[呼ばれずの森]
呼ばれずの森。
人はおろか、ほとんどの生き物が近づこうとしない、広大な森である。
森の周辺には、古くから黒い噂が絶えなかった。
悪魔の住処。
一度足を踏み入れれば、二度と外へ出ることはできない。
森に入った者は、帰ってこない。
実際、この周辺では過去に何度も失踪事件が起きている。旅人、商人、狩人、時には森の調査に赴いた者まで、その行方は分からなくなっていた。
当然、普通の人間は森に近づこうともしない。
しかし、どれほど危険な場所であっても、そこへ足を踏み入れる者は一定数存在する。
追われる身となった犯罪者。
人間の魂を求めてさまようソウルレス。
そして、人間を恐れる必要のない悪魔。
彼らにとって、この森は格好の隠れ場所なのかもしれない。
だが、この森について語られる話には、どこで聞いても必ず共通するものがあった。
それは――
この森の中に悪魔がいるのではない。
この森そのものが、邪悪な存在なのだ。
誰が最初にそう言い出したのかは分からない。
森に意思があるのか。
森そのものが巨大な悪魔なのか。
それとも、森全体が何か別の存在に支配されているのか。
真相を知る者はいない。
ただ一つ確かなのは、この森に関わった者の多くが、帰ってこなかったということだった。
[森の入り口]
「……ここが、呼ばれずの森」
アイリスは目の前に広がる光景を見上げた。
頭上を覆うほどに伸びた木々。絡み合う太い枝。地面には湿った落ち葉が積もり、薄い霧が森の奥へと流れている。
昼間だというのに、森の中はひどく薄暗かった。
「うわぁ……すっごいね。なんか、絵本に出てくる魔女の森みたい」
隣で浮遊していたマリアが、興味深そうに森を眺める。
しかし、その表情にはどこか落ち着きがなかった。
「お姉ちゃん、怖いの?」
「えっ!? べ、別に?」
「今、ちょっと後ろに下がったよね」
「気のせいだよ!」
マリアは慌てて首を横に振る。
悪魔となった彼女は、人間とは比べものにならないほどの魔力を持っている。並の悪魔であれば、彼女を前にして逃げ出すことさえあるだろう。
それでも、マリアは怖いものが苦手だった。
むしろ、妹のアイリスよりも怖がりなところがある。
「まあ、噂が本当なら危険な場所なのは間違いないね。気を引き締めていこう」
「う、うん……」
アイリスが一歩踏み出す。
するとマリアは、すぐさまその後ろに回り込んだ。
「……お姉ちゃん?」
「な、なに?」
「なんで後ろにいるの?」
「だって、アイリスのそばが一番安全だもん」
そう言うと、マリアはふわりと浮かびながらアイリスの首元に抱きついた。
「ちょっと、歩きにくいんだけど」
「いいじゃん、減るものじゃないし!」
「そういう問題じゃないよ……」
アイリスは小さくため息をつきながら、森の中へと歩き始めた。
マリアは妹の首元にしがみついたまま、周囲を警戒するように視線を動かしている。
時折、マリアの腕がアイリスの視界を遮った。
「お姉ちゃん、前が見えない!」
「あっ、ごめん!」
慌てて腕をずらすマリア。
その拍子にアイリスの足が木の根に引っかかり、身体が大きく傾いた。
「わっ……!」
「アイリス!?」
「だから、少し離れてってば!」
「やだ!」
「もう……!」
文句を言いながらも、アイリスはマリアを振りほどこうとはしなかった。
[森の奥へ]
森に入ってから、しばらく歩いた。
しかし、奇妙なことに気づく。
鳥の声がしない。
虫の鳴き声も聞こえない。
風が吹いているはずなのに、木々の葉が揺れる音さえほとんどなかった。
聞こえるのは、二人の足音と、時折踏みしめる落ち葉の音だけ。
(落ち葉を踏む音)
「……静かだね」
アイリスが呟く。
「うん。なんか、変な感じ」
マリアも小さく頷いた。
「生き物がほとんどいないって話だったけど、本当に何もいないんだね」
「……ねえ、アイリス」
「なに?」
「この森ってさ……本当に森なのかな?」
「どういう意味?」
「ううん。なんでもない」
マリアはそう言って、アイリスの肩越しに森の奥を見つめた。
木々の隙間に、黒い影が見えた気がした。
だが、目を凝らしても何もない。
「……気のせいかな」
「お姉ちゃん、何か見えた?」
「ううん! 何も!」
即答だった。
アイリスは少しだけ振り返り、困ったように笑う。
「大丈夫。何かあったら私が祓うから」
「……本当?」
「本当だよ」
「じゃあ、ずっと一緒にいてね」
「最初からそのつもりだけど」
その言葉を聞いて、マリアは少し安心したようにアイリスの首元へ顔を寄せた。
二人はさらに森の奥へと進んでいく。
だが、彼女たちはまだ知らなかった。
自分たちが歩いているその地面も、頭上を覆う木々も、周囲に立ち並ぶ無数の幹も――。
すべてが、こちらを見ているのかもしれないということを。
一章の区切りどこでつけるか迷ってるんですわ、まだ先にしたいけど