俺の名前はエンジ。漢字で書くと炎慈。カントー地方の南西に位置する火山島、グレンタウンで生まれ育った、現在八歳の少年である。
もっとも、生まれ育ったというのは少々語弊がある。何しろ俺には前世の記憶があるのだ。日本という国で生まれ、働き、趣味のゲームやアニメに金と時間を注ぎ込んでいた、どこにでもいるポケモンオタク。それがどういうわけか死んでしまい、気がつけばポケットモンスターの世界に生まれ変わっていた。
初めて本物のポッポを見たときは感動した。初めて本物のコラッタを見たときも感動した。初めて野生のコラッタに弁当を奪われたときは泣いた。あいつら、ゲームだと序盤の雑魚扱いされがちだけど、現実だと結構すばしっこいし歯が怖い。
そして、人生で初めて生のポケモンバトルを見たとき、俺は思った。
「……これ、よく死人が出ないな?」
いや、本当に。
だって考えてもみてほしい。電撃を浴びせ、炎を吹きつけ、岩を叩きつけ、時には凄まじい勢いで相手に突進する。そんな戦いを日常的に行っているのである。
ゲームではHPがゼロになれば戦闘不能。ポケモンセンターに連れていけば回復して元気いっぱい。しかし、現実のポケモンがゲームとまったく同じ仕組みで動いているわけではない。
ポケモンは強靭だ。人間とは比較にならない頑丈さを持ち、わざによる攻撃にも耐える。不思議な生命力だって備えている。それでも怪我はするし、重傷を負えば治療が必要になる。
ポケモン同士の戦いが成立しているのは、彼らの頑丈さだけが理由ではない。
トレーナーが危険を判断し、攻撃の強さを調節し、致命的な状況を避けるための訓練を積んでいるからだ。
そのことを理解したとき、俺はポケモントレーナーという職業に対する認識を改めた。
特に、俺の故郷にいる炎タイプの専門家について。
そう。グレンタウンのジムリーダー、カツラさんである。
◇
「エンジ! あんたまた温泉に行くのかい?」
「うん! 今日はお小遣いで温泉まんじゅうも買う!」
「まったく、八歳のくせに年寄りみたいな趣味してるねぇ」
「温泉は年齢関係なく気持ちいいんだよ!」
母さんに手を振り、俺は家を飛び出した。
グレンタウンは小さな島だが、活火山を抱えているだけあって地熱が豊富である。町外れには地元住民が利用する温泉施設があり、俺も物心ついた頃から足繁く通っていた。
前世で温泉旅行が好きだったというのもあるが、何よりこの世界の温泉は面白い。
温泉の近くにポケモンがいるのだ。
岩場ではイシツブテが日光浴をしているし、温かい地面の上では野生のポケモンが昼寝をしている。もちろん、人間用の浴場に勝手に入ってくるわけではないが、温泉施設の裏手にある自然の湯だまりには野生のポケモンが時折やってくる。
そして、そこで俺は運命の出会いを果たした。
「……ん?」
「コォン……」
湯けむりの向こうに、赤茶色の毛並みが見えた。
小さな三角形の耳。つぶらな瞳。くるりと巻いた前髪。そして、ふさふさとした六本の尻尾。
ロコンだった。
しかも、湯だまりの縁に前足を置き、気持ちよさそうに目を細めている。
「……ロコンって温泉に入るんだ」
「コン?」
俺に気がついたロコンが顔を上げた。
目が合う。
しばし見つめ合う。
ロコンは俺に興味を失ったらしく、再び温泉へと顔を向けた。
そのまま前足で湯を軽くかき、満足そうに喉を鳴らす。
なんだこの生き物。
可愛すぎるだろ。
「なぁ、そこ気持ちいい?」
「コォン」
「そっかぁ。いいなぁ」
ロコンは尻尾をゆっくり揺らした。
俺は少し離れた岩に腰を下ろした。野生のポケモンに不用意に近づかない。これは学校でも家庭でも繰り返し教わる基本中の基本だ。
可愛い見た目をしているが、ロコンは立派な炎タイプのポケモンである。驚かせれば火を吐くかもしれない。
そして、目の前のロコンはどうやら俺のことをそれほど警戒していないらしい。
「俺、エンジっていうんだ。よろしくな」
「コン」
「お前、温泉好きなの?」
「コォン!」
やたら元気のいい返事が返ってきた。
「そっか。俺も好きなんだよ。気が合うな!」
ロコンは満足げに目を閉じた。
こうして俺たちは、温泉好きという共通の趣味を通じて知り合った。
