ヨルムンガンド発動から、一夜が明けた。
世界中の空港は沈黙していた。
滑走路には離陸を待つ航空機が並び、管制塔では職員たちが疲労した顔で端末と向き合っている。
だが、昨日まで当然のように繰り返されていた離着陸は、もはや行われていなかった。
世界各地で同時多発的に発生した航空機墜落。
その被害は、時間が経つにつれて明らかになり始めていた。
空を飛んでいたおよそ七十万人。
彼らの生存を期待できる状況ではないことを、各国政府は認識しつつあった。
それでも、公式な犠牲者数の発表には至っていない。
事故現場の特定すら終わっていないのだ。
そして、軍隊もまた混乱の渦中にあった。
戦闘機は飛べない。
爆撃機も、輸送機も。
衛星測位や通信システムを利用する兵器は、その情報を信用できなくなっていた。
しかし、すべての兵器が動かなくなったわけではない。
戦車は走る。
大砲は撃てる。
銃も、弾薬さえあれば使える。
つまり、戦争を続けること自体は可能だった。
問題は、その戦争を誰が、どのように指揮するかということだった。
◇
アゼルバイジャン国境付近。
新ソ連軍、前線指揮所。
「……もう一度言ってみろ」
低い声が室内に響いた。
指揮官のヴォロノフ大佐は、部下から提出された報告書を睨みつけていた。
「航空部隊の運用再開は、依然として不可能です」
「昨日も聞いた」
「はい」
「では、なぜ今日も同じ報告を持ってくる?」
報告に来た若い将校は、わずかに表情を強張らせた。
「状況に変化がないためです」
大佐は報告書を机に投げた。
机上には、アゼルバイジャンの地図が広げられている。
国境線。
幹線道路。
石油関連施設。
そして、攻撃目標として指定されていた複数の地点。
本来なら、すでに地上部隊が国境を越えているはずだった。
だが、現実には一歩も進んでいない。
「戦車部隊は?」
「待機しています」
「砲兵は?」
「射撃可能です」
「装甲車両は?」
「大部分が稼働可能です」
「ならば、何が問題だ?」
将校は一瞬ためらった。
「……上級司令部から進撃停止命令が出ています」
「分かっている!」
大佐が机を叩いた。
「だが、いつまで停止していろというのだ!」
「期限は示されていません」
「馬鹿馬鹿しい」
大佐は椅子から立ち上がり、窓の外を見た。
遠方には戦車と装甲車両が並んでいる。
兵士たちも健在だった。
敵の攻撃を受けたわけではない。
弾薬も燃料もある。
それなのに、進撃できない。
理由は世界中の航空機が突然墜落したから。
それだけだった。
「空が使えなくなった程度で、陸軍まで動けなくなるのか」
大佐は吐き捨てた。
その言葉に、副官が口を開く。
「大佐、問題は航空支援だけではありません」
「何?」
「衛星測位情報に異常が生じています。広域通信も信用できません。補給部隊からは、輸送管理システムの障害が報告されています」
「地図があるだろう」
「あります」
「無線機もある」
「はい。ただし、通信の安全性は保証できません」
「ならば昔ながらの方法で戦えばいい!」
大佐は地図を指差した。
「我々は兵士だ。機械がなければ戦えないというのか?」
副官は答えなかった。
彼にも、大佐の言っていることは理解できる。
実際、情報システムに頼らず戦うことは不可能ではない。
だが、それは当初予定していた作戦とは別物だった。
航空支援がない。
補給の見通しも立たない。
広域の戦況を把握することも難しい。
そのような状況で進軍すれば、部隊が孤立する危険性は高い。
「大佐」
「何だ?」
「少なくとも、司令部から新しい命令が届くまでは――」
「もういい」
大佐は副官の言葉を遮った。
「偵察部隊を前進させろ」
「……は?」
「敵の配置を確認するだけだ。攻撃命令ではない」
「しかし、進撃停止命令が」
「偵察も禁止されたのか?」
副官は口を閉じた。
「……いいえ」
「ならば実行しろ」
大佐は再び椅子に腰を下ろした。
