ザバン市
「……ふぅ、これでようやく、あの悪夢から解放される」
ザバン市庁舎の一室で、市長は深くソファーに身を沈め、至福の笑みを浮かべていた。
全財産を投げ打つ覚悟で、世界最強の暗殺一家「ゾルディック家」への依頼を完了したのだ。
現当主シルバと、伝説の暗殺者ゼノ。
あの二人が動いた以上、自分を脅迫して『平和条約』などというふざけた契約を結んだあの怪物――「壊滅屋」ジョネスの命は、あと数時間のものでしかない。
「いくら規格外の力を持っていようと、暗殺のプロにかかれば一瞬よ。ククク……安心したぞ」
市長がワイングラスを傾け、勝利を確信していたその頃。
◇
人気のない荒野に、三人の男が向かい合っていた。
一人は、ジョネス。
そして、対峙する二人はシルバとゼノ・ゾルディック。
「お前が今回の標的か」
シルバが静かに口を開いた。
「ほう。俺を知っているのか?」
ジョネスは口元を吊り上げた。
「壊滅屋……だったな」
「そんなことはどうでもいい」
ジョネスは首を鳴らした。
メキメキと、およそ人間の骨とは思えない重低音が荒野に響く。
「お前たち、なかなかいい面構えをしているじゃないか」
その視線は、二人の身体を品定めするように動く。
「なるほど……ただ者ではないな」
シルバは無言。ゼノは細めた目でジョネスを観察していた。
「ふむ。確かに妙な男じゃのう」
ゼノが呟く。
見た目だけなら、特別に大柄というわけでもない。
しかし――異常だった。
眼前の男から放たれる、文字通り大気を歪ませるほどの『熱量』。
肉体の密度、立ち姿、呼吸。その全てが、既存のどの生物の範疇にも収まらない。
まるで、剥き出しの大型肉食獣が、獲物を前にしてなお完全に弛緩しているかのような、絶対的な強者の佇まい。
「シルバ」
「分かっている」
二人は互いに視線を交わす。
相手は危険。否――「危険」という二文字では生温い。
暗殺者としての本能が、全身の毛穴から冷や汗を噴き出させ、かつてない警鐘を鳴らしていた。
「では、始めるとするか」
ジョネスが一歩踏み出す。
その瞬間だった。
シルバとゼノが同時に動いた。
常人の動体視力では捉えることすら不可能な、音速を超える左右からの同時挟撃。
シルバの剛腕がジョネスの顔面へと迫り、ほぼ同時にゼノの鋭利な手刀が、心臓を抉る軌道で別方向から襲いかかる。
――しかし。
「ぬるい」
ジョネスは微動だにしなかった。
正確には、わずかに首と上体を傾げただけ。
世界最高峰の暗殺技術による一撃を、まるで飛んでくる羽虫でも避けるかのように、最低限の挙動で見切ったのだ。
直後。
ドンッッッ!!!
爆音と共に、シルバの巨体がくの字に折れ曲がった。
「っ……がふっ!?」
ジョネスの、ただの『平手打ち』が、シルバの堅牢な防御を容易く打ち破り、その強靭な肉体を軽々と後方へと吹き飛ばしていた。
「ほう……!」
ゼノの目が細くなる。
今の一撃――ただの腕力ではない。
体重移動、筋肉の連動、地平を掴む足裏の構造。
洗練され尽くした『暴力の結晶』。
だが、ゼノを真に驚愕させたのは、その攻撃の重さではなく、ジョネスの周囲を漂う『気』の性質だった。
(な、何じゃ……このオーラは……!?)
