[例の如く]
森の中を、二人は再び歩き始めていた。
アイリスの腕や脚には、先ほどのツタによってできた傷が残っている。出血は少しずつ落ち着いていたものの、衣服にはまだ赤い染みが見えた。
「本当に歩ける? 無理しなくていいんだよ?」
マリアはアイリスのすぐ隣を浮遊しながら、心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫。傷は浅いから。それより、ここで立ち止まっている方が危ないよ」
「でも……」
「お姉ちゃん、そんな顔しないの」
アイリスは少し微笑んだ。
マリアは納得していない様子だったが、それ以上は何も言わなかった。
その時だった。
(ガサッ……)
二人の進行方向にある茂みが、かすかに揺れた。
アイリスが足を止める。
「……何かいる」
「またツタ?」
マリアの赤い瞳が細くなる。
先ほどの一件を思い出したのか、その表情には明らかな苛立ちが浮かんでいた。
(ガサガサッ……)
茂みの奥で、何かが動いた。
「隠れてないで出てきなよ」
マリアが低く言う。
しかし、返事はない。
「……もういいや」
(バサァッ!!)
マリアが片手を動かすと、茂みを覆っていた枝葉が左右へ強引に引き剥がされた。
そして、その奥から現れたのは――
「うわあっ!?」
一人の男だった。
[お尋ね者]
男は地面に尻もちをつき、驚いた顔で二人を見上げていた。
薄汚れた衣服に、伸び放題の髪と髭。頬はこけ、顔色も悪い。腰には古びた短剣を差しているが、それを抜く気力さえ残っていないようだった。
「な、なんだお前ら……!」
男は怯えた様子で後ずさる。
「それはこっちの台詞だよ。こんなところで何してるの?」
アイリスが尋ねる。
「う、うるせぇ! そんなことはどうでもいい!」
男は震える手で短剣の柄に触れた。
「食い物をよこせ! 持ってるものを全部だ! さもないと、ひどい目に遭わせるぞ!」
その声には威勢があった。
しかし、身体は痩せ細り、足元も覚束ない。どう見ても、今の男に二人を襲うだけの余力はなかった。
マリアは呆れたように男を見下ろす。
「……は?」
「おい、聞こえなかったのか! 食い物を出せって言ってんだ!」
「その身体で?」
「な、なんだと!」
「ふーん……。ずいぶん元気だね」
マリアの瞳がわずかに光る。
男はびくりと肩を震わせた。
「お姉ちゃん」
アイリスがマリアの袖を軽く引く。
「いいよ。落ち着いて」
「だって、こいつ……」
「お腹が空いてるんでしょ?」
アイリスは男の様子を改めて見た。
脅し文句こそ口にしているものの、男の顔には恐怖と疲労が色濃く浮かんでいる。唇は乾き、手は小刻みに震えていた。
「……どれくらい食べてないの?」
「う、うるせぇ……」
男は視線を逸らした。
「何日も……だ」
その言葉を聞くと、アイリスは背負っていた鞄を下ろした。
「ちょっと待ってて」
「アイリス?」
「食べ物をあげるだけだよ」
鞄から取り出したのは、町でもらったパンだった。
アイリスはそれを男の前に差し出す。
「はい。これ、食べて」
「……は?」
男は目を丸くした。
「くれるのか?」
「うん。全部じゃないけど、これなら」
男はしばらくパンを見つめていた。
やがて、震える手でそれを受け取る。
「……面目ねぇ……」
男は小さく呟いた。
「面目ねぇ……本当に……」
そして、パンにかぶりついた。
(ガツッ、ガツッ……)
まるで何日も食べていなかったかのように、男は夢中でパンを口に運ぶ。
「面目ねぇ……面目ねぇよ……」
声が震えていた。
目元には涙が浮かび、頬を伝って落ちていく。
