ザバン市との間に、奇妙な平和条約を結んでから数日。
俺は新たな強者を求め、街を出た。
ザバン市には、もう俺を楽しませてくれる人間はいない。
多少腕に覚えのある連中も、俺の姿を見ただけで本能的な恐怖に駆られ、脱兎のごとく逃げ出す始末だ。
まったく、つまらん。
このままでは、せっかく手に入れたこの究極の肉体を持て余してしまう。
「……次はどこに行くか」
地図を眺めながら、適当に進む方向を決める。
目指す場所にこだわりはない。
重要なのは、そこに俺を満足させる『強者』がいるかどうかだ。
◇
それからしばらく歩き続けた俺は、とある街にたどり着いた。
ザバン市よりも小規模だが、そこそこ人の往来がある。
だが、街の入り口には重武装した男たちが立ち塞がっていた。どうやら、この街にもそれなりの治安問題――あるいは、暴力による支配があるらしい。
「おい、そこのお前」
俺が街に入ろうとすると、男の一人が品性のない声をかけてきた。
「通行料を払ってもらおうか」
「……通行料?」
「そうだ。ここを通りたければ金を置いていけ。身ぐるみを剥がされたくなければな」
なるほど。
どうやら、街の入り口で通行料を不当に徴収するのがこいつらの仕事らしい。
「断る」
「……あ?」
男たちの表情が、瞬時に凶悪なものへと変わった。
「てめえ、誰に向かって口を利いてやがる!」
「この街じゃ俺たちに逆らえる奴はいねえんだよ!」
数人の男たちが色めき立ち、手にしたマチェットや鉄パイプを振り上げる。
俺は小さく息を吐いた。
「……くだらん」
次の瞬間、男たちは地面に転がっていた。
俺は拳を振るったわけでも、蹴りを放ったわけでもない。
ただ、男たちの間を『歩いた』だけだ。
範馬勇次郎の肉体という、あまりにも巨大な質量が通り過ぎた風圧。そして、わずかに肩が触れただけの衝撃。それだけで、男たちの骨は容易く砕け散り、紙屑のように虚空へ弾き飛んだのだ。
「……さて」
俺は何事もなかったかのように、文字通り彼らを踏み越えて街へ入った。
◇
街の中を歩いていると、妙な噂が耳に入ってきた。
どうやら、この街には合法・非合法を問わぬ『裏格闘技場』があるらしい。
世界中から腕自慢の連中が集まり、日夜、命を賭けた試合を繰り広げているという。
ほう。
それは少しばかり興味深い。
俺は噂を頼りに、その格闘技場へと向かった。
地下に造られたコロシアムは、大勢の観客の熱気と怒号で賑わっていた。
中央のリングでは、二人の男が激しい試合を繰り広げている。
一方は大柄な筋肉質の男。もう一方は、細身ながらも鋭い凶器のような動きを見せる男だった。
観客たちは狂ったように歓声を上げている。
「いけえええ! 殺せ!」
「ぶっ倒せ!」
なるほど。
この程度の、子供の取っ組み合いのような試合でここまで盛り上がれるとはな。
俺はリングを眺めながら、つまらなそうに、しかしハッキリと響く声で呟いた。
「……レベルが低い」
その言葉を聞いた近くの観客が、血走った目でこちらを振り返った。
「おい、今なんつった?」
「聞こえなかったのか? 揃いも揃ってレベルが低いと言ったのだ」
「この試合のレベルが低いだとぉ!? だったら、お前が出てみろよ! 口だけなら何とでも言えるぜ!」
男は不機嫌そうに俺を睨みつける。
「……いいだろう。教育してやる」
俺は遮る柵を軽々と飛び越え、リングへと上がった。
対戦相手として名乗りを上げた地元のチャンピオンである大男は、俺の姿を見て鼻で笑った。
「おいおい、冗談だろ? そんな細い身体で俺とやろうってのか? 骨が折れても知らねえぞ」
「……貴様が相手か。せめて一秒は持たせろよ」
「そうだ。泣いても――」
ゴングが鳴る。
大男が怪力に任せて勢いよく踏み込んできた。
俺はその動きを眺める。
遅い。あまりにも遅すぎる。止まっているのと同義だ。
「……終わりだ」
一瞬。
俺の拳が、ほんの数センチ、軽く動いた。
鞭のようにしなった正拳が、大男の顎を正確に捉える。
――ドゴォォォン!!!
