この世界に転生してから、しばらくの時間が経過した。
街を歩きながら、男は考えていた。
(さて……これからどうするか)
この場所には、自分を満足させてくれるような強者がいるのだろうか。
それを探すのも悪くない。
だが、その前に一つ、やっておきたいことがあった。
(範馬勇次郎なら、どうする?)
男の脳裏に浮かんだのは、かつての範馬勇次郎の行動だった。
アメリカという国家と、そしてその大統領と、平和条約を結んだという話。
(……そうだな)
男は足を止めた。
(俺も、この世界の代表と平和条約を結んでおくか)
地上最強の生物である自分が、国家や組織と対等な関係を築く必要など本来ない。
しかし、勇次郎はそうした。
ならば、自分も同じことをする。
(だが、ここにアメリカ大統領はいない。何故なら、ここはザバン市だ)
男は街の様子を眺めた。
この街を代表する者。
それならば、市長が適任だろう。
(よし。市長と平和条約を結ぶ)
そう決めると、男は再び歩き出した。
目的地は、市の中心部にある市長の執務施設だった。
◇
ザバン市の市庁舎。
街の行政を取り仕切る市長が執務を行うその施設には、複数の警備員が配置されていた。
そこへ、一人の男が近づいてくる。
金髪の男だった。
堂々とした足取りで正面から歩いてくるその姿に、警備員の一人が気づく。
「おい、止まれ!」
男は足を止めなかった。
「ここは市長の執務施設だ。用件を言え!」
「……市長に会いに来た」
低く、威圧感のある声。
「面会の約束はあるのか?」
「ない」
「ならば通すわけにはいかん!」
警備員たちが男の前に立ち塞がる。
しかし、男はまるで気にしていなかった。
「退け」
「何だと?」
「聞こえなかったか。退けと言っている」
その態度に、警備員たちの表情が険しくなる。
「不審者だ! 取り押さえろ!」
数人の警備員が一斉に動いた。
だが、男は一歩も退かない。
迫ってきた警備員の一人へ、拳を振るう。
ドゴォッ!!
一撃を受けた警備員の身体が大きく吹き飛び、床に崩れ落ちた。
「なっ……!?」
別の警備員が横から腕を伸ばす。
男はその腕を払い、流れるような動きで拳を叩き込んだ。
ドガッ!!
二人目も床へ倒れる。
男は歩みを止めない。
「邪魔だ」
その一言とともに、立ちはだかる警備員たちを次々と打ち倒していく。
一発、また一発。
その拳が振るわれるたび、警備員たちは抵抗する間もなく倒れていった。
やがて、警備員の一人が拳銃を抜いた。
「動くな!」
銃口が男へ向けられる。
しかし、男は止まらない。
「撃つぞ!」
乾いた銃声が響いた。
パァンッ!!
弾丸は、男の肉体を捉えない。
避けたのではない。当たるはずがないのだ。
音速を超える鉄塊が生々しい頭部に到達するよりも早く、男の頭部(こうべ)が微かに揺らいだに過ぎない。
「な……!」
警備員が驚愕した、その瞬間。
男は一気に間合いを詰めていた。
「阿呆(あほう)がッッ!!」
ドゴォンッ!!
拳が振るわれる。
警備員は内臓を激しく揺さぶられ、言葉もなくその場に崩れ落ちた。
その光景を見た別の警備員たちが、慌てて拳銃を構える。
しかし、その手は生まれたての小鹿のように震えていた。
男がゆっくりと顔を上げる。
その瞬間だった。
警備員たちの目には、周囲の景色がぐにゃりと歪んだように映った。
空間の湾曲。
否、違う。男から放たれる「純度100%の闘気」が、人間の脳に「空間の歪み」を錯覚させているのだ。
(近づいてはいけない……!)
(逆らってはいけない……!)
五感のすべてが、遺伝子に刻まれた本能が、彼らに死の警告を鳴らし続けていた。
「……どうした」
男は不敵に、獰猛に笑った。
「来ないのか? 闘(や)るのなら……付き合うが?」
それでも、警備員たちは拳銃を手放さなかった。
「撃てぇッ!」
再び銃声が響く。
だが、男はその攻撃をものともせず、間合いを詰めた。
ドガッ! バキィッ!!
