[魔女の力]
ロザンナとの話を終えた後、アイリスは椅子に腰掛け、自分の身体に残っていた傷を手当てしていた。
森で受けた傷はそれほど深くはなかったものの、腕や腹部にはまだ小さな傷跡が残っている。布に薬を染み込ませ、ゆっくりと肌を拭っていた。
「あら、まだお怪我が残っていますわね」
ロザンナが横から覗き込む。
「ええ。でも、もう大丈夫ですよ。これくらいなら自分で――」
「遠慮なさらないで。私のせいでもありますもの」
そう言うと、ロザンナはアイリスの肩に片手を、腹部にもう片方の手をそっと添えた。
「少し失礼しますわね」
彼女の指先から、淡い緑色の光が広がった。
(柔らかな魔力が流れる音)
光はアイリスの身体を包み込み、傷ついた肌へと染み込んでいく。
「……あっ」
温かな感覚が全身を巡った。
しばらくすると、光はゆっくりと消えていった。
アイリスが自分の肩や腹部を確かめると、そこにあった傷はすべて消えていた。痛みも、出血の跡も残っていない。
「すごい……! もう何ともありません!」
「ふふ。これくらい、魔女にとっては造作もないことですわ」
「ありがとうございます、ロザンナさん!」
「お礼を言われるようなことではありませんわ。これくらいはさせてくださいな」
ロザンナは微笑むと、今度はマリアへと視線を向けた。
「さて、次はマリアさんですわね」
「えっ?」
「あなたにも、きちんとお詫びをしなくてはいけませんもの。怪我を治させていただけます?」
「いらない!」
マリアは即座に拒否した。
「ええ、そんなことをおっしゃらずに」
「絶対いらない! あなたに触られるのも嫌!」
「困りましたわね……」
ロザンナが手を伸ばすと、マリアはふわりと宙に浮いて距離を取った。
「やだ! 来ないで!」
「マリアさん、じっとしてくださる?」
「いやだってば!」
まるで子供が嫌いな薬を飲まされそうになっているかのように、マリアは逃げ回っていた。
アイリスは思わず額に手を当てる。
「お姉ちゃん……もう、いい加減にしてよ」
「だって嫌なんだもん!」
「あなたの方が子供みたいですわね」
ロザンナは小さく笑った。
そして、ふと何かを思いついたように人差し指を立てる。
「それなら、少々失礼して……」
(指を鳴らす音)
「えっ?」
マリアの身体がぴたりと止まった。
「……あれ?」
目をぱちぱちとさせた後、マリアのまぶたがゆっくりと閉じていく。
「ちょっと……なに……」
そのまま力が抜け、宙に浮いていた身体が傾いた。
ロザンナは魔法でマリアの身体を優しく受け止め、椅子へと寝かせる。
「お姉ちゃん!?」
「ご安心なさい。眠っていただいただけですわ」
ロザンナはマリアの額に手を添え、回復魔法を発動させた。
今度は淡い緑色の光がマリアの身体を包み込む。森で受けた傷や、戦闘で負った痛みが次々と癒えていった。
やがて光が消える。
「これでよろしいでしょう」
ロザンナは満足そうに手を離した。
アイリスは眠っている姉と、何事もなかったかのように微笑むロザンナを交互に見た。
「……ロザンナさん」
「あら、どうかなさいました?」
「今の魔法って……催眠魔法ですよね?」
「ええ。相手の意識を眠りへ誘う魔法ですわ」
アイリスの表情が変わった。
「そんな魔法まで使えたんですか……?」
「もちろんですわ。魔女ですもの」
ロザンナは何でもないことのように答えた。
しかし、アイリスの頭には、ある考えが浮かんでいた。
もし、あの森での戦いの最中に、ロザンナが今の魔法を使っていたら。
自分たちが必死に防御し、反撃の機会を探していたあのとき。
一瞬で全員を眠らせることができたのだとしたら。
あの戦いは、そもそも成立していなかったのではないか。
アイリスは思わず息を呑んだ。
「……あのとき、どうして使わなかったんですか?」
「何を、ですの?」
「催眠魔法です。私たちを眠らせることだってできたんですよね?」
ロザンナは少しだけ目を細めた。
「ええ。可能でしたわ」
「だったら……」
「ふふっ」
ロザンナは眠っているマリアの髪を軽く整えた。
「あなた方がどれほどの力を持っているのか、見てみたかったのです。それに、マリアさんの力には興味がありましたから」
「……それだけですか?」
「そうですわね。あとは……」
ロザンナは窓の外へ目を向けた。
「久しぶりに、誰かと本気で向き合ってみたかったのかもしれませんわ」
アイリスは言葉を失った。
あの激しい戦い。自分たちが追い詰められ、何度も命の危険に晒された時間。
ロザンナは、その気になればもっと簡単に終わらせることができたのだ。
彼女は手加減をしていた。
「……私たち、生きていたのが不思議なくらいですね」
「そうかもしれませんわね」
ロザンナは微笑んだ。
「ですが、あなた方もなかなか面白い方たちでしたわ。特に、あの魔封じの魔法。まさか人間があれを使うとは思いませんでしたもの」
「それは……ライルが偶然」
「あら。あの男性にも、改めてお礼を言いたいですわね」
アイリスは小さく頷いた。
そのとき、椅子で眠っていたマリアが身じろぎした。
「……んん」
「お姉ちゃん?」
「……アイリス?」
マリアはゆっくりと目を開けた。
そして、自分が椅子に寝かされていることに気づく。
「……あれ? 私、何してたんだっけ?」
「眠ってたんだよ。ロザンナさんが傷を治してくれたの」
「えっ!? ちょっと!」
マリアは勢いよく起き上がり、ロザンナを睨んだ。
「あなたいったい何したの!?」
「怪我を治して差し上げただけですわ」
「勝手に眠らせないでよ!」
「あら、よくお休みになっていましたのに」
「そういう問題じゃない!」
アイリスはそんな二人を見て、思わず苦笑した。
けれど、心の中には先ほどの考えが残っていた。
ロザンナは、自分たちを倒すだけの力を持っていた。
それでも、殺すことも、完全に無力化することもできたはずの場面で、そうしなかった。
あの森での戦いは、ロザンナにとって本当の意味での全力ではなかったのだ