それだけで、体重150キロを超える大男は、凄まじい衝撃音と共にリングの外――観客席の壁まで一直線に吹き飛ばされた。
壁に埋まった大男は、白目を剥いて即座に失神している。
観客席が、水を打ったように静まり返る。
誰もが、今この瞬間に何が起きたのかを理解できていないようだった。
俺はリングの中央で、退屈そうに周囲を見渡した。
「他にはいないのか? この程度が限界か」
誰も答えない。視線を合わせることすら恐れている。
「……いないようだな」
俺はリングを降りた。
期待外れもいいところだ。この世界の『武』は、ここまで形骸化しているのか。
◇
その後、俺は街の裏社会にも顔を出した。
地元の裏社会を牛耳っているという、武装組織の事務所。
そこには、修羅場をくぐり抜けてきたであろう腕に覚えのある男たちが集まっていた。
俺が正面の扉を蹴り開けると、男たちの殺気立った視線が一斉に集まる。
「誰だ、テメェ……!?」
「……範馬勇次郎だ」
「はあ? 範馬だぁ?」
「俺の名だ。よく覚えておくといい」
男たちは顔を見合わせた後、下劣に笑い出した。
「何だそりゃ。ふざけた名前を名乗りやがって!」
「ここが誰の縄張りか分かってんのか? 生きて帰れると思うなよ!」
俺は答えない。男たちは次々と立ち上がり、俺を取り囲んだ。
どうやら、最大級の暴力で歓迎してくれるらしい。
「……来い。まとめて相手をしてやる」
その後のことは、文字通り『あっという間』だった。
事務所にいた数十人の男たちは、誰一人として俺の進撃を止めることができなかった。
引きちぎられた腕、陥没した顔面。床を血の海に変え、俺は建物を後にした。
再び街を歩き始める。
「……つまらん」
どこへ行っても同じだ。
口先だけの威勢。見せかけだけの筋肉。自分が強者だと勘違いしているだけの、哀れな弱者ども。
ここにも、俺を満足させてくれる人間はいないのか。
いや。そんなはずはない。
世界は広大だ。俺の知らない深淵には、まだ見ぬ強者が潜んでいるはずだ。
そう考えていた、その時だった。
「お前が、最近ザバン市で噂になっている『壊滅屋』か?」
背後から、低く、しかし驚くほど芯の通った声がした。
振り返ると、一人の男が立っていた。
年齢は三十代ほど。細身の身体に、特別目立つような筋肉もない。一見すれば、どこにでもいる凡人だ。
しかし、その佇まいには、先ほどまでの有象無象とは明らかに違う『格』があった。
「……何者だ?」
「お前に興味があってな。少しばかり相手をしてもらいたい」
男はそう言って、俺の前に静かに立つ。
その瞬間――。
男の周囲の空気が、一変した。
目に見えない悍ましい何かが、身体からオーラとなって溢れ出している。
それは殺気にも似ていた。いや、殺気という生温い言葉だけでは到底足りない。
空気そのものが、物理的な質量を持って重くなったような錯覚。並の人間なら、この場に居るだけで呼吸困難に陥るほどの圧倒的なプレッシャー。
「ほう……」
俺は獰猛に口元を吊り上げた。
ようやくか。ようやく、まともに相手をする価値のありそうな人間が現れた。
「貴様……なかなか面白いものを持っているな」
「そうか。お前にもこれが『見える』か」
男はわずかに冷酷な笑みを浮かべた。
(何だ……この感覚は?)
俺は内心で男を冷徹に観察する。
身体から何かを物理的に放出しているように見える。単なる殺気ではない。
(なるほど。達人級の武術家が放つ『発勁』や『氣』の応用か。闘気を極限まで高め、肉体の外側に強固な鎧として物質化させている……。クク……面白い。まだこんな芸当ができる人間がいたとはな)
「来い」
俺は男に向かって顎をしゃくった。
男は静かに構える。その全身から立ち上るオーラが、一段と輝きを増した。
「後悔するなよ」
次の瞬間、男の姿が消えた。
いや、正確には違う。超高速の踏み込みによって、視界から外れたのだ。
「ほう」
俺はわずかに首を傾けた。
直後、俺の耳元を空気を切り裂く鋭い音が通り過ぎる。その動き、その速度は、先ほどまでの連中とは比べ物にならないほど高精度だった。
「避けたか」
男は驚愕に目を見開いて呟く。
「俺の『隠』を併用した接近を見切るとはな……!」
「見切る? 貴様、その程度の手品で、俺の目を欺けると思ったか?」
男の表情に焦りが浮かぶ。
そして、男はさらに強い力を込めた。男のオーラが、その手の周囲に不気味な光として集まり始める。
それは通常の打撃とは異なる、目に見えない『刃』の形を作り出していた。
(何だ? 今度は何をするつもりだ?)