先ほどまで二人を脅していた男とは思えない姿だった。
アイリスは何も言わず、その様子を見守っていた。
[不完全な手当て]
「お姉ちゃん、ちょっと鞄を取ってくれる?」
「……うん」
マリアは少し不満そうにしながらも、アイリスの鞄を手元へ寄せた。
アイリスは中から布と簡単な薬を取り出す。
「その傷、ちゃんと手当てしないとね」
「えっ、今?」
「今。歩きながらじゃちゃんとできないから」
アイリスは近くの倒木に腰を下ろし、腕の傷から順番に処置を始めた。
布で汚れを拭き取り、薬を塗って包帯代わりの布を巻いていく。
しかし、森の中には十分な水も清潔な道具もない。
傷の数も多く、満足のいく処置とは言えなかった。
「……これでよし」
「ありがとう、アイリス」
「あとでちゃんと手当てできる場所を探そうね」
その様子を、マリアは黙って見ていた。
妹の腕に巻かれた布。
衣服に残った血の跡。
まだ痛みをこらえている表情。
再び、胸の奥に苛立ちが込み上げる。
「……ほんと、嫌な森」
マリアが呟いた。
「お姉ちゃん?」
「なんでもないよ」
そう言いながらも、マリアの赤い瞳は周囲の木々を睨んでいた。
妹を傷つけた森。
その中で、今度はこんな男にまで出会った。
彼女の機嫌は、ますます悪くなっていた。
[同行者]
やがて男は、最後の一口を飲み込んだ。
「……助かった。本当に助かった」
男は何度も頭を下げる。
「気にしないで。それより、どうしてこんな森に?」
アイリスの問いに、男は俯いた。
「……俺は盗賊だ」
「盗賊?」
「ああ。仲間と一緒に旅人を襲っていた。だが、追手から逃げるためにこの森へ入り込んじまってな……」
男は周囲を見回した。
「最初は隠れ場所にちょうどいいと思ったんだ。だが、何日歩いても出口が見つからねぇ。来た道も分からなくなるし、木の位置まで変わっている気がする……」
「他の仲間は?」
「知らねぇ。はぐれた。それからずっと一人だ」
男は疲れたように息を吐いた。
「ここには、何かがいる。人間じゃねぇ。獣でもねぇ。俺たちを見てやがるんだ……」
その言葉に、アイリスはマリアと顔を見合わせた。
先ほどのツタの一件。
そして、あの不気味な笑い声。
この男の話は、二人が感じていた異常と一致していた。
「……あなた、これからどうするの?」
「どうするも何も、もう一人じゃ歩けねぇよ」
男は苦笑いを浮かべた。
「頼む。俺も一緒に連れていってくれねぇか?」
「えっ?」
「お前らなら、ここから出られるかもしれねぇ。俺にはもう、他に頼れる相手がいないんだ」
アイリスは少し考え込んだ。
盗賊という話は気になる。信用できる相手かどうかも分からない。
それでも、この森に取り残された人間を見捨てる気にはなれなかった。
「……分かった。一緒に行こう」
「本当か!?」
「ただし、私たちに危害を加えないこと。勝手な行動もしないでね」
「ああ、分かった! 約束する!」
男は深く頭を下げた。
その横で、マリアは不機嫌そうに腕を組んでいた。
「……アイリス、いいの?」
「一人で置いていくわけにもいかないでしょ」
「でも盗賊だよ?」
「今は困っている人だから」
「……アイリスは優しすぎるよ」
マリアはそう言って、妹の隣へ浮かぶ。
「まあ、いいけど。変なことしたら許さないからね」
男はその赤い瞳を見て、慌てて何度も頷いた。
こうして、呼ばれずの森に取り残されていた盗賊の男は、二人の旅に同行することになった。
ただし、彼はまだ知らない。
自分が助けを求めた二人のうち、一人が人間ではないことを。
そして、その悪魔が今、森そのものに対して強い怒りを抱いていることを。