[名を持つ男]
ライルは本を片手に抱えたまま、アイリスの身体を慎重に抱き上げた。
魔封じの籠によって森の魔術は封じられている。今なら、ロザンナの攻撃を気にせず移動できる。
ライルはマリアとロザンナの戦いから十分に離れた場所までアイリスを運び、木の根元にそっと寝かせた。
「ここなら少しは安全だろ……」
アイリスの呼吸を確かめ、そばに腰を下ろす。
しばらくすると、アイリスの唇がかすかに動いた。
「……あの……」
「おっ、気がついたのか?」
「……盗賊さん……ありがとう……」
まだ目は開かない。声もひどくか細く、途切れ途切れだった。
ライルは一瞬きょとんとしたあと、少し不満そうに顔をしかめた。
「盗賊なんて呼ぶな!」
思いのほか大きな声だった。
「俺はライルだ!」
彼はそう言うと、顔を覆っていた布を外した。
そこには、痩せこけてはいるものの、意外にも若々しい男の顔があった。伸び放題の髪と無精ひげ、疲れ切った表情。しかし、その目には先ほどまでの怯えとは違う、確かな意志が宿っていた。
「……ライル、さん……」
「ああ。そうだ」
「……ありがとう、ライルさん……」
アイリスは目を閉じたままだった。
それでも、その口元がほんの少しだけ緩んだ。
ライルはそれを見て、照れくさそうに視線を逸らす。
「礼なんていい。助けてもらった借りを返しただけだ」
彼はアイリスのそばに座り直し、遠くで続く戦いへ目を向けた。
「それより、あの姉ちゃん……大丈夫なんだろうな」
[魔術を失った魔女]
一方、戦いは激しさを増していた。
マリアはロザンナに向かって踏み込む。
ロザンナは拳を受ける寸前で身体を捻り、攻撃をかわした。
しかし、マリアはすぐさま追撃する。
低い位置から脚を振り上げ、ロザンナの身体を狙う。
(蹴りが空を切る音)
ロザンナは後方へ跳び、どうにかその一撃を避けた。
「あら、ずいぶんと身軽ですこと!」
「まだ喋る余裕があるんだ?」
マリアは着地と同時に距離を詰めた。
右拳を繰り出す。
ロザンナは腕で受け流そうとするが、マリアはその動きを読んでいた。拳を途中で引き、身体を回転させながら反対側の脚を繰り出す。
ロザンナはかろうじて身を引いたものの、蹴りの勢いに押されて数歩後退した。
「っ……!」
「逃がさないよ」
マリアは追撃の手を緩めない。
拳だけでなく、膝や蹴りも巧みに使い分け、ロザンナの逃げ道を塞いでいく。
彼女の目的は、ただ攻撃を当てることではなかった。
ロザンナの動きを制限し、地面に押さえ込むこと。
一度捕まえれば、二度とアイリスに手を出せないようにするつもりだった。
だが、ロザンナも簡単には捕まらない。
彼女はマリアの攻撃をまともに受けないよう、常に距離を保っていた。身体を反らし、横へ移動し、必要最小限の動きで攻撃をかわす。
時折、避けきれない攻撃が身体をかすめるものの、致命的な一撃だけは巧みに避けていた。
「ふふっ……魔術が使えなくても、これほど動けるなんて」
「あなたに教えることじゃないよ」
マリアの拳が再び迫る。
ロザンナは身を翻してかわし、さらに距離を取った。
二人の間に、わずかな静寂が生まれる。
ロザンナは乱れた髪を整えながら、マリアを見つめた。
「なるほど……あなた、思っていた以上に近接戦闘がお得意なのですね」
マリアは答えない。
ただ、赤い瞳でロザンナを睨みつけている。
「でも、いつまでその調子でいられるかしら?」
ロザンナは笑みを浮かべ、再び構えを取った。
マリアもまた、ゆっくりと拳を握る。
森を支配する魔女と、妹を守るために怒り狂う悪魔。
魔術を封じられた二人の戦いは、まだ終わりそうになかった。
そろそろ決着