拳が、蹴りが、次々と繰り出される。
一人が吹き飛び、もう一人が床に崩れ落ちる。
男にとっては、ただの一撃に過ぎない。
しかし、受ける側にとっては、それだけで戦いを続けられなくなるほどの衝撃だった。
最後の警備員が後ずさる。
男はその前に立つと、拳を軽く握った。
「終わりか?」
返事はない。
警備員はその場に崩れ落ちた。
市庁舎の警備員たちは、誰一人として男を止められなかった。
その間も、男の呼吸は乱れていない。
表情にも、疲労の色はなかった。
まるで、道端に落ちている小石を退けてきただけのようだった。
◇
「市長! 大変です!」
市長室に、一人の警備員が駆け込んできた。
「何事だ!」
「侵入者です! 正面から押し入り、警備員たちを次々と倒しています!」
「侵入者だと? 何者だ!」
警備員は一瞬ためらった後、答えた。
「……解体屋(バラシヤ)ジョネスです!」
「何だと……!?」
市長の顔から血の気が引いた。
解体屋ジョネス。
その名は、この街でもっとも有名だ。
恐ろしい犯罪者として名を轟かせている男だ。
「なぜ、ジョネスがここに……!」
「分かりません! ですが、拳銃を持った警備員も含め、誰も止められません!」
「何人やられた!?」
「すでに相当数が……!」
市長は言葉を失った。
まさか、あのジョネスが市庁舎に押し入ってくるとは。
一体何が目的なのか。
金か。
要求か。
それとも、市長である自分を狙っているのか。
考えれば考えるほど、嫌な想像ばかりが浮かんでくる。
「市長! こちらへ避難を!」
「わ、分かった……!」
その時だった。
廊下の向こうから、複数の足音が聞こえてきた。
市長室の扉の前で、足音が止まる。
そして。
ドンッ!!
扉が開かれた。
そこに立っていたのは、金髪の男だった。
◇
「……貴様が、この街の代表(トップ)か」
男が市長を見下ろす。その立ち姿は、まるで玉座に君臨する王そのもの。
「は、はい……。私が、この街の市長です……」
市長は蛇に睨まれた蛙のようになりながら、震える声で答えた。
目の前にいるのは、あの残虐非道な「解体屋(バラシヤ)ジョネス」のはずだ。
だが何かが違う。眼前に立つ男の放つ『圧』は、一介の連続殺人鬼などが持ち得る器を遥かに超越していた。
「俺は範馬勇次郎だ」
「……は?」
市長は耳を疑った。
範馬勇次郎? 聞いたこともない名だ。
目の前にいる男が何を狂って別人の名を名乗っているのか、市長には理解できない。しかし、その疑問を口にする権利など、今の自分には1ミリも残されていないことだけは理解できた。
「貴様らと平和条約を結びに来た」
「へ、平和条約……?」
「如何(いか)にも」
男は当然のように、傲然と言い放つ。
「俺がこの街に滞在する間、貴様らから俺に手を出さぬ限り……俺も貴様らに手は出さん。国家が個人を”守護る”のではない。この俺が、ザバン市(貴様ら)を守護ってやるという話だ」
「…………!」
市長は言葉を失った。
あまりにも傲慢。あまりにも理不尽。
しかし、市庁舎の警備を素手で壊滅させてみせたこの怪物の前では、その「理不尽な条件」を受け入れる以外の選択肢など存在し得ない。
「どうした。異論でもあるのか? あるのなら……今ここで、その小柄な肉体ごと揉み潰してやってもよいのだぞ?」
「い、いえ! ありません! 喜んでお受けしますッッ!!」
市長は脱兎のごとく、即座に頭(こうべ)を垂れた。
「そうか。ならば、これで成立だ。精々、俺を退屈させるなよ」
男は満足げに踵を返し、無言で市長室を出ていった。
その背中を見送りながら、市長は自分が呼吸すら忘れていたことに気づき、激しく咳き込んだ。
◇
男が去った後。
市長室には、しばらく沈黙が流れていた。
やがて、市長は恐る恐る廊下へ出る。
そこには、倒れた警備員たちがいた。
