私はゆっくりと歩み寄り、校舎裏の地面に這いつくばる伊吹を見下ろした。制服は土埃にまみれ、体中が痣だらけになってもなお、その目だけは少しも死んでいなかった。今にも私の喉笛に食らいつかんばかりの鋭さで、下から睨み返してくる。
「チッ。早くやれよ」
血の滲む唇を歪め、地の底から絞り出すように吐き捨てた。
女が男数人を相手に真っ向から喧嘩を売って勝てるわけがない。力の差を理解した上で、逃げ場のない場所に引きずり込み、集団で心をへし折ろうとする。陰湿で悪趣味な儀式。
それに、何よりも。万引きをバラされるという退学の恐怖に怯え、龍園の脅しに屈して、言われるがままに他人に暴力を振るおうとしている自分自身にムカつく。
もう、どうにでもなれ。
私は右手を高く振り上げた。
誰も口を開かない。聞こえるのは、伊吹の荒い呼吸だけ。石崎たちは薄笑いを浮かべて眺め、伊吹は身を固くして衝撃に備える。龍園は伊吹の横で、ただ黙ってこちらを見ている。
振り下ろす。
パシンッ!!
校舎裏に、ビンタの音だけが残った。
私自身、自分が何をしたのかすぐには理解できなかった。
私の右手は伊吹の頬を打ったわけではない。その横で全てを支配した気になってポケットに手を突っ込んでいる龍園。その頬を、私は全力で叩いてしまっていた。
右の掌が痺れて熱を持っている。龍園の顔は予想外のビンタの衝撃で真横を向いている。
「て、てめえっ! 龍園さんに何すんだ!」
一拍遅れて事態を把握した石崎が、血相を変えて私に掴みかかろうと一歩踏み出した。
「待て、石崎」
龍園は手で石崎を制止するとゆっくりと顔を正面に戻した。叩かれた頬が赤く腫れ始めているというのに、その目は愉しげに輝いている。
「ククッ。なぜ俺を叩いた?」
笑みを残したまま問いかけた。
「あんたたちと同じ真似したくないから。ただそれだけ」
声が裏返りそうになるのを必死に押し殺し、私は真っ直ぐに龍園の目を見据えた。
「勘違いしないで。伊吹を守って正義の味方ぶりたいとか、そういう理由じゃない。ただ単に、あんたの最低なやり方にムカついたから叩いただけ」
私なりの精一杯の反逆だった。
伊吹に軽蔑され、こいつらの言いなりになるなんて死んでも嫌。
これで退学になるなら本望。——のはずなのに、足が小刻みに震える。本当に、これでいいのかは自分でもよく分からない。
その瞬間。
「カッコつけてんじゃねえよ、ぶっ飛ばすぞ!」
「は? 何言って——っ!?」
横から理不尽な怒声が飛んでくる。伊吹が立ち上がりざまに放つ回し蹴りが、無防備な私の腹部にクリーンヒットする。
「っ……!?」
鈍い音が体の内側に響き、私はくの字に折れ曲がって地面に崩れ落ちる。信じられない。生まれて初めて人に蹴られた。
痛いとかそういう次元じゃない。肺の中の空気が根こそぎ押し出される。息が、できない。
地面にうずくまり、無様な音を立てて酸素を求める。なぜ私が蹴られなければならないのか。龍園は伊吹を止めようともしない。ポケットに手を突っ込んだまま、一歩も動かずに立っている。
その惨状を見下ろしながら、龍園は満足げに口を開いた。
「合格だ」
蹴られた場所を押さえ、歯を食いしばって見上げた。龍園の顔に怒りの色はかけらもなかった。
「合格だと言ったんだ。石崎、アルベルト、伊吹、そして神室。お前らは今日から、俺の直属の『側近』になることが決まった」
突然の役員発表のようなノリに、痛みに支配された私の脳はバグを起こす。側近って何。ごっこ遊びでももう少しマシな名前を付けろ。
