[森の牙]
その時だった。
(ビュンッ!)
「えっ――?」
アイリスが気づいた時には、すでに足元から黒い何かが伸びていた。
黒く変色した、無数の棘を持つ木のツタ。
それは地面を這うように伸びたかと思うと、瞬く間にアイリスの足へ絡みついた。
「きゃっ!」
(ギチギチッ!)
「な、何これ……!」
振りほどこうとした瞬間、別のツタが腹部へ、さらに腕へと巻きついてくる。
最後の一本は首元にまで伸び、逃げ道を塞ぐように締めつけた。
「っ……痛い!」
棘が衣服を貫き、アイリスの腕や脚に食い込む。
鋭い痛みに顔を歪め、必死に身体をよじる。しかし、動けば動くほど棘が肌に引っかかり、赤い血が滲んでいった。
「アイリス!!」
マリアが叫ぶ。
先ほどまで妹の首元に抱きついていた彼女は、すぐさま宙に浮き、アイリスへ手を伸ばそうとした。
「お姉ちゃん……! これ、外れな……っ!」
「動かないで! 今すぐ助けるから!」
マリアの声から、いつもの明るさが消えていた。
アイリスの身体には、黒いツタが何重にも巻きついている。首元にまで絡んだ棘が、彼女の動きを封じていた。
「痛っ……!」
アイリスの顔が苦痛に歪む。
その腕から流れる血を見た瞬間、マリアの表情が変わった。
「…………」
赤い瞳が、黒いツタを捉える。
その瞳の奥で、何かが静かに燃え上がった。
[邪眼]
「……離して」
マリアが低く呟いた。
「私の妹から、離れてよ」
次の瞬間。
マリアの赤い瞳が、不気味な光を帯びた。
(ギギギギ……!)
アイリスを拘束していたツタが、まるで目に見えない手に掴まれたかのように空中へ引き上げられる。
黒い棘が軋み、幹へと繋がる根元まで強引に引っ張られていく。
そして――。
(バキィッ!!)
ツタが一斉に引き裂かれた。
千切れた黒い蔓が地面へ落ち、棘が土に突き刺さる。
拘束から解放されたアイリスの身体が傾く。
「アイリス!」
マリアはすぐに妹を抱きとめた。
「大丈夫!? ねえ、どこが痛い!?」
「だ、大丈夫……。ちょっと、腕と足が……」
アイリスは息を整えながら、自分の身体を確認した。
腕や脚には棘でついた傷がいくつもあり、衣服にも小さな裂け目ができている。首元にも赤い痕が残っていた。
幸い、どれも深い傷ではない。
だが、マリアにとってはそんなことは関係なかった。
「……血が出てる」
「これくらいなら平気だよ。お姉ちゃんが助けてくれたし」
「平気じゃないよ」
マリアはアイリスの傷を見つめたまま、静かに言った。
「こんなに傷つけられて……平気なわけないじゃん」
その声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
いつもなら冗談を言って笑い飛ばすマリアが、今は笑っていない。
妹を抱きとめる腕に力がこもる。
「誰がこんなことを……」
その時だった。
(くすくす……)
遠くから、笑い声が聞こえた。
二人のいる場所からは随分と離れているはずなのに、その声は森全体に響き渡るようだった。
(あはは……あはははっ……)
女の声だった。
楽しそうに、まるで二人の反応を見て喜んでいるかのように。
「……誰?」
アイリスが顔を上げる。
マリアは妹を抱えたまま、声のした方向を睨みつけた。
「今の、あなたがやったの?」
返事はない。
ただ、森の奥から笑い声だけがこだまする。
(くすくすくす……)
その瞬間、二人ははっきりと感じ取った。
木々の隙間から。
地面の下から。
頭上を覆う枝の向こうから。
明確な悪意が向けられている。
単なる獣の縄張り争いでも、悪魔の気配でもない。
森そのものが、二人を敵として認識している。
そして、今の出来事を楽しんでいる。
「……アイリス」
「うん」
「もう絶対に離れないからね」
マリアは妹を抱き寄せた。
その赤い瞳は、森の奥を鋭く見据えている。
「今度は、絶対に許さない」
(ザワ……ザワザワ……)
周囲の木々が、一斉に揺れ始めた。
風は吹いていない。
それなのに、無数の枝が二人へ向かってゆっくりと伸びてくる。
まるで、森が次の遊びを始めようとしているかのように。