正面玄関から市長室に至るまで、警備に当たっていた者たちが次々と倒されている。
拳銃を持った警備員ですら、男を止めることはできなかった。
「……何ということだ」
市長は呆然と呟いた。
「解体屋(バラシヤ)などというものではない……」
目の前に広がる光景を見つめる。
「奴は……壊滅屋(コワシヤ)だ」
その言葉は、やがて市庁舎の職員たちの耳にも届くことになる。
◇
その日のうちに、ザバン市(裏社会・表社会を問わず)では、ある「怪情報」が爆発的な速度で駆け巡り始めていた。
「聞いたか? 市長執務室にジョネスが押し入ったらしいぞ」
「ジョネス? あの素手で肉を毟る『解体屋』か?」
「ああ。しかも、たった一人、完全なる無手(すで)で乗り込んだそうだ」
「一人で……? 市庁舎の警備と言えば、全員が射撃訓練を受けたプロだぞ。武器は何を使った?」
「だから、素手だと言っている。拳銃を構えた警備員を、まるで蝿でも叩き落とすように、ただのワンパンで沈めたらしい……」
話を聞いた者たちは、一様に言葉を失い、冷や汗でシャツを濡らした。
さらに別の場所、とある情報屋の溜まり場では、こんな『定義の更新』が行われていた。
「おい、これからは『解体屋(バラシヤ)』なんてチャチな名前で呼ぶなよ。あいつの新しい二つ名は――『壊滅屋(コワシヤ)』だ」
「壊滅屋……?」
「ああ、市庁舎の防衛システムそのものを、文字通りたった一人で『壊滅』させたからさ。解体なんて生易しいお仕事じゃねえ、あれはもはや人災だ」
また、裏社会の連中を最も困惑させたのは、その襲撃の「奇妙すぎる目的」だった。
「それより、ジョネスが市長と『平和条約』を結んだって聞いたぞ」
「平和条約ゥ!? 何だそりゃ、どこの国家間の話だ!?」
「俺にもサッパリ分からん。だが、市長に直接会って、『俺が滞在する間、手を出すな。代わりに俺も手を出さん』と言い残して去ったらしい」
「犯罪者が、一国の地方自治体と不侵犯条約だと……?」
一人で殴り込んだという事実。
拳銃を持った警備員を素手で叩き伏せたという事実。
市長の警備を壊滅させたという事実。
そして――市長と対等に「平和条約」を結んだという、あまりにも不条理な現実。
どこまでが真実で、どこからが尾ひれのついた噂なのか。
それを正確に測れる者は、もはや恐怖のどん底にいる市長以外には存在しなかった。
ただ一つ確かなのは、その日を境に、ザバン市における彼の認識が完全に書き換わったこと。
解体屋(バラシヤ)ジョネス。
その男は、いつしか畏怖を込めてこう呼ばれるようになっていく。
――『壊滅屋(コワシヤ)』ジョネス、と。
◇
その頃、当の本人はというと。
街の喧騒、弱者どもの怯えが混ざり合う空気から離れ、静まり返った夜道を悠然と歩いていた。
(……さて、次はどうするか)
先ほどの平和条約について、特に不満はない。
これで、このザバン市(国)との最低限の約束(ルール)は成立した。
これでもう、有象無象の法や権力が、俺の歩みを邪魔することもあるまい。
(ふむ。範馬勇次郎として、まずは一つ、国家(トップ)と対等であることを成し遂げたな)
男は満足げに、月明かりの下で口元を獰猛に歪める。
自分の名が街中で驚天動地の噂になっていることなど、知る由もない。
ましてや、自分の知らないところで『壊滅屋(コワシヤ)』などという、勇次郎からすれば「ずいぶんとスケールの小さな異名」が生まれていることなど、想像すらしていなかった。
男の名は、範馬勇次郎。
それ以外にありはしない。
「……そろそろ、俺を芯から震わせる『本物』が現れてもいい頃合いだが……」
まだ見ぬ強者との闘争を求め、男は未知なる闇の先へと、ただ傲然と歩みを進める。
この世界の真の姿(念能力)を、HUNTER×HUNTERの世界を、男はまだ、何も知らない。