「誰があんたなんかに!」
当然、伊吹は激しく牙を剥いて噛み付いた。ボロボロのくせに、声はやけに元気だ。
「その目だ。お前のことを気に入ってるんだぜ? 女のくせに、俺相手に真っ向から立ち向かってくるその狂気をな。いつでも相手してやる。俺の元で力を見せつけてみろ」
「チッ……!」
伊吹は反論できなかったのか、忌々しそうに目を逸らした。
「わ、私は……」
痛みを堪えながら必死に言葉を紡ぐ。私は龍園の頬を全力でビンタしたのに、どうして側近になるのか。
龍園はゆっくりとしゃがみ込み、私の頬を掴み、目線を合わせてニヤリと笑った。触るな。そう言い返したいのに、息が続かない。
「今日までのテストは、お前らを俺の元で従わせるためのものだったのさ」
テスト。最初から私を試すためにこの状況を作ったというのか。
龍園は立ち上がり、小宮と近藤に顎をしゃくった。
「小宮、近藤。お前らはバスケ部の方に顔を売っておけ。安心しろ、いずれ動いてもらう」
「お、おう」
2人は顔を見合わせ、言われるがままにそそくさと体育館へと向かった。
「詳しいことはこれから説明してやる。おい、アルベルト」
「YES」
いつの間にか背後に立っていた巨大な影、アルベルトが短く返事をした。
「カラオケまで連れて行け」
「自分で歩ける——っ!?」
伊吹の激しい抗議も虚しく、アルベルトは軽々と伊吹の腰に腕を回し、ひょいと持ち上げる。
まさか。
「ちょ、待っ、やめっ!」
アルベルトの丸太のような太い腕が、這いつくばる私の体へと伸びてくる。抵抗しようにも痛みで指先すら動かせない。
次の瞬間。私は天地が逆転する感覚と共に、アルベルトの肩に米俵のように担ぎ上げられる。
「っ……!」
肩に押し上げられてまともに喋れない。アルベルトが歩みを進めるたびに、硬い筋肉が蹴られた場所をグリグリと押し込んでくる。「降ろせ、ムカつく!」と暴れる伊吹の隣で、私は文句を言う余裕すらない。どうして私までこんな目に。
◇◇◇
下校中の生徒でごった返す放課後のキャンパス。私と伊吹はアルベルトの左右の肩に担がれたまま強制連行されていく。女子2人を担いだ巨大はどう見ても異質だ。
見るな。頼むから誰もこっちを見るな。顔から火が出るとは、まさにこのこと。
すれ違う全員の視線が私たちに釘付けになっている。しかも後ろからは龍園と石崎が悠然と付いてくる。誘拐犯の行列にしか見えない。
「フフ。随分と奇抜な下校風景ですね」
杖をついたAクラスの坂柳有栖が面白そうに笑う。サーカスの見世物でも眺めるような視線。せめて見えないところで笑え。
「だ、大丈夫かな、あの子たち?」
Bクラスの一之瀬帆波がドン引きしながらも心配そうに苦笑いしている。同情されるのが一番ムカつく。
「野蛮な人たちね。関わり合いたくないわ」
Dクラスの堀北鈴音が軽蔑したような冷たい目でため息をつく。あの冷たい目には見覚えがある。いつも私が他人に向けている目だ。
もう、見ないでほしい。両手で自分の顔を覆い隠すしかない。指の隙間から見える。堀北の隣を歩く綾小路だけが、感情の全く読めない無機質な瞳でジッとこちらを観察していた。
アルベルトの肩の上で、私は米俵のように揺られ続ける。行き先はカラオケ。龍園が言う『詳しいこと』の説明、つまり作戦会議のためだ。
蹴られた腹はまだ痛むし、隣では伊吹が暴れ続けている。この状態で作戦会議って、いったい何考えてんだか。
1話あたりの文量
-
短い
-
ちょうどいい
-
長い