我ながら、ポケモンとの初めての交流としては随分と渋い。
◇
それからというもの、俺は毎日のように温泉へ通うようになった。
もちろんロコンに会うためだ。
どうやらあのロコンは近くの岩場を縄張りにしているらしく、かなり頻繁に湯だまりへやってくる。
最初の一週間は眺めるだけだった。
二週間目には、俺が近づいても逃げなくなった。
三週間目になると、何故か俺の隣で昼寝するようになった。
そして一ヶ月後。
「……重い」
「コォン……」
俺の膝の上でロコンが寝ていた。
何ということでしょう。
野生のロコンが膝に乗ってくるようになりました。
やったぜ。
しかも、こいつの体毛がまた素晴らしい。ふわふわで柔らかく、ほんのりと温かい。
ロコンの体内には炎を生み出す器官がある。だから体温も一般的な哺乳類のそれとは少々違うらしいが、普段の毛皮は心地よい温かさだ。
炎タイプだからといって、全員が常に灼熱というわけではない。
ロコンのように普通に抱き上げられるポケモンもいれば、近づくだけで危険なポケモンも存在する。
そして俺は、その違いについて以前から興味を持っていた。
「なぁ、ロコン」
「コン?」
「お前の炎って、どれくらい熱いんだ?」
「コン!」
ロコンが口を開けた。
「いやいやいや! ここで吐かなくていいから!」
「コン?」
「危ないから! 温泉施設が火事になったら俺が怒られる!」
慌てる俺を見上げ、ロコンは不思議そうに首を傾げた。
どうやら、俺が炎を見たがっていると勘違いしたらしい。
……うん。可愛い。
可愛いが、俺の発言を正しく理解してくれるまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
◇
俺が炎タイプの専門トレーナーになろうと決めたのは、実のところロコンと出会う前からだった。
理由は単純。
炎タイプが好きだから。
ヒトカゲ、ガーディ、ロコン、ポニータ、ブーバー。どいつもこいつも格好よかったり可愛かったりするし、炎を操るという能力そのものが浪漫の塊である。
だが、実際にポケモンが生きているこの世界では、炎タイプの魅力はそれだけではない。
ある日のこと。
俺はグレンジムの見学会に参加していた。
カツラさんが地元の子供たちにポケモンバトルを見せてくれる、年に数回の催しである。
「よぉし、諸君! 今日は特別に、わしのブーバーの実力を見せてやろう!」
「ブォォッ!」
カツラさんの隣に現れたのは、全身が赤と黄色に彩られた、炎を思わせる姿のポケモン。
ブーバー。
体温は実に1200度にも達するという、とんでもない生き物だ。
その姿を見た瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
炎のように揺らめく身体の表面。周囲に立ち上る陽炎。暖房器具とは比較にもならない熱気。
……いや待て。
1200度?
そんなものが普通に目の前にいるのか?
普通なら近くのものが次々と燃えたり、溶けたりしてしまうのでは?
しかし実際には、ブーバーの足元の床が溶けることもなければ、近くのカツラさんが火傷を負うこともない。
不思議な光景だった。
もちろん、まったく熱くないわけではない。観客席は十分な距離が確保されているし、ブーバーの周囲には目に見える陽炎が立っている。
つまり、俺たちの知っている物理法則だけでは説明しきれない何かがあるのだろう。
ポケモンの身体には、まだまだ未知の仕組みがある。
「さて、ブーバー! 相手が飛び込んできたらどうする?」
「ブォッ!」
「そうじゃ! 無理に迎え撃つ必要などない! 相手が接近してくるなら、こちらの身体の熱も立派な武器になる!」
そこで俺は、はっとした。
そうだ。
ブーバーには『ほのおのからだ』という特性がある。
接触してきた相手を火傷させることがあるという、ゲームでは確率で発動する効果だ。
でも、現実なら?
目の前にいるのは、文字どおり全身が灼熱のポケモンだ。
仮にカイリキーが思い切り殴りかかったらどうなる?
相手が十分に頑丈だったとしても、ブーバーの身体に触れた拳は無事で済むのか?
