夕日が沈みかけ、周囲をオレンジ色に染め上げていた。足が止まったのは遊歩道の端のベンチの前。冷たくなり始めた座面に腰を下ろした。
坂柳有栖。Aクラスに君臨する天才。あの女は、私の過去など何も知らなかった。なのに、いいように遊ばれた。
冗談だとは分かっている。分かっているのに、自分のOAAを開いていた。
神室真澄。1年Cクラス。
総合評価C+/学力C/身体能力B+/機転思考力C/社会貢献性D
Aクラスに勧誘なんてされるはずなかった。唯一高い身体能力は、万引きの後に逃げているうちに身についたもの。
「あれ? Cクラスの神室さん、だよね。こんなところでどうしたの?」
私の頭上から、無神経なほど明るく澄んだ声が降ってきて顔を上げた。夕日を背にして立っていたのは、ターゲットの1人としてリストアップしていたBクラスの一之瀬帆波。
誰にでも等しく向けられるような親しげな笑顔が、今はひたすらに鬱陶しい。
「あんたには関係ない」
露骨に視線を逸らす。拒絶のサインだ。しかしこの女には通用しない。
「いきなり嫌われちゃったかな。さっきアルベルトくんに持ち運ばれてたよね。あれは大丈夫だった?」
無邪気な言葉が触れられたくない黒歴史をピンポイントで踏み抜き、私は一之瀬の顔を鋭く睨みつけた。
「バカにしてるの?」
「違う違う! してないしてない! ただ、すごーく嫌そうにしてたから心配だっただけだよぉ!」
慌てて両手を振って弁明する一之瀬の態度に裏はなく、毒気を抜かれた。
「連れて行かれただけ。強制的にね」
「あはは。ごめんね、気になってて。龍園くんたちとは、仲良くやれてるのかな?」
「冗談言わないで。仲良いわけないでしょ」
「そっか。龍園くんって強引って噂だから、心配で。無理なことを頼まれたりしてない?」
無理なこと。今まさに、他クラスの情報を集めろという命令の最中だ。言えるはずがない。
「別に。心配されるようなことじゃないから」
「もし悪いことに付き合わされそうになったら、断った方がいいと思うよ。一度悪いことをしてしまったら、ずっと忘れられないから……」
引っかかった。助言にしては妙に実感がこもっている。
「やけに詳しそうな言い方ね」
「え? そうかな。誰だって失敗くらいするでしょ?」
一之瀬はすぐにいつもの笑顔に戻った。
「あんたでも、失敗なんてするんだ」
「するよ。テストの見直しを忘れたり、約束の時間を間違えたり。いっぱいあるよ」
自分で口にしてから違和感に気づいた。いつの間にか、「悪いこと」が「失敗」にすり替わっている。
「さっき、悪いことって言ってなかった? 何したのよ」
「え? 悪いことも失敗も、似たようなものだよ。人に迷惑をかけちゃうこととか、約束を破っちゃうこととか」
「だから、具体的に何」
「うーん、たとえば宿題を忘れて、クラスメイトに写させてもらっちゃったり。神室さんにもあるでしょ?」
屈託のない笑顔。陰りは見当たらない。
自分でも、なぜ食い下がっているのか分からなかった。坂柳に好きなだけ弄ばれた苛立ちの行き場を私は探していた。
「悪いことをした後って、どうするものなの」
「ちゃんと謝る、かな。同じことを繰り返さないようにするしかないと思うんだ」
模範解答だ。考えすぎね。この女に後ろ暗いものなどあるはずがない。諦めて、ベンチの背にもたれた。
「悪いことって言っても、あんたの場合は想像もつかないわね。万引きとかするような人には見えないし」
適当な皮肉だった。悪事と言われて、私に思い浮かぶ例がそれしかなかっただけだ。
ビクンッ、と。一之瀬の肩が大きく跳ねた。
一之瀬は今にも押し潰されそうな顔をしていた。まさか。この優等生が。だが、その顔が答えだった。
「何? あんた、まさか万引きしてたの?」
「それは、やってはいけないことだよね」
質問の答えになっていない。さっき「失敗」と言い換えたのと同じ手口だ。嘘はつけないくせに話を逸らすのだけは上手い。
背にもたれていた体を起こし、一之瀬の顔を見上げた。視線で逃げ場を塞ぐように目を外さない。この女の善人の仮面を必ず剥がしてやる。
口元が歪んでいるのが、自分でも分かった。
