ラノベ原作のネタバレを含みます。1年生時点でOAA、試験ルール追加などあります。
第1章万引き編(全23話)は執筆済み。毎日19時に1話ずつ投稿予定。
お楽しみいただけたら嬉しいです!
空っぽな掌
カバンの底には冷たい缶の重みがあった。誰にも見られていない。バレなければ『罪』にはならない。今までずっと、そうだったのだから。
——その確信が崩れるのは、すぐ後のことだった。
「さてはお前。万引きしたな?」
◇◇◇
数時間前、入学式の朝。
桜の花びらが1枚、制服の肩に貼りつく。払う気にもなれず、代わりに小さく舌打ちが漏れた。
私はこの『空っぽな掌』に何を掴むというのだろう。一度だけ後ろを振り返り、高度育成高等学校の門をくぐった。
入学式を終え、割り当てられた1年Cクラスの教室。
「高校生らしい学校生活を心がけるように」
教壇に立つ担任は坂上数馬と名乗り、点呼を終えると、そんなありきたりな言葉を口にした。どこかの企業の中間管理職のような風貌の男。
最後列の窓際の席に座っていた私は、耳を通り抜けていく音を聞き流しながら頬杖をつく。
なんで私がこんな学校に。
机の上の資料に目を落とす。国が力を入れている進学校、通称『高育』。卒業すれば、希望する就職先や進学先へ進めるらしい。
親に勧められて半ば適当に受けただけだった。面接も試験の出来も褒められたものじゃない。なのに届いたのは合格通知。学力は平均点付近。特筆すべき才能なんて何一つない。
親が私をここへ送り出したがった理由なら、聞かなくても分かっている。
頭をよぎったのは、『万引き』という単語だった。
強烈なスリルを味わうために毎日のように手を染めていただけ。まさかね。今まで一度もバレたことなどない。あり得ない。
視線を上げると教室は浮かれた空気に満ちていた。最後列の中央で足を机に投げ出している赤紫色の髪の男だけが、その空気から浮いていた。
面倒なことさえしなきゃいいけど。まあ、どうでもいい。適当にやり過ごしていれば、3年は過ぎていく。
◇◇◇
放課後、学生寮への帰り道。敷地内にあるコンビニに足を踏み入れた。
この学校の通貨は『プライベートポイント』。1ポイント1円の価値で、毎月1日に10万ポイントが振り込まれるらしい。欲しいものは何でも買える破格の待遇。
陳列棚の間をゆっくりと歩きながら、天井に取り付けられた防犯カメラの向きと、商品の影になる死角を計算する。もう、体が覚えてしまった癖だ。
この学校の防犯設備を確かめるだけ。そう思うことにする。ぬるい。拍子抜けするくらい。
足が止まったのは酒類コーナーの前。冷蔵ケースの向こうで、整然と並んだ缶がかすかな光を放っている。お酒に興味なんてない。なんで学校の敷地内に、こんなものが売ってるんだか。
この列だけは、歩きながら計算した通りだ。周囲に人影はなく、レジの店員は背を向けて何かの作業をしている。
音を立てないよう、冷蔵ケースの扉をそっと引く。いつもより少しだけ、慎重に。
空っぽな掌が、冷たい金属の感触を掴む。流れるような動作で、それをカバンの中へ。表情一つ変えずに。何事もなかったかのように、自動ドアを抜けて店を出る。
誰も追ってこない。誰にもバレていない。
『退学』
その2文字が浮かんだ時点で、もう考えることをやめたかった。
考えるな。余計なことは考えるな。絶対にバレていない、大丈夫。カバンの持ち手を強く握りしめる。
なのに、さっきの数分の出来事が頭から離れない。またやってしまった、と思う。恐怖と同時に迫り来るこの甘い快感。やめられるわけがない。こんなことで気持ち良くなる人間はまともではない。死んでも知られたくない。
ああ、このスリルがたまらない。
快感に浸っていた、その時だった。
「——そんなに急いでどうしたんだ?」
背後から掛けられたのは、低く、どこか楽しげな声。
誰。
弾かれたように振り返った。そこに立っていたのは、机の上に足を投げ出していた、あの赤紫色の髪の男だった。朝の点呼の時間を思い出す。確か、名前は。
龍園翔。
名前を思い出した時にはもう、蛇のように鋭い目が私を真っ直ぐに射抜いていた。
「どうした? 冷や汗かいて、ずいぶんと息が上がってるぜ?」
言われて初めて息が上がっていることに気づく。龍園の口元にニヤリと笑みが浮かぶ。