いや、そもそもブーバーの体温が1200度なら、接触する前から相当な熱を受けるはずだ。
もっと言えば、マグマッグなんてどうだ。
あいつは身体そのものが溶岩でできている。
近接攻撃を仕掛けるということは、溶岩の塊に向かって殴りかかるのと同じではないか。
炎タイプのポケモンは単に火を吐くだけじゃない。
その身体の構造自体が、相手にとって非常に厄介な防御手段になるのだ。
「……あれ?」
そこで、もう一つの疑問が浮かんだ。
「じゃあ、カツラさんって……めちゃくちゃ凄いんじゃないか?」
思わず口に出してしまった。
「む? 何か言ったかね、少年!」
「あ、いえ! ブーバーってすごく熱いのに、カツラさんの近くにいても火事にならないんだなって!」
「ほほう!」
カツラさんが嬉しそうに笑った。
「よいところに気がついたのう!」
そして、ブーバーへ視線を向ける。
「ブーバー! 少し熱を上げてみせい!」
「ブォォォッ!」
次の瞬間、ブーバーの身体を包む陽炎が大きく揺らいだ。
ぶわっと熱風が押し寄せる。
「うわっ!?」
客席から驚きの声が上がった。
「よし、戻せ!」
「ブォッ」
熱気が収まった。
「どうじゃ? 違いがわかったかね?」
「……はい!」
「ポケモンという生き物は実に不思議じゃ。特に炎タイプは、体内で生み出す熱や炎を自在に操る者が多い。しかし、だからといって何でも好き勝手にできるわけではない!」
カツラさんは指を一本立てた。
「大切なのは、そのポケモンの身体を理解することじゃ。どこまで熱を抑えられるのか、どれだけの炎を出せるのか、何を苦手とするのか。それを知らずに扱おうとすれば、ポケモンも周囲の者も危険にさらしてしまう!」
なるほど。
思っていた以上に奥が深い。
ゲームなら『かえんほうしゃ』を選択すれば、それで攻撃は成立する。
しかし現実では違う。
技を撃つ方向。炎が広がる範囲。周辺の可燃物。相手のポケモンの状態。そして、炎を使うポケモン自身の体調。
それらを踏まえて指示を出さなければならない。
何しろ、自分のポケモンが持つ危険な能力を、安全に使いこなさなければならないのだから。
俺は改めてブーバーを見つめた。
あれだけの熱を扱うポケモンを、何事もないように従わせているカツラさん。
……すっげぇ。
ゲームの中では七番目のジムリーダー。
でも、この世界では長い年月をかけて炎タイプのポケモンと向き合ってきた、本物の大ベテランなのだ。
ちょっと憧れてしまった。
◇
その日の夕方。
俺はいつもの温泉へ向かい、ロコンに話しかけていた。
「なぁ、ロコン。俺、炎タイプのトレーナーになりたいんだ」
「コン?」
「カツラさんみたいに、炎タイプのことを何でも知ってて、ちゃんと扱えるトレーナー」
ロコンは俺の膝に顎を乗せた。
六本の尻尾がゆったりと揺れている。
「でもさ、俺、炎タイプって思ってた以上に難しいと思うんだよな」
「コォン」
「ゲームだったらさ、強い技を覚えさせて、相性を考えて戦えばいい。でもこっちじゃそれだけじゃダメなんだ」
俺はロコンの頭を撫でた。
「例えばブーバーと一緒に暮らすなら、ちゃんとした設備が必要だろうし、マグマッグなんて普通の家に連れて帰れるかもわからない。ポケモンが強いってだけじゃ、いいトレーナーにはなれないんだよな」
「コン」
「それに、相手を火傷させるのって凄く強いと思うけど、強いからって何も考えずに使っていいわけじゃないし」
前世のゲームでは、火傷は便利な状態異常だった。
相手の体力を削り、物理攻撃を弱める効果がある。
だが、現実の火傷は痛い。
俺だって子供の頃、熱いやかんに触れて火傷したことがある。ほんの一瞬触れただけでも、結構な痛みだった。
あれをポケモンバトルで使う。
相手もポケモンだから人間とは耐久力が違うとはいえ、痛みを感じないわけじゃない。
ならばこそ、相手を必要以上に傷つけないようにする責任がある。
強力なポケモンを使うなら、その力がどれほど危険なのかを理解していなければならない。
それが俺の考える、炎タイプの専門トレーナーだった。
「……なんか難しい話になっちゃったな」
「コン!」
「ん?」
ロコンが立ち上がった。
そして、俺の胸元に前足をかける。
「コォン!」
「うわっ!?」
突然顔を舐められた。
「ちょっ、くすぐったい! なんだよ、どうしたんだ!?」
「コンコン!」
ロコンは嬉しそうに鳴きながら、何度も俺の頬を舐めてくる。
その様子を見て、俺はようやく気がついた。
「……もしかして、お前も一緒に来てくれるのか?」
「コォン!」
勢いよく返事が返ってきた。
俺は目を丸くした。
そして、思わず笑ってしまった。
「そっかぁ……そっか!」
