第五節
[旅立ちの日]
[旅の準備]
それから数年の月日が流れた。
春の暖かな風が吹く朝。姉妹が暮らす家では、旅立ちの準備が進められていた。
アイリスは自室で旅行鞄を広げ、必要なものを一つずつ確認していた。
着替えに食料、調理道具、薬品。それから叔父から譲り受けた悪魔祓いの本。どれも旅先で必要になる大切なものばかりだ。
「……これで大丈夫かな」
荷物を確認し終えたアイリスは、鞄の蓋を閉じた。
その頃、部屋の窓辺ではマリアが宙に浮かんでいた。
黒く湾曲した二本の角。黒い白目に赤い瞳。首筋には赤黒い紋様が浮かび、背後では細長い尻尾がゆらゆらと揺れている。
悪魔になってから数年。マリアはすっかり自分の身体に慣れていた。
最近では歩くよりも、こうして空中を浮遊して移動することが多くなっている。
「アイリスー、準備できた?」
「うん。お姉ちゃんは?」
「もちろん!」
マリアは得意げに両腕を広げた。
「完璧!」
アイリスは姉の姿を見て、少しだけ首を傾げる。
「……荷物は?」
「え?」
「荷物。何も持ってないじゃない」
「ないよ?」
「ないよ? じゃないでしょ」
マリアはくるりと空中で一回転し、尻尾を揺らした。
「大丈夫、大丈夫! 私にはこの尻尾があるから!」
「尻尾は荷物じゃないよ……」
「あはは! そうだった!」
まったく悪びれる様子のない姉に、アイリスは小さくため息をついた。
「どうせ私が全部持つんでしょ?」
「さすがアイリス! 話が早いね!」
「もう……」
呆れながらも、アイリスの表情には笑みが浮かんでいた。
こうして姉妹の旅支度は整った。
[叔父との別れ]
玄関を出ると、そこには叔父が待っていた。
長年暮らした家を離れる日。叔父はいつもと変わらない表情をしていたが、その目にはわずかな寂しさが浮かんでいた。
「いよいよ出発か」
「うん。今までありがとう」
アイリスは丁寧に頭を下げた。
叔父は彼女の背負った旅行鞄を見て、それから腰にある銀色の十字架に目を向けた。
「その十字架と本は、お前に託す。長年使ってきたものだ。きっと役に立つ」
「大切にするね」
「悪魔祓いの技術は、まだまだ学ぶことが多い。焦らず経験を積んでいけ」
「分かってる」
叔父は次にマリアへ視線を向けた。
「マリア」
「んー?」
「お前は自分の力を使いすぎるな。何度も言ったはずだ」
「分かってるって! ちゃんと気をつけるよ」
「本当に分かっているのか……」
叔父は深いため息をついた。
マリアは悪魔としての力を持っている。だが、その力を使い続ければ、いつか叔父が語った『滅びの悪魔』へと近づいてしまう。
それだけは避けなければならなかった。
「それと、アイリス」
叔父は少し声を落とした。
「マリアを頼む」
「……うん」
アイリスは静かに頷いた。
姉を救う方法は、まだ見つかっていない。
それでも、諦めるつもりはなかった。
いつか必ず、マリアを元の姿に戻す方法を見つける。その決意を胸に、アイリスは銀色の十字架を握りしめた。
「それじゃあ、おじさん! 行ってきます!」
マリアが明るく手を振る。
「二人とも、気をつけてな」
「うん。行ってきます!」
姉妹は叔父に背を向け、町の出口へと歩き始めた。
[最初の一歩]
町を出ると、視界の先には春の草原が広がっていた。
暖かな風が草花を揺らし、遠くの山々には薄い霞がかかっている。
マリアは地面から少し浮かび、アイリスの隣を漂うように進んでいた。
「ねえ、アイリス」
「なに?」
「これからどこに行くんだっけ?」
「隣の地方にある古い教会。悪魔に関する古文書が保管されているらしいよ」
「へえー。古文書かぁ」
マリアは興味深そうに尻尾を揺らした。
「何か面白いことが書いてあるといいね!」
「そうだね。私たちの探していることについて、何か手掛かりがあればいいんだけど」
「うんうん! あ、それと!」
マリアはアイリスの前に回り込み、空中で逆さまになった。
「途中で美味しいものが食べられる町にも寄ろうよ!」
「……調査が先だよ」
「えーっ! 旅の楽しみは食べ歩きでしょ?」
「お姉ちゃんは食べることばっかりだね」
「あはは! だって楽しみじゃない?」
アイリスは少し呆れたように笑った。
姉は何も変わっていない。
姿は悪魔になってしまったけれど、明るくて、自由奔放で、少しお調子者なところは昔のままだった。
だからこそ、アイリスは姉を救いたかった。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「これからも、よろしくね」
マリアは一瞬きょとんとした後、いつもの笑顔を浮かべた。
「もちろん! ずーっと一緒だよ!」
そう言って、マリアはアイリスの頭を優しく撫でた。
二人は並んで歩き続ける。
こうして、姉妹の長い旅が始まった。