それは、念能力者特有の洗練されたオーラではない。
言わば、生肉。
あまりにも純粋で、あまりにも凶暴な、野生の生命力そのものが物理的な圧力となって、肌をビリビリと突き刺してくる。
念能力を全く纏っていないにもかかわらず、その質量は熟練の念能力者の『練』を遥かに凌駕していた。
「シルバ、気を抜くでないぞ! こ奴、文字通りの化物じゃ!」
「……分かっている、親父」
吹き飛ばされたシルバが着地する。
その口元からは、一筋の血が流れていた。
二人の表情から、完全に余裕が消え失せる。
だが、ジョネスはこれ以上ないほど愉しそうだった。
「いいぞ。今のは少しばかり効いた」
実際には、蚊に刺されたほどのダメージもない。
それでもジョネスは笑っていた。
HUNTER×HUNTERの世界に転生して以来、ようやく自分の肉体に「まともな反応」を返してくれる達人に出会えたのだから。
「もう少し楽しませてくれよ。ゾルディック家」
シルバとゼノは、再び動いた。
今度は単なる速度の攻防ではない。
互いの影に隠れ、呼吸を同調させ、相手の死角を無限に生み出すゾルディック家直伝の暗殺連携。
シルバが正面から重圧をかけ、ゼノがその隙を鋭く突く。
一人ではなく、二人。ゾルディック最強の父子だからこそ成立する、絶対の必殺領域。
「ほう」
ジョネスは目を細めた。
先ほどまでとは違う。一つ一つの動きに一切の無駄がなく、互いの肉体を完全に使いこなしている。
「面白い。なかなかいいコンビネーションだ」
ガガガガガガッッッ!!!
烈風が吹き荒れる。
シルバの拳がジョネスの腹筋を捉え、ゼノの神速の打撃がジョネスの首筋に突き刺さる。
わずかに後退するジョネス。
打撃の手応えは確かにある。
シルバもゼノも、これなら骨の数本は砕いたと確信した。
――そう、思った瞬間。
「……いいだろう」
ジョネスの声が、二人の鼓膜を震わせた。
それは、地底から響く地鳴りのような重低音。
「お前たちには、少しだけ見せてやる。地上最強の、その片鱗をな」
ゴ、ゴゴゴゴゴゴゴ……!!!
大気が、一瞬にして凝固した。
ゾルディック家の二人が、本能的な恐怖で同時に飛び退く。
信じがたい光景だった。
ジョネスの広背筋が、まるで生き物のようにうごめき、隆起し、異常な形に盛り上がっていく。
皮膚の下で血管が怒張し、複雑に絡み合った筋肉の紋様が、明確な一つの『貌』を形成した。
背中に浮かび上がる、冷酷に微笑む鬼の貌。
「な……ッッ!?」
ゼノの目が見開かれ、顎が戦慄に震える。
シルバの全身から、文字通り滝のような冷や汗が噴き出した。
(ば、馬鹿な……オーラによる具現化ではない……! 純粋な筋肉の形状だけで、これほどの……これほどの絶望を植え付けるというのか……!?)
肉体そのものが変貌したわけではない。
それなのに、目の前の男から放たれるプレッシャーは、先ほどまでの比ではなかった。
生物としての格の差。
踏み潰される虫ケラが、巨象を見上げるかのような絶対的な敗北感が、世界最高峰の暗殺者の心をへし折りにきていた。
「さあ、続けようか」
ジョネスが肩を回した。
次の瞬間――シルバの視界から、ジョネスの巨躯が完全に消失した。
(消えただと――!? 絶(ぜつ)ではない、純粋な踏み込みの速度だけで――)
「っ!」
反応した時には、すでに鼻先。
――ドゴォォォォンッッッ!!!
爆音。
ジョネスの放ったごく平凡な正拳突きが、シルバの交差した両腕を、骨ごと粉砕せんばかりの勢いで吹き飛ばした。
シルバの身体が、荒野の地面を何十メートルも削りながら転がっていく。
「シルバッッ!!」
ゼノが叫び、決死の覚悟で『龍頭戯画(ドラゴンヘッド)』のオーラを放つ。
しかし、ジョネスはその光り輝く龍のオーラを、ただの『手繰り寄せ』で掴み取り、そのまま圧倒的な力でゼノごと地面に叩きつけた。
「ぐっ……はあぁっ……!」
ゼノが血を吐きながら距離を取る。
先ほどまで完璧に成立していた連携が、木端微塵に破壊されていた。
シルバとゼノ。
世界を震え上がらせる二人の暗殺者が、念能力すら使わない一人の男に、文字通り子供扱いにされている。
しかも、ジョネスは未だ呼吸一つ乱しておらず、完全に余裕を残していた。
「どうした? もう終わりか?」
ジョネスは、スペックのように邪悪で、しかし純粋な笑みを浮かべた。
「先ほどの連携は悪くなかったぞ。だが、俺を退屈させないためには……まだ足りん」
その言葉に、ゼノは歯を食いしばりながら、冷徹に現状を分析していた。
(何という肉体じゃ……強化系などという生易しい概念ではない。あのアゴ、あの拳、あの背中……あれは人間という枠組みそのものを超えた、別の『生命体』じゃ……!)