「このまま何もしないで待つつもりはない」
副官は敬礼し、指揮所を出ていった。
だが、その表情には不安が残っていた。
◇
アゼルバイジャン軍、国境警備部隊。
「敵車両、移動開始!」
監視所に緊張が走った。
双眼鏡を覗いていた兵士が声を上げる。
「装甲車三両! 国境方面へ前進しています!」
指揮官のアリエフ少佐は、すぐさま地図を確認した。
「方位は?」
「北東方向! 現在、国境までおよそ五キロ!」
「戦車は?」
「確認できません!」
少佐は眉を寄せた。
昨日、世界中で航空機が墜落して以来、国境付近の状況は不安定になっていた。
新ソ連軍は進撃を停止した。
だが、撤退したわけではない。
国境の向こうには依然として大規模な軍隊が存在している。
そして今、その一部が動き始めた。
「……偵察か」
少佐は呟いた。
隣にいた部下が尋ねる。
「迎撃しますか?」
「まだだ」
「しかし、このままでは」
「国境を越えたわけではない」
少佐は双眼鏡を受け取った。
遠くに装甲車両の姿が見える。
新ソ連軍の車両だ。
速度はそれほど速くない。
周囲を警戒しながら、慎重に前進している。
「こちらも監視を続ける。対戦車部隊には待機命令を出せ」
「了解!」
「ただし、こちらから撃つな」
部下は一瞬驚いた顔をした。
「撃たないのですか?」
「敵が撃ってこない限りはな」
アリエフ少佐は空を見上げた。
昨日、世界中の航空機が墜落した。
その原因は今も分かっていない。
各国政府は空の利用を停止し、軍の作戦も見直している。
そんな状況で、新たな戦争を始めることに何の意味がある。
少佐には、そう思えてならなかった。
◇
バクーから離れた幹線道路。
ココ部隊の車列は、検問所の手前で速度を落としていた。
道路には長い車列ができている。
軍用車両。
民間の乗用車。
大型トラック。
そして、救急車。
世界中の航空網が停止したことで、陸路の交通量は急激に増加していた。
さらに、国境付近での軍事的緊張が住民の移動を加速させている。
「……ひどい渋滞だな」
運転席のウゴがぼやいた。
助手席で周囲を確認していたレームが答える。
「昨日からずっとこんな調子らしい」
「これじゃ予定より遅れるぞ」
「仕方ない。今は飛行機も使えないからな」
後部座席では、ルツが携帯端末を眺めていた。
「しかし、どこもかしこも飛行機のニュースばっかりだな」
「当然でしょ」
トージョが答えた。
「世界中で起きてるんだから」
「それは分かってるって」
ルツは画面を切り替える。
「それにしても、各国の政府も大変だろうな。原因がさっぱり分かんねえんだから」
「今ごろ必死に調べてるでしょうね」
「で、何か分かると思うか?」
「さあね」
トージョは肩をすくめた。
「少なくとも、簡単にはいかないと思うよ」
その会話を聞いていたココが、楽しそうに笑った。
「あははっ! みんな忙しそうで何よりだね!」
「……お嬢、他人事みたいに言うなよ」
「だって、もう始まっちゃったんだもん」
ココは窓の外を眺める。
「これからは、みんな新しい世界に慣れてもらわないと」
「簡単に言うなあ」
「簡単なことじゃないよ?」
ココは笑みを浮かべたまま答えた。
「でも、できないわけでもないでしょ?」
ルツは呆れたように息を吐いた。
そのとき、ヨナが窓の外を指差した。
「……ココ」
「ん?」
「あれ」
道路脇に一台の救急車が停車していた。
その周囲には、数人の人間が集まっている。
医療関係者らしい男が、検問所の兵士に何かを訴えていた。
しかし、兵士は首を横に振っている。
どうやら通行許可が下りないらしい。
「救急車だね」
ココが言った。
「……通れないみたいだ」
「そうみたい」
ヨナはしばらく救急車を見つめていた。
やがて、視線をココへ戻す。
「……助けなくていいのか?」
ココは少し考えた。
「私たちが?」
「……うん」
「どうやって?」
ヨナは答えられなかった。
