自分の部屋となる学生寮の一室に帰り着き、鍵をかけた直後にベッドへ倒れ込んだ。窓の外はとっくに暗くなっていた。シーツを握りしめ、枕に顔を押し付ける。入学初日から、何をやっているんだか。
「今まで、誰にもバレたことなかったのに……」
完璧だと思っていた手口を、初対面の、しかも同じクラスの男にあっさり見破られた。
「何が『スリルがたまらない』よ。バカじゃないの。あぁ、もうっ!」
足が勝手に暴れてシーツを何度も蹴りつける。止めようとしても止まらない。『退学にでも何でもしてよ』なんて、どの口が言ったのか。声だって裏返っていた。
恥ずかしい。腹が立つ。もう終わりだ。そこまで行くと思考が巡り巡って、また恥ずかしいところからやり直しになる。
1時間ほど経ってようやく落ち着きを取り戻し、足が止まった。殺風景な部屋を見回す。
全寮制。
その3文字こそが、両親にとっての最大のメリットだったのだろう。
「真澄。この学校を受けてみないか」
食卓でパンフレットを差し出してきた父の声は、言葉を一つずつ選ぶように慎重だった。隣の母は最後まで私の目を見ようとせず、膝の上で握りしめた指先ばかりを見ていた。
いっそ見放してくれればいいのに。3年間私を視界から消してくれるこの学校は、あの人たちにとって都合のいいゴミ箱だった。
『顔も見たくない』
2人のぎこちない態度からは、その言葉が透けて見えた。欠陥品を心から愛せる親なんて、この世にいるはずがない。
——それなのに。
あのまま退学になっていたら、中卒の犯罪者。親にはきっと勘当される。見放されたつもりでいたのに。
「死んでもいいって強がってたくせに。いざとなったらビビった」
自分に向けた悪態が、枕に吸われて消える。
損得だけで言えば、私を見つけたのが教師ではなく龍園だったのは悪くない。あいつに弱みを握られて手駒扱いされるのは腹立たしいけど、人生そのものが詰むよりは遥かにマシ。何度考えても同じ答えになる。
「もう、万引きなんてやめてやる……」
枕に顔を押し付けたまま、強く誓う。あんな惨めな思いは二度と御免だ。
◇◇◇
入学2日目の放課後の教室にはすでに嫌な空気が漂っていた。不良っぽい連中が固まって騒ぐ一方で、おどおどしている生徒もいる。クラスとしてのまとまりなんて一切ない。
最後列の中央では、龍園が昨日と同じように足を投げ出している。目を合わせないよう視線を逸らし、席を立とうとした。その視界の端で妙な動きがあった。
昨日私を脅したあの龍園が、同じクラスの男子3人組に囲まれて教室から連れ出されていく。龍園は抵抗せず、黙って歩いている。
クラスの誰も止めようとしない。みんな目を逸らしている。私も人のことは言えないけど。
先頭は、短く刈り込んだ髪の石崎大地。声と態度が大きいだけの典型的な三下だ。その後ろにはヘアバンドをした小宮叶吾と、チャラついた見た目の近藤玲音。小宮と近藤はバスケ部らしい。
周りの会話を聞くともなしに拾う癖で、騒がしい連中の素性くらいは嫌でも耳に入っていた。
教室の出口から、廊下の先を覗く。龍園の肩に手を回している石崎が何か言葉を投げかけるたび、小宮と近藤が笑う。ろくな話じゃないことだけは確か。石崎たちからは明らかな殺気が立ち上っている。
「何よ、あれ」
関わりたくない。そう思っているのに、足は勝手に彼らの方へ向いていた。ただ、気になっただけ。それだけだ。
人気のない校舎裏。冷たいコンクリートの壁の影に身を隠し、そっと様子を窺った。
そこで繰り広げられていたのは、凄惨で一方的な暴力。
「立てよ、龍園。小宮もやっちまえ」
石崎の拳が、龍園の頬にめり込む。
「もう終わりかよ」
小宮の蹴りが、龍園の脇腹に突き刺さる。
「喧嘩売ってきたくせに、弱ぇな」
近藤が龍園の胸ぐらを掴み上げ、笑いながら殴りつける。