勝てない。
暗殺者としての冷徹な本能が、これ以上の戦闘は『自殺』だと告げていた。
ゾルディックは割に合わない闘いはしない。
「シルバ、ここは一度引くぞ! 仕事の範疇を超えておる!」
「……ああ。無念だが、同意だ」
二人は同時に後方へ跳び、煙のようにその場から気配を消して撤退した。
ジョネスは追撃しなかった。
「何だ? もう帰るのか?」
去っていく二人の背中を見つめ、ジョネスは興味を失ったように鼻を鳴らした。
「フン。さすがは達人、逃げ足の速さだけは柳龍光や渋川剛気並みだな」
ジョネスは、この刺客を送り込んできた『元凶』の顔を思い浮かべる。
「そういえば……あの市長の野郎、俺と『平和条約』を結んだはずだよなァ……?」
メリメリと拳を握りしめ、ジョネスの顔に暗い狂気の笑みが浮かぶ。
◇
その頃、市庁舎。
市長は執務室でくつろいでいた。
ゾルディック家が動き出した以上、もう心配することはない。そう考えていた。
しかし――。
バガァァァァンッッッ!!!
重厚な防弾仕様の扉が、まるで紙屑のように吹き飛んだ。
「邪魔するぞ」
突然の爆音と共に、部屋の入口から声がした。
市長がガタガタと震えながら顔を上げる。
そこに立っていたのは、ゾルディック家を退けた怪物――ジョネスだった。
「なっ……!」
市長の顔から血の気が引く。
「な、なぜ貴様がここにいる!? ゾルディックは……世界最強の暗殺者はどうした!?」
「なぜ?」
ジョネスは首を傾げた。
「お前が俺を呼んだんじゃないのか?」
「ち、違う! 私は何も……!」
「ほう」
ジョネスはゆっくりと近づいた。
その一歩ごとに、床の絨毯がみしみしと音を立てて沈み込む。
「俺が滞在している間は、互いに手を出さない。そういう約束(平和条約)だったよな?」
市長は言葉を失う。
「それを破って、暗殺者を差し向けた。……どういうつもりだ?」
ジョネスの顔から笑みが消え、範馬勇次郎を彷彿とさせる圧倒的な眼光が市長を射抜く。
「ま、待て! 話せば分かる! 誤解だ!」
「話なら聞いてやる」
ジョネスは市長の机に手を置いた。
それだけで、頑丈なマホガニー製の机がメキメキと自重で潰れていく。
「ただし、その前に少しばかり『お仕置き』が必要だな」
「ひっ、ひぃぃぃぃぃっっ!?」
その後、市長は自らの愚行を、骨の軋む痛みと共に十分すぎるほど後悔することになった。
◇
しばらくして。
市庁舎には、再びジョネスと、全身を生々しい包帯でぐるぐる巻きにされた市長がいた。
「……もう二度と、あなたに手を出すような真似はいたしません。地球がひっくり返っても、絶対に……」
市長は、涙と鼻水に塗れた震える声で告げた。
「そうか」
ジョネスは高級な椅子に深く腰掛け、不敵に足を組んだ。
「なら、改めて約束を交わそうじゃないか」
「や、約束……ですか?」
「そうだ。俺はこの街に滞在する。お前たちは俺に手を出さない。俺も、お前たちに手は出さん」
以前と同じ内容。
だが、肉体の説得力を叩き込まれた今の市長に、異論などあろうはずがなかった。
「もちろんです! その条件で結構です! 街の予算も全てあなたのために使います!」
「よし。これで平和条約は成立だ」
ジョネスは満足げに頷いた。
そして、ふと思い出したように続ける。
「そういえば、あの二人を雇った依頼はどうするつもりだ?」
「す、すぐに取り消します! 違約金をいくら払ってでも、今ここで!」
「そうか。ならいい」
ジョネスは立ち上がった。
