この世界には、人間と悪魔が共存している。
もっとも、それは決して平和的な共存ではなかった。
人間の住む街の片隅には、悪魔が潜み、森の奥には人を惑わす異形が徘徊する。古い教会には悪魔を退けるための聖具が保管され、各地には悪魔祓いを生業とする者たちが存在していた。
悪魔には様々な種類がある。
人間に悪戯を仕掛けるだけの小さな悪魔もいれば、一つの村を滅ぼすほどの力を持つ悪魔もいる。
そして、ごく稀に、人間の歴史そのものを終わらせかねない存在もいた。
人々はそれらを恐れ、忌み嫌い、時には神の天罰として語り継いできた。
そんな世界の、とある小さな町。
そこに、二人の姉妹が暮らしていた。
姉の名はマリア。
妹の名はアイリス。
二人は幼い頃に両親を亡くし、悪魔祓いを生業としていた叔父に引き取られ、慎ましくも幸せな生活を送っていた。
姉のマリアは、明るく人懐っこい性格だった。
近所の人々にもよく知られており、困っている人を見つければ放っておけない。少々お調子者で、時には妹をからかって遊ぶこともあった。
一方、妹のアイリスはしっかり者だった。
姉とは対照的に落ち着いており、家事や身の回りのこともよくこなす。自由奔放なマリアの面倒を見ることもしばしばだった。
二人は正反対の性格だったが、仲はとても良かった。
マリアにとってアイリスは何よりも大切な存在であり、アイリスにとってもマリアは唯一無二の家族だった。
しかし、そんな二人の日常は、ある日突然終わりを迎える。
第一節
[残された時間]
アイリスが病に倒れたのは、まだ幼い頃のことだった。
最初は軽い体調不良だと思われていた。
しかし、日が経つにつれて症状は悪化し、町の医師たちも原因を特定できなくなった。
遠方の医師にも診せた。
薬も試した。
町の教会にも足を運び、祈りを捧げた。
それでも病状が回復することはなかった。
やがて医師は、家族に残酷な事実を告げる。
アイリスの病は治療できない。
残された時間も、そう長くはないだろう、と。
その日から、マリアは変わった。
以前のように笑うことはあっても、その笑顔にはどこか無理があった。
アイリスの前では決して弱音を吐かなかった。
毎日のように妹の部屋を訪れ、食事を運び、窓を開けて外の景色を見せた。
「今日はね、町の広場に大きな花が飾られてたのよ」
「本当?」
「ええ。アイリスが元気になったら、一緒に見に行きましょうね」
「……うん」
そんな約束を、何度も繰り返した。
けれど、マリアは知っていた。
その約束が果たされる保証など、どこにもないことを。
ある夜。
叔父が仕事で町を離れている間、マリアは妹の寝室で一人、椅子に腰掛けていた。
窓の外では雨が降っていた。
アイリスは眠っている。
マリアはその小さな手を握りながら、静かに呟いた。
「……お願いだから、いなくならないでよ」
返事はない。
そのときだった。
コン、コン。
玄関の扉を叩く音がした。
こんな時間に訪ねてくる者などいない。
マリアは妹の手をそっと離し、階段を下りた。
扉を開ける。
そこに立っていたのは、一人の人物だった。
黒い外套を身にまとい、雨に濡れている様子もない。
人間の姿をしていたが、マリアは一目見ただけで理解した。
目の前にいるのは、人間ではない。
「こんばんは、お嬢さん」
その人物は穏やかに挨拶した。
「随分と大変な事情を抱えているようですね」
「……誰?」
「私は悪魔ですよ」
あまりにも自然な口調だった。
まるで、近所の住人が訪ねてきたかのように。
マリアは扉を閉めようとした。
しかし、その悪魔は慌てる様子もなく続けた。
「妹さんを助けたくありませんか?」
マリアの手が止まった。
「……何ですって?」
「妹さんの病。あれを治す方法があります」
「そんなこと、できるわけ……」
「できますよ。私にはね」
悪魔は微笑んだ。
そして、一つの提案を口にした。
「あなたに、私の後継者になっていただきたいのです」
「後継者?」
「ええ。人間としての生を捨て、悪魔として生きる。それが契約の条件です」
マリアは黙っていた。
悪魔は続ける。
「あなたが承諾すれば、妹さんの病は治しましょう。苦しみも、後遺症も残さずに」
「……私が悪魔になれば、アイリスは助かるの?」
「そうです」
しばらく沈黙が続いた。
雨音だけが玄関に響いている。
マリアは一度、背後の階段を振り返った。
その先には、眠っている妹がいる。
何度も一緒に遊んだ。
何度も喧嘩した。
何度も笑い合った。
そして、これからも一緒にいたいと思っていた。
マリアは悪魔に向き直った。
「いいわ」
迷いのない返事だった。
「契約しましょう」
悪魔は少しだけ目を細めた。
「後悔はしませんか?」
「しないわ。アイリスが助かるなら、それでいいもの」
「……そうですか」
悪魔が手を差し出す。
マリアはその手を握った。
その瞬間、部屋の明かりが消えた。
雨音が遠のき、奇妙な紋様が床に浮かび上がる。
そして、マリアの身体に悪魔の力が流れ込んだ。
それは、人間が本来持ち得ないほど巨大な力だった。
悪魔自身も、その力に一瞬だけ興味深そうな表情を浮かべた。
「これは……」
だが、その言葉は誰にも聞こえなかった。
契約は成立した。
その夜、一人の少女が人間ではなくなった。
そして翌朝。
アイリスの病は、跡形もなく消えていた。
悪魔って、見返りがなきゃ何もしないよねぇ