男が鋭く手を振るう。
放たれたのは、真空の刃――いや、オーラによって具現化された『不可視のチェーンソー』。肉体を引きちぎり、骨を容易く解体するための凶悪な念能力。
「バラバラになりな!」
男が叫び、不可視の刃が俺の胸元に直撃した。
――ギギギギギギギギギギギギッ!!!
周囲に、金属同士を激しく擦り合わせるような、耳を劈く不快な爆音が響き渡る。男の能力が、俺の肉体を切り刻もうと超高速で回転しているのだ。
だが。
俺の服こそ切り裂かれたものの、その下にある鋼の皮膚には、赤い傷ひとつすらついていなかった。逆に、男が具現化した刃のオーラが、俺の肉体の硬度に負けて「パキンッ!」とガラスのように砕け散った。
「ひっ……!?」
男の顔から血の気が引いていく。
「ほう。なるほど、なかなか面白い手品(マジック)だ」
俺はそれを見ながら、冷酷に笑った。
「手品だと……!? 俺の具現化した刃を、生身で弾いただと……!?」
「違うのか? 小細工を弄したところで、俺のこの『肉体』の前には無力」
俺は一歩前へ出る。
男は恐怖に顔を歪め、再び力を込めて後退しようとしたが、すでに遅い。
俺の放った軽い平手打ちが、男の顔面を捉えた。
――ドシャァッ!!!
ただの平手打ち。それだけで男は地面に叩きつけられ、激しくバウンドして膝をついた。口から大量の鮮血と歯を吐き出しながら、男は信じられないという顔で俺を見上げる。
「ば、馬鹿な……。オーラを纏ってもいない生身の人間が……。お前……一体何者なんだ……?」
「何度も言わせるな」
俺は哀れな敗北者を見下ろした。
「範馬勇次郎だ」
「範馬……勇次郎……?」
男は荒い息を吐きながら、恐怖で錯乱する頭の中で、何かを思い出したように目を見開いた。
「お前……念を知らないのか……? それでその強さ……。まさか、協会の刺客……『プロハンター』なのか……?」
「……何?」
その言葉に、俺の思考が完全に停止した。
プロハンター。
その聞き覚えのある単語。
そして、男が口にした「念」という言葉が、記憶の奥底に眠っていた前世の知識を、爆発的に呼び起こす。
(……待て)
(プロハンター? 念だと?)
(ハンター試験……ザバン市……)
(まさか……)
俺の頭の中に、前世で見たある漫画の記憶が鮮明に浮かび上がる。
念能力。ハンター協会。幻影旅団。キメラアント。そして、ゴンやキルアたち。
(……おいおい。嘘だろ)
(道理で、いくら探しても『神心会』も『徳川のじっちゃん』も見つからねェわけだ)
(ここはバキの世界じゃねェーのかよ!!)
(HUNTER×HUNTERの世界……だと?)
俺は内心で、天地がひっくり返るほどの衝撃を受けていた。
まさか、自分が生まれ変わった世界を、前提から根本的に勘違いしていたとは。
しかし、そんな動揺を顔に出す範馬勇次郎ではない。
俺は怯える男を見下ろしたまま、獰猛に、かつてないほど愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
「クク……クハハハハ! そういうことか……!」
男は、突如笑い出した俺を、狂人を見るような目で警戒している。
「ならば話は早い」
俺は暗い夜空を見上げた。
念能力者が蠢く世界。ということは、俺の想像を遥かに超える、まだ見ぬ強者がいくらでもいるということだ。
幻影旅団、ヒソカ、暗殺一家ゾルディック、ハンター協会、十二支ん……そして、キメラアントの王。
「ククク……クハハハハハ!」
俺の口元が、皮膚が裂けんばかりに吊り上がる。
背中の筋肉が、歓喜によって『鬼の貌』を形作っていくのが分かった。
「面白くなってきやがった……!!」
こうして俺は、ようやく自分がいる世界の正体を知った。
だが、それは俺にとって絶望などでは断じてない。むしろ、退屈に死にかけていた魂が、歓喜の産声を上げるほどの朗報だった。
だが――強者どもと対等以上に渡り合うためには、最低限の「礼儀」が必要だ。
先ほどの男が見せた、体表から生命エネルギーを放出する技術。あれがこの世界の「念」と呼ばれる基本ルールなのだろう。