「俺はまだ、この街に用がある。余計な邪魔だけはするなよ」
「は、はいぃっ!」
ジョネスはそのまま市庁舎を後にした。
その圧倒的な背中を見送る市長の顔には、生きた心地のしない絶望が色濃く残っていた。
◇
数日後。
ザバン市では、ある噂が瞬く間に広まり、裏社会を震撼させていた。
壊滅屋ジョネス。
その男が、あの伝説の暗殺一家、ゾルディックの現当主シルバとゼノの二人を同時に相手取り、文字通り圧倒したという話だ。
しかも、その戦いで男の背中には、見る者の精神を破壊するほどの恐ろしい『鬼の貌』が浮かび上がったという。
「なあ、聞いたか? 壊滅屋ジョネスの話」
「ああ、ゾルディック家を退けたって話だろ? 生身の人間業じゃねえよ……」
「それだけじゃない。背中に本物の鬼の顔が浮かび上がったらしいぞ」
「鬼の貌……オーガ、か」
噂は噂を呼び、畏怖を込めて、ジョネスには新たな呼び名が付けられることになった。
『鬼の貌(オーガ)』
壊滅屋ジョネス。またの名を、オーガ。
その悪名は、ザバン市から世界中へと拡大していくことになる。
◇
一方、ククルーマウンテン、ゾルディック家。
シルバは自室で、包帯の巻かれた己の腕を見つめ、あの戦いを思い返していた。
「……あの男、ジョネスか」
思い浮かぶのは、あの異常な肉体の密度。そして、背中に浮かび上がった鬼の貌。
(あれほどの肉体を持つ人間が、この世に存在したとはな……)
確かに自分の拳は届いていた。
しかし、それは巨大な岩盤を素手で殴るかのような無力感しか生まなかった。
さらに、あの威圧感。
ただの殺気や念のオーラではない。
生物としての絶対的な『格』の差が生む、魂を揺さぶられるような恐怖。
「……冷や汗をかかされたのは、いつ以来だ」
シルバが小さく呟く。
その隣では、ゼノも静かに茶を飲んでいたが、その手はわずかに震えていた。
「わしもじゃよ。あの男の気……あれは尋常ではなかった。念の扱い云々の話ではない」
「ああ。純粋な身体能力、肉体そのものが、すでに生物としての限界を超えている」
二人は顔を見合わせた。
ゾルディック家の長い歴史においても、これほどの怪物に出会ったことはない。
「壊滅屋ジョネス……オーガか」
シルバはその名を、深く脳裏に刻み込んだ。
「次に遭遇した時は、家を挙げてかからねば全滅しかねんぞ」
ゼノは小さく笑ったが、その目は笑っていなかった。
「まったくじゃ。あの鬼の貌……夢に出そうじゃて」
◇
その頃、当のジョネスはというと。
ザバン市の街の一角で、いつも通り退屈そうに歩いていた。
「オーガ、か……」
どうやら自分に新しい呼び名が付いたらしい。
「ククク……オーガ(地上最強の生物)か。悪くない」
ジョネスは不敵に笑った。
自分が範馬勇次郎そのものであるという確信が、また一つ深まった瞬間だった。
「好きに呼ぶがいい」
こうして、ザバン市長によるゾルディック家への依頼は正式に取り消され、天文学的な違約金が支払われた。
電話の向こうで取り消しを受けたシルバたちが、内心で「あの化物とこれ以上戦わずに済む」と安堵していたことは、市長には一生預かり知れぬ事実である。
「ククク……」
ジョネスは街を歩きながら笑う。
「いいぞ。このHUNTER×HUNTERの世界も、捨てたものではないな。まだまだ骨のある達人が隠れていやがる」
己の肉体スペックだけを信じ、範馬勇次郎だと信じて疑わず、勘違いのまま世界を壊滅させていく怪物の歩みは、誰にも止められなかった。