最悪の想像ばかりが頭をよぎる。ここで認めれば終わりだ。必死に気だるげな顔を作ってみせた。
「別に。今日のうちにどんな施設があるか確認したくて急いでただけ」
やや早口。でも、少し走ったから息が切れているだけ、そう見えればいい。
「ほう、怪しいな?」
龍園が一歩、近づいてくる。その体からは得体の知れない圧が漂っている。何を考えているのか全く分からない。一歩下がりたくなるのを、どうにか我慢した。
「何かを隠してる奴の匂いを感じる」
その一言で表情が一瞬だけ崩れた。しまった、と思った時には遅かった。
「ククッ。図星のようだな。当ててやろうか?」
声が、出ない。
「店から出てきたお前は、やけに足早だった。カバンを体に引き寄せ、持ち手を握りしめ、目で周りを確認してやがる。買い物帰りの奴の動きじゃねえ。だから後をつけた。そして、俺に指摘され動揺を隠しきれなかった」
見られていた。自分でも気づかないところまで。歩き方も、カバンの持ち方も、目の動きまで。頭の中は、ほとんど真っ白だった。
龍園は、わざとらしく一拍置く。その一拍がやけに長い。
口角を上げた龍園が、ゆっくりと口を開く。
「さてはお前。万引きしたな?」
終わった。
膝から崩れ落ちそうになるのを堪える。
考えがまとまらない。まずい。どうする。どうすれば。
何も、浮かばない。
……ああ、もういい。
「だ、だったらなんだっていうの!」
言ってから気づいた。声は裏返っていた。他にどうしようもない。弱みなんて見せたくない。いっそ自分から終わらせたほうがマシ。
「ほら、先生に突き出せばいいじゃない! 退学にでも何でもしてよ!」
カバンに手を突っ込み、まだ冷たい酒の缶を引きずり出して龍園の目の前に突きつけた。
「退学が怖くねぇのか?」
龍園は面白そうに目を細めた。その余裕ぶった態度がたまらなく腹立たしい。
「どうでもいい。あんたにチクられるくらいだったら、私が、今ここでっ!」
制服のポケットから学校支給の携帯電話を取り出す。自首してやる。もう止まる気はない。画面を点ける。あとは通話を押すだけ。
親指が、画面の上で止まった。
押せ。押せ、押せ。さっきまで、あれだけ威勢よく啖呵を切っていたくせに。
その指ごと、右腕が掴まれた。画面には押されないままの通話の表示。視界の端で黒い影が動いたことにも気づかなかった。
「お前の弱みは俺が握った。使えそうな駒に勝手に死なれちゃ困るからな。お前は俺に従って生きろ」
弱みを、握られた。
駒。
従う。私が、こいつに?
「誰があんたなんかに! 離しなさいよ!」
腕を振り払おうとするが、龍園の手はびくともしない。
「気に入った」
耳元で声が重く響いた。
「……面白がってるだけでしょ」
「ククッ。お前みてぇな狂気を抱えた女を気に入ったから、そう言ってやってるのさ」
私を、気に入った。
この男は私の一番醜い部分を見透かした上で、気に入ったと口にした。誰かにそんなことを言われたのは初めて。最低な犯罪者の、この私に。
掴まれた腕を振り払おうとしていたはずの力が、いつの間にか抜けていた。
「……勝手にしなさいよ」
小さく呟いた。
こいつのために生きるわけじゃない。従わなければ退学になるから、仕方なくだ。そうに決まっている。
龍園は満足げに私の手から酒の缶を抜き取った。
証拠が、向こうの手に渡る。残された掌は、また空っぽ。
「ククッ。明日から楽しみにしてるぜ、神室真澄」
缶を指先で弄びながら、龍園は背を向けて歩き出した。来た道を戻るように、振り返りもせずに。追いかけて取り返す気すら起きない。
龍園の背中が角の向こうに消えても、その場から動けなかった。空っぽな掌を見下ろしたまま、夕方の風に撫でられていた。
遠くから新入生らしい笑い声。逃げるように歩き出した。寮までの道は、ほとんど覚えていない。
1人になると、いつも決まって同じことを考える。誰にも聞かせたことのない、私だけの独り言。
『もしも、一つだけ願いが叶うなら』
そんな使い古された綺麗事にすがる資格すら、私にはない。
願いさえ持たなければ、何も失わずに済むから。
一度壊れてしまったものは、二度と元には戻らない。
だから私は、自分の人生をとうの昔に諦めていた。
これは、私が自分の人生を歩み始めるまでの『青春の物語』