないものか)
そんな贅沢な退屈を抱えながら、俺はその場を後にした。
◇
その日を境に、俺は強者を探すことを日課にした。
街を渡り、未開の村を訪れ、武芸者が集まる場所へ足を運んだ。
出会った腕自慢たちと拳を交える。最初は一人、次は十人、あるいは数十人の集団。
中には「俺こそがこの地域で最強だ」と豪語する拳法家もいた。
しかし、結果はすべて退屈なリフレイン。
誰も俺を満足させてくれない。力を試すどころか、背中の「鬼」をわずかに起こす必要すらないのだ。
戦うたびに、俺はこの肉体の『異常性』を実感していた。
相手がどれほど鍛えていようと、その程度では俺の細胞一つすら傷つけられない。
まるで、大人が赤子の玩具を相手にしているようなものだった。
「……この程度か」
何度目かのワンサイドゲームを終え、俺は異世界の空を見上げた。
この世界には、本当に俺の退屈を殺してくれる強者はいないのだろうか。
いや。そんなはずはない。
世界は広い。まだ俺の名を知らぬ強者が、どこかにいるはずだ。
そう考えると、自然と顔の筋肉が吊り上がった。
「クク……」
いいじゃないか。探せばいい。一人ずつ、この拳で確かめていけばいい。
俺は範馬勇次郎なのだから。
◇
戦いを重ねるうちに、俺はある変化に気づいた。
この世界の人間が、俺を見る目が明らかに変わってきている。
最初はただの凶悪な喧嘩売りだと思われていた。しかし、一切の傷を負わずに勝ち続ける怪物の姿を見ただけで、周囲がモーセの海割りのように距離を取るようになった。
街を歩けば、ひそひそと布切れが擦れるような密語が聞こえる。
俺が一歩近づくだけで、急に呼吸を止める者までいた。
「……何だ?」
俺は不思議に思った。俺はただ、純粋な闘争を求めているだけだ。それなのに、どうしてこうもバイオハザード(災害)のように警戒されるのだろうか。
(ああ、なるほど。俺の『地上最強の風格』に、本能が気圧されているのか)
内心では納得する。だが、表情には出さない。
「フン……。臆したか。弱者め」
恐れられること自体は心地いい。強者である以上、弱者が平伏するのは自然の摂理だ。
だが、俺が求めているのはそんな一方的な畏怖ではない。
俺が欲しいのは、俺の眼前に立っても一歩も退かない意志。そして、この範馬の力を受け止められる本物の『壁』だ。
「……どこかにいないものか」
そう呟き、俺は再び歩き出した。
◇
一方、その頃。
裏社会のとある情報網では、一つの狂気じみた噂が爆発的に広まり始めていた。
「最近、ジョネスの様子が完全にイカれてるらしい」
「ジョネス? あの素手で人を解体する『解体屋』か?」
「ああ。元から危険な男だったが、最近のあいつは……次元が違う。手がつけられないとかそういうレベルじゃない」
「何か特殊な能力(念)でも覚醒させたのか?」
「分からん。だが、武器を持ったプロの暗殺者集団が囲んでも、一歩も動かずに全員が肉塊に変えられたそうだ。しかも、あいつは傷一つ負っちゃいねえ……」
「……本当に、あのジョネスなのか?」
「顔を見た奴が言っていた。間違いない。『解体屋ジョネス』だ」
情報屋たちは顔を見合わせ、冷や汗を流した。
「しかし、どうして急にそんな化け物に……」
「さあな。気になるなら本人に聞いてみればいい」
「冗談じゃねえ。あんな『天災』に近づけるかよ」
彼らが知っているのは、以前から恐れられていた残虐な囚人、解体屋ジョネス。
そして、彼らが今恐れているのは、そのジョネスの皮を被った「正体不明の絶望」だった。
まだ、その異名が変貌する前日譚。
◇
そんな裏社会の震撼など、本人は知る由もなかった。
俺は今日も、ただ自分の退屈を満たす強者を探して歩いていた。
「……次はどこへ行くか」
口元に獰猛な笑みが浮かぶ。
この世界には、まだ見ぬ強者がいる。そう信じて、俺は歩き続ける。
自分の名は範馬勇次郎。それ以外にありはしない。
この世界がどこであろうと、周囲の人間が何と呼ぼうと、それは変わらない。
俺にとって重要なのは、ただ一つ。己の力を試せる相手と出会うこと。そして、戦うこと。
一方、この世界では、すでに別の名が確立されつつあった。
解体屋(バラシヤ)ジョネス。
その男の肉体の中で、地上最強の生物の魂が、いよいよ完全な覚醒を迎えようとしていた。