嬉しかった。
前世で何百匹ものポケモンを育ててきた。図鑑を完成させたこともあるし、対戦環境について調べたこともある。
でも、それはゲームの中の話だ。
今、目の前にいるロコンはデータではない。
温泉が好きで、人懐っこくて、俺の膝の上で昼寝をして、時々悪戯をする、一匹の生きたポケモンだ。
そんなロコンが、俺と一緒に行きたいと言ってくれている。
「じゃあさ、ロコン」
「コン?」
「俺の最初のパートナーになってくれないか?」
ロコンは一瞬だけ目を丸くした。
それから、俺の胸に勢いよく飛び込んできた。
「コォォン!」
「うおっと! ははっ、わかった! よろしくな!」
ふわふわの毛並みを抱きしめる。
温かい。
まるで、ひなたぼっこをしているような心地よさだ。
こうして俺は、人生初のパートナーポケモンを手に入れた。
名前はロコン。
性別はメス。
好きなものは温泉と、俺の膝の上で昼寝をすること。
嫌いなものは、どうやら風呂上がりに毛並みを乾かすためのタオルらしい。
……いや、そこはちゃんと拭かせてくれ。
◇
数日後。
「ほう! そのロコンがお前さんのパートナーか!」
「はい!」
「コォン!」
俺はグレンジムにやってきていた。
目的はもちろん、カツラさんへの挨拶だ。
ロコンをパートナーに迎えたこと。そして、将来は炎タイプの専門トレーナーになりたいことを伝えるためである。
「なるほどのう。炎タイプの専門家を目指すか!」
「はい! それで、もしよかったらジムの見学とか、炎タイプについて勉強させてもらえないかなって……」
「む?」
カツラさんが眉を上げた。
「ポケモンバトルではなく、勉強をしたいのかね?」
「もちろんバトルもしたいです! でも、その前にちゃんと知っておきたいんです。炎タイプのポケモンがどういう生き物なのか」
「ほうほう!」
「だってブーバーなんて体温が1200度もあるんですよね? あんなに熱いのに普段は周りを燃やさないし、でもバトルになると熱を上げられる。それってすっごく不思議だと思うんです!」
「……ふむ」
「それにマグマッグなんて体がマグマなんですよ!? どうやって人間と暮らしてるのかとか、どういう場所なら安全なのかとか、気になることがいっぱいあって!」
気がつけば、俺は夢中になって喋っていた。
好きなこととなると早口になる。
これは前世からの悪い癖だ。
カツラさんはそんな俺を黙って見つめていたが、やがて口元を大きく緩めた。
「ふぉっふぉっふぉ! 面白い!」
「えっ?」
「いや、実に面白い! 普通の子供なら強い技や格好いいポケモンに目を向けるものじゃが、お前さんはその身体の仕組みに興味があるというわけか!」
「えっと……はい」
「よかろう!」
カツラさんが勢いよく立ち上がった。
「わしのジムには、長年培ってきた炎タイプの育成記録や研究資料が山ほどある! もちろん危険な実験はさせられんが、見学や勉強くらいなら歓迎じゃ!」
「本当ですか!?」
「ただし!」
びしっと指を突きつけられた。
「一つだけ約束してもらおう!」
「はい!」
「知識を得るだけで満足してはいかん! お前さんが学んだことは、必ずそのロコンのためにも役立てるのじゃ! ポケモンの研究と育成は切り離せるものではないからのう!」
俺は腕の中のロコンを見た。
「コォン!」
ロコンも俺を見上げて鳴いた。
俺は笑顔で頷いた。
「もちろんです!」
「うむ! よい返事じゃ!」
こうして、俺のグレンジム通いが始まった。
後に俺は、この日を振り返ってこう思うことになる。
あの日から、俺の炎タイプに対する認識は大きく変わったのだ、と。
炎を強くする方法だけではない。
熱を抑える方法。
炎を安全に扱う方法。
ポケモン自身に負担をかけない育成方法。
高温の身体を持つポケモンが、どのように環境や他の生き物と共存しているのか。
学ぶべきことは山ほどあった。
けれど、そんな未来のことを当時の俺はまだ知らない。
そのとき考えていたのは、もっと単純なことだった。
「……ところでカツラさん」
「なんじゃ?」
「ロコンって温泉が大好きなんですけど、バトルの後に温泉に入れても大丈夫ですかね?」
「ふむ! 泉質や温度にもよるが、身体の状態を見てやれば問題ないじゃろう!」
「よかった!」
「ただし長湯には気をつけるんじゃぞ!」
「はい!」
「コォン!」
返事をしたロコンは、俺の腕の中で満足そうに尻尾を揺らした。
どうやら今日も温泉に行くつもりらしい。
まったく。
どこまで温泉が好きなんだ、お前は。
……まあ、俺も好きだから人のことは言えないけど。
グレンタウン生まれの炎使い、エンジ。
その冒険は、まだ始まったばかりだった。