「質問に答えてないわよ」
「……」
「答えないってことは、そういうことでしょ」
坂柳のやり口をそのまま真似ていた。
「やっぱりね。善人ぶってるけど、裏では最低な人間だって自覚してるくせに。どうせスリルを感じてやめられなくなって——」
「そんなんじゃないよ!!」
鼓膜を打つ突然の叫び声に、私は目を見張った。
ぶつけるつもりだった苛立ちが行き場をなくして宙に浮く。一之瀬の大きな瞳には大粒の涙が浮かんでいた。夕日がその雫を光らせている。
「私は、そんな理由で、やったんじゃないっ!」
「泣いてるの?」
痛いところを突かれたくらいで人前で泣き出す人間を、私は初めて見た。己の罪と向き合って傷ついている。
「どうして泣いてるのよ。聞かせて、気になるから」
ベンチを軽く叩いた。一之瀬は少し迷ってから、1人分空けて隣に腰を下ろした。
「……聞いても、気分のいい話じゃないよ」
「あんたが勝手に泣いたんでしょ。中途半端に聞かされてるほうが気持ち悪い」
「龍園くんのクラスの人に話すことじゃないって、分かってるんだけどね。……でも、誰にも話せなかったから」
一之瀬は膝の上で握った手を見つめながら、深く息を吸った。
「……私と妹をね、お母さんが女手一つで育ててくれて。妹が、どうしても欲しがってたヘアクリップがあったんだ。それを、誕生日にプレゼントしたくて。でも、お金がなくて……」
「それで、万引きしたのね」
私とは根本的に違う。家族のために道を外した。
「お母さんにはすぐにバレた。お店の人に、泣きながら謝ってくれて。お母さんにすごく怒られて、あんなに悲しませて。そこから私は、家族のおかげで立ち直ることができて、この学校に入った。でも——」
「ちゃんと謝って反省したならいいじゃない。私なんて……」
言いかけて、言葉を切った。
「神室さん?」
喉の奥に溜まっていたものが勝手に口まで上がってきていた。
「……私も、やってた。あんたと違って、最低な理由で」
口にしてから、自分が何を言ったかに気づいた。
「えっ? 神室さんが?」
「だから本気で反省してるあんたは、私なんかよりずっとマシよ」
「そんなことないよ。私は今でも、あの日のお母さんの顔が忘れられないから……」
「そういう考え方になれてることに腹が立つのよ。ちゃんと償ったはずなのに、まだ深い罪の意識を持ってる。立派よ、あんたは。何も考えてなかった私とは大違い」
涙で潤んだ瞳がまっすぐに私を捉えていた。調子が狂った。
「……私のことはいいの。神室さんの秘密は、絶対に誰にも言わないから」
その言葉を聞いて、少しだけ冷静になった。
この『万引きの過去』を報告すれば、龍園は間違いなく最強のカードとして使う。一之瀬のイメージは地の底まで叩き落とされる。
「いいよ。私のことを、龍園くんに話しても。やってしまったことは、事実だから」
内なる葛藤を察したのか、一之瀬は寂しそうに微笑んだ。
自分がどんな目に遭うかも想像せず、他人の都合を受け入れようとしている。
本当に、バカが付くほどのお人好しね。
「言わないわよ」
私は顔を背けたまま、はっきりと告げた。
「龍園に伝えたら面倒なことになりそうってだけ」
こんな甘い考えを龍園に知られたら、どうなるかなんて分からない。
「ありがとう、神室さん」
目元を指先で拭いながら一之瀬がふわりと笑った。その眩しい光に当てられ、私はたまらずそっぽを向いた。
「礼を言われる筋合いはない。借りも貸しもないから」
一之瀬は小さく頷き、照れくさそうに続けた。
「うん。でも、ちゃんと聞いてくれたでしょ? 嬉しかったことは、嬉しいって言っていいと思うんだ」
「……勝手にすれば」
「勝手にする。神室さんって、本当は優しい人なんだね」
「どこが。もう行くから」
立ち上がり、言葉だけを背中越しに投げつけた。
「あんたのこと、龍園には『お人好しのバカだった』って伝えておく」
「ええーっ、それは神室さんも……ううん、何でもない。またね!」
背後から追いかけてくる弾むような明るい声。私は振り返ることをせず、独り歩き出していた。
舌打ちは出なかった。喉の奥にはもう何も残っていないから。