ならば、やるべきことは一つ。
俺は目を閉じ、己の肉体の内側へと意識を向けた。
常人であれば数年、天才と呼ばれる人間でも数ヶ月を要する「精孔」の開放。生命の門を開くその作業を、範馬勇次郎の肉体スペックが拒むはずがない。
――ドクン。
心臓が大きく一度、拍動する。
次の瞬間、全身の細胞が一斉に産声を上げ、制御を失った莫大な生命エネルギー(オーラ)が、まるで火山が噴火したかのように周囲へ吹き荒れた。アスファルトがパキパキと音を立てて裂けていく。
「な、なんだこの量は……!? 化け物め……!!」
地面に倒れていた男が、その桁外れのオーラの奔流に肌を焼かれ、絶叫しながら気絶した。
だが、暴走するエネルギーなど、この肉体の前にはただの「躾のなっていない猟犬」に過ぎない。
俺がフッと息を吐き、肉体を引き締めると、荒れ狂っていた莫大なオーラは一瞬にしてピタリと静まり返り、俺の皮膚の表面を寸分の狂いもなく均一に、そしてあまりにも濃密に包み込んだ。
念能力における基礎中の基礎であり、至高の防御。
『纏(テン)』、そして『練(レン)』の同時完了。
それは、世界の理(ルール)をたった数秒で理解し、完全に我が物とした瞬間だった。
しかし、俺がやるのはここまでだ。
オーラを水に変えたり、雷に変えたり、あるいは具現化して武器にするような「発(ハツ)」の領域――。そんな小細工(手品)を弄するつもりは毛頭ない。
なぜか。
この世で最も硬く、最も鋭く、最も美しい「範馬勇次郎の肉体」がここにある。
これ以上の武器など、この世界のどこを探しても存在しない。
ただ自身の肉体スペックを信じ抜き、オーラという鎧を纏った拳で、すべての理不尽を叩き潰す。それだけでいい。
「クク……待っていろ、強者ども。この範馬勇次郎が、直々に喰らいに行ってやる」
俺は再び歩き出した。
その背中には、世界そのものを恐怖で支配せんとする、圧倒的な覇気が宿っていた。
◇
ククルーマウンテンの奥深く。
不気味な静寂が支配するゾルディック家の謁見の間に、一枚の依頼書がもたらされていた。
巨大な石造りの椅子に腰掛ける現当主シルバ・ゾルディック、そしてその傍らで腕を組み、静かに目を閉じる老暗殺者ゼノ・ゾルディック。二人の視線の先にあるのは、かつてトリックタワーに収監されていた一人の「解体屋」のデータだった。
「……解体屋(バラシヤ)ジョネス、か。いや、今は違うな」
ゼノが低く、しかし部屋の隅々にまで通る声で呟く。
提示された最新の報告書には、信じがたい一連の事件が記録されていた。
ザバン市を実質的な暴力で支配し、市長を脅迫して個人間で『平和条約』を結ばせた前代未聞の怪物。
その圧倒的な破壊の爪痕から、今や裏社会ではこう呼ばれている。
――「壊滅屋(コワシヤ)」ジョネス。
「ザバン市長が送り込んだ並の念能力者共を、文字通り肉体の力だけで消し去ったそうだ。オーラを纏うことすら知らぬまま、純粋な膂力のみでな」
シルバが銀髪をわずかに揺らし、鋭い眼光を光らせる。
念能力という概念すら無視して世界を揺るがすその存在は、すでに世界の均衡を脅かす特異点となっていた。
「フム。その後、念を知って即座に習得したようじゃが……能力(発)を作る素振りすら見せんと聞く。己の肉体こそが至高と信じて疑わんのじゃろうて。大きく出たものじゃ」
ゼノが不敵な笑みを浮かべ、ゆっくりと目を開いた。
どれほどの天才だろうと、どれほどの怪力だろうと、ゾルディック家にとってはただの「標的」に過ぎない。
「相手が何者であれ、我らの仕事に私情は挟まぬ。これほどの報酬、そしてこれほどの『大物』、断る理由は無いな」
シルバが立ち上がり、圧倒的な暗殺者のオーラを部屋中に満たす。
世界最強の暗殺一家が、自らの肉体のみを信じる「地上最強の生物(勘違い)」へと牙を剥く。
「――仕事だ。引き受けよう」
暗闇の中で、シルバの冷徹な声が響く。
この恐るべき「壊滅屋」の首に、天文学的な額の懸賞金を懸けた依頼主の正体は――まだ深い霧の向こう側に隠されていた。