鈍い打撃音と品性の欠片もない下劣な笑い声が響き渡る。石崎たち3人は、倒れ込んだ龍園を執拗に蹴りつけ、何度も殴り飛ばす。1対3の構図。龍園は抵抗する素振りすら見せず、ただ防戦一方でボコボコにされている。
「あいつ、あんな強そうな雰囲気出しておいて、クソ弱いじゃない……」
呆れるほどの弱さ。なぜやり返そうともしない。私を捕らえた恐ろしいほどの力や、言葉の端々に満ちていた絶対的な自信は、いったい何だったの。
こんな男の言いなりになる約束をしてしまった自分が、一番情けない。苛立ちが舌打ちになって漏れた。
「口ほどにもねえな。これで勘弁しといてやるよ。行こうぜ、小宮、近藤」
しばらく痛めつけて満足したのか、石崎たちは地面に唾を吐き捨てて立ち去っていった。遠ざかる足音が消えるのを確認して、私は壁の影で考え込んだ。
助けてあげるべきか。
いや、そんな義理も意味もない。むしろ好都合ね。こいつが今回の喧嘩で自信をなくして私から手を引いてくれれば、晴れて自由の身になれる。
関わらずにこのまま寮に帰ろう。そう踵を返そうとした、その時だった。
「……クク」
背後から聞こえてきたのは笑い声だった。
「クク、ククッ、クハハハハッ!!」
地面に倒れ伏し、口の端から生々しい血を流しているというのに。龍園は腹を抱えて笑い始めた。
な、何なのこいつ? 気味が悪すぎる。恐怖より疑問が勝って、壁の影から出ると数歩の距離で足を止めた。
「なんで笑ってんのよ。頭打ったなら、保健室でも行けば」
龍園はゆっくりと体を起こし、口元の血を手の甲で乱暴に拭いながら私を見た。
「あぁ? 神室か。ちょうどいい。付き合え」
「強がってるってわけ」
地面に転がっていた男が何を偉そうに。
「石崎と小宮と近藤の3人を、お前が1人ずつここに呼び出せ。適当に色仕掛けすれば簡単についてくるはずだ」
色仕掛け。私が、あの3人に。想像した時点で生理的に無理。不良が考えそうなバカげたアイデアだ。
「1人でやりなさい。そもそもなんで私が」
「お前が使えるかどうかを試す」
平然と言い放つ龍園。
私を試す? さっきまで自分が一方的に殴られていた事実を忘れたのか。それとも、このボロボロの状態で1人ずつ呼び出して報復でもするつもりなのか。どちらにせよ、まともな神経じゃない。
上から値踏みするような物言いが癇に障る。
「嫌。そんな面倒なこと、するわけないでしょ」
なんでこんな奴に声をかけてしまったんだか。返事も待たずに背を向けた。その瞬間、腕を強く引かれる。
「っ……!」
背中がコンクリートの壁に押し付けられる。一瞬、息が止まる。
「やれ」
さっきまで笑っていた男のものとは思えないほど重い声。視線を逸らしたいのに、逸らせない。
怖い。でもそれより先に嫌だ、と思った。ここで頷いたら、この先ずっと同じだ。
「暴力で、私が屈すると思う?」
龍園の鋭い眼光を真っ直ぐに睨み返して、言い放った。
「殴りたければ殴れば」
自分でも驚くほど声は震えていなかった。
「そんなことしたら、あんたも道連れにしてやる」
昨日は退学だけは嫌だと震えていた私が、今はどうなってもいいと腹を括っている。ただ、この男の思い通りにだけはなりたくない。『矛盾だらけの欠陥品』だと自覚してしまうほどに。
反抗の言葉を聞いた龍園は一瞬だけ動きを止め——
「ククッ、いいぜ。ますます気に入った」
楽しそうに目だけを細めた。
「来い」
そう言って私を壁に押し付けていた手をあっさり離し、スタスタと歩き出した。その背中に迷いはない。
取り残された私はしばらくその場に突っ立っていた。
「何なのよ、あいつ」
呼び出しの件は有耶無耶のままだ。それなのに、文句を言いながらも龍園の後を追った。
あれだけ殴られて笑っていられる男がこれから何をする気なのか。なぜか、その背中から目を離せなかった。