確かに、できることは限られている。
救急車がどこへ向かおうとしているのかも分からない。
何が原因で通行を止められているのかも不明だ。
ココは窓の外へ視線を戻した。
「ヨナ」
「何だ?」
「世界中には、困ってる人がいっぱいいるんだよ」
「……うん」
「でも、私たちが全員助けて回ることはできないでしょ?」
ヨナは黙った。
「それに、あの救急車が通れない理由も分からないしね」
ココは軽く肩をすくめた。
「何でもかんでも首を突っ込むわけにはいかないよ」
「……そうか」
ヨナは再び救急車を見た。
そのとき、検問所の兵士が別の将校を連れてきた。
しばらく話し合った後、救急車は通行を許可された。
赤色灯を回した車両が、ゆっくりと検問所を通過していく。
「……通れた」
ヨナが呟いた。
「よかったね」
ココは微笑んだ。
それだけだった。
彼女が何かをしたわけではない。
世界を変える力を持った少女は、目の前の小さな出来事に介入することなく、再び前を向いた。
◇
新ソ連軍、前線指揮所。
「偵察部隊からの報告は?」
ヴォロノフ大佐が尋ねた。
「アゼルバイジャン軍の防御陣地を確認しました」
「規模は?」
「正確には不明ですが、対戦車兵器を装備した部隊が配置されています」
「航空支援は?」
「確認できません」
「当然だろう」
大佐は地図を眺めた。
敵も航空戦力を失っている。
それならば、こちらが不利になるとは限らない。
むしろ、今こそ地上戦力で押し切る好機ではないか。
「偵察部隊をさらに前進させろ」
「大佐」
副官が口を挟んだ。
「これ以上は危険です」
「何がだ?」
「敵の対戦車部隊が警戒しています。こちらの動きを攻撃準備と判断される可能性があります」
「偵察だと言ったはずだ」
「しかし、相手には分かりません」
大佐は顔をしかめた。
「……臆病者め」
「大佐、私は――」
「もういい!」
怒声が響く。
「偵察部隊は前進を継続! 必要なら威嚇射撃を許可する!」
副官は言葉を失った。
威嚇射撃。
それが何を引き起こすのか。
この男は本当に理解しているのだろうか。
◇
国境付近。
新ソ連軍の装甲車両が、ゆっくりと前進していた。
先頭車両の車長は、双眼鏡で前方を確認する。
「敵の陣地が見えるな」
隣の兵士が頷いた。
「かなり警戒しています」
「そりゃそうだろう」
車長は通信機を手に取った。
「こちら偵察一号。敵陣地を確認。これ以上の接近は危険と判断する」
しばらく雑音が続いた。
やがて、指揮所から返答が届く。
『前進を継続せよ』
「……了解」
車長は顔をしかめた。
命令は命令だ。
だが、相手は明らかにこちらを警戒している。
すでに銃口を向けている兵士も確認できた。
「……本気かよ」
隣の兵士が呟いた。
「何がだ?」
「昨日、世界中で飛行機が落ちたんですよ」
「知ってる」
「こんなときに、まだ戦争するんですか?」
車長は答えなかった。
確かに、昨日から世界はおかしくなっている。
航空機が一斉に墜落し、各国の軍隊が混乱している。
その原因も分からないまま、自分たちは敵の陣地へ近づいている。
「……命令だからな」
車長は短く答えた。
それ以外に、言えることがなかった。
◇
アゼルバイジャン軍、監視所。
「敵車両、さらに接近!」
兵士の報告に、アリエフ少佐が双眼鏡を構えた。
装甲車両が国境線へ近づいている。
こちらの警告を無視しているのか。
あるいは、単純に命令が届いていないのか。
判断できない。
「警告を出せ」
「了解!」
兵士が無線機を操作する。
だが、応答はなかった。
「……応答ありません」
「別の周波数は?」
「試しています!」
少佐は舌打ちした。
昨日から通信状況が不安定になっている。
無線そのものがすべて使えないわけではないが、相手と確実に連絡を取れる保証もない。
この状況で、一発でも銃声が響けばどうなる。
双方の兵士が攻撃を受けたと判断し、戦闘が始まる可能性がある。
