翌朝、ホームルーム前の1年Cクラスの教室は、昨日とはまた違った異様な空気に包まれていた。私が自分の席で頬杖をついてぼんやりしていた時のことだ。
「龍園さん! おはようございます!!」
教室のドアが荒々しく開いて、ポケットに手を突っ込んだ龍園が入ってきた。同時に石崎が直立不動で頭を下げた。任侠映画のチンピラみたいに。校舎裏で龍園を一方的に殴って、カフェでは返り討ちにされた男が、だ。
「……ククッ」
龍園はさも当然のように挨拶を受けて、入口で足を止めた。
頬杖が滑って、顎を机にぶつけそうになった。たった一晩で、何がどうなったらああなるのか。石崎が従う理由がさっぱり分からない。
龍園の頬には大きな湿布、唇の端には絆創膏。あれだけ殴られた痕を隠しもせず教室を見渡した。品定めでもするように、1人ずつ、舐め回すような目で。
その視線が私の席を素通りする。カフェで私を証人に仕立て上げたことには一言も触れない。目も止まらない。
えっ、聞かないの?
見張りの報告でも聞かれるものだと思っていた分、拍子抜けした。
「おい、お前ら! よく聞け!」
突然、石崎が教室の前に立って、クラス全員に向けて声を張り上げた。自分より強い者に媚びる小者特有の、嫌な響きが混じっている。
「今日からこのCクラスのリーダーは龍園さんだ! お前らは今日から龍園さんの駒になれ!」
洗脳でもされたのかと疑いたくなる。
「無理。意味分かんないし」
「誰がそんな奴に従うんだよ。ふざけんな」
ぐうの音も出ない正論。入学早々、素性も知らない不良もどきに「駒になれ」と言われて、はいそうですかと従うバカはいない。私は脅されて仕方なくだから、違う。
教室中に冷ややかな空気が漂い、誰もが石崎を無視する流れができあがった。
私は介入しない。石崎の味方をする気はないし、クラスの輪に入っていく気もない。ほどほどにやり過ごせればいい。
その時だった。
——ドガンッ!!
クラス全員の肩が一斉に跳ねた。龍園が教卓を思い切り蹴り飛ばしたのだ。教卓は見事にひしゃげていた。
水を打ったように静まり返った教室で、龍園は蹴り飛ばした教卓の縁に腰をかけ、ゴミでも見るような目で私たちを見下ろす。
「教えてやる。この世界は『暴力』によって支配されている」
張り詰めた静寂の中に低く芯のある声が響いた。
「この学校における、いや、この世界における真の『実力』とは——『暴力』の強さで決まっている」
……バカなのだろうか。
何を言い出すかと思えば、中二病の極みのような台詞だ。
龍園は教卓に腰かけたまま、芝居がかった仕草で片手を広げて、何かを掴み取るように拳をぐっと握ってみせる。決まった、とでも思ってるんでしょ。
共感性羞恥って、こういうことなの。生まれて初めて実感した。
クラスの男子たちも同じことを思ったのか、冷ややかな空気は一転して明確な敵意に変わった。
「んだとコラァ! あんま調子乗ってっと痛い目見るぞ!」
「そうだそうだ! やっちまえ!」
数人の血の気の多い男子が立ち上がって、威嚇するように龍園へ近づいていった。だが龍園は全く動じず、短く命じた。
「石崎」
「はいっ!」
石崎が龍園の盾になるように飛び出す。昨日は龍園を殴っていた小宮と近藤まで、当然のような顔でそれに続き、男子たちと激しくぶつかり合っている。
怒号が交錯して、教室はあっという間に乱闘騒ぎになった。殴り合いと、制服の引きちぎれる音に、うんざりしながら私は席を立つ。
「ちっ、勘弁してよ」
巻き込まれないよう、女子が集まる廊下側の隅へ避難する。逃げ込んだ先で、乱闘現場のすぐ近くの席を見て絶句した。
1人の女子が本を開いたまま、ぼーっとその光景を眺めている。銀色の髪をふわりと揺らした、浮世離れした雰囲気の大人しそうな子。危機感ゼロ。
「あんた、危ないわよ。こっちに来なさい」
咄嗟に声をかけていた。巻き込まれて怪我でもされたら、嫌な気分になる。それだけのこと。
確か、名前は椎名ひより。彼女はこちらを振り向いて、不思議そうに小首を傾げた。
「本当に、そうでしょうか?」
「……は?」
会話が成立していない。目の前で机が宙を舞って、怒号が飛び交っているのに、椎名の瞳には微塵も恐怖がない。
「NO」
教室の空気を震わせるような深く太い声だった。
視線を向けると、とんでもない巨体がそびえ立っていた。制服がはち切れそうな筋肉に、彫りの深い顔立ちとサングラス。日本人と外国人のハーフだと誰かが噂していたけど、真偽はともかく、率直に言ってでかすぎる。その図体だけで、乱闘の熱が一気に冷めていくのが分かった。
「クク。ようやくお出ましか」
乱闘の奥で龍園が嬉しそうに立ち上がった。この展開を待ち望んでいたみたいに、目が輝いている。
「山田アルベルトだな。ずっと静観していたお前が、俺を本気で止めるか。いいぜ、暴力で相手してやろうじゃねぇか」
山田アルベルト。純和風な名字と、規格外の体格が全然釣り合っていない。
龍園が獰猛に笑って、アルベルトに向かって突進した。
教室中が息を呑んでいた。さっきまで殴り合っていた連中まで手を止めている。
別に、興味なんてない。そう思ったのに目が離せない。
龍園は本当に強いのかもしれない。どんな手段でアルベルトを倒すつもりなのか。
……正直、気になる。野次馬になっている自分を珍しく素直に認めた。
龍園の拳がアルベルトの顔面を的確に捉えようとする。
いけるっ!
その瞬間。
パシッ。
その拳は、アルベルトの手に収まっていた。
ズン。
「うぐっ! ガハッ!」
……弱すぎるでしょ。
龍園に謎の幻想を抱いていた自分がバカみたい。
アルベルトは渾身の拳を何事もなく受け止めて、そのまま軽いボディブローのような一撃を腹部に沈めた。それだけで龍園はくの字に折れ曲がり、床に崩れ落ちた。
「いけー! アルベルト! やっちまえー!!」
クラスの連中が、独裁者を倒した英雄を称えるみたいに歓声を送る。だがアルベルトは追撃せず、倒れた龍園を見下ろしていた。そして、ゆっくりと大きな手を差し出す。
その手の意味を確かめる前に、教室は無法地帯と化した。
床に倒れ伏してお腹を押さえている龍園を、クラスの男子たちが取り囲む。勝ち馬に乗るみたいに、寄ってたかって蹴りを入れていく。石崎たち3人も、数に押し潰されて床で呻いている。
近くの席に座ったままの椎名は本に視線を戻していた。この惨状の中で読書を再開できる神経が理解できない。
入学してまだ3日なのに、どうしてこんなくだらない出来事が連続して起こるのか。適当に過ごす予定だった高校生活はどこにいったのか。
ふと、蹴られ続ける龍園の口元に目が留まった。
血に濡れた唇が、釣り上がっている。
気づいたのは、たぶん私だけだった。