「対戦車部隊、射撃準備!」
部下が命じた。
兵士たちが武器を構える。
装甲車両は、なおも接近してくる。
少佐は拳を握りしめた。
撃つべきか。
待つべきか。
その判断が、何十人もの命を左右する。
いや、それだけでは済まないかもしれない。
たった一発の銃声が、停止していた侵攻作戦を再開させる可能性すらある。
「……待て」
少佐が言った。
「まだ撃つな」
「しかし少佐!」
「命令だ!」
少佐は双眼鏡を下ろした。
「こちらから戦争を始めるな」
◇
同じ頃。
アメリカ、CIA。
ブックマンの机には、新しい報告書が積み上げられていた。
航空機墜落による被害。
各国軍の運用停止。
航空管制システムの調査。
そして、原因不明の情報操作。
どの報告も、同じ結論に行き着いていた。
従来の技術では説明できない。
それだけだった。
「……なるほど」
ブックマンは一枚の資料を手に取った。
そこには、新ソ連軍がアゼルバイジャンへの侵攻を停止したという情報が記されていた。
航空戦力を失ったため、作戦を継続できなくなった。
その説明自体は理解できる。
しかし、問題はそこではない。
世界中で、同じようなことが起き始めている。
ある国では航空作戦が停止。
別の国では軍事輸送計画が変更。
さらに別の地域では、地上部隊が進撃を見合わせている。
情報と兵站を制御するだけで、戦争の進行そのものに干渉できる。
ブックマンは改めて、その意味を考えた。
かつて自分は、ココを取り込もうとした。
HCLIの情報網を利用し、米国にとって有益な存在にするつもりだった。
だが、今となっては笑い話だ。
彼女が手にしたものは、情報機関が扱ってきた力とは規模が違う。
しかも、ココはその力を隠そうとしている。
少なくとも、世界に向けて自分の存在を誇示するつもりはないらしい。
ブックマンは資料を置いた。
「……アンダーシャフト」
小さく呟く。
作戦を継続する意味はある。
いや、これまで以上に重要になるだろう。
ただし、目的は変えなければならない。
もはやココを取り込むことなど、現実的な選択肢ではない。
必要なのは、彼女との接点を維持すること。
そして、彼女が次に何をしようとしているのかを把握することだった。
そのとき、通信端末が鳴った。
「……何だ?」
『ブックマン、俺だ』
「スケアクロウか」
『新しい情報が入ったぜ』
「聞こう」
『ココ・ヘクマティアルの動きだ』
ブックマンの表情がわずかに変わる。
『あの女、昨日まではアゼルバイジャンにいたらしい』
「……そうか」
『おいおい、驚かねえのか?』
「何にだ?」
『新ソ連軍が侵攻しようとしてた場所だぞ? そこで世界中の飛行機が墜落したんだ。偶然にしちゃ出来すぎだろ!』
ブックマンは黙っていた。
『おまけに、HCLI関連の動きも妙だ。あの女の周辺だけ、やたらと情報が掴みにくくなってやがる』
「証拠は?」
『まだねえ』
「なら調査を続けろ」
『……チッ。簡単に言いやがって』
「君の得意分野だろう?」
『へっ。まあな』
スケアクロウは短く笑った。
『今度こそ、あの女の尻尾を掴んでやる』
通信が切れる。
ブックマンは端末を置いた。
スケアクロウは優秀な男だ。
執念深く、嗅覚も鋭い。
だからこそ、厄介だった。
彼が真相へ近づけば、ココとの関係にも影響が出るかもしれない。
だが、無理に調査を止めれば、かえって疑念を強めることになる。
「……困ったものだ」
ブックマンは椅子の背にもたれた。
窓の外には青い空が広がっている。
昨日までなら、そこには航空機の姿があった。
今は何も見えない。
「さて、ココ・ヘクマティアル」
彼は小さく呟いた。
「君の計画は、どこまで進む?」
◇
新ソ連軍、国境付近。
偵察部隊の先頭車両が停止した。
「どうした?」
車長が尋ねる。
運転手が前方を指差した。
「敵です」
双眼鏡を覗く。
確かに、アゼルバイジャン軍の兵士たちが見えた。
対戦車兵器を構え、こちらを警戒している。
「……まずいな」
車長は通信機を手に取った。
「こちら偵察一号。敵部隊が射撃準備に入っている。これ以上の前進は危険だ」
雑音が響く。
数秒後、指揮所から返答があった。
『命令に変更なし。前進を継続せよ』
「……冗談だろ」
車長は思わず呟いた。
敵はすでに武器を構えている。
ここから進めば、攻撃されても文句は言えない。
そのとき、隣の兵士が口を開いた。
「……車長」
「何だ?」
「俺、昨日のニュースを見たんです」
「それがどうした」
「旅客機が墜落したって」
「ああ」
「家族が乗ってた人も、子供も、みんな死んだって……」
車長は黙った。
「俺たち、今からあいつらと戦うんですか?」
「……」
「空であんなことが起きたばかりなのに?」
車長は前方を見た。
敵の兵士たちがいる。
彼らも、自分たちと同じように銃を握っている。
命令があれば撃つ。
命令があれば死ぬ。
それが兵士の仕事だ。
だが、本当に今ここで戦う必要があるのか。
「……全車停止」
車長が命じた。
運転手が顔を上げる。
「え?」
「止まれ」
「しかし、指揮所からは前進命令が」
「分かってる」
車長は短く答えた。
「だが、ここから先は偵察じゃない」
装甲車両が停止した。
後続の二両も、それに従う。
車長は通信機を取った。
「こちら偵察一号。敵部隊との接触を確認。これ以上の前進は交戦を誘発する可能性が高いため、現位置で待機する」
『何を言っている! 命令は前進だ!』
「状況が変わりました」
『命令違反だぞ!』
「承知しています」
車長は通信機を置いた。
隣の兵士が、呆然と彼を見つめている。
「……いいんですか?」
「よくはないさ」
車長は苦笑した。
「帰ったら怒鳴られるだろうな」
「それだけで済めばいいですけど」
「そうだな」
二人はしばらく黙っていた。
前方には、依然としてアゼルバイジャン軍の兵士たちがいる。
だが、銃声は響かなかった。
◇
アゼルバイジャン軍、監視所。
「敵車両、停止しました!」
兵士の声が上がる。
アリエフ少佐は双眼鏡を構えた。
確かに、三両の装甲車両が停止している。
後退する様子はない。
しかし、これ以上前進する気配もなかった。
「……止まったか」
少佐は小さく息を吐いた。
「対戦車部隊は警戒を継続。ただし、射撃は禁止だ」
「了解!」
少佐は双眼鏡を下ろした。
相手が何を考えているのかは分からない。
上官の命令に従ったのか。
それとも、現場の判断なのか。
だが、少なくとも今、この場所で戦闘は始まらなかった。
少佐は空を見上げる。
昨日までなら、敵の航空機がいつ現れてもおかしくなかった。
今は違う。
世界中の航空機が墜落し、空は静まり返っている。
「……何が起きてるんだ、この世界は」
独り言だった。
答える者はいなかった。
◇
ココ部隊の車列は、ようやく検問所を通過していた。
道路には依然として多くの車両が行き交っている。
「やれやれ、やっと抜けたか」
ウゴが息を吐いた。
「この先は?」
レームが尋ねる。
「しばらくは流れると思う」
「なら、そのまま進んでくれ」
「了解」
後部座席では、ココが携帯端末を眺めていた。
世界各地の情報が更新されている。
航空運用停止。
軍事作戦の延期。
輸送計画の変更。
そして、国境付近での部隊移動停止。
「……ふふっ」
ココが笑った。
ヨナが顔を向ける。
「どうした?」
「ん? ちょっと面白い報告があってね」
「……何だ?」
「バクーの近くで、兵士たちが撃ち合わずに済んだみたい」
ヨナは少し驚いた。
「戦争が終わったのか?」
「まだそこまでは分からないよ」
ココは肩をすくめる。
「ただ、目の前に敵がいても撃たなかったってこと」
「……そうか」
「うん」
ココは画面を閉じた。
「いいねえ。こういうの」
レームが振り返る。
「まだ始まったばかりだぞ、ココ」
「分かってるよ」
「明日には撃ち合ってるかもしれない」
「そうだね」
ココはあっさり頷いた。
そして、楽しそうに笑う。
「でも、今日は撃たなかったんでしょ?」
レームは小さく笑った。
「……そうだな」
ヨナは窓の外を見る。
道路脇には、避難する人々の姿があった。
荷物を抱えた家族。
疲れ切った顔の老人。
小さな子供の手を引く母親。
戦争が終わったわけではない。
昨日、世界中で多くの人間が死んだ。
それでも、今日になって戦わずに済んだ人間がいる。
ヨナはそのことを、どう受け止めればいいのか分からなかった。
ただ、少なくとも一つだけ言えることがある。
世界は、今までとは違う方向へ動き始めている。
◇
その日の夕刻。
新ソ連軍の前線指揮所には、偵察部隊の行動に関する報告が届いていた。
ヴォロノフ大佐は、報告書を握り潰しかけていた。
「……命令違反だと?」
副官が頷く。
「現場指揮官の判断で、前進を停止したとのことです」
「ふざけるな!」
大佐が怒鳴った。
「勝手に命令を変更するなど、軍隊としてあるまじき行為だ!」
「処分については、上級司令部の判断を仰ぐ必要があります」
「当然だ!」
大佐は机を叩いた。
だが、副官は続けた。
「それと、もう一つ報告があります」
「何だ!」
「後方の補給部隊からです。予定されていた燃料輸送が延期されました」
「……何?」
「輸送管理システムの復旧見通しが立っていません。現在、代替手段を調整しています」
大佐は顔をしかめた。
「どれくらい遅れる?」
「不明です」
「不明ばかりだな!」
怒声が響く。
しかし、副官は黙って立っていた。
航空支援を失った。
情報網も信用できない。
補給計画も崩れ始めている。
それでも大佐は戦争を続けようとしていた。
だが、軍隊というものは、命令だけでは動かない。
燃料がなければ戦車は走れない。
弾薬がなければ大砲は撃てない。
食料がなければ兵士は戦えない。
そして、何よりも。
兵士が命令に従わなければ、戦争は続けられない。
「……クソッ!」
大佐は椅子に腰を下ろした。
机の上には、侵攻作戦の地図が広げられたままだった。
昨日までは、その地図に描かれた矢印の通りに軍隊が進むはずだった。
だが、現実は違った。
航空機は墜落し、補給は滞り、前線の兵士は進撃を拒んだ。
新ソ連軍の侵攻作戦は、再開の見通しすら立たなくなっていた。
◇
夜。
アゼルバイジャン国境付近では、両軍が互いを監視しながら夜を迎えていた。
兵士たちは武器を手放していない。
戦車も、装甲車両も、その場に残っている。
いつ戦闘が始まってもおかしくない。
それでも、その日、この国境では一発の銃声も響かなかった。
誰も正式な停戦協定を結んでいない。
敵同士が握手を交わしたわけでもない。
ただ、現場にいた兵士たちが、引き金を引かなかった。
それだけのことだった。
だが、世界中で同じような判断が少しずつ増え始めていた。
軍司令部の命令。
政治家の決断。
軍事的な損得。
理由はさまざまだった。
戦争を続けることが難しくなった地域もあれば、今は戦わない方がよいと判断した軍隊もある。
そして、ごく一部には、自分たちが何のために戦っているのかを考え始めた兵士もいた。
ヨルムンガンドは、人間の手から銃を奪ったわけではない。
戦車を破壊したわけでもない。
人間の憎しみを消したわけでもなかった。
それでも、世界から空を奪うという行為は、戦争を続けるための前提を大きく変えてしまった。
昨日まで届いていた命令が、今日は届かない。
届いたとしても、実行できない。
そして、実行できたとしても。
その命令に従うべきなのか、疑問を抱く人間が現れ始めていた。
アゼルバイジャンの国境では、二つの軍隊が互いに銃口を向けながら、静かな夜を迎えていた。
空には、一機の航空機も飛んでいない。
聞こえるのは、風の音だけだった。
世界はまだ、戦争をやめていない。
だが、この日。
戦わずに済んだ